自分自身を信じてみるだけでいい。きっと、生きる道が見えてくる。 side.RIO
高らかにラッパの音が鳴る。朝六時、起床の合図だ。隊舎のベッドから起き上がり、準備を整える。食堂で朝食をとり、朝礼の前に間訓練を行う。
いつものルーティーンワークである。身体は当たり前の様に動く。しかし、何となく頭にモヤがかかっている様な気がする。寝不足だろうか、疲れが出たか、そんなはずは無い。ここ最近、大きなトラブルは無かった。いつも通りの課業を行い、訓練を行い、二十三時には就寝。昨日も同じ時間に床へ就いた。寸分の狂いは無い。軍人として、自らを律する事は当然の事だ。
……軍人?常に心に掲げていたはずのその二文字にふと、疑問を呈する。
「おはよう、メイソン」
ぼんやりしていた頭が、声によって引き戻される。同僚の頸木だ。
「おはよう、頸木」
「どうかしたか?ぼーっとして」
「いや……なんでもない。いけないな、少したるんでいた様だ」
「おいおい、しっかりしてくれよ?毒島海曹長」
「海曹……?」
数年前、毒島メイソン理鶯は軍で確かに一等軍曹の階級を有していた。しかし、軍曹だ。海曹ではない。聞き間違いや、頸木の言い間違えにしてはハッキリした物言いであった。
「本当にどうしたんだ?メイソン」
「朝起きてから、何か違和感を感じる」
「珍しいな。自衛隊の生活はまだ慣れないか?」
「自衛隊……」
その三文字でようやく、記憶の空いていたピースが埋まった。そうだ、今自分は海上自衛隊ヨコスカ基地所属、毒島メイソン理鶯海曹長である。
H歴五年、かつての言の葉党党首東方天乙統女は辞任を発表、中王区の壁は解体され、極端な女尊男卑制度は撤廃された。
かつて圧政を受けていた男性からの反発、攻撃も無かった訳では無いが、新総理大臣の人柄か、文字通り「言葉の力」か、想像よりもかなり、小さい被害に抑えられた。
H歴三年時点で既に軍は解体されていたものの、「真正ヒプノシスマイク」の完成や、東方天乙統女の政策には、諸外国への進出を匂わせる「平和」に対する危うさがあった。だからこそ、軍人として毒島メイソン理鶯はサバイバル生活や中王区の情報収集を行い、有事に備えてきたのだが、その危うさも、ほぼ無くなった。
憲法改正により、日本は完全に軍隊、そして真正ヒプノシスマイクの使用が禁じられた。代わりに設置されることとなったのが「自衛隊」である。
過去の文献に存在したその組織は、他国からの攻撃に対する防衛行為、自然災害時の救護活動のため、日々課業や訓練を行っている。
「まあ、かくいう私も未だに不思議な感覚がある。かつて軍に所属していた我々が、戦いではなく自衛のために力を奮っているというのは」
「そうだな。だが、気を抜くことはできない。小官らはあくまで何も起こさない為にいるのだ」
「ああ、それも承知だ。まあ、体調が優れないわけじゃなくてよかった」
「うん、心配をかけてすまないな」
「いやいいんだ。とはいえ、あんまり無理するなよ、メイソン。もう戦争は起こらないんだ」
「うん。分かっている」
それじゃあ、と、頸木は自身の訓練へと戻って行った。
「戦争は起こらない」
頸木の言葉を反芻する。素直に飲み込みたいが、何かが喉元で邪魔をする。無理やり飲み込もうとすると嘔吐反射でも起こしたかの様な不快感が込み上げてくる。
朝から感じているこの違和感は一体なんだろうかと、思考を巡らせる。
中央区の腐敗はほぼ正された。国を自らの手で変える事はできなかったが、それは差程重要なことでは無い。もっとも、左馬刻などからすれば面白くない話だろうが。
自衛隊への所属も国からの指示だった。元々軍へ所属していたものはその技術を戦いのためではなく、守護のために、平和のために役立ててほしいと。新総理大臣の意向であった。もちろん、通達があった時は悩んだが、自らの力を他人のために用いることは嫌いでは無い。むしろ、それを理鶯は有意義であるとさえ感じている。更に「自分は軍人である」という信念は失っていない。
しかし、やはり自らの信条と現在の状況は異なるのだ。なぜなら今の理鶯は「軍人として死ぬ」事はできないのだから。ではなぜ、現在の立場を受け入れたのか、そもそもなぜ軍人であることにこだわったのか、そこまで考えた所で朝礼の時間になり、一日の課業が始まった。
***
課業へ集中している間は、余計なことを考えずにいられた。あっという間に終礼を終えて、食事の時間だ。今日も「何事のない一日」が過ぎた。
金曜日の夜はカレーだ。自分で配膳をして、席を探す。周りを見渡すと頸木が食事をとっていた。
「頸木」
「ん?メイソンか」
「隣、良いだろうか?」
「ああ、座れ」
「失礼する」
理鶯も席につき、カレーを掬う。こうしてかつての仲間と肩を並べて食事をしていると、昔を思い出す。頸木も同じ事を考えていたようで、
「メイソンと食事をするとやはり、昔を思い出すな」
と零した。
「そうだな。しかし、カレーを共に食べたことはなかったかもしれない」
「ああ、言われてみればそうか。お前は海軍所属だったが私は元の部隊は違ったからな。どうだ?軍のカレーとどちらが美味い?」
「うん。どちらも美味だ。ただ、こちらの方が日本人向けの優しい味付けを感じる」
「そうか」
頸木は笑ってまたカレーを口に運ぶ。昔を思い出すとはいえ、これほど和やかに食事をした経験は片手で数える程も無い。ある意味新鮮な経験だった。
「ところでメイソン、朝は何か様子がおかしかったが解決したのか?」
「いや、まだ考えている途中だ」
「そうか」
「その事に関して、一つ頸木に質問しても良いだろうか?」
「ああ、構わない」
「感謝する。頸木、お前はなぜ自衛官となった?」
頸木がカレーを運ぶ手を止める。そして怪訝な顔を理鶯へ向けた。
「それは、どういう意味だ?」
「深い意味はない。ただ、頸木は中王区に対して強い敵対心があったと思っていた。その中王区からの要望に応えた事へ対する純粋な疑問だ」
理鶯は真っ直ぐと頸木の方を見つめていた。曇りのない瞳から、決してからかっている訳では無いことは分かる。そもそも、少し理鶯と過ごせば分かる事だが、毒島メイソン理鶯は誰に対しても実直に向き合う人間だ。しかし、それを加味してもなぜ今更この質問をしたのか、頸木には分からなかった。
「それはメイソン、お前にも言えることだろう。お前は?なぜ自衛官になった?」
ある意味逃げではあるが頸木は質問を質問で返した。しかし、頸木の言っていることは決して間違いではない。理鶯も立場としては、全く同じなのだ。自分の考えを、答えを他人に委ねているのであればそれこそ逃げだろう。
理鶯もそこは理解していたので、今一度思考を巡らせた。
「小官は……」
一度言葉につまるが、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「小官が敵対心を持っていたのは、かつての間違った中王区だ。内部腐敗が進み、武力の根絶された平和を謳ってはいるが、真の平和とは程遠い。そして少佐殿を投獄した、そんなかつての中王区だ」
「そうだな」
「今の中王区が掲げる理想は、平和は、小官らが目指すべきものに近いと感じている。だから、受け入れた。国からの要望を。小官が持つ技術や知識が平和に充てられるならば、これ程喜ばしいことは無い」
「そうか」
頸木は微笑みながら、カレーを一気に平らげた。
「私も同じ気持ちだ」
「……そうか」
「しかし、誰よりも軍の復活を願っていたお前が、そんな答えを出すとはな」
頸木の言葉に理鶯は首を傾げる。
「答え……なのだろうか」
「先程の言葉が答えじゃなかったら、一体何なんだ?」
「分からない。だが、やはりなにか引っかかる。すまないが、もう少しだけ問答に付き合ってもらえるだろうか」
「……すまないが、明日の休暇で帰省するための準備を進めたい。また今度付き合おう」
「そうか。こちらこそすまないな。ありがとう」
「お前も明日は休暇だろう。納得するまで考えるといいさ」
「うん。そうしよう」
頸木が席を立ち、理鶯は一人になった。まだ半分以上残っているカレーを口へ運びながら、頸木が言った言葉を思い出す。
「軍の復活を願っていた」
それは事実だ。だがそれは、決して戦争がしたかった訳では無い。民間人が死に怯えずに暮らすことができる、恒久的な平和を求めて、むしろ戦争を終わらせるために理鶯たちは戦い、戦うために軍の復活を望んでいたのだ。
「平和を求めるために戦う」
では求めていた平和が手に入った今、軍人にこだわる必要があるのだろうか。
ふと顔を上げる。和気あいあいとした雰囲気で食事をとる自衛官たちが目に映る。隊に属しながらも和やかな雰囲気で食事ができるのは、平和な証だ。しかし、昼間は全てのものが真剣な眼差しで訓練を受けていた。
「皆、良いソルジャーの顔をしている」
しみじみとそう思い、目を細める。同時に、ここにいる者たちを真の意味での軍人にはしたくない、とも思った。
それならば、自分にできることは。
***
翌朝、ラッパの音で目が覚めた。朝六時。目は覚めたが今日は休暇の日である。身支度を整えて、外出の用意をする。
隊舎を出てヨコハマの港を歩いていると見知った顔が向こうからタバコをふかしながら歩いてきた。
「よお、理鶯」
「左馬刻」
互いに名前を呼び合うと、そのまま横並びで歩き出す。最近は理鶯の休暇になると必ず港付近で理鶯と左馬刻が落ち合い、夜は銃兎も呼んで酒を飲む、というのがMTCの当たり前になりつつあった。
「どうだ。最近は」
「うん。変わりない。左馬刻は?」
「おう」
変わりない、という生返事だ。まさか左馬刻が「クソッタレな世界」と言わない日が来るとは誰も思いもしなかっただろう。
港を出て、行きつけの中華料理屋へ向かう。店へ行く途中、相変わらず道行く人から声をかけられる左馬刻を見て、理鶯は思わず笑みを浮かべた。
「んだよ」
「いや、相変わらず左馬刻は慕われていると思ってな。微笑ましく思っていた」
「そーかよ」
煩わしいのか気恥しいのか、左馬刻はぶっきらぼうに返事をする。しかし突然理鶯へ目線を合わせると、真面目な顔をして言った。
「んで、理鶯。微笑ましいとか言ってるわりにシケたツラしてんじゃねぇか」
「そうだろうか」
「ああ。俺様の目誤魔化そうと思ったって百万年早いぞ」
「そうか。流石の観察眼だな」
「うっせ。そんで?何があった」
「うん、少し考えていることがある」
「へぇ?」
「だが、これは銃兎も含め二人に聞いてもらいたい。また後で話しても良いだろうか」
「そうかよ。じゃ、夜だな」
「感謝する。なあ、左馬刻」
「おう」
「恒久的な平和とは存在すると思うか」
「んだ急に」
「気に触ったならすまない。だが、先程考えていると言ったことの答えをより強固にしておきたい」
「んなもんねぇだろ」
あまりの即答に理鶯は目をぱちくりさせる。
「なんで意外そうな顔してんだよ。平和。しかも永遠のだ?そんなのねぇって理鶯、てめぇが一番知ってんじゃねぇのか?」
「そう……だな」
そうだ、自分が一番よく知っている。知っていたのに、目を背けていた。これでは軍人失格だなと、笑いが込み上げてくる。今日はよく笑う日だ。そんな理鶯の様子を左馬刻は不思議そうに眺めていた。
***
「すみません、遅くなりました」
酒場ポートハーバーの扉が開いて、銃兎がやってきた。平和が実現してもなお、警察官の仕事は無くならないようだった。
「おせーぞ銃兎」
「うるさい、お前みたいに暇じゃないんですよ。おや、こんばんは。理鶯」
「うん。相変わらず忙しそうだな。銃兎」
「そうでも無いですよ。以前に比べればね。平和な世の中になったものです」
「今さっき暇じゃねぇつったの誰だよ」
「失礼、赤ワインいただけますか?」
「おい無視すんな」
三人揃うと途端に賑やかになった。酒を飲みながら、何気ない会話に花を咲かせる。程よく酔いが回ったところで左馬刻が昼間の話を切り出した。
「んで、理鶯。なんだよ聞いてもらいたいことって」
「うん。そうだな。昨日からずっと考えていたことがあった」
「ん?何の話です?」
銃兎にも簡単に、昼間の会話の流れを説明し、理鶯は話し始めた。
「ずっと考えていた。自衛官となった事が正しかったのか。間違ってはいないと思う。平和を維持するためには必要なことだ。しかし、その役割は必ずしも小官でなくてもいい」
「ですが、国はあなた方軍の人間に、自衛の為の技術を求めたのでしょう?それなら、その役割は貴方にしか務まらない」
「うん。だが技術を伝える所までだ。その先は、これからは多くの人間が小官らの代わりを担えるだろう」
「それは、そうかもしれませんね」
「昨日、彼らの様子を見て思ったのだ。彼らは良い目をしていた。そんな彼らの目を曇らせたくはない。役割としての軍人にしたくはないと」
酒を一口含み、理鶯は続けた。
「この国は平和を手にした。だが海を渡れば簡単にその平和は崩れ去る。小官はそれを無視することは……いや、違うな。それを無視してはいけない」
「理鶯……」
「左馬刻、銃兎」
理鶯は二人の方へ向き直ると真っ直ぐ見つめて決意を口にした。
「国を出ようと思う」
左馬刻も銃兎も驚かなかった。ただ静かに理鶯の次の言葉を待っている。
「国を守るのは彼らに、そして二人に任せたい。小官の手は既に汚れきっている。ならば小官がすべきは自衛では無い。戦争を止める、と大それたことは言わないが、せめて戦争の手がこの国へ及ぶことを防ぐ。
これは少なからず、小官のエゴだ。結局の所、小官は軍人として死にたいのだ」
そこまで喋って、理鶯は顔を崩した。
「笑うか?」
そう問いかけると左馬刻は鼻で笑った。
「はっ、笑うか?だと?その問いに対しては笑ってやるよ馬鹿にすんな」
「ええ、どうやら思っていたよりも理鶯からの我々の信頼は薄かった様ですねぇ」
「そんな事はない。貴殿らは信頼に足る大切な仲間だ」
「だったらオレらがてめぇの覚悟聞いて笑う様なクソ野郎じゃないことくらい知ってるよな?らしくねぇ事ばっかり言いやがって」
左馬刻はタバコに火をつけ、煙を吸って吐く。
「むしろ今まで大人しく国に従ってたのが不思議だったんだ」
「ええ。そんなタマじゃないだろ。お前らは」
「違いねぇな」
左馬刻と銃兎は笑って、酒に口をつける。
「っつーわけだ。理鶯。好きにやれ」
「うん。ありがとう。感謝する」
そうして一瞬静寂が流れる。次に口を開いたのは左馬刻だった。
「っし、仲間の門出だ。てめぇら祝杯あげんぞ」
「ははっ、こういうの久しぶりですね」
「うん。そうだな」
三人でグラスを掲げて一気に飲み干す。わざわざ仲間が危険を犯しに行くというのに、心からの笑顔を浮かべる。それが覚悟あっての事ならば、ヨコハマの三人にとってはそれが当たり前なのだ。
「なあ、左馬刻、銃兎。らしくないついでにもう一つだけ良いか?」
「なんだよ」
「構いませんよ」
「貴殿らは今、幸せか?」
思わぬ質問に二人は顔を見合わせる。
「そうですねぇ」
先に銃兎がタバコに火をつけながら答えた。
「ヤクがほぼ撲滅されて、中王区内部のゴミ掃除も終わった。それでも、犯罪は無くなりませんがね、まあ、以前よりは多少マシになったんじゃないですかね」
そう言って、銃兎は煙を吐き出す。同じタイミングで煙を吸って、左馬刻も答える。
「まあな。アイツがつくった世の中だ。中には生きづらいやつもいんだろうがよ、少し前よりはマシだな」
「そうか」
その一言が聞けて安心したのか、理鶯は空になったグラスを握りしめて再び決意を滲ませた。
「本物の貴殿らにも、いつかそう言わせられる世界にしなくてはな」
「?それは一体どういう……、おい、りおう?」
ぐにゃりと視界が歪む。左馬刻と銃兎が自分を呼ぶ声がどんどん遠くなって、視界が暗くなる、かと思うと瞼の裏に強い光を感じ、再び目を開けると、左馬刻の事務所の天井であった。
目が覚めた。どうやら、長い夢を見ていたらしい。スマホを確認するとH歴は三年。隣には左馬刻と銃兎が横たわっていた。
先程の夢を思い返す。自分が軍人以外での選択肢を取ることなどない。仮に取ったとして、結局いずれ軍人としての道へ戻るだろう。その矜恃は決して無くさない。信念も信条も裏切らない。
改めて、未だ目覚めぬ二人の戦友を見つめながら、理鶯は決意を口にするのであった。
「小官は軍人だ」
side SAMATOKI
夢を見た。夢だと分かったのは自分自身を見つめていたからだ。ロッキングチェアに腰かけて、酒とタバコを手にしながら、まるで映画鑑賞をする様に、自分自身を眺める。
映し出されるのはあまり思い出したくないシーンばかりだ。母親が自殺した日、妹に惨状を見せないように必死に誤魔化した。
ずっと信じていた相棒から突然一方的に決別の言葉を突きつけられた日。泣きじゃくる後輩を窘めながら自分も一人部屋で静かに涙を流した。
目をかけていた後輩から、大切なものを奪われそうになった日。信頼が怒りと憎悪へ変貌した。
そしてずっと大切にしていたものが、すっかり変わった姿で目の前に現れた日……
生まれてからずっと世界はクソッタレだ。人生は平等じゃない。学ぼうとしなくてもその現実は嫌という程刷り込まれた。お陰でむこう二十五年。人生の八割は怒りが占めている気がする。改めて冷静に過去を眺めていると、本当に酷いなといっそ笑えてくる。どうせゴミみたいな世界だ。もういっそこのまま夢に浸かっていようか?
……などとらしくない事を考えた所で目が覚めた。
スマホを確認する。朝七時、恐ろしく健康的な時間帯だ。珈琲を入れるためにリビングルームへ向かう。
「あれ?お兄ちゃんもう起きたの?」
その姿を見て頭が真っ白になる。まだ夢の続きだろうか。
「合歓……?」
大切な妹が、あの日冷たい目をして出ていった妹が、当たり前のように朝食の準備をしている。
「どうしたのお兄ちゃん?」
「合歓、なんで……」
「なんでって、昨日の夜帰るって言ったじゃない。忘れてた?」
「そうじゃなくてよ……」
「珍しく早く寝てたもんね。疲れてた?」
「いや昨日は何も……」
何も無い、と言いかけてはっとする。昨日は「何も無かった」。町内会の手伝いをして行きつけの店でチャーハンを食べて、酒を飲んで寝た。昨日だけではない。一昨日も、一週間前も、最近はずっと「何も無い」。少なくとも、日常茶飯事だった暴力沙汰に巻き込まれた覚えがないのだ。
目の前の妹を見る。不思議そうな顔をして、こちらを見ている、それこそ目に入れても痛くない妹である。そういえば、近頃は定期的に帰ってくる様になった。
「何も無い」が当たり前になって、妹がいる生活。そんな、ずっと求めていた生活なのに、違和感を覚えた。思わず合歓のことを抱きしめる。
「わ!ちょっと、お兄ちゃん!?」
体温が伝わる。夢にしてはリアルだった。ならば、これは現実か。いや、この際どちらでも良い。ずっと求めていたものが手に入ったのだ。もうしばらく、このままでいたい。
「本当にどうしたのお兄ちゃん?もう、苦しいってば」
「あ、ああ、すまねぇ」
はっとして手を解く。合歓は少し照れくさそうにしながら、左馬刻へ微笑んだ。
「もう、まだ寝惚けてるの?でも、お兄ちゃんが平和に暮らせてそうで良かった。総理大臣としては市民の平和が一番ですからね」
「は?総理大臣?」
思わず聞き返してしまった。合歓が総理大臣?だって総理といえばあの……と、東方天乙統女の顔を思い浮かべた所で思い出した。それは二年前の話だ。現在の新生言の葉党党首、内閣総理大臣は碧棺合歓、目の前にいる左馬刻の妹である。
平和を望み、正しき政治を望んだ彼女の手によって、言の葉党の内部腐敗は取り除かれ、中王区の壁は取り払われた。
完全に国から武力は根絶され、残ったのは自衛のための組織と、ライセンス制となったヒプノシスマイクのみだ。正しく力を使えるもののみが、争いではなく平和のために力を使う世界。そんな理想を合歓はおよそ一年で達成してみせた。
左馬刻はそんな妹を誇らしく思いながらも、自らの手で理想を実現できなかったことへの歯がゆさを抱いている。合歓からは「お兄ちゃんたちが助けてくれたから実現できた」と言われてはいるが、それでも兄として、それ以前に一人の男として不甲斐なさを感じずにはいられらない。
そもそも「中王区」はまだ残っているのだ。通常のディビジョンとそれ程差はなくなったとはいえ、左馬刻の当初の目的は完全には達成されなかった。とはいえ、やはり大切な妹が笑って暮らしている世界は、以前よりはマシだと思えるようになった。
朝食の鯖の塩焼きに箸を入れながら、他愛の無い話に花を咲かせる。と言っても、ほとんど喋っているのは合歓で、左馬刻は嬉しそうに生返事を返すだけだが。
「というわけで、今日は買い物付き合ってもらうからね」
「つかよぉ、合歓。お前いつも思うんだが、仮にも国のトップだろうが。護衛とか付いてなくて文句言われねぇのか」
「護衛の人ならいるよ」
「は?どこに」
「ここに」
そう言って、合歓は左馬刻を指さした。
「何かあっても守ってくれるでしょ?お兄ちゃん」
「おう、たりめぇだ」
照れくさそうにそっぽを向きながら笑顔の妹へ返事を返す。立場が変わっても合歓は合歓だった。
「まあ、実際のところ、言の葉党のSPが少し離れたところから見張ってくれてるんだけどね」
「は!?」
今もこの食事風景を監視されているということだろうか。左馬刻は急に不機嫌になり、立ち上がるとカーテンを閉めた。
「ちょっとお兄ちゃん?」
「んなもん必要ねーだろ。俺様がいりゃ十分だ」
「そうは言ってもねぇ」
「つか人様のプライベート勝手に覗いてんじゃねぇよ」
左馬刻はチッと舌打ちをして米と鯖をかき込むと席を立ち上がって部屋へ戻ってしまった。しかし、再びリビングルームへ戻ってくると唖然としている合歓に対して
「おい」
と一声かけ、
「九時な」
と、ぶっきらぼうに呟いてまた部屋へ戻って行った。
***
町へ繰り出すと、沢山の人から声をかけられた。
「あ!左馬刻さんだ!この前はありがとう!」
「おう」
「左馬刻さーん、って今日は妹さんも一緒なんだね」
「おう」
「左馬刻!妹さんに迷惑かけるんじゃないぞ!」
「うっせ」
一応変装はするが、さすがに兄妹で歩くと目立つ。首相がこうして歩いていても普通に声を掛けられる状況が異常ではあるが、合歓にとってはこれが心地よいらしい。危機感の薄い妹を守らねばと、左馬刻は気が気ではなかった。タバコに火を付けようとすると合歓からライターを取り上げられた。
「おい」
「お兄ちゃん、タバコは体に悪いからやめてって言ってるよね」
「いやでもな、合歓」
「あと路上喫煙は禁止よ」
「……おう」
家の中だと流石に妹に煙を吸わせる訳にはいかないので控えていたのだが、外に出れば大丈夫だと思っていた。珍しく朝から一本も吸っていない。ヤニ切れを起こす前にどうにか合歓の目を盗んで吸わなくては。
そんなことを左馬刻が考えていると、合歓はアパレルショップの前で立ち止まった。
「お兄ちゃん、ここのお店見ていい?」
「おう」
合歓は左馬刻の返事を確認すると、店頭に並んでいるマネキンを眺め、その隣に陳列された服を手に取った。「今のうちに軽く吸ってくるか」と、左馬刻が後ずさりした時、突然横から男がぶつかってきた。
「おい、気ぃつけろや」
左馬刻がドスを効かせた声で注意するも、男は左馬刻へ目もくれずそのまま走り去ってしまった。
「んだあいつ……」
「どうしたのお兄ちゃん?」
「いや、なんでもねぇ。気にすん「あいつを捕まえて!!ひったくりよ!!」」
左馬刻の言葉を遮って、女性の叫びが聞こえた。
「ちっ……あのカメムシ野郎……」
瞬間、左馬刻は先程走り去って行った男の方へ走り出した。
「ちょっ、お兄ちゃん」
「合歓はそこで待ってろ」
言うが早いか、あっと言う間に合歓の視線から外れる。
さて、幸いにも男はまだあまり遠くまで行っていなかったようだ。疲労か油断か、先程より少し速度が落ちている。
「おいゴミ虫!待ちやがれ」
怒声を上げながら追いかける左馬刻に気がついた男は、先程より速度を上げた。しかし、距離を離せたのもつかの間、あっと言う間に左馬刻に取り押さえられてしまう。
「クソっ……離せ」
「離せっつわれて離す馬鹿がどこにいんだあぁ?」
男がもがき続けると、不意に、男が深く被っていた帽子が地面に落ちた。
「……っ、お前は……」
「は?……ってカシラ……じゃねぇ、碧棺左馬刻」
左馬刻が取り押さえていた男は、火貂組の左馬刻の舎弟の一人だった。
「てめぇ何つまんねぇことしてんだすり潰して犬の餌にすんぞ」
普通の人間であれば、縮み上がりそこで観念し、大人しくなるはずだった。大抵の舎弟もそうだ。この男も、そんなありふれた一人だったはずだ。しかし、なにやら様子が違った。
「うるせぇ!昔のアンタならつゆ知らず、裏切り者が何言っても怖くねぇんだよ!!」
「裏切りだ……?」
左馬刻にとって地雷の様な言葉だ。幾度となく経験してきた。だが自分がそれを犯すなど、有り得ない。あってはならない。
「てめぇもう一回言ってみろ」
舎弟の胸ぐらを掴んで凄む。しかし威圧に屈する事無く、舎弟は反抗的な態度をとった。
「何度だって言ってやる。この裏切り者が」
「……ってめぇ」
拳を握り振りかぶる。しかしその手を後ろから掴まれて振り下ろすことはできなかった。
「はいストップストップストップ」
聞き馴染みのある高音へ、左馬刻は舎弟を睨みつけながら抵抗する。
「離せ銃兎」
「離せと言われて離すバカがどこにいますか。お前がやりすぎる前に、そちらの馬鹿を引き渡してもらいますよ」
そう言って、銃兎が左馬刻の手を離すと、左馬刻も行き場を失った拳を解いて、同時に舎弟の胸元も離した。
「お兄ちゃん!」
合歓が駆け寄ってきたが、左馬刻はそれどころでは無かった。「裏切り者」その言葉が重く左馬刻の胸へ突き刺さる。そしてその言葉はそのまま、ずっと考えない様にしていた事実を、左馬刻の胸の奥から、抉り出した。
「火貂組はどうなった?」
思い返そうとすると、頭痛がする。しかしその記憶は、確かに頭の奥へと焼き付いていた。
火貂組は解体された。いや、火貂組だけではない。国に在る全ての暴力団組織が解体された。他ならぬ、左馬刻が最も愛する妹の手によって。
内閣総理大臣、碧棺合歓は平和な世界を望んだ。そこには争いや暴力があってはならない。まず初めに行ったのは、内部腐敗の是正、そして次に行ったのは暴力団組織の解体であった。
戦後の不安定な時期、警察も政府も頼れない可能性がある中で、止むを得ず、反社会組織へ頼らざるを得ない状況も少なからずあったのだろう。火貂組などはその代表的な例だ。反社会勢力でありながら、それこそ碧棺左馬刻は地域住民から信頼されている。
しかし、戦争はもう起こらない、起こさせない。政府も警察も正しい姿へと導いた。そうなれば、むしろ暴力を生業とする組織は、合歓の理想の体現には不必要な存在、というよりもあってはならない存在なのだ。薬物や違法マイクなどが世に出回るのも、主に暴力団組織が発端だ。それならば、そんな組織は解体してしまうに越したことはない。もちろん、例外はなかった。とはいえ、火貂組は薬物の取引はご法度、違法マイクの取引も行っていなかった。更に地域住民からの信頼も厚く、若頭である碧棺左馬刻にはディビジョンラップバトルでの功績もあった。これらを加味して、情状酌量の余地有りとされた火貂組には選択肢が与えられた。
「組を自主的に解散すれば、属する組員には補償金と更生の機会を与える」
火貂組組長、火貂退紅はこれを拒否。自らはかつての特別刑務所へ収監される事を受け入れた。幹部や反抗した組員も刑務所へ収監。逃げ延びた組員は消息をたち、そのまま火貂組は崩壊を遂げた。
それではなぜ、碧棺左馬刻は今もこうして表立って活動できているのか。
答えは、組を裏切ったからだ。
火貂組解体の一日前、合歓が自分の前に現れた。話をした。それぞれが目指す理想について。そして左馬刻は、合歓の理想を受け入れた。それが組を裏切ることとなっても。
この記憶は紛れもなく事実だ。しかし、なぜ当時自分がその様な行動をとったのか、今の左馬刻には理解できなかった。まるで自分が自分じゃないような感覚だ。頭痛がする。
それでも一度は取ってしまった行動だ。過去を取り消すことはできない。
「お兄ちゃん……?」
頭を抱える兄を合歓は心配そうに見つめる。
「合歓、頼みがある」
「何……?」
「オヤジに会わせてくれ」
「それは……許可できない」
「頼む……」
「駄目。貴方が元火貂組若頭である以上、組の復活をする危険を少しでも孕んでいる以上、それを許可することはできない」
先程まで、無邪気に買い物を楽しんでいた、どこにでもいる普通の少女の目が、国を治める党首の目へと変わった。しかしすぐにまた一人の少女の目に戻る。
「ねぇ、お兄ちゃん、今日はもう帰ろう」
「悪ぃ……少し一人にさせてくれ」
「お兄ちゃん!」
よろけて立ち去る兄を追いかけようとした合歓を、銃兎が止めた。先程のひったくり犯を既に引き渡してきたらしい。
「失礼、行政観察局副局長殿……いえ、今は内閣総理大臣でしたね」
「合歓で結構です。入間巡査部長……いえ、入間警部補」
「おや、私の階級まで覚えていただいていたとは」
「もちろんです、実兄の仲間の方ですから。入間さん」
「はい」
「兄をお願いしてもよろしいですか。これはただの碧棺合歓として、お願いです」
「ええ、もちろんですよ。合歓さん」
そうして銃兎は左馬刻を追いかけた。
左馬刻は港のかつてコンテナヤードのあった場所でタバコを吹かしていた。違法取引現場を作らないため、見晴らしの悪いコンテナヤードなども解体の対象となった。今では絶好の散歩コースとなっている。そんな場所で黄昏てタバコを吸う男はいかにもミスマッチな風景であった。
「ったく、逃げ足の早いやつだな」
「何しに来た」
不機嫌そうに銃兎の事を睨みつける。銃兎もタバコを取りだし、火をつける。
「これはこれは、随分な挨拶じゃないか?」
「一人にしろって言ったはずだ。うさちゃんの耳は飾りか?」
「俺に当たるな。まあ、軽口が叩けるなら大丈夫だな」
「ちっ」
心が折れている訳では無い。ただ、自分のとった行動が不可解なだけだ。考えるのは苦手だった。だから話す必要がある。他の誰でもだめだ。誰でもない、自分が裏切る事になった本人と。火貂退紅と。
「銃兎、お前特別刑務所の場所分かるよな?」
「無茶言うな。警備を厚くする場所が限られたせいで以前よりセキュリティが強固になってる」
「頼む」
ここまでしおらしい左馬刻を見たのはいつ以来だったか。どうもこの左馬刻相手では調子が狂う。
「はぁ……三分だけだ。三分だけならなんとか。それ以上は無理です」
「おぅ。充分だ」
***
銃兎の車で警視庁へ。そして特別刑務所のある中王区の施設へと向かう。施設入口の警備員が二人に気が付くと声をかけた。銃兎は自身のエンブレムを掲げて淡々と名乗った。
「ヨコハマ署組織犯罪対策部警部補入間銃兎です。
火貂組幹部の残党を確保しましたので引渡しに参りました」
「失礼、連絡は何も受けていませんが?」
「おや、連絡が滞っていた様ですね。こちら内閣総理大臣からの許可書となります」
「総理から?」
警備員は訝しみながら許可書へ目を通す。そこには間違いなく、碧棺合歓のサインと捺印があった。
「確かに総理のものですね。しかし、上へ確認を取りますので、少し待っていただけますか?」
「そうしたいのは山々ですがね、こちらも忙しいもので。一度コイツを豚箱へ連れて行っても?この中ほど安全な場所は無いでしょう」
「しかし……」
「おや、信じられませんか?お言葉ですが、こうしている間にこのクズがここから逃げ出そうとしたらどうします?手錠のみの状態で警察官一人が手網を握っている、この状況ほど危ういものがないのは想像に容易いと思いますが?」
警備員は若い言の葉党党員であった。最近配属されたのだろう。銃兎の脅しに怯えた顔をしている。
「し、失礼致しました。どうぞ中へ」
「ご理解頂き、何よりです。ほら、とっとと歩け」
「クソっ……後で覚えとけよ……」
中へ入り、二人きりになっても会話はない。中へ簡単に入れたのは、たまたまこの時間帯の配置が若い党員だという事を知っていたからだ。あの様な偽物の書類、普通なら一瞬でバレる。あの警備員が上へ確認を取れば、取らなくても監視カメラからすぐに情報が行って警報がなるだろう。持って三分だ。だから少しでもバレる時間を遅らせるために余計な会話はしなかった。
「ここだ」
ある監獄の前で急に銃兎は立ち止まった。
「今更何しにきやがった」
低く響く、しわがれた、しかしかつての威光はそのままのドスの効いた声。
火貂組元組長、火貂退紅だ。思っていたよりも元気そうな姿に少し安堵する。
「オヤジ……」
「はっ、今のてめぇにそう呼ばれると虫唾が走る。何しにきやがった。とっとと失せろ」
「話に来た」
左馬刻が檻を隔てて床に座り込む。
「なんで組を解体しなかった」
単刀直入に聞く。無粋な質問だと分かっていながら、聞かずにはいられなかった。
「はっ……ははははは」
火貂退紅は鼻から笑いを漏らす。しかし突然笑いを止めると激昂し、檻へ手をかけた。
「んなもん誇り以外に何がある。俺は腐っても組織の人間だ。そこでしか生きられない奴らがいることを知ってる。てめぇも、んな事は重々承知だと思ってたが俺の目は節穴だったみてぇだな。二度は言わねぇ。失せろ。そんでその面二度と見せんな」
突如、監獄内でサイレンが鳴る。どうやら不法侵入がバレたらしい。
「左馬刻、逃げるぞ」
「……」
「左馬刻!」
「……おう。……オヤジ」
「なんだ」
「悪かった」
火貂退紅は答えなかった。左馬刻は隠し通路へ、銃兎はそのまま入口へと向かった。
「そこでしか生きられない人間がいる」
そんな事、親からごめんなさいを習うよりも先に知ってしまった。そうでなければ愚連隊など率いない。自分もとっくにそっち側だったのに、切望した妹が笑って暮らせる世界に、浮き足立っていたとでも言うのか。
隠し通路は下水道と繋がっていた。下水道の通路の一角に明かりを見つけた。誰かがいる様だ。耳をそばだてる。そこにいたのは、かつて共にしのぎを削った舎弟たちだった。元々チンピラ風情だったが、今は更にスス汚れている。それでも談笑している。表の世界では不貞腐れるしかない、影で生きるものたち。左馬刻はその姿を見て静かに決意を固めた。
***
家へもどると、置き手紙があった。合歓からだ。そこには、しっかりご飯を食べること、タバコと酒は程々にすること、そして、今の碧棺左馬刻が間違っていないことが書かれていた。
「おふくろかよ……」
思わず頬を緩ませる。最近自慢の妹はますます、尊敬する母親に似てきた。もう、あの時の、ただ守ってやるだけの妹では無いのだ。
「悪ぃ合歓。でも、悪い様にはしねぇ。お前を泣かせることは絶対にしねぇから」
そう呟いて、左馬刻は今の仲間たちに電話をかけた。
***
中王区外れの元倉庫街、ヨコハマの三人は集まっていた。
「銃兎、理鶯、本当にいいんだな?」
「くどいんだよ」
「問題ない」
作戦の決行日、今一度左馬刻は銃兎と理鶯へ声をかける。警察官である銃兎は元より、今は理鶯も自衛官、国の人間だ。今から行うのはほぼクーデターと遜色ない。火貂退紅と元火貂組組員を刑務所から解放する。そして、火貂組を復活させる。もちろん、今まで通り表立って活動することはできないだろう。しかし、下水道に隠れて生きている様な、日影でしか生きられない人間は、はみ出しものは、どんなに平和な世界が実現しても、必ず存在するのだ。そして左馬刻は、既にそちら側の人間だ。
あの後、もう一度だけ合歓と話すことができた。互いの理想について話し合った。今度は、相入れることはできなかった。思えば二年前、既に確認しあっていたのだ。お互いが敵として立ちはだかっても、それを覚悟の上で戦い続けると。それすら忘れて妹の理想を全肯定した。大馬鹿者は自分だ。過去は取り戻せない、しかし未来は多少なりとも変えられる。どこまで行っても世界は不平等だ。ならば、とことん足掻いてやろうじゃないか。そしてクソッタレな世界が、自分の手で少しはマシな世界に変えられたら、その時は左馬刻の勝ちだ。今日がその一歩目だ。例え躓いても、何度でも踏み出してやろう。隣にいるふざけた仲間たちと共に。
「てめぇら行くぞ」
一歩目を踏み出した瞬間、奈落へ落ちる感覚がして、ハッとすると見知った天井が目に入った。
「左馬刻、起きたか」
「おう」
理鶯から水を手渡される。コップのひんやりとした完食が伝わる。今度こそ現実の様だ。
左馬刻は水を飲み干し、先程まで見ていた夢を思い返す。
酷い夢の内容に思わず笑いだす。そんな左馬刻の様子に、理鶯も釣られて口角を上げる。
「酷ぇ夢だった」
「うん。そうだな」
俺たちに裏切りは無しだ。MTCだけの話では無い。もう左馬刻には人との繋がりで雁字搦めになっている。それでもそれらを全て拾って、理想を体現する。それがどんなに地獄だろうと。だってこの世界はクソッタレなのだから。
side.Juto
「……い……せんぱい?先輩!起きてください!」
昼下がり、ヨコハマ署の敷地内。中庭のベンチ。潮風が通り抜ける午後十三時過ぎ。入間銃兎は後輩の声で微睡みから抜け出す。昼食後少し一服して、戻ろうと思っていたのだが、思いの外長い休憩となってしまっていた様だ。
「失礼、時間ですね。行きましょうか」
「はい」
車に乗りこみ、町にパトロールへと繰り出す。パトカーを見て、渡ろうとしていた点滅信号で慌てて止まる会社員や、歩道を走っていた自転車が、突然自転車から降りて、歩き始める。
別にこちらも、違法行為全てで逮捕する、という訳でもないのだが、自分たちを見て少しでもルールを遵守しようという気持ちが芽生える人々を見るのは嫌いではなかった。
「平和ですね」
助手席に座る後輩が呟く。通常であれば部下へ運転させるものなのだろうが、他人へハンドルを握らせるのはなんとなく落ち着かなかった。
「そうですね」
周囲に目を光らせているとはいえ、これではただのドライブだ。
「先輩、あの約束忘れてないですよね?」
「はい?約束?」
「一週間何事も無ければ昼飯奢ってくれるっていう賭けですよ」
「ああ、そういえばそんな約束しましたっけねぇ」
確かに五日前、そんな賭けを持ちかけられた気がする。
くだらない事を言っていないで集中しろ、と言ったはずだったが約束としてカウントされていたらしい。
「もう特に何も無い日は五日連続、今日何も無ければリーチですよ」
「あのねぇ……」
むしろ自分が若い時は一つでもホシを上げて出世の足がかりにしたかったものだが、時代は変わったということだろうか。
「ひとまず、パトロールへ集中しなさい。そんなくだらない事のせいで犯罪を見逃していたら、問答無用で報告しますからね」
「うっ……承知しました……」
「分かればよろしいんですよ」
やたら素直な反応が新鮮である。そう銃兎は後輩へ注意喚起したものの、本当に何事もないまま一日が終わってしまった。
署へ戻って書類仕事を片付けて、帰宅する。仕事をしてもしても終わらなかった二年前から比べると本当に平和になってしまったのだと痛感する。
家へ着く一歩手前、スマホへ電話が入る。左馬刻からだった。
「はい。どうしました?」
「おう銃兎。仕事終わったか」
「ええ、もうまもなく家へ着くところでしたよ」
「そうかよ。んじゃあ、飲みに来いや。いつもの酒場な」
「また勝手な……ってああ、今日理鶯が休暇の日でしたか」
「そういうこった。じゃあ早く来いよ」
理鶯が休みの日の夜は三人で酒を飲む。最近のMTCの当たり前になりつつあった。以前であれば、銃兎以外は基本的には呼び出せばすぐに集合できていたのだが最近はそうもいかなくなってしまった。だからせめて、集まれる時は集まって何気ない会話をしようと、決めたわけではないが自然とそうなっていた。
ポートハーバーの扉を開ける。
「すみません、遅くなりました」
「おせーぞ銃兎」
「うるさい、お前みたいに暇じゃないんですよ。おや、こんばんは。理鶯」
「うん。相変わらず忙しそうだな銃兎」
「そうでもないですよ。以前に比べればね。平和な世の中になったものです」
「今さっき暇じゃねえっつったの誰だよ」
「失礼、赤ワインいただけますか?」
「おい無視すんな」
三人揃うと途端に賑やかになる。静かに過ごす事が好きな銃兎もこの賑やかさは心地よかった。グラスを交わして、酒を喉へ流し込む。こんな穏やかに酒が飲める日が来るとは想像していなかっただろう。
「銃兎、最近はどうだ?」
理鶯が尋ねる。
「ええ、ほんとうに「何も無い」ですね。多少の交通違反とか軽犯罪は腐るほどありますけど。暴力団組織も解体されて、うちの部は閑古鳥が鳴いてます。せっかく階級も上がったというのにね」
「ちっ、余計な事喋んな」
組を潰された側としては思うところがある様で、左馬刻は明らかに不機嫌な様子を見せた。
「でもその組を潰された事で、てめぇもシノギ削りづらくなったんじゃねぇのか」
「警察の仕事をシノギとか言うな」
「はっ、てめぇのそれは立派なシノギだろうが」
「だが、銃兎にとってはそうせざるを得ない状況だったのだろう。反対に、薬物が完全に取り締まられた今、リスクを犯すメリットもほとんど無くなってしまっただろうしな」
「ええ、理鶯の言う通りです」
薬物は撲滅された。それも徹底的に。H歴五年、かつての言の葉党党首東方天乙統女は辞任を発表。中王区の壁は解体され、極端な女尊男卑制度は撤廃された。新生言の葉党党首、並びに内閣総理大臣は理想的な平和の実現のため、中王区の内部腐敗、そして暴力団組織を壊滅させた。それは違法マイクや暴力、そして、世の中へ薬物が蔓延する原因を潰す為だった。裏取引などが起こりづらくなる様、国中の港付近に設置されたコンテナヤードの様な見晴らしの悪い場所なども改正され、代わりに監視カメラの量を増やし、なるべく国全体へ目が行き届く様にという徹底ぶりだった。
これには薬物を強く憎んでいた銃兎も脱帽せざるを得なかった。自分が成し遂げたかった事をたった一年で、十も歳下の少女が行ってしまったのだから。
その結果、組織犯罪対策部はほぼ役割を奪われた様なものだが、それでもなお警察署に配置されているのは、再び組織が復活したり、それにより薬物が世に蔓延ったりする危険が無くならないからだろう。人間がどうしようも無い生き物だと、嫌でも実感する。
現に、自分は身体に良くないことを知りながら、酒を飲み、煙草を吸っているのだ。薬物に手を出すものを理解したくは無いが、まあ、彼らにとってはあれが自分にとっての酒や煙草の様なものだったのだろうと思案する。本当に、微塵も理解したくはないが。
余計な事を考えてしまったせいか、途端に酒を飲む気が無くなり、水を貰うことにした。
「なんだ銃兎。もう終わりかよ」
「ええ、まあ。明日も仕事なのでね」
「んだよつまんねぇな」
「左馬刻、酒は無理に勧めるものではない。人によって体質、体調には差異があるからな」
「わぁーってるよ。もう終わっちまうのがつまんねぇなっつったんだ」
「おや、随分可愛らしいことを言いますね」
「うん。どうした左馬刻。酔ったか」
「うっせぇよ」
軽口を叩き合う。こんな日がずっと続けば良いと、ほとんど酔っていないはずの頭で、この空気に酔いしれる。しかし、明日が仕事というのも事実だ。大丈夫、この国は、平和になったのだ。また数日経てば同じ様に酒を飲み仲間と語り合える。
「では、少し早いですが私は先に失礼しますよ」
「おう」
「うん。気をつけてな」
店を出て繁華街を歩く。本当に、笑顔の人が増えた。これまで汚いやり方を数え切れないほど使ってきた、とはいえ警察官の仕事に誇りは持っている。一警察官としてはやはり嬉しいものだった。
今夜はやけに浮き足立っている気がする。いや、実際のところ浮き足立っていたのだろう。まだなんとなく真っ直ぐ帰る気にはならずに、路地へ入り、一服だけすることにした。火をつけて、煙を吸って吐き出す。やはり、もう一杯くらいは付き合えばよかったか、などと考えていると路地の奥からうめき声が聞こえた。
「……なんだ?」
ただの酔っぱらいや、体調不良者ならば救急車を呼んで終わりだ。だが少し、嫌な予感がした。そしてそう言う時の予感というのは不本意ながら当たってしまうのだ。
倒れていたのは二十代前半程の男だった。
「おい、大丈夫か?」
何かの病気だろうか。酒を飲んだ様子はない。しかし、病院だとして、こんな路地裏へ来るのはおかしい。それに、様子も変だ。うわ言を繰り返し、恍惚な表情を浮かべたかと思えば今度は尋常ではないうめき声を上げる。これは、
「オーバードーズ……」
嫌という程見た事のある光景だった。よく見ると近くには粉末の入った袋とライターが落ちている。先程までの幸福感とは一転、血の気が引いて地獄へ転がり落ちる様な感覚がした。
「んでこんなもんがまだあんだよ……」
しかしまだ頭は冷静だった。救急車を呼び、警察へ連絡する。恐らく薬物と思われるそれを、銃兎は指紋を付けないようにハンカチを使って胸元へ入れた。
***
仕事を終えたと思ったのにまた警察署へと戻ってきてしまった。路地裏で手に入れたものを鑑識へ回し、先程の男の様子を病院へ電話し、確認する。どうやら、命に別状はないらしい。一旦は安心して帰宅した。
翌日、出社すると例の後輩とエレベーターで一緒になった。
「入間さんおはようございます」
「ええ、おはようございます。そうだ、以前言っていた賭けですが、私の勝ちの様ですよ?」
「え?」
「申し訳ありませんが、今日は一人で行動します。そちらの仕事は任せましたよ」
「あ、はい?」
何があったのか分からないといった様子で、後輩は返事をした。
病院へ着き、病室へ通される。意外にも昨日の男はベッドの上で大人しくしていた。男はこちらへ気が付くと怪訝な顔を向けた。
「なんだテメェ」
「昨晩貴方を保護した警察官ですよ」
そう言ってエンブレムを見せる。男は状況を察したのか焦りと怒りの混ざりあった表情になった。
「テメェがっ……余計なことしやがって……」
「これはこれは、命の恩人に対して随分な態度ですねぇ」
「何が恩人だ。こんな世界ならくたばった方がマシだ」
「以前の方が良かったとでも?まあ、良いでしょう。人生相談に来た訳では無いです。手っ取り早く行きましょう」
顎を上げて煽る様な態度を取っていた銃兎だったが、顎を引き、途端に怒りを滲ませる。
「てめぇの横に転がっていたブツは、どこで手に入れた?」
「言うわけねぇだろ」
「言え。俺の前で黙秘権があると思ってんのか」
「思うね。ここは病院だ。ご丁寧にもあんたが運び込んでくれたおかげでね」
「ちっ……てめぇ……」
ここが病院であるという事実が銃兎の怒鳴り声を抑えていたが、思わず銃兎は男の胸ぐらを掴む。
「ぐっ……っ、はは……ここにいる以上お前は何も手出しできねぇ。俺はか弱い患者様だからな。なんなら今この状況で助けを呼べば悪者はどっちだ?」
そう言って、男はナースコールを掴んでみせる。銃兎はもう一度舌打ちをして、男の胸ぐらを離すと、一度冷静に息を吐いた。
「まあいいです。話す気になったらいつでも話してください」
「はっ、一昨日来やがれ」
患者の方から情報が引き出せないのはよくある事だ。だが必ず薬物の出処は掴む。どんな手段を用いても。しかし、以前とは違って、表立った怪しい組織などは存在していない。一度署に戻り、鑑識からせめて薬物の種類だけでも聞くことにした。
「は?分からない?」
思わず素っ頓狂な声を上げる。突きつけられた事実は不甲斐ないものだった。
「正確には、これまで取り締まられていた薬物のどれにも該当しないんです。成分的に非常に似てはいるのですが、」
「つまり正式に取り締まることができないと?」
「そういうことになります」
「クソがっ」
銃兎の怒声が響き渡る。
何が薬物が撤廃された、だ。社会の膿は取り除かれたと思っていた。だが実際はどうだ。瘡蓋を剥がせばその下はぐちゃぐちゃの細菌の温床だ。全てを取り締まることなどできない。だから自分たち警察官がいる。その警察官が傷跡を見て見ぬふりをしていては全く意味がない。分かっていたと思っていたのに、それをした。そんな自分に反吐が出る。
そこからの銃兎は必死だった。考えられる全ての可能性をあたった。しかし全て肩透かしだった。少しでも手がかりがあるならばと、二度と話したくもないと思っていた元班猫組組長、斑猫鶺鴒の元へも赴いた。結果は散々だったが。
「なんで、俺らがヤクを捌いてたか分かるか?金になるからだ。なんで金になると思う?それが必要なやつがいるからだ。真の平和なんて存在しねぇんだよ。オレらの事しょっぴいて脳内頭畑か?国のうさぎちゃんよぉ?」
などと、犬も食わないような説教を聞かされた。
鉄格子が無ければ一発入れていたところだが、奴の言い分は最もだった。寄りによって、糞の塊みたいな奴から図星を刺されるとは、いっそ死んだ方がマシだ。だが死ぬわけにはいかない。俺が死んだら誰が潰しても潰しても出てくる薬物を取り締まるというのか。
死んだように仕事をして、あの路地裏で男を見つけた日から一週間が経っていた。手がかりは見つかったが、法的な手段が取れない。不甲斐なさを感じながら暗中模索していると、スマホへ電話がかかった。左馬刻だった。
「んだこの忙しい時に」
「ポートハーバーへ来い」
「あ?だから今忙しいって」
「ぜってぇ来い。いいな」
「あ、おい!くそっ、切りやがった!」
「先輩……?」
その様子を見てか、もう既に夜は遅いというのに残っていた後輩が心配そうに声をかけてきた。
「ああ、貴方ですか。まだ残っていたんですね」
「大丈夫ですか?」
「なにがです?大丈夫に見えますか?……いや、すまない。これじゃあ完全に八つ当たりですね」
「いえ、お気になさらず……あの、一つ聞きたいんですが」
「なんでしょう?」
「どうして先輩は誰にも頼らないんですか」
無粋な質問だ。何故?そんな事決まっている、薬物は俺のこの手で抹殺する。法なんて生ぬるい。薬物を撒く馬鹿はいっそ死んだ方がいいと思わせるまで徹底的に追い詰める。どれだけイタチごっこになっても。それができるのは俺だけ……俺だけ?
その時、二人の顔が浮かぶ。何を、寝ぼけたことを言っていたのだ。あまりの自分の不甲斐なさに視野が狭くなっていた。いるじゃないか、毒を皿まで飲み込める仲間が。
「ふふっ……」
「……?」
突然笑い出す銃兎に、後輩は訳が分からないといった表情を浮かべた。
「ああ、失礼。質問に答えていませんでしたよね」
「あ、別にいいんです」
「そうですか。ありがとうございます。貴方のお陰で目が覚めました。賭けは私の勝ちでしたが今度なにか奢りますよ」
「い、いえ?ありがとうございます?あの、どこへ?」
「酒場へ行ってきます」
「はぁ」
***
ポートハーバーへ着くと二人が酒を飲んでいた。
「おせーよ。銃兎」
「すみません」
今日は大人しく謝る。しかし、それも大して気にしない様子で、左馬刻と理鶯は酒を飲んでいる。銃兎が左馬刻の隣へ腰掛けると、左馬刻は一枚の紙を差し出した。
「おらよ」
「?……これは」
「ヤクの成分と材料の出処だ」
「なんでお前がそんなもん持ってんだ」
「俺じゃねぇ、探したのは理鶯だ」
「うん、小官を誰だと思っている?腐っても元軍の人間だ。諜報活動などはお手の物だ」
「いえ、そうではなく、何故私がこれを追っていると?言っていなかったはずですが」
左馬刻は煙草の煙を吐いて言った。
「てめぇんとこの、若ぇのが俺様んとこ気やがったんだよ」
「あいつが……?」
例の後輩を思い浮かべる
「カタギのポリ公の癖に元とはいえヤクザもんの俺様頼ってくるとは、なかなか根性あんじゃねぇか。すっかりなまっちまったうさちゃんと違ってよ」
何事もない事を願って、それを賭けにするほど腑抜けた奴だと思っていたあの男が、左馬刻を訪ねるのはかなりの勇気が必要だっただろうに。本当に腑抜けていたのはどちらだったというのか、一週間で嫌という程分からされた。
手渡された紙を見る。自分が得た情報と照らし合わせる。情報が一致した。これですぐにでも、叩きに行ける。しかし、戦力が心もとない。
目の前の仲間たちを見据える。
「左馬刻、理鶯」
「おう/なんだ」
「力、貸してくれるか」
「たりめぇだ」
「ああ、力になろう」
久しぶりに心から笑う。これからゴミ掃除へ行くというのに。
やたら久しぶりな感覚がする。リスクを負わない人生はクソ喰らえだ。もう二度と、同じ過ちは繰り返さない。自分たちがいるのは極楽のぬるま湯じゃない。地獄の釜の中だ。
ポートハーバーの扉を開いたところで景色がひっくり返る感覚がした。
目が覚めた。ここは、左馬刻の事務所だろうか。隣には辛気臭い顔をした仲間たちがいた。
「よお、銃兎やっとお目覚めか」
「うん、おはよう、銃兎」
窓の外からは西日が傾いている。おはようという時間では無さそうだ。
先程の夢を思い返す。ヤクのない世界が実現しない事を突き付けられた。実現しない?少し違うな。他の誰にも実現できないのだ。ならば自分の手で実現する。
その為ならばどんなリスクも背負ってやる。
エピローグ
「皆さん目が覚めたんすね!!」
火貂組の本部の一室、三人が目を覚ましたタイミングで左馬刻の舎弟の一人が入ってくる。
舎弟が言うには、ヨコハマの港近くのコンテナゲートで三人が倒れていたのを発見したという。
徐々に記憶が蘇ってくる。
朝、火貂組の敵対組織が違法マイクの裏取引を行うと銃兎、そして左馬刻の元へ情報が入った。警察と暴力団組織の利害が一致。となれば、MTCの出番である。
三人は裏取引現場へ到着、もちろん「数だけの蛆虫共」に手こずるはずもない。特にダメージも受けることなく、任務完了、のはずだった。いつもの様に銃兎が応援要請のためスマホを取り出そうと、あるいは左馬刻がタバコを取りだし、理鶯が昏倒している敵対組織の団員を縛り上げようとした瞬間、背後から強く殴られた様な激しい頭痛が三人を襲った。
そこからは記憶が途切れている。
「思うに、奴らが起動した違法マイクの効果だろう」
理鶯が冷静に状況を考察する。
「ちっ……雑魚のゴミ虫共が……」
「それで、その「ゴミ虫共」はどうしたんです?まさかそのまま逃げられてないでしょうね?」
銃兎が舎弟を睨みつける。
「ま、まさか!ちゃんとうちで処理しましたよ!!」
どうやら、左馬刻の舎弟が駆けつけた際にはまだ敵対組織の団員も昏倒したままだった様だ。
一先ず、目的は達成していた様だが、銃兎からすれば、ホシを上げられなかったのだからやや不満は残る。ふと、スマホの時刻を確認すると既に十八時を回っている。一度署に戻って報告をしなくてはならない。舎弟へ車を用意するように告げると、部屋には三人だけになった。
先程まで見ていた夢を思い出す。もしも自分が戦わない選択肢を選んでいたら。そんなのは有り得ない。あってはならない。
生涯戦い続け、最後に堕ちるのは地獄。そんな覚悟など等に終えている。否、恐れや迷いさえ既にないのだから覚悟ですらない。
仮にそんな世界が来たとしても、自分たちは戦い続けるのだ。自らの理想、矜恃、あるいは守るべきもののため。
「銃兎、理鶯」
左馬刻が窓の外を真っ直ぐ見つめながら呟く。
「地獄で生きて地獄へ行く準備はいいか」
銃兎と理鶯も左馬刻と同じ方向を見つめる。
日が沈み、やがて青い夜が来る。
二人は口を揃えて答えるのだった。
「「当然」」