本懐「ねえ」
その日茨は、外の訓練所で何やら俯いている紺色の後頭部を見付けて声をかけた。何をしているのか気になったのだ。相手はびくっと体を震わせる。
変なの。いつもは後ろから声をかけてもあんなに驚いたりしないのに。
茨は歩いていって、弓弦の前に立つ。彼は何枚かの紙を両手で持っていた。いったい何の書類だろう。
「なにしてんの?」
「……あぁ、いえ。両親からのお手紙を読んでいました」
にこりと笑うその笑顔はどこかぎこちない。定期的に送られてくるという、弓弦の両親からの手紙。こちらでの生活を案じるものや、訓練の進捗を問うもの、一方で向こうでの親たちの近況も書いてあるらしい。何度か内容について尋ねたことがあるから知っていた。でも、おかしいな。いつもその手紙を読んでもこんな動揺していないのに。
ちょっと首を傾げてから重ねて問う。
「なんて書いてあったの?」
「……『お誕生日おめでとう。今後も鍛錬に励むように』と」
「誕生日!? え、今日誕生日なの?」
茨は目を見開いた。今日が弓弦の誕生日だなんて知らなかったからだ。それに、誕生日おめでとう、だなんて。祝ってもらえて嬉しくないのかな。誕生日は祝われると嬉しいものだって、他ならぬ弓弦が言っていたのに。
驚いた様子の茨を見て、弓弦は慌てて否定した。
「いいえ。もうすこし先なのですが、手紙がいつ届くかわからないでしょう? ですから先を見越して書かれていたようです」
「ふーん。本当はいつなの?」
「三日後……十八日ですね」
「……うへえ、めんどい訓練がある日じゃん」
先日発表されたスケジュールを思い浮かべながら口にすると、弓弦はくすくすと笑う。ちらりと見るともう元の弓弦だった。
「茨が真面目に訓練してくれたら、いい誕生日プレゼントになるかもしれませんね」
「……俺の訓練と弓弦の誕生日って関係ないじゃん」
そう呟いて考える。あと、三日か。茨はしばし思案した。
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「……これは?」
「誕生日なんでしょ?」
茨はにやける口元を堪える。弓弦がこんなにびっくりしてるのを見るのははじめてかもしれない。彼は落っことさんばかりに目を見開いて、茨が差し出したものを眺めている。
あれから三日後。弓弦の誕生日の日だ。ずっとどうやったら弓弦をぎゃふんと言わせられるか考えていた茨は思いついた。『どうせここでは誰も誕生日なんて祝っちゃくれない。だからこそ、俺が見たこともないような贈り物をして弓弦を驚かせてやろう』と。
そう計画した茨は、何度か厨房から材料をくすねて、以前弓弦と作ったみたいなホットケーキを作ったのだ。……誕生日にはケーキを食べるらしいし。まあ、多分誕生日に食べるケーキはこういうのじゃないとはわかってるけど。
弓弦は固まったようにホットケーキの載った皿に視線を落としていた。……よく見ると形もかなり歪だし、気に入らなかった? 勝手にではあるけれど、もうちょっといい反応が返ってくるかと思ったのに。
「いつ……用意したんですか?」
「まあ……訓練が終わった後にちょちょっと材料くすねてきて? ……ってアレ? そんな嬉しくなかった? 弓弦が感激のあまり号泣するんじゃないかと思ってわくわくしてたんだけど!」
茨の言葉に彼ははっとした様子で顔を上げた。その様子は本当にただ驚いただけのようである。
「いえ。本当に嬉しいです……」
「……?」
嬉しいと言っているわりに、表情が乏しい。首を傾げると、弓弦は変な顔をして笑った。
「今日の訓練が終わったら一緒に食べましょう」
「え、いいよ。俺は。弓弦のために用意したんだし」
「俺が貰ったものなんですから、どうしようといいでしょう。俺はこれを茨とわけあって食べたいんです」
あまりに頑なだったから、しぶしぶ了承する。そうして、訓練の後に一緒に食べたパンケーキは、ぱさぱさしてて全然美味しくなんかなかったけど、それでも弓弦は美味しいといって食べていた。
そのなんだか泣きそうな顔が。どうしてだか茨は忘れられずいる。
*** ***
「……弓弦。今月、空いている日はありませんか」
弓弦は目をぱちくりとさせて目の前の男を見る。茨は手帳を開いて、視線をその手帳に落としたままである。
「今月……二十日ごろでしたら、予定が空けられそうですが」
そう答えて、様子を伺う。出会い頭にそんなことを言われては警戒するというものだ。
茨は、手に持っていたペンで何やら記入するとにんまりと笑った。
「……何を企んでいらっしゃるんです?」
眉をしかめてそう問うも、茨はにやにやと笑うだけだ。
「いえいえ! 企むだなんてとんでもない! では二十日。その日をそのまま空けておいていただけますか?」
「構いませんが……」
存外機嫌が良いのか、彼はそのまま立ち去っていく。
こんなことがあったのが、今から二週間前のこと。
このときはまるで意味がわからなかったが、ようやく今。その意味がわかった。
「これは……?」
十月二十日。茨が指定したのはとあるマンションの一室だった。
招かれるまま部屋に入ると、香ばしい香りが鼻をくすぐる。驚いて机の上をみると、テーブルの上に所狭しと料理が並べられていた。香りの出所はこの料理たちらしい。
白身魚の香草焼きや透明なコンソメスープ。こんがりと焼かれたパン。レストランに並んでいても遜色ないほどである。
「驚きました?」
にんまりと笑うその顔が、いつだかの民間軍事会社にいたころに重なった。
「えぇ……それはもう。というか、どうしたんです、これ」
「二日前、あんたの誕生日だったでしょう?」
確かにそうだ。二日前。十月十八日は弓弦の誕生日だった。当日は、桃李をはじめとするユニットのメンバーや他のESのアイドルの皆に、盛大に祝ってもらったのだからしっかりと覚えている。そのなかに、茨もいたはずだが。
「あんたの好きなものを揃えてみました」
「……誕生日プレゼントということですか?」
「えぇ!」
自信満々に言って茨は席につくように促してくる。おずおずと座ると彼も前の席に腰掛けた。
「……あのころと違って、ちゃんと美味しいはずですよ」
……あのころ。あの、パンケーキのことを言っているのだろうか。
「あのころも、ちゃんと美味しかったですよ」
茨が当時できうる限り精一杯祝ってくれたあのパンケーキ。確かに冷めていたせいでぱさついていたけれど、間違いなく美味しかった。それは紛れもない事実である。
「あんたの舌、おかしいんじゃありません?」
照れているのか変な顔をしている茨はそう言った。
「おかしくなんかありません」
「……もう、いいですよ。あのころの話は。ほら、冷めちゃいます。さっさと食べましょう」
「ふふ、そうですね」
そうして茨に促されて、ふわふわの白身魚にナイフを入れた。食べやすいサイズにして口へ運ぶ。
適度に脂ののったその身は、口に入れた途端ほろほろと崩れて口の中いっぱいに広がった。程よい塩味と香草の香りがよいアクセントになっている。
「……どうですか?」
不安げな声だ。それを払拭するように、弓弦はにっこりと笑ってみせた。
「おいしいです、とっても」
目の前の愛弟子の顔が、徐々に綻んで自信ありげに変わっていく。弓弦はそれを、この上なく愛しく思った。
***
**
「なんか、あんま美味しくなかった。弓弦が訓練の後に食べようとか言うから冷めちゃったんじゃない?」
弓弦と並んで皿洗いをしながらそう言った。本当ならもっともっと美味しいのを食べさせる予定だったのに。前に弓弦と一緒に作ったときはこんなんじゃなかったから、絶対作り立てじゃなかったからだ。
茨はそう思いながら口を尖らせていた。
「俺のせいですか……?」
弓弦は不満げに眉を寄せている。絶対そう。弓弦のせいでしかありえない。茨はつーんとそっぽを向く。
「何、拗ねているんですか……。ちゃんと美味しかったですよ。俺は嬉しかったです。ありがとう、茨」
面と向かってそんなことを言うもんだから、むず痒い。それに本当にぱさぱさだったし。
「……なんか、あのクオリティでお礼言われるの、納得いかない。……次は弓弦の好きなもの用意してやるんだから」
再戦を宣言すると、弓弦は意地悪そうに笑う。
「ふふ。それは楽しみですね。俺は白身魚が好きです。覚えておいてください」
「えぇ? 魚なんてここじゃ滅多に食えないじゃん。手に入るかなあ」
「冗談です。魚がここでなかなか手に入らないのはよくわかってますから」
「……冗談って何が? 白身魚が好きっていうのが?」
「え? いえ、それは嘘じゃないですけど」
「ふーん」
覚えておこうっと。いつか。いつの日か。絶対に弓弦の鼻を明かしてやる。そう、茨は意気込んだ。