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    siiba_n

    ミス晶♂/フィガ晶♂

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    siiba_n

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    ※書きかけで未完結。2021年に書いていたものです※
    捏造100%/なんでも許せる人向け/流血注意

    魔法使いによる襲撃を受けた魔法舎で、賢者は瀕死の重傷を負ってしまう。
    『道連れにしますね、晶』
    そう言ってミスラに意識を奪われ、目が覚めた時に賢者は北の国の雪原にたった一人取り残されていて──

    #ミス晶♂

    終焉がそこにはあった#1〜301

     短い人生の中で、一番大きな事故といえば思いつく限りで家の階段から落ちたことだった。まだ俺がよたよたと足取りもおぼつかない赤子の頃、母親が少し目を離したすきにごろごろと転げ落ちたらしい。当然のように俺はその事故を覚えていないが、額にはその時に切ったという傷跡が今でもうっすらと残っている。五ミリほどの裂傷は肌に馴染んでいるため今では気にすることもないが、思い出話として母親は時折口にした。「貴方はとってもお転婆だったのよ」と。果たして、お転婆の使い方としてあっているかどうかは疑問をもつところではあったが。
     バンジージャンプもスカイダイビングもしたことのない、落下初心者の俺には難易度の高い紐なしバンジーダイビング中、このまま死んでしまうのだろうかと、そんな取り留めのない記憶を思い出していた。
     視界いっぱいに広がる星空のきらめきと、夜空を覆いつくしてしまうほどの満月——厄災がぐんぐんと遠ざかっていく。背中から地面に向かって衝突を待つ俺には、あとどれほどで命が終わってしまうのかわからない。心臓はバクバクとうるさく、頭の中は真っ白だ。背後に忍び寄る死は冷たく、俺の四肢から自由を奪っていくようで、何もできない。
     ただ、悪あがきをするように俺は両手足を大の字に広げていた。少しでも空気抵抗を受ければ、奇跡的に一命を止められるかも知れない。落下地点に森があれば緩衝材になって重傷で済む可能性だって捨ててはいなかった。
    「賢者様!!」
     自由落下を続けている俺の体が、ぐん、と一瞬重力に逆らった。肺が押しつぶされるような苦しさにあえぐ。
     死を覚悟して閉じていたを瞼を持ち上げると、ミスラが目前にいた。落ち行く体を追いかける彼の長い手が俺の腕をつかむ。魔法の呪文を短く紡ぐと同時に、ミスラの足元には箒が現れた。そこで落下速度は目に見えて緩やかになり、俺は四肢に力をこめてミスラの腕に縋りついた。みっともなくてもかまわないから、まだ生にしがみついていたかった。
     俺に浮遊する魔法をかけたのか、羽のように体は軽くなり、そのまま水平に保たれた箒の上にのせられた。ミスラに抱えられる形で、箒の上で向かい合う。ぶわっ、と一気に冷や汗が背中をつたって、俺はようやく安堵の息を吐いた。
    「何をしているんですか。賢者様は人間だってこと忘れたんですか?」
    「好きで落ちたわけじゃないですけど、助かりました……しぬかと思った……」
    「まあ、あのまま落ちてたら死んでましたよ。トマトみたいにぐしゃっとつぶれて」
    「ぅ…リアルな表現やめてください。ところで、よく俺のこと気づきましたね」
    「ちょうど一人魔法使いを殺したところで、あの、ノーヴァとかいう魔法使いの姿が見えたんですよ。今度こそ石にしてやろうと思ってたら、あなたが落ちてきたので拾いにきました」
    「ノーヴァは…!?」
    「さあ、俺が来た時点でどこかに移動したみたいです。……なんか腹が立ってきたな」
     癇癪が発露する前に、俺の背後から敵の攻撃をうけたため、ミスラが呪文を紡いだ。冷気が頬を撫でると同時に断末魔が響く。背後で起きている行為を確認しようとする前に、ミスラに名前を呼ばれた。
    「ちゃんとつかまっていてください。このまま敵を殺しにいきます」
    「みすら……」
    「あなたのことは俺が守ってやりますよ。特別に」
     震える俺の手を握るミスラの手は冷たくて、だがこれほどなく頼もしく安心する。ありがとうございます、と告げた言葉は涙声になっていた。恥ずかしさから視線をそらして夜空を見上げた。つん、と鼻の奥が痛む。眼球に涙の膜が張られて滲みそうになるのを瞬きで誤魔化しながら、俺は星のきらめきに混ざってちかちかと光るものを見つけ、両目をすがめた。
     光の束が突進してくる。最初は流れ星かと思ったが、それはまっすぐミスラの背中に向かっていた。
    「ミスラ! 後ろから攻撃です!」
    「——っ! 《アルシム》!」
     水晶の髑髏が口を開け、魔法陣が目の前に広がった。ばちっ、と鋭く弾かれる音とともに光の束は霧散する。明らかにミスラを狙った攻撃魔法だった。咄嗟に反応できていなければミスラの背中には穴が空いていただろう。
     油断できない状況は続いていることを思い出して、俺は唇を噛んだ。

     〈大いなる厄災〉が大きく輝く夜、魔法使いによる襲撃を受けた。
     厳重に施された結界は破られ、魔法舎はすでに安全な場所とは言えない状態になっていた。
     襲撃をしかけた魔法使いは二十を超え、その中心には白い装束の怪しげな魔法使いがいたことを俺は自室の窓から確認している。
     魔法舎を守る結界が外的要因によって破られた段階で、俺はオズに魔法で呼び出されて食堂にいた。うとうとと閉じかける瞼をこすりながらもオズは険しい表情を変えないまま、窓の外を睨みつけている。北の魔法使いが暴れているときのような地鳴りが魔法舎を震わせ、天井のシャンデリアはぐらぐらと揺れていた。
    「賢者よ。何者かに襲撃されている。今魔法舎にいる若い魔法使いは食堂に集めた」
     食堂の中央の席には身を寄せ合うようにしてリケとミチルがいた。ルチルとクロエは不安気に表情を曇らせて額縁の中に納まってしまった双子先生と話をしている。ヒースクリフは外に向かおうとするシノを必死に止めていた。
     他の魔法使いたちは応戦しているということだろうか。
     爆発音が響くたび肝が冷えた。今すぐ食堂を飛び出して俺の魔法使いの安否を確認したい衝動をなんとか抑える。いてもたってもいられないのは、ここに居る皆が同じ気持ちだろう。
     ふと、人数が足りないことに気づいて俺はオズの腕を引いた。
    「アーサーとカインはどこにいるんですか?」
    「……二人は中央の城にいる」
    「そうですか。向こうも何もないといいですけど……」
     ぐ、と眉間にしわを寄せたオズが口を閉ざした。長い沈黙ののち、魔法舎のどこかの窓が割れる音を聞いて、オズは言葉を紡いだ。
    「……食堂を中心に結界を張りなおす。賢者、手を」
    「わかりました」
     夜になると魔法を使えなくなるオズの傷のことと、賢者である俺がそばにいることで打ち消すことができることは、賢者の魔法使いと中央の城の一部の役人以外には口外されていない。世界最強の魔法使いが賢者の魔法使いとして存在することが一種の抑止力となっている状況で、弱みを見せることは魔法使いへの不信感へと繋がりかねないからだ。
    「《ヴォクスノク》」
     短い呪文とともに魔法舎を揺らしていた振動が止まった。俺には魔法の効果を感じ取ることはできないが、オズの結界は正しく張りなおされたのだろう。食堂に集まった魔法使いたちは一様に安堵の息をついていた。世界最強の魔法使いが作った防御の結界はそう容易く破られるはずがない。
     それは油断だった。
     ぐい、と後ろから肩を抱かれる。
    「賢者よ、私のそばを離れるな」
    「わかりまし——え」
     耳に馴染む低い声に頭が混乱した。
     目の前にいるはずのオズの声が背後から聞こえる。斜め上を仰ぎ見れば、世界最強の魔法使いと瓜二つ——いや、まったく同じ似姿の男がいた。
     男は気配もなく、音もなく、最初からそこにいたように立っていた。
     背後から攫われるようにして腕を取られ、オズの手が離れる。
     絵の中にいたスノウとホワイトが焦燥の声をあげた。
    「いかん!」
    「オズ! 敵じゃ!!」
    「《ヴォクスノ——》」
    「随分と手荒な歓迎だ。賢者がどうなってもよいのかね?」
     背後から首元を締め上げられて呼吸がままならなくなり、俺は油断していた己の緊張感のなさを後悔した。
     俺とのつながりが絶たれたオズは強い魔法を使うことができないため、苦々しげに掲げていた杖をおろした。オズの姿に化けていた男の相貌は靄がかかったように霞んでいき、やがて白い装束の男に変化する。
     男の姿を見て声をあげたのはルチルだった。
    「貴方は……!」
     額縁の中のスノウとホワイトが警戒を強めながら口を開いた。
    「おぬしがノーヴァという魔法使いじゃな」
    「おぬしが今宵の襲撃の首謀者か」
    「ご名答。額縁の中の偉大なる魔法使いスノウ、ホワイト。はじめまして」
     ノーヴァが慇懃無礼に笑い、俺の手を取る。触れた指は氷のように冷たく、死体のように硬かった。ダンスを踊るように絡ませる指を振りほどきたいのに、緊張なのか恐怖なのか、体がいうことを聞かず抵抗できない。
    「一番邪魔だったオズと双子(あなた達)を排除することに成功したというのに、全く、賢者の存在はいつの時代も世界をかき乱す」
    「おい! お前賢者に何をするつもりだ!」
     シノが鎌を取り出し構えると同時に、ノーヴァは指を鳴らした。
     そこだけ時間を切り取られたように、シノは動きを止める。瞬きも、呼吸すらも奪われ彫像のようにかたまったシノを見て、ヒースクリフが低い声を出した。ともすれば、獣のうめき声にも聞こえる剣呑な空気をまとって彼もまた魔道具を呼び出す。
    「貴様——!」
     俺が激昂するヒースクリフの気迫に圧倒される一方、ノーヴァは向けられた怒りには歯牙にもかけず、あきれたように頭を振った。
    「やれやれ。若い魔法使いは血気盛んだ」
    「——えっ」
     次の瞬間、俺の体は宙に浮いていた。ノーヴァに抱えられたまま、魔法舎を見下ろしている。
     オズの魔法のように瞬間移動をしたのだとすぐに理解した。足がぶらぶらと風に揺れて、背後の男の支えがなければ落ちるのだと悟る。恐怖に喉が閉まって助けを呼ぶ声すらでない。
     何が起こっているのか理解が追い付かず混乱に陥る一方で、俺は魔法舎周辺を一望できる空中で視線を巡らせた。みなと散歩をした森には火の手があがり、熱風が上空まで迫ってきている。魔法舎の窓は無残に割られ、あちこちの壁が壊されていた。賢者(俺)の魔法使いが応戦しているのか、魔法の軌跡が流れ星のように夜空を彩っていた。
    「彼らとはもう少し話をしたかったが、まあいい。今は賢者のほうが優先だ」
    「おれを……?貴方はなぜこんなことを」
    「私は賢者と語らう気はないのだよ。時間稼ぎをするつもりならば、諦めたまえ」
    「……っ」
    「異界より召喚された賢者。魔法使いを導くものの力がどれほどのものか、試させていただこう」
     話をしながらもぐんぐんと高度は上昇していた。間近に迫った〈大いなる厄災〉を背に男は笑う。
    「さようなら」
     ノーヴァの腕が俺を突き飛ばすように離す。
     そうして、俺は紐なしバンジーダイビングをすることになった。
     
     四方八方から襲い来る攻撃魔法をいなしながら、ミスラは不敵に笑っていた。敵に回ると恐ろしいことこの上ないが、味方であれば心強い。北の魔法使いは文句をいいながらも有事の際は力を貸してくれる。
     ミスラがまた一人魔法使いを石にした。ぱきん、と軽い音をたてて地面に落ちるマナ石を感慨もなく見下ろしている。
     どこかで石の砕ける音が聞こえる度、俺の胃はきりきりと痛んだ。虹色に輝く魔法使いの亡骸を見つける度、俺の知る——大切な仲間たちでないかを確認してしまう。見覚えのない黒衣の衣装がそばに飛散しているのを見ると安堵してしまう己のエゴを自覚させられては胸が痛んだ。相手が誰であれ、奪われていい命はないはずなのに。
     魔法舎の周辺をミスラと箒で二人乗りをしながら飛び回っている最中、何人か俺の魔法使いにも遭遇していた。皆大なり小なり傷を負ってはいたが、致命傷になるような怪我はしていないようだった。噴水近くにはフィガロが陣を敷きファウスト、レノックスとともに負傷者の治癒にあたっているらしく、そこが最も壮絶な渦中となっているらしい。
     北の魔法使いは他人から恨みを買うことが多いから、フィガロに対する報復も過分に含まれているだろう、というのは空中で行き合ったブラッドリーの見解だった。魔法舎の魔法使いではフィガロに対して最も恨みを抱いている彼がいうと妙に説得力があった。
     そして恨みを買っているというのは、ミスラとて例外ではない。実際、ミスラの箒に同乗してから、何度も敵襲を受けている。
     襲撃を仕掛けた魔法使いは特殊な魔法によって強化されているのか、北の魔法使いであっても苦戦しているようだった。
     混戦が魔法舎全体に広がる前にオズが若い魔法使いたちを一か所に集めたことは正しい判断だったということだ。魔法使い相手の実戦経験が乏しい子供もいる中で、応戦させるのはあまりにもリスクが高い。
    「賢者様、ルチルとミチルを見かけたら教えてください。さっきから気配を探っているんですけど、見つからないんです。勝手に突っ走って死んでたりしたら困るんですよね」
    「あっ、その二人ならオズと、あとほかの若い魔法使いたちと一緒に食堂にいます」
    「はあ? オズなんて役立たずと一緒にいるんですか?」
    「スノウとホワイトもいました」
    「あの二人だって役立たずですよ。《アルシム》」
     空中に白くぼんやりと扉の輪郭が浮かんだ。ミスラの得意な空間移動魔法だ。話の流れからして、食堂につなげたのだろう。ノーヴァに連れ出されたあとどうなったのか俺も気になっていたため見守っていたが、どうにもミスラは煮え切らない表情で首を傾げた。
    「おかしいな……何かに阻害されています」
    「阻害?」
    「この憎たらしい魔法の感じはオズですね。なんか殺したくなってきたな」
    「い、今はちょっとそれどころじゃ……あ、そういえば、俺がそばにいる間に魔法で結界を張ってました。それのせいでしょうか」
     あの時ノーヴァは結界を破って食堂内に入り込んできたのだと思っていた。だが、ミスラの魔法でも外側から侵入できないのであれば、結界は今でも正しく作用しているのだろう。
     それはつまり、食堂内に初めから敵は侵入していたということになる。オズと双子が万全の状態ではなかったとはいえ、近くにいたことを気取られなかったノーヴァの強さを実感して背筋が震えた。
    「怖いんですか?賢者様」
     恐怖で怯えていると勘違いしたのか、ミスラの腕が俺の背中に回ってぎゅっと抱きしめられる。いっそう近くなったことにより、ミスラのまとう独特な香の匂いに今日はほんの少し汗のにおいも混じっていることに気づいた。
    どれだけ強力な魔法使いであっても、誰かを守りながらというのは骨が折れる。それも、普段守ることを考えない北の魔法使いにとってしてみれば、気を遣うことも想像に難くない。
     ミスラは疲弊していた。近くに魔法使い(敵)がやってきたことにも気づくのに遅れたぐらいには。
    「ミスラ!!」
     足元からミスラへ向けて攻撃魔法が放たれる。すぐに防御魔法で直撃を防いだが、周囲を取り囲むようにしてまかれた噴煙に今の攻撃が囮であることを知る。
     俺の背中を支える手に力が強くこもった。毒が塗されている可能性を考慮して、俺は服の袖を伸ばして口元を抑えながら周囲を用心深く見回した。噴煙の向こう側に光がちらつく。
     ミスラを狙った刃がすぐそばまで迫っていた。
    「——終わりだ!! 北のミスラ!!」
     憎しみにみちた声とともに、剣は背後からミスラの腹を貫いた。
    「ぐっ、ぅ——《アルシム》!」
     ミスラが宙に放り投げていた水晶の髑髏がむくむくと巨大化して獣のように顎(あぎと)を開く。吐き出された氷の息吹はあたり一面を凍てつかせ、遠く石が砕ける音を聞いた。
    「はっ、はっ、くそ……うざったいな——賢者様?」
     腹が焼けるように熱い。遠ざけたはずの死の気配が再び俺にまとわりついてきて四肢から力を奪っていく。
     ミスラを狙った凶刃は貫通し、俺の腹部まで到達していた。剣で串刺しにされて、傍からみればきっと団子のように貫かれているのだろう。
     全身から脂汗が噴き出して、俺はミスラにしがみついていることしかできない。少しでも身じろぎをすれば刺さったままの剣が内臓を傷つけてしまいそうで、恐ろしかった。
     けれど、それよりも、なによりも、目の前の美しい男が無機質な石になってしまうことのほうが恐ろしい。そうだ、つらくても、痛くてもそれを阻止するためなら我慢できる。
     深呼吸をした。奇跡的に肺は傷ついていないのか、呼吸はできている。だが、臓器はやられてしまっているかもしれない。
     俺の状況に気づいたミスラの処置は早かった。刺さったままの剣を魔法で引き抜き、すぐさま呪文を唱えて肉がふさがれる。穴が空いたままの自分の傷を放っておいて俺の処置を優先する姿に、場違いだが笑いが込み上げてきた。
     内臓を直すのは不得意なのか、表面の肉がふさがっただけで中身の痛みは続いている。せり上がってきた内容物を吐き出すと、ミスラの白い上着が赤く染まった。これはまずいのだろうか。何しろ、人生で一番の怪我は額の切り傷なのだから、自分の状況も判断できなかった。
    「賢者様、意識は?」
    「あり、ます……びっくり、しました。あはは」
    「吃驚したのはこっちですよ。とりあえず傷は塞ぎました。シュガーを食べてください」
    「……あまい……ミスラの傷は?」
    「俺はこの程度なんともありませんよ。オズの魔法のほうが陰湿ですし」
     ミスラは表情ひとつ変えず、いくつもシュガーを作り出しては俺の口の中にねじ込んでくる。かみ砕いて飲み込むと少しだけ痛みが和らいだ気がするが、アドレナリンも分泌され始めたのかもしれない。
     周囲の音が遠のき、やけに静かだった。もたれかかったミスラの胸の奥の鼓動だけが鼓膜を揺らし、子守歌のように微睡を連れてくる。
     意識を失ってしまう前に、伝えなければならないことがある。俺は乾いた唇を濡らして、声を絞り出した。
    「……みすら、俺を、おいていってください」
    「正気ですか? 今にも死にかけの賢者様を放っていけと? 本当に死にますよ」
    「でも、俺がいると、足手まといになってしまうから」
    「あなた一人ぐらい、荷物にもなりませんけど」
    「ミスラの魔法で、傷ふさがったみたいですし、大丈夫です」
     ちょっとだけ強がった。依然として激痛は走っていて意識は朦朧としている。視界も霞んできた。指先の感覚は少し失われている。大量出血していないことだけが幸いして、俺はミスラと対峙できている。
     俺は笑った。
    「ミスラは、はやくみんなのもとに向かってください。オズが魔法を使えない今、一番頼りになるのはミスラですよ」
    「……」
     顔をあげて納得のいっていない表情のミスラの頬を撫でる。駄々をこねる子供をあやす様に慈しめば、ミスラはあきれたように息を吐いた。
    「……あなたって、嘘をつくのが下手ですね」
    「なんのことでしょう」
    「はあ……わかりました。とっととノーヴァを倒して終わらせてきますよ。賢者様は……気は向かないですがフィガロのもとへ連れていきます」
    「わかりました……ありがとうございます」
    「《アルシム》」
     宙に浮かぶ空間の扉は、今度こそ実態をもって現れた。おそらく、フィガロのもとにも同じ意匠の扉が現れているのだろう。
     ミスラの手が扉の柄にかかった、その瞬間——至近距離で爆発が起きた。箒の上の俺たちは爆風に煽られ、扉とは反対方向に飛ばされる。
    「っ!」
     吸い込んだ熱風は肺を焼き尽くしてしまうほど熱くて、俺は咄嗟に息を止めた。ミスラの背にかばわれていなければ火傷ではすまなかったかもしれない。いや、それよりもミスラだ。焼けた皮膚の匂いが鼻をついて、俺の朦朧としていた意識が覚めた。
     ふらふらと風に揺れる落ち葉のように箒はゆっくりと高度を落としていく。ミスラの魔力が尽きたのか、一時的に気を失ってしまっているのかはわからないが、危機的状況にあることは間違いない。
     俺は歯を食いしばってミスラの腕の中から抜け出そうともがいた。追撃があったら、今度こそミスラの命が奪われるかもしれない。その時、俺の存在がミスラの動きを妨げることになるのであれば、無茶をしてでも離れたほうがいい。
    「っ、賢者様——暴れないで、ください」
    「ミスラ……! 無事ですか?」
    「これぐらい……ああ、くそ、眠くなってきた……貴方、俺のことを寝かしつけるつもりじゃないでしょうね」
    「そんなことしません!」
     再び近くで爆発が起きた。この時点で高度はかなり下がっており、森の高木の先端が足に触れた。
    「賢者様、口をあけてください」
    「——んん、ぅ!?」
     唇をふさがれる。この状況で口づけをされる理由が思い浮かばず混乱していると、ミスラが声をあげて笑った。
    「さっきのは撤回します。フィガロのもとへはいきません。道連れにしますね、晶」
     今度は明確な意図をもって、箒がぐん、と地面に向かって動いた。木々の枝葉が肌をかすめるのもかまわず、ミスラは森の中へと身を隠した。
    「《アルシム》」
     放たれた魔法は緩やかに俺から意識を奪っていった。何度か経験したことがある、強制的に眠りにつかせるための魔法だ。
     抗えない眠気に包まれて、俺は暗闇の中に身を落としていった。


    02

     肺の中が凍りつくような寒さで俺は目が覚めた。
    (さむい……どこだ……ここ)
     肌を撫でる風は冷たく、雪で閉ざされた世界のように視界一面が真っ白だった。見慣れたはずの魔法舎も生い茂る木々もない純白のキャンバスの上に、ただひとり俺だけが取り残されている。
     混乱する頭でも、俺は北の国のどこかにいることだけはわかった。
     なぜ一人でこんな場所にいるのか、と記憶をさらおうとして、意識を失う前までの事件を鮮明に思い出した。魔法舎の襲撃に、応戦した魔法使いたち、そして傷を負ったのはミスラだけでなく、俺もまた、死の気配を幾度も感じた。
     俺は咄嗟にシャツをめくりあげて傷跡を確認した。
     剣に貫かれたはずの傷は跡形もなく消えていた。恐る恐る肌に触れるも、ひんやりと冷たいだけで痛みは特に感じない。肉を抓むと脂肪が伸びたが、これはネロの食事を食べすぎたせいでついた贅肉だ。体重の増加を悩んでいたら「あんたは細すぎる」とさらに料理を振舞われたため俺の腹はぷにぷにと餅のような触感だった。
     刺されたあと、ミスラが魔法で傷跡を塞いでくれたことは覚えているが、あれは表面を直しただけで中身(内臓)までは治っていなかったはずだ。あの時、確かに俺は血を吐くほどの痛みで意識が朦朧としていた。
     俺が眠っている間にフィガロに治癒魔法をかけてもらったのだろうか。それにしても雪原にひとり放り出されている理由もわからず、手足が震える。
    (魔法使いたちは大丈夫かな……みんな……どこに行ったんだろう)
     心細さと不安で気持ちが押しつぶされそうになるのを鼓舞するように、両頬を叩く。このままここでぼうっとしていても助かることはないだろう。曇天に覆われてはいるが、昼間のうちにどこか人の住んでいる地域に移動をしたかった。寒さを紛らわせるためにも体は動かしていたほうがいいだろうと、立ち上がろうとしたところで、足元の何かに躓いた。
    「うわっ!」
     受け身をとることもできず無様に顔面から倒れこんだが、柔らかな新雪のおかげで痛みはなかった。口の中に入った雪を吐き出しながら、つま先に引っかかった何かを手に取る。
     石というには丸く、大きくつるつるとしたそれは、紛れもなく頭部の骸骨だった。雪原の中にあって、なおその白さを主張する異質さに悲鳴が出る。
    「ひっ!」
     思わず手にした頭蓋骨を投げ捨てる。ボールのようにそれは宙を舞い、落ちた先で半分程雪の中に顔を埋めた。眼窩には目玉もなく暗闇が広がっているだけだというのに、深淵に見つめられると恨み言が聞こえてきそうで落ち着かない心地になった。
     ミスラが魔法で骸骨をいいように操る姿をみかけたことはあるが、側で見ているのと実際に遭遇するのとでは驚愕の純度が違う。朝起きて目の前に骸骨があれば誰しも驚くだろう。
     足元には頭蓋骨の主のものであろう全身の骨格が丸ごと残っていた。骨同士がぶつかりあってからからと立つ乾いた音は、怯える俺を笑う声にも聞こえた。
    「なんで、こんな骸骨ばっかり……」
     今まで任務の同伴で様々な国に訪れたが、亡骸で埋め尽くされた物騒な土地など覚えがない。
     地形的な目印もなく、北の国のどのあたりかなど土地勘のない俺にわかるはずもなく途方に暮れる。せめて北の国の塔が目視できればその方向に向かって移動もできるが、目を凝らしてもホワイトアウトした世界では目の前の進む道すらままならない。。
    「——とりあえず、人を探そう。魔法舎に早く帰らなくちゃ」
     腰についた雪を立ち上がって振り払う。弱気は言っていられない。魔法舎は悪意のある魔法使いに襲撃されていた。皆無事でいると信じているが、実際に自分の目で確かめなければと、居ても立っても居られない気持ちで足を動かす。
     しばらく歩くと、背の高い木が見えてきた。いくつも並んでいるところをみると森か林になっているようだ。北の国の地図を脳裏に思い浮かべながら、一歩ずつ雪を踏みしめる。
    「おーい。誰かいませんかー!」
     大声を張り上げても音は空虚に響くだけで返事が帰ってくることはない。息を吸い込むたびに体の中が氷漬けになってしまいそうなほど凍えていくのが恐ろしく、けれど立ち止まってしまえば心が折れてしまいそうだった。
     傷を受けたあたりの腹部を抑える。死にかけたときの記憶蘇る。
     「死」という不吉な言葉が、俺の中の記憶を刺激した。
     俺は結局足を踏み入れることはなかったのだが、骨ばかりある土地について、一か所だけ心当たりがあるではないか。
    (何もない、雪と骨ばかりの、北の大地……もしかしてここは、死の湖……?)
     ミスラのゆかりの地であり、死の湖の中央に浮かぶ島には死者の国があると聞いた。湖の近辺で死者が出たらそこへ死体を運ぶのがミスラの仕事だったのだと。
     想像する中で一番最悪な事態を思い浮かべる。
    「ここは……死者の国……」
     結局湖を渡って死者の国に足を踏み入れることはなかった。確信はないが、一度そうかもしれないと思うと他の候補を考えられなくなる。
     つま先にこつこつと当たる骨は転がるばかりで何も語ってはくれない。
    (まさか、俺が死んでしまったから、ミスラは俺を死者の国に連れてきたんだろうか……)
     目が覚めてからずっと不思議に思っていたことがある。
     夜の襲撃を受けた魔法舎の混乱の中で俺は上着を羽織る余裕もなく、シャツにベスト、スラックスと身軽な恰好でオズに魔法で呼び出された。それからはノーヴァにさらわれ、ミスラに助けられ、諸共攻撃をうけて俺は意識を失った。そうして、目覚めたら見覚えのない場所にいた。
     二の腕を両手でこすりながらうつむく。
     北の大地は魔法で防寒の守護をかけていなければ、ただの人間では寒さに耐えられない。以前、不意を突かれてミスラに極寒の地へ拉致された時は数分と持たずに凍死寸前にまで陥った。
     賢者の魔法使いの誰かが俺を北の国に連れてきたならば、雪原に放置するなど中途半端な状態で放っておく筈がない。北の国には寒さのほかにも驚異となることはいくらでもある。凶暴な魔物や野生動物に襲われればひとたまりもない。
     仮に賢者の魔法使いではなく、敵勢力が俺を攫い、放置したのだとしても、殺すために連れてきたのならばわざわざ防寒の魔法をかけて放置するだろうか。目的があって拉致をしたのなら屋外に放置する理由もないはずだ。よほどの加虐趣味の魔法使いでもない限り、行動と結果が結びつかずしっくり来なかった。
     魔法使いの加護がないにも関わらず寒さを感じない理由。
     あらゆる仮説を考えて、俺は一つの結論に至った。
     それは有耶無耶にはしておけない問題だった。
     的外れな結論であってほしいと願いながら、俺は自らの氷のように冷たくなった指先で、心臓のあたりに触れた。
     洋服越しに伝わってくるはずの鼓動は俺の指に届かなかった。
    「——っ!!」
     がつんと頭を殴られるような衝撃に眩暈がした。冷や汗がにじむほどの強い動揺にも心臓は微動だにせず、俺の体は人形のように冷たいままだ。頸動脈も、手首の動脈に触れても、結果は同じだった。命の鼓動が届くはずの場所はどこも沈黙していた。
     吐き出す息が白く濁らない、俺の体は疑いようもなく、生きていなかった。
    「俺は、死んだんだ……」
     はは、と乾いた笑いをこぼして、顔を覆う。
     たった一人。俺は成仏もできずにこの世界に一人取り残されてしまった。
     死んでしまったのにこうして意識が残っている理由を探しても見当がつかない。死んでしまったホワイトの魂は双子のスノウがつなぎとめたことで現世にとどまることができたというが、それも生まれたときから共にあった半身であるスノウだったからこそできた奇跡の御業だ。俺の魂は誰にも縛られることはなく、直に空気の塵に消える運命なのだろう。猶予の時間を与える残酷な神様を、俺は恨めしく思う。
     けれど、二度目の死を——意識の消失を俺はただ待つことなどできなかった。
     名前も、役割もまだ忘れてはいない。失っていないのであれば、俺はそれを見て見ぬふりをすることもできない。魔法舎に帰ることができないのだとしても、賢者として、俺の魔法使いたちのためになることを探したかった。
     ——探していないと心が壊れてしまいそうだった。
     脇目も降らず、ふらふらと雪をかき分けて進む。どこを目指しているのかもわからず、ここが死後の世界——死者の国なのだとしたら一面の雪原は幻想的ではあるが、寂寥感はぬぐえない。ひとりで過ごすには静かすぎる場所だった。
    『道連れにします』
     ふと、最後に言われたミスラの言葉を思い出す。あのあと、ミスラの魔法で意識を奪われたのだが、「道連れ」という言葉の真意は聞けずじまいだった。言葉通りの意味を想像して、背中を冷たいものが走った。
    (どうしよう……ここにいるのは俺だけ? 誰かを見つけるのが、少し怖い)
     誰かに会いたい気持ちと、誰にも会いたくない気持ちで板挟みになって、心の中はぐちゃぐちゃだった。ここで誰かに会うということは、その人も死んでいる可能性が高いということだ。それが俺の魔法使いであったなら、その事実に耐えられるかわからない。悪いことばかり考えて、自然と涙が溢れてくる。頬を伝う雫は雪に落ちる前に風に攫われてどこかへ消えていった。
    「──っ」
     びゅうびゅうと吹き付ける雪が視界を閉ざしていく中、俺は雪原の中に目立つ赤色を見つけた。
     暗い海を照らす灯台のように、それはひどく目につく。誰かだなんて考える間もなく、俺は走り出した。
    「ミスラ!」
     吹雪に髪を躍らせながら、ミスラは立っていた。
    (ああ、どうしよう、まさか、ミスラまで死んでしまったなんてことは……)
     動かない心臓が嫌な音を立てて軋むようで、苦しさに喘ぐ。俺は躓きながらも必死に足を動かした。
     名前を読んでも吹雪にかき消されて聞こえていないのか、振り向きもせずにミスラは前を向いている。
    「──っ、ミスラ……?」
     ミスラの側に近づくにつれ、猛烈な吹雪は落ち着きをみせ、積雪量も少なくなっていった。魔法でそうしているのか、荘厳な冷たい冬の空気だけ残して他がぽっかりと切り取られたみたいだった。靴の裏で土をこする音を聞いて、久しぶりに地に足がついたような気がしてほっとする。
     振り向いたミスラの手には見覚えのない頭蓋骨があった。猛々しい立派な角が生えているところをみると、人ではなく魔物の頭だろう。見覚えのある水晶の髑髏を持たない男の姿に、沸き上がった違和感は形になる前に消えていった。
    「なぜ俺の名前を知っているんですか?何者です?あなた」
     俺の姿を見て怪訝な表情をする男は知らない人のようで、二の句を告げられなくなる。
     黙っている俺をミスラは冷ややかに一瞥した。鋭い牙を持つ野生の獣の前で無防備な姿を見せる獲物の気分を味わって喉がひりつく。
     もつれる舌を必死に動かして音に出した声はみっともなく震えていた。
    「……何者って、俺です。賢者の真木晶です」
    「賢者? よくわかりませんが、彷徨う魂の分際で俺の邪魔をしないでください」
    「よく、わからない?」
     一方的に会話は打ち切られ、ミスラは再び俺に背中を向けてしまう。
     取り残された俺は呆然と雪の中で立ち尽くすしかなかった。ミスラが賢者──真木晶に関する記憶を失っていることは、自分が死んでいる事実以上の衝撃のもたらしていた。
    (どうしよう、どうすればいい? ミスラは俺のことを忘れている? 一旦離れて落ち着いた方がいいのかな)
     目頭がじん、と熱くなった。寂しさと苦しさで息もままならなくなってしまう己の弱さに情けなくなってくる。心臓に突き刺さった見えないナイフから血が流れ出し、涙となって溢れ出してしまいそうで鼻を啜った。
     誇り高く強い力を持つこの人の前で、情けない姿は見せたくなかった。シャツの袖で瞼を擦り、ミスラから少しだけ距離をとる。
     俺はそこで現在地が島の端であることにようやく気がついた。ミスラが魔法で雪を散らしていることもあり、他の場所よりも見晴らしがよい。
     切り立った崖の縁から湖を見下ろすと、凍った水面が俺の姿を写し返してくる。顔色が悪く、情けない顔を見つめ返して唇を噛み締めた。
    (だめだ。諦めるな。ミスラに忘れられているのだとしても、俺にはまだ何か出来ることがあるはず)
     死んでしまって幽霊となり、大事な魔法使いと再会したものの俺に関する記憶は失われていた。これ以上に悪いことはもう起きないはずだ。そう思うと、心にも少し余裕が生まれてくる。今がどん底なのであれば、あとは這い上がるだけだと、誰かも言っていた。這い上がった先に何があるのかはわからないけれど、明るいものであればいい。
    (ひとまず、もう一度ミスラと話を──あれ?)
     ミスラの様子がおかしい。普段、真っ直ぐ姿勢よく立っている体の重心が、心なしか右側へ寄っている。まるで、右側の支えをなくしているかのような、不自然な傾き方に俺は視線を下げた。
    「ひっ!」
     そこにあるはずのミスラの右足がない。足首から先が引きちぎられたように消え失せていた。ひゅっ、と喉の奥がなる。ズボンのすそはズタズタに切り裂かれ、直視はできないが少し骨のようなものも肉の隙間から見えている気がする。凄惨な現場を目にして止まったはずの心臓が動きだしそうになった。冷や汗が噴き出てきて痛むはずのない古傷が疼き、咄嗟に自分に足があるかどうかを確認してしまう。
    「み、みみ、ミスラ!? あし、足はどうしたんですか!?」
    「どっか行きました。というか、あなたまだいたんですか?しつこい人ですね」
    「いや、その……他にいくところもなくて…ところで、足、痛そうですけど……」
    「魔法で肉は埋めたのでたいして痛みはありません。まあ、そのうち生えてくるんじゃないですか」
     そんなトカゲのしっぽのような生え方をしてきたら、それはそれで恐ろしい。長生きの魔法使いは肉体が欠損しても平気な顔をしているが、あるはずの場所に足がないのは不自由なはずだ。強がっているだけなのか、はたまた本当に生えてくると思っているのかはわからないが、ミスラは焦る様子もなく立っていた。
    「足は島のどこかに落ちてるんですか?」
    「知りませんよ。……さっきから質問ばかりでうざったいな。大人しく消えるか黙っててください。《アルシム》」
    「ふぎゃっ」
     ミスラが俺のことを一瞥だけして呪文を紡いだ次の瞬間、唇の端から縫い合わされていくように閉じていく。それが魔法による所業であることはすぐにわかった。
     指先で唇の隙間をこじ開けようとしても小指のつま先すら入る余地はなく、目の前の男の気まぐれが再び起きるか、自然と魔法が解けるまではこのままでいるほかなさそうだ。
     静かになった俺への興味はすでに消えたのか、ミスラは魔道具を手にそっぽを向いた。よく見ると、地面には魔法陣が描かれ、陣の中央にはよくわからない植物や、骨の一部、魔物の死骸が積み上げられている。呪術を行おうとしていることはわかった。魔法陣はほんのりと紫色に光っていて幻想的だが、断末魔を訴えるようにぎょろぎょろと動く魔物の目玉が恐ろしく、ただことではない重い空気が肩にのしかかってくるようだった。
     集中しているところを邪魔をすると、今度こそ俺の意識ごと吹き飛ばされてしまいそうだ。すごすごと後退する。
    (とりあえず、ミスラの足を探そう……。俺が歩いてきた方角に人の足は落ちてなかった…はず。一度島を一周してみようかな…ミスラは当分ここに居そうだし)
     ミスラは魔法が使える状態にはあるらしい。幽霊なのか、それとも生きてはいるが何らかの事故で記憶喪失になっているのはわからないが、可能性を潰してひとつひとつ確かめていくしかない。
     すべきことが明確になれば生きる気力がみなぎってくる。俺は死んでいるが、こういうのは気持ちが大事なのだ。
     

     死者の国は、国とはいうもののミスラ以外に生きている生き物はいないようだった。ミスラの生活圏は申し訳程度に除雪がされていて行動しやすかったが、ひとたび距離を置けばうず高く積もる雪の壁が行く手を阻み、俺は前を進むのもいっぱいいっぱいだった。
    (そうだ、幽霊ならみんなみたいに霊的な力で浮いたりできるかも)
     空を飛んで移動することができれば失せ物探しもしやすくなる。わずかな希望をもって、俺は近くの背の高い木によじ登った。
     体重──というよりも質量が少なくなっているのか、するすると木に登ることができることに感動しながら、えいや、と飛び降りてみる。
     果たして、雪のクッションにお尻からはまるという、恥ずかしい姿を誰にも見られなくてよかったと遠い目をすることになった。
     幽霊になってもできることは生前と大してかわらなかった。透明になって壁を突き抜けることはおろか、浮遊することも、ポルターガイストを起こすこともできない。みかん程度の質量になって寒さを感じにくくなっただけでは、幽霊になったことの恩恵は感じられなかった。
     はあ、と息を吐いて空を見上げる。午前中は吹雪いていた天気も、今では落ち着いている。綿毛のような雪がミスラの長いまつ毛に乗っていたことを思い出して、ひとり喉を鳴らして笑った。
    (ふふ、はあ……きれい…)
     誰の足跡もないまっさらな雪原は美しく、荘厳だ。オーエンは死の湖を静かで何もなくてつまらないところ、と称していたが、ミスラが静かで美しいところと言っていたのも理解できる。一人で歩いていた時は景色に目を配る余裕もなかったが、今はどこかにミスラがいると思えば寂しさはなかった。
    (思ったよりも広いな)
     島をおよそ半周したあたりで、俺は雪に埋もれていない岩の上に身を横たえていた。
     木の枝に積もった雪が落ちてきて窒息しかけたり、魔物がこさえた落とし穴に気がつかず罠に嵌ったり、幽霊になっても幾度となく命の危険に脅かされた。頭に積もる雪をはたき落としながら肩を落とす。
     ミスラの足はどこにも落ちてなかった。もともと、砂漠の中から一粒のダイヤを見つけ出す覚悟はあったものの、積もり続ける雪を掘り返しながら進むのは想像以上に骨が折れる。それっぽいものを見つけても大概が魔物の死体であったり、白骨化した死体だったりしたため、俺は精神的にも疲弊していた。
     どういった経緯で足を失ったのかわからないが、魔物に食べられてしまったのなら既に消化されている可能性もある。だがあのミスラが魔物を相手に遅れをとるとも思えない。どういう日常生活を送れば片足をなくすんだろう、と心の中で文句を言ってみたが、ミスラならまあよくあることかと納得している俺もいた。
     遮蔽物がないため、地平線の向こう側に日が落ちていくのがわかる。街灯も何もないこの地に夜の闇が覆い被されば、あっという間に遭難する自信がある。俺は一度足の捜索を切り上げ、ミスラの元へと戻ろうと腰を浮かせた。
    (んん……あれっ!? ミスラの足だ…!)
     視点が高くなったことで、今まで目の届かなかった場所を見ることが出来たのか、崖下から突き出た木の根に剥き出しの足首が引っかかっているのがみえた。遠目ではあるが腐敗した様子もなく、血の気がないことを除けば何かが欠けていることもなさそうだった。
     急いで岩から飛び降り、島の端を探りながら雪をかきわける。霜焼けした指は痛々しかったが、痛みも寒さも感じない体に感謝した。
     この島は全体がなだらかな斜面になっているのか、先ほど湖面を見下ろした時よりも水面は近くに感じた。だが落ちればひとたまりもない高さだ。俺は生唾を飲み込み、地面に這いつくばってゆっくりと腕を伸ばした。
     雪の水分が解けて混ざり合った泥が顔を汚す。
    (もう少し、もう少しで届く…っ)
     感覚のなくなった指先は凍傷になりかけているのかもしれない。割れた爪がミスラの足首をかすめる。
     幾度かの試行錯誤の末、落ちるギリギリまで身を乗り出してようやくミスラの親指を掴むことが出来て、俺は急いで上体を起こした。唇が張り付いていなければ雄叫びぐらいはあげていたかも知れない。現実は盛大に咽せてミスラの足を落っことしそうになったのだが、本人には内緒だ。
     ミスラの足を落とさないようにしっかりと抱きかかえる。他人の足首など手にすることは一生ないと思っていたが、まさか無くした足のために泥だらけになってまで奮闘することになるとは、人生何が起きるかわからないものだ。
     足は自然の力で冷凍されていたこともあって、人形じみていた。これを渡したところでミスラの足は本当に元通りになるのか一抹の不安を抱きつつも、帰路につく。
     ミスラのもとに戻ったとき太陽は既に沈んでいた。冴え冴えとした赤毛は暗闇の中でも見つけやすい。ミスラはぼうっと星空を見上げていた。彼の頭上だけ、ぽっかりと雲がなくなっている。
     出立の時に敷かれていた魔法陣は既に消え、中央の供物は黒い消し炭のような燃えかすになっていた。
     険しいミスラの表情から、あまり機嫌は良くなさそうであることはわかったが、シャツの袖を引く。振り向いた表情は、少しだけ驚いた様子だった。
    「んん、んー!ん!」
    「……誰ですか、あなた」
     ぱちぱちと何度か瞬きをして、ミスラは俺の顔を見て首を傾げた。同じ人間に一日に二度も誰何を尋ねられることになるなど、誰が思うだろう。俺はむっとして唇を指さした。次いで、ミスラを指さす。貴方の魔法で喋れないのだ、と訴えかければ、ミスラは合点がいったように頷いた。
    「ああ、俺に殺してほしいんですね」
    「んー!んんん!!」
     物騒なことを言われて慌てて首を振る。うまく伝えることのできないもどかしさに頭を悩ませていると、ミスラの腕が伸びてきて抱えていたミスラの足を鷲掴みにした。当人は特にこれといった感動もなく、矯めつ眇めつ戻ってきた足を眺めていた。
    「これ、俺の足ですよね?」
     言葉のかわりに小さく首を縦に振る。ミスラはしばしの沈黙の後、長い指先を俺の唇の端から端へ滑らせた。
     ジッパーのチャックをあけられるような感覚とともに唇は開いた。
    「ぷはっ、あ! しゃべれる!」
    「随分陰湿な魔法をかけられていたみたいですけど、誰にやられたんです?」
     きょとんと眼を丸めて、あっけらかんとした態度で言われて流石の俺も脱力した。
    「えぇ……」
     薄々予感はしていたが、ミスラは昼間に自分がしたことさえまるで覚えていないらしい。
    「あなたは幽霊の癖に俺の足を拾ってくるなんて、変な人ですね」
     ほんのりと唇の端に笑みを浮かべたミスラが呪文を紡ぐと、凍っていた足が解凍されていく。
    「その足、治りますか?」
    「腐ってないみたいですし、くっつければ治りますよ。《アルシム》」
     すらりと長い脚が持ち上がり、どこからともなく現れた糸が乱雑に肌と肌を縫い合わせていく。
     瞬きの間に足首はくっついた。。それだけでなく、裸足の指先をぐっと丸めたり開いたりと神経も通っていることを見せつけられ、俺は手を叩いて歓声をあげた。
    「本当にくっついた…! 流石、強い魔法使いはすごいですね」
    「ふぅん。あなた、見る目はあるみたいですね。俺はもっと強くなるってチレッタも言っていたのでこのぐらいできて当然です」
    (……チレッタさん? なんでここでルチルとミチルのお母さんの名前が出てくるんだろう)
     右足の革靴を履きなおして、ミスラは今が夜更けであることを思い出したようにふぁ、と欠伸を漏らした。
    「目ざわりだったので消そうと思いましたけど、あなたは他の怨霊とは違って使えそうだ。暇つぶしの相手をちょうど探していたので、俺の役に立つ間は消さないでやりますよ」
     取り出した箒に腰を掛け、足を組んで座るミスラは夜の支配者然とした風体でそう告げた。ふわりと風に乗って上空へ舞い上がっていく姿を俺は見上げることしかできない。
    「えっミスラ、待ってください——」
    「それじゃあ、さようなら」
     追いすがる俺の手を見ることもなく、ミスラは煙のようにその姿を消した。夜空を覆う雲がじんわりと広がっていくのを見て、本当にミスラが姿を消したことがわかった。
    「そんな……」
     ひとり取り残された俺を、〈大いなる厄災〉だけは静かに照らしていた。

     この時の俺は、気づいていなかった。
     ミスラの魔道具が水晶の髑髏でなかったことも、装飾品の足りない出で立ちにも——目の下の隈がないことにも。
     そこは俺が生まれるずっとずっと昔の死の湖だということにも、まるで気づいていなかった。


    03

     昨夜の騒動が嘘のように魔法舎は静まりかえっていた。
     崩れた壁は早朝のうちにオズの魔法で修復され、何も知らないものが見れば昨晩襲撃があったことには気づかないだろう。荒らされた中庭の花壇や森の木々は魔法でもどうすることはできないが、氷の森がそうであったように、時間をかければ自然は元のかたちに自ずと修復されていく。手塩にかけて手入れをしていた花々の無残な姿にルチルやリケは悲しそうにしていたが、何度でもやり直せるのだから、もう一度頑張ろうとあの子たちは既に前を向いて歩きだしていた。大人が思っているよりも、子どもたちは逞しく成長している。
     フィガロは耳につけていた聴診器を外して首にかけなおした。わずかに上下する肺の運動機能に目を配りながらパジャマを着せなおす。窓辺に立って太陽の光を遮る男の圧力ぐらいどうってことないが、傍で見られていると気が散る。言葉で言い聞かせても耳を貸さないだろうから、魔法使って追い出すことも考えたが、きっとすぐに戻ってくるだろう。ミスラは自分も重傷を負っておきながら厳しい顔で賢者を睨みつけている。——いや、これは心配をしているのだろう。この男の気遣いはわかりにくい。
     ノーヴァなる男に先導された魔法使いに魔法舎が襲撃されたのは昨晩のことだ。突然のことではあったが、皆が最善ととれる行動をとったことで奇跡的に死傷者は出なかった。
     ひとりひとりは大したことのない烏合の衆の集まりでも、集まれば脅威になる。統率がとれていなかったのが不幸中の幸いか、太陽の光が登った段階で魔力が戻ったオズによって侵入者は捉えられ、既に中央の役人に引き渡している。何人かは夜明けを待つ前に戦線離脱していたようだが、前線に出ていた魔法使いは皆魔力を消費していたため、後を追うことは難しかった。結局ノーヴァを倒せたものもいないようだった。
     唯一、無事でなかったのは賢者だけだ。
     オズの元から浚われ、ミスラが救出した後、敵の攻撃に遭って負傷した。それ自体は問題ではない。賢者が受けた傷というのも、ミスラの治癒の魔法のお陰で表面の傷は塞がっていた。内臓の修復が不十分だったことをフィガロが指摘したせいで彼は先ほどから拗ねている。
     だが、その後にかけた仮死の魔法がいけなかった。クロエのように繊細な魔法が得意な魔法使いが弱くかけるものであれば問題なかったが、ミスラの強力な魔力で乱暴に身体機能の停止と存続を並行してかけたら、結果がどうなるかは火を見るよりも明らかだ。
     生と死が一本の線で区切られているのだとすれば、仮死とはその線上で人間を留まらせる行為に等しい。とてつもなく繊細な調整が必要になる魔法だ。魔法舎の魔法使いではクロエの次にヒースクリフがふさわしいと判断されるようなものを、力任せに扱おうとするなど愚かだというほか言葉が見つからない。そのうえ、賢者はミスラの血を浴びていたと聞く。強い魔法使いの血液がどのように作用するかなど、一番最初の授業で習うようなことだ。フィガロが北の国の先生役だったならばミスラには落第点を渡していただろう。
     ミスラの仮死魔法によって賢者は限りなく死に近い状態に長時間さらされた。
     そのせいで魂は肉体が死したと誤認し、肉体から抜け出てしまった。動けるようになった魔法使い達を中心に魔法舎周辺を探しているが、いまだ見つかっていない。
     仮死の魔法を解いても賢者の意識が戻らないのはそのためだ。弱弱しく息をする賢者は眠りについたまま、起きる気配はなかった。
     スノウという半身の存在がいたホワイトの特殊な例を除いて、霊魂は現世に長くとどまる手段を持ちえない。悪霊と化せば土地に怨念をしみこませて多少は現世にしがみついていられるが、それも強い力で振り払ってしまえばあっという間に霧散してしまう儚いものだ。誤って賢者様の魂が祓われてしまえば手の施しようはなくなる。
     賢者の肉体がこうして生きているということは、魂もそう遠くない場所にいるはずなのだが、痕跡を辿るにも気配が弱く厳しい状態だとホワイトからは聞いていた。つまり、手のうちようがない。地道に探す他手段はなく、けれど賢者にも時間はなかった。肉体から魂が離れすぎると、元の体に戻れなくなってしまう。
     ミスラは苛立ちを隠そうとせず、コツコツと爪先で床を叩いた。
    「フィガロ、賢者様を早く治してください」
    「誰のせいでこんな状態になっているのか、理解していないの? お前」
    「俺の魔法のおかげで賢者様は死なずに済みました」
    「そうだよ。賢者様は死んでいないだけで、生きてもいない。それぐらいはミスラにもわかるだろう」
    「……」
     無言は肯定の意だ。
     険悪な空気が流れたところに、コンコンと控えめに戸を叩く音が聞こえてフィガロは「はぁい」と優しい声をだした。気配で誰が尋ねてきたのかはわかっていた。
     僅かに開いた扉の隙間から、遠慮がちにひょっこりと顔を出したのはルチルとミチルだった。
    「おはようございます。フィガロ先生。昨夜からずっと働きっぱなしでお疲れでしょう。少し休んできてください。ミスラさんも」
    「賢者様のお世話は僕たちに任せてください!」
    「そう? じゃあお言葉に甘えてちょっと休んでこようかな。フィガロ先生くたくたで、ちょうど休みたいと思ってたところなんだ。ミスラ、君も来なさい。外で話をしよう」
    「あなたと話すことなんてありませんけど」
    「いいから。はやくして」
     賢者の容体は落ち着いているため、ルチルとミチルに任せても問題ないだろうと判断し、フィガロはミスラを伴って部屋の外に出た。ミスラには一度外の空気を吸って冷静になる必要がある。
     階段を下りて外に出ると放牧されているレノックスの羊たちが目に入った。リケとヒースクリフが羊の世話を手伝いながら話をしている。どこか浮かない表情なのは、目覚めない賢者を慮ってのことだろう。
     若い魔法使いたちは今回表立って戦闘に加わることはなかった。オズが食堂で保護していたためだ。相手は本気でこちらを殺そうとしかけてきていたのだから、対人での戦闘経験が浅いあの子たちには荷が重かっただろう。咄嗟に若い魔法使いを集めたオズの判断は正しかったとフィガロも考えている。ただ、出来ることがなかったが故に、目の前で賢者が連れ去られる様を阻止できずに気落ちしているのかもしれない。体に刻まれた傷と同じぐらい、心を刺す罪悪感や後ろめたさといった負の感情は傷を残し、それは魔法にも影響する。
     フィガロは噴水の縁に腰掛けて足を投げ出し、伸びをした。徹夜で敵の相手をした後は怪我人の治癒、それから賢者の対応など目まぐるしく一日は過ぎていった。ひと段落したところで疲れがどっと押し寄せてきて、己の老いを自覚する。今夜は深酒をしたい最低の気分だった。
    「はっきり言っておくけど、賢者様は魂が見つからない限り目覚めないよ。ミスラも賢者様の部屋でいじけて居る暇があるなら、なくしたものを探しにいったら?」
     いい加減、ミスラのお守りもうんざりしていた。この男はフィガロが賢者の治癒をする前からずっと彼の側を離れなかったため、魔法舎が落ちつくまで面倒を見てやれと双子から押し付けられてしまったのだ。いつものように自由行動でもなんでもすればいいと、野良犬を追い払う気分でそう告げれば、ミスラは幾分か座りが悪そうに口を開いた。それは珍しい光景だった。
    「……今思い出したんですけど、俺、賢者様の魂を食った気がします」
    「……は?」
     ミスラの発言をすぐには理解できず、フィガロは思わず聞き返してしまった。ミスラはのんびりと胃袋のあたりをさすっている。いくら悪食とはいえ、人の魂を食らうだなんて信じられず、フィガロは目を眇めた。こいつは疲れた俺をからかって遊んでいるのではないか?
    「昨日の夜のあたりからどうも胸焼けしていて、おかしいなと思っていたんですよね」
    「それ、マジで言ってる?」
    「マジですよ。段々思い出してきました。森の中であの人が死にかけてたので、なんとかしようと思って嚙み砕いたシュガーを口移しで食べさせてたんですけど、その途中でなんか吸い出した気がします。あれ賢者様の魂だったんですね」
     フィガロは足を組み、膝のうえで頬杖をついた。ミスラはぼんやりと賢者の部屋の窓を見上げていた。
    「個人的なことだし深入りはするつもりないけど、賢者様とミスラは恋人関係なの?」
    「違いますけど。とっとと俺のものにしたいな、とは思います」
    「へえ、そう。…………へえ」
     違う意味で頭が痛くなってきて、フィガロは眉間をおさえた。眩暈がしているのは疲労と寝不足からくる症状だろうか。今すぐ休息が必要だ。
     だが、状況はフィガロに自由を許してくれなかった。魔法舎から飛び出すように出てきたミチルが駆け寄ってきて、泣きそうな顔でフィガロの腕に縋りついてきたのだ。
    「フィ、フィガロ先生! 賢者様が……!」
    「落ち着いてミチル。賢者様の容態に異変があったんだね。すぐに向かおう」
     フィガロが立ち上がるよりも先に、ミスラは空間の扉を開いていた。
     ミスラに続いて早足で扉を抜けると、賢者のベッドの側に膝をついたルチルが祈るように両手を合わせていた。ミチルがすぐさまルチルを呼び、顔をあげたルチルは鼻を赤くして、目じりには涙がにじんでいた。
    「兄さま! フィガロ先生を呼んできました! 賢者様は……」
    「ミチル、ありがとう。フィガロ先生、賢者様の手が、赤っぽくなったとおもったら突然氷のように冷たくなってしまって」
    「手が?」
     ルチルが両手で暖めるように握っていた賢者の手を取ると、確かに氷のように冷たい。それによく見ると爪がひび割れ、血が滲み始めていた。傷をみて真っ先に想定したのは呪いによる作用だが、フィガロには感知できない。ミスラも何も言わないところを見ると、外部からの干渉による線は低いだろう。念のため専門家の確認もしてもらおうとルチルとミチルにファウストを呼びに行かせた。
     静かになった室内で、フィガロは呪文を唱えて指先の応急処置をする。
     窓辺には先ほどまでなかった花が飾られていた。二人が用意してくれたのだろう。きっと、賢者が目覚めるころには魔法使いたちの心遣いで部屋はいっぱいになっている。
     呪いの線が薄いのであれば、原因はひとつしかない。魂についた傷が肉体にも影響しているということだ。フィガロはミスラを睨みつけた。
    「ミスラを石にして魂を取り出せばてっとり早く賢者様を目覚めさせられるけど、どうする?」
    「はあ? 逆に俺があなたを石にして食ってやりますよ」
     ミスラの腹の中はさぞ居心地が悪かろう。はやく助けてやらなければ賢者は瞬く間に死んでしまう。
     けれど、魔法使いに食われた人間の魂を取り戻すなど、長寿のフィガロであっても経験がない。そもそも、ひとつの体(うつわ)にふたつの魂が入ることは不可能だ。一時的には共存できても、必ず破綻する。ミスラの中で魂ごと吸収されてしまえば終わりだ。
     こうなると医者として解決出来る範疇は超えている。ひとりで悩んでいるよりも、問題を共有して議論するほうが建設的だ。時間もないため、フィガロは花瓶に差してあった花を一輪拝借すると、魔法をかけて使い魔の鳥に変化させた。ピンクの花弁が羽根にあしらわれた可愛らしい姿は我ながら満足のいく出来だった。
    「よしよし、いい子だ。オズとスノウ様とホワイト様を呼んできてくれ」
     三人とも魔法舎にいることはわかっている。フィガロの手から飛びだった花鳥はすぐさま窓から飛び出していった。
     増援は直にやってくるだろう。
    「《アルシム》」
     賢者がいつも使う椅子に座って、ミスラも加護と治癒の魔法をかけていく。
     いつになく真剣な表情はミスラなりに責任を感じているからなのかもしれない。
    (北の魔法使いに限ってあり得ない――とは思うけど、オズでさえ変わったんだ。あり得ないことなんてないか)
    「ああ、凍傷になりかけてる。ミスラの腹の中、一体どうなってるんだ」
    「知りませんよ。吹雪でも吹いてるんじゃないですか? 北の国生まれなので」
     フィガロが休息をまともにとれるようになる時間は当分先になりそうだった。

    ***

     幽霊になってよかったこと。お腹が減らない。生きていれば凍死する寒さの中でも問題なく過ごせる。今のところ排泄の心配もいらなそうだ。
     幽霊になって困ったこと。生前は感じなかった幽霊(仲間)の存在が感じ取れるようになった。ミスラが姿を消してから、黒い粘土に眼球だけ雑にくっつけた靄が周囲を取り囲んできて怖い。ポルターガイストの練習をしているが、俺には才能がないのか物を浮かすことは愚か、自身が浮遊することもできなかった。
     そして──眠れなくなった。
    「眠れないのって、こんなに辛いんだな……」
     西の空が白み始めた気配を感じて、俺は重たい瞼をこすりながら体を起こした。
     ミスラはあれから一週間姿を見せていない。歩き回って探してみたが、そもそも死者の国から立ち去ってしまったのか魔法で姿を消しているのか、白銀の世界で目立つ赤毛も見つけることはできなかった。
     雪と骨しかない世界でたった一人、孤独になった俺を狙いすましたように、他の幽霊は近寄ってくる。襲ってくることはないが、近くをうろつかれてぎょろぎょろと動く目玉で観察されるのは落ち着かない心地になった。どうやら一か所に留まっているとよくないようで、俺は定住地を見つけることもできずに死者の国を転々と泊まり歩いていた。
     大きなもみの木——に似た針葉樹の下は土が少し湿っていて暖かい。その理由が地中に魔法生物が巣をつくっているからだと、何度か脇腹を擽られた後に気づいた。生きていたら食われていただろうから、幽霊でよかった。
     電車程の大きさの生物が白骨化した場所は、理由はわからないが雪がつもっていなかった。寒さはしのげないものの、雪が積もらないからと数日過ごしてみたが、決まって夜中に金縛りにあった。身動きが取れない中、怨霊に食い殺されそうになったところで場所を変えた。
     そうして、一番最初にミスラとあった場所に戻ってきた。ミスラが何かの魔法陣を描いていた箇所にもやはり雪は積もっていなかった。戻ってくるまでの間に相当迷ったことは思い出したくない。
     俺はじわじわと姿を見せる太陽をぼんやりと見つめた。今日は珍しく雲が晴れて空が見えていた。太陽の光は北の国であっても暖かく、優しく大地に降り注がれた。
     こちらの世界に召喚されてから、こうして一人で過ごすことははじめてだった。魔法舎の賢者の部屋で一人きりになることはあっても、どこかに他人の気配は感じていた。北の魔法使い同士が争いあう地響きであったり、窓の外から聞こえてくる笑い声であったり、それらは俺の心に安寧を齎していたのだとひとりになって気づく。
     本当に死んでしまったのだと残酷な現実を飲み込むまでの時間はいくらでもあった。ありすぎたぐらいだ。少し経てば成仏できるのではないか、という俺の淡い期待も空しく、今もこうして幽霊として存在している。
     気がかりがあるといえば、ミスラの行方だ。
     生きていたころの最後の記憶は襲撃された魔法舎と、大怪我を負ったミスラの姿だった。ミスラに限って、命を落とすとは思えなかったけれど、あの夜の魔法舎は混乱が渦巻いていた。不気味な空気を纏うノーヴァという男の薄ら笑いが耳の奥で響いた気がして、体が震えた。ミスラの死を考えたくなくとも、魔法舎の無事を確認できないうちは一抹の不安はいつまでも俺の肩に重くのしかかってくる。
     死者の国で再会したミスラが俺を覚えていなかったことも、嫌な想像を掻き立てる。例えば、幽霊になってしまったから記憶を失っているんじゃないか、だとか。荒唐無稽な考えも、一人でいると笑い飛ばすことも出来ない。
    「ずっと姿が見えないのは、成仏したからとか……? ミスラ……」
     置いていかないで、と縋りついてしまいそうになる心を叱咤する。震える吐息を湧き立たせるために頬を叩いて、明るくなっていく空を見送った。抜けるような青い空が俺の決意を後押しするようだった。
     後ろ向きな気持ちと向き合う時間は終わりだ。
     立ち上がった俺の視線の先には雄大な湖の湖面が広がっていた。

     死者の国は死の湖のおよそ中央に位置している。湖の広さは目視だと図りきれないが、晴れた日でないと湖岸を確認することは出来なかった。つまり相当広い。ミスラはよく湖を泳いでたようだが、体育の授業でしか遠泳の経験がない俺には無謀な挑戦だ。泳いで渡ることは考えない方がいいだろう。
    「ミスラは死の湖で渡し守の仕事をしていたみたいだし、どこかに船があるはず」
     幽霊が船に乗って島を脱出するなどおかしな話だが、今の膠着状態を脱するためには死者の国の外に出なければ始まらない。せめて俺の周りをうろついている黒い靄(怨霊)から話を聞ければよかったのだが、彼らとの意思疎通ができないことは既に調査済みだ。数日前、勇気を出して声をかけたら靄がマントのように広がって襲い掛かってくる体験をした俺に、善良な幽霊に当たるまで声をかけ続けるだけの根性はなかった。普通に怖かった。
     以前死者の国にミスラと訪れた時には簡易的にではあるが、船着き場の桟橋があった。だが死者の国も広く、どのあたりに桟橋があったのかはうろ覚えだ。吹雪が強いうちは一寸先も見通せない状態だった上、周囲に気を配る余裕もなかった。
     ふかふかの新雪に足跡をつけながら、陸地の縁まで歩く。恐る恐る下を見下ろしたが、今俺がいる岩山の近くに桟橋は見当たらなかった。
    「晴れてるうちに探さないとな……」
     比較的湖面との距離が近い場所――それでも三メートル近くは高さがある――とはいえ、身を乗り出すと落ちてしまいそうで肝が冷える。俺は体を起こして溜息をついた。
     湖面は凍っていて、薄ぼんやりと俺の姿を反射している。不透明な鏡像に映る俺の姿はどこか不安定で、靄のようなものに覆われているようにも見えた。
    「ん? 靄?」
     自分の姿が歪んでいるにしても、ここまで黒くぼけているのはおかしいことに気がついた時には、俺の背後には悪霊が迫っていた。背後を振り向くと、ぎょろぎょろと動く目玉が暗い闇の中で俺の姿をとらえる。よく見ると目玉は二つだけでなく、手足や胴体にもくっついていて、俺の口からは悲鳴が零れた。
    「ぎゃあ!!」
     怯える俺の姿を喜ぶように、それは大きく身体を広げた。あっという間に青空が見えなくなる。体中にある無数の目玉が俺を注視する様に腰が抜けた。逃げることも出来ずに後ずさろうとして、崖っぷちであることを思い出す。
     不運というものは続けて訪れる法則でもあるのだろうか。
    「――ッ!」
     雪の重みか、はたまた地盤が緩んでいたのか。崖が崩れ、俺の身体は宙に投げ出された。
     悪霊は無数の腕をのばして俺の体をとらえようとしたけれど、それよりも俺が落ちるスピードの方がはやかった。
     紐無しバンジーを再び体験することになるだなんて、遠ざかる晴天を見上げながら自嘲する。
     前はミスラに助けられた。だが、今回はひとりだ。ぎゅっ、と目を瞑り、来る衝撃に身を固くして待ち構えた。
    「《アルシム》」
     それは綿飴のクッションに抱き留められたような、優しい衝撃だった。
     心臓が動いていれば、早鐘を打っていたところだろう。こんな時でも俺の命の鼓動は時を止めたまま、静かな重石のように俺の身体をこの地に留めている。
    「みすら……?」
     呆れた顔をしたミスラがいた。俺の心を埋め尽くしていた不安や恐怖で絡まった糸が、たった一人の男の登場でいとも簡単にほどけていく。
     孤独で心細い状態は俺が思っていたよりも自分を追い詰めていたらしく、ミスラの顔を見れただけで鼻の奥がツンと沁みる。目頭が熱くなって涙が溢れ出しそうになって、慌てて袖で拭った。
     ミスラは俺の首根っこを掴んだ状態で、頭から爪先まで睨めつけた。鋭い眼光は次いで崖上の悪霊の集合体に向けられる。ミスラは巨大な靄の塊を見ても微塵も動揺する様子は見せなかった。いつも通り、片手で首元の傷跡を搔いている。
    「何やってるんですか?」
    「えっと……崖から落ちてしまって。助けてくれてありがとうございます。ミスラこそ、どうしてここに……?」
    「どうして……って、ここは俺の住処なので、帰ってきただけです。それに、別に助けたわけじゃありません。上から変なものが降ってきたので、何かと思っただけです。舟ごと避けるのも面倒だったので」
     ミスラの足下をみると、二人ほどが乗れる大きさの小舟に布を巻いた何かが数体積み上げられていた。布は泥で薄汚れていて、それだけでなく赤黒い何かも付着していた。それがどういったものかわからないほど、俺も無知ではなかった。
     死体だ。人間の、死体が積まれている。布の中身を見なくともわかった。
    (ミスラが渡し守の仕事を…?)
     任務で死の湖の周辺に来たとき、村は形成されていなかったはずだ。ミスラや双子の話では、湖の側には定期的に村が出来るが、厳しい寒さのために何代も続かずに村ごと壊滅してしまうと聞いた。いずれ新しい村が興された時には、気が向いたら渡し守の仕事をするのだろうとミスラは言っていたが、それにしても事態が急すぎる。
     白く濁った吐息を吐き出して、ミスラは俺の体を遺体の上に放り投げた。
     反射的に悲鳴をあげそうになるのを堪えて、そっと舟の端の方に座り治す。幽霊が肉体を持たないとはいえ、遺体の上にふんぞり返ることはできなかった。
    「《アルシム》」
     ふわ、と小舟の船体が持ち上がり、エレベーターのようにぐんぐんと高度が上昇していく。あっという間に俺が落下した距離だけ舟は浮かび上がった。
     俺のことを襲おうとした巨大な悪霊はまだそこにいた。
     無数の目玉は今度はミスラのことをとらえ、黒い靄の手が四方から襲う。俺の時よりも敵意を剥き出しにしたそれらからはミスラに対する憎しみを感じられた。醜悪で、陰湿で、じめっとした空気が肌に纏わりついてくる。呼吸をする度にどろどろとした悪意が心を汚染する不気味さがあって俺は咄嗟に呼吸を止めた。ミスラの背中はやはりゆるぎなく、いつも通り白衣を風にはためかせている。
     その攻撃を呪文もなく、ミスラはごく自然な動作で腕を振っていなした。それだけで巨大な靄は存在が揺らぎ、ミスラはつまらなそうに口を開いた。
    「《アルシム》」
     短い呪文を唱え、手元に浮かび上がる骸骨の魔道具が火を噴いた。巨大な靄は千々に切れ、目玉のひとつとして痕跡を残さずに消えた。俺を恐怖に落とした悪霊は、魔法使いの手によって塵になった。驚くほど呆気ない最期だった。
     俺もああしてミスラの手で存在を消されてしまうのだろうか。
     ぼんやりと背中を見ていると、ミスラがおもむろに振り返った。布袋二つを魔法で浮かび上がらせ、塵になった幽霊の残滓の上に無造作に放り投げた。舟の上でぼんやりしていた俺の体も無遠慮に雪の上に投げ出される。新雪が積もっていたため地面にぶつかる衝撃こそなかったが、冷たさで意識が冷めた。
    「この島にいる幽霊は皆、意識のない悪意の集合体のようなものです。ああして時折俺のことを殺そうとしてくる」
    「そう、なんですか。大変ですね」
     ミスラに死者の国を案内されたときはここまで治安は悪くなかった筈だが、周囲を見ると悪霊はまだ沢山闊歩している。ミスラもそのひとつひとつを消していく気はないのか、目で追うだけで魔道具を取り出すことはなかった。
     長い足を折りたたんでしゃがんだミスラが、座り込んだままの俺と視線を合わせた。――合わせにきたのだとすぐに悟る。好奇心を瞳の奥に踊らせ、ミスラはほんの少し口の端をつり上げる。新しい玩具を見つけた子供のような無邪気さがあった。
    「けど、あなたはやはり、あれらとは少し違いますね。ちょうど暇なので、生前のことを教えてくださいよ。幽霊のくせにそこまで明確な意識を保てるということは、魔法使いだったんですか? 俺は魔法使いの幽霊も見たことありますけど、あなたみたいなタイプは見かけたことがないな……」
    「俺は……普通の人間でしたよ」
     自分が特別な存在であるとは最後まで思えなかった。皆にいくら賢者様ともて囃されようとも、自分には魔法も使えず、簡単に死んでしまう存在だ。〈大いなる厄災〉につけられた傷を癒やすことが出来る力はあったけれど、それも安定したものではなかった。
     だからこそ、死んでまで賢者を名乗ることは躊躇われた。賢者と呼ばれた、ただの人間だった。
     俺の回答を、けれどミスラは納得のいかない表情で受け止めた。眉をひそめ、顎を掴んでくる。
    「ただの人間が、意識をもって俺と会話するわけないでしょう。正直に答えないなら今すぐ消します」
    「――ま、待って、ミスラ! すみません! ちゃんと言います!」
     首を掴むミスラの手が徐々に熱を持っていくのは、魔法発動までのカウントダウンだ。
     俺には迷う暇すら与えず、雪の絨毯の上に押し倒されてしまう。こうなってしまえばミスラ相手に隠し立てなどできず、俺は正直に吐露するしかなかった。
    「け、賢者として、異界から召喚されたんです。でも、ただの人間っていうのは本当です。その証拠に、俺は死んでしまったわけですし」
    「賢者? 賢者ってなんですか?」
    「え……?」
     俺のことを覚えていないことは理解できても、いくらミスラが忘れっぽいとはいえ「賢者」という存在そのものを忘れるとは思えない。
     ミスラは賢者の魔法使いで、一年に一度は必ず役目があった。それを長い人生の半分はそうして過ごしてきたはずで、それを忘れているのはあり得ない。
    (もしかして、忘れているんじゃなくて、本当に知らない……?)
     ぱちぱちと瞬きをするミスラの目の下に隈がない。
     そのことに、俺は今更になって気がついて、さあっと全身から血の気が引いた。
     そんなことあり得ない、と思っても、現実は残酷なまでに事実を突きつけてくる。
    「賢者っていうのはよくわかりませんが、普通の人間ではなさそうですね。異界っていうのがどこにあるのかも気になります。チレッタに聞けばわかるかな……」
    (チレッタさんは、ルチルとミチルのお母さんで、既に亡くなっている……なのに、ミスラの口から名前が出るってことは、ここはやっぱり――)
     過去の世界だ。それも、ミスラが賢者の魔法使いに選ばれるよりもうんと前の。
     途方もない話に目眩がした。ミスラは人生の半分を賢者の魔法使いとして過ごしてきたと語ってくれたが、年齢は約千五百歳だと聞いている。つまり、ここが本当に過去の世界ならば軽く見積もっても俺がいた時代の千年は前ということになる。
     ここが過去の世界だとしたら、死者の国を出ても俺には帰る場所がない。魔法舎が建造されていたとしても、当然のようにそこは俺の居場所ではない。そもそも俺は幽霊だ。危害を加えるものだと判断されれば魔法使いの手で消滅させられるだろう。
     いずれ成仏はしなければならないのだとしても、まだ、俺はやり残したことがある。胸の奥の引っ掛かりを消化しないまま無謀なことは出来ない。
     俺は雪の中に埋もれた手のひらをぐっ、と握りしめた。
     行く当てもなく彷徨うぐらいならば、馴染みのある場所——ミスラの側にいたほうがよほど安心できる。それが例え、俺を知らないミスラなのだとしても。
     ひとまず拘束から解放された俺は生唾を飲み込んで、ミスラの前に正座した。緊張で喉が震えたが、背筋をしゃんと伸ばした。
     ミスラは雪の上であぐらをかいて俺のことを観察するようにじっと見つめてきた。
    「見ての通り俺には何の力もないですが、こうしてミスラとお話をすることは出来るので、よかったら、友達になってくれませんか」
    「友達? 幽霊のあなたと、俺が?」
    「はい。幽霊ですけど、ミスラは、その……将来凄く強い魔法使いになると思いますし、お近づきの印にというか……」
     苦しい言い訳をもごもごとこぼす俺の言葉に、ミスラは屈託なく笑った。
     それは、時折魔法舎で見せる笑顔と変わらないもので、俺の知るミスラの面影と重なる。
    「いいですよ。あなたには見る目があります。俺は北の魔法使いミスラ。世界で一番強い魔法使いになる男です。俺と友人になれば悪霊も裸足で逃げ出すような男になります」
     得意げに胸を張るミスラは上機嫌だが、悪霊はミスラの名前を聞いたら逆に襲いかかってきそうだ。先程の憎悪に膨れた黒い靄たちの姿がフラッシュバックして、冷や汗が背中を伝った。
    「……それは逆に襲われるようになるような……」
    「何かいいましたか?」
    「いいえ、なんでもないです。よろしくお願いします」
     唯一の気がかりは、現実世界でのミスラの安否が依然として不明であることだが、今の俺に出来ることはない。世界一を狙う魔法使いなのだから、そう簡単に破れることはないと、今はミスラのことを信じるしかないだろう。
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    siiba_n

    MAIKING※書きかけで未完結。2021年に書いていたものです※
    捏造100%/なんでも許せる人向け/流血注意

    魔法使いによる襲撃を受けた魔法舎で、賢者は瀕死の重傷を負ってしまう。
    『道連れにしますね、晶』
    そう言ってミスラに意識を奪われ、目が覚めた時に賢者は北の国の雪原にたった一人取り残されていて──
    終焉がそこにはあった#1〜301

     短い人生の中で、一番大きな事故といえば思いつく限りで家の階段から落ちたことだった。まだ俺がよたよたと足取りもおぼつかない赤子の頃、母親が少し目を離したすきにごろごろと転げ落ちたらしい。当然のように俺はその事故を覚えていないが、額にはその時に切ったという傷跡が今でもうっすらと残っている。五ミリほどの裂傷は肌に馴染んでいるため今では気にすることもないが、思い出話として母親は時折口にした。「貴方はとってもお転婆だったのよ」と。果たして、お転婆の使い方としてあっているかどうかは疑問をもつところではあったが。
     バンジージャンプもスカイダイビングもしたことのない、落下初心者の俺には難易度の高い紐なしバンジーダイビング中、このまま死んでしまうのだろうかと、そんな取り留めのない記憶を思い出していた。
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