蛇足 とうとう来たか。はじめに思ったのはそんなことだった。
黒い噂の絶えない某監督からの『お誘い』 もしかしたら、茨が二十歳になるのを待っていたのかもしれないと思うほどだった。
というのも、茨はアイドルとしてではなく副所長としての仕事で、まだ高校生のときに出会っていたからである。そのときの絡みつくようなねっとりとした視線が本当に気持ち悪くて。嫌悪感が凄まじくて。
別に自身が体を差し出すことに一般的な感性を持っている人ほど嫌悪感はなかった。自分や自分の事務所のアイドルが仕事を貰えるんだったら安いものだ。哀れにも、こんな小娘に対してへこへこと腰を振るのが趣味なのかと思えばすこし間抜けにも思えるし。一度体験してしまえば二度も三度も同じものだろうと思っていた。ただ。
誰にも暴かれていない、まだ綺麗な体を見せたい人がいただけで。
自分の体にそんなに価値があるとも思っていないけれど、女の一生で特別だと言われる『ハジメテ』を、どこぞの輩にくれてやるほど安い女に落ちぶれたつもりもなかった。これからの性体験がすべて仕事の関係者とのものになるのだとしたら、人生で初めての体験くらいは望んだ人としてもいいんじゃないか。そのくらいの我儘、許されてもいいんじゃないか。
一度考え出すと止まらなかった。もう半ばやけになって話を持ち掛けてみた。断られても別に構わない。ダメもとで、というやつだ。けれど、予想に反して相手の反応はあっさりしていた。断られるか、もしくは怒られるかすると思ったけれど、彼はすこし眉を寄せただけだった。
ふーん……。抱けるんだ、自分のこと。
そんなふうに考えたのを今でも覚えている。
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殺してやろうかと思った。確かに頼んだのは自分だ。けれど、『やめて』と言ってもやめないとは何事だ。男の風上にも置けない奴め。心の中でそう呪ったけれど、敏感な所を苛め抜かれたあとですっかり体の力は入らなくなっていた。
『初めてがわたくしでよかったですね』
あのとき、あいつはそんなことを言ったが、頼んだことをすこし後悔したくらいだった。本当に痛かったんだから。
それからのことは覚えていない。目が覚めたら体はすっかり綺麗になっていて、もしかしたら自分に都合のいい夢でも見ていたんじゃないかって思ったくらいなのだ。けれど、体に残る鈍い痛みが紛れもなく現実だったことを思い知らせてくれた。
『起きましたか』
昨夜、セックスした相手にする挨拶にしてはあっさりした口調だった。別に一度寝たくらいで態度を変えられても困るけれど。
声のする方を見て、彼が上に何も纏っていないことに気付いて思わず目を逸らした。昨日はいっぱいいっぱいで相手のことなんてほとんど見ていなかったけど、こいつ、服着てなかったっけ? よくわからないことを考えながらシーツを引っ張って自身の体に巻き付ける。なんだか急に恥ずかしくなってきたからだ。
茨は深呼吸してもう一度相手の方に向き直る。あぁ、昨日はこいつとセックスしたのか。なんだか変な感じ。でもこれで悔いがなくなった。
「ありがとうございました」
弓弦に聞こえないように、口だけ動かして感謝の想いを伝える。ただの自己満足だ。願わくば、弓弦が自分との行為によけいな責任を感じませんように。それだけが祈りだった。