とわに「アオキ、今日もありがとうございました。これを」
二人で久々に遠出をした帰り、別にいいのにという断りの言葉をさらりとかわして自分を自宅へ送り届けたあと、ハッサクは一本の赤い薔薇を差し出した。丁寧に包装されたそれを素直に受け取る。
「こちらこそ、ありがとうございますそれにしても毎回花を……わざわざ」
それに薔薇なんて。そこまで言うのは野暮かもしれないと一旦口を噤む。
「いいのですよ、小生があげたいだけなので。それに薔薇は恋人に渡すのにピッタリなのですよ!」
何度か聞いたはずだが、少し得意げな顔をしているハッサクにそれ以上何かを言う気にもなれず、そうですか、と短く返事をした。
「それでは、今日は疲れているでしょうからゆっくり休んでくださいね」
「はい、ハッサクさんも。おやすみなさい」
春に向かっているとはいえまだまだ冷え込みの厳しい冬の空に消えていくハッサクを見送り、手に握られた薔薇の花を見つめた。いつからかハッサクは誕生日や二人の記念日、デートをした日、時にはただ家で過ごしただけの日に、赤い薔薇の花を渡すようになった。理由は先程ハッサクが告げたものと同じで「自分があげたい」、「恋人に渡すのにはぴったりだから」だそうだ。花にはてんで興味がなかったが、恋人からの貰い物は素直に嬉しいし当然だが無碍に扱うことなんてできない。
(まだ飾る場所はあっただろうか。あるいは違う保管方法を考えてもいいかもしれない)
部屋に戻り着替えをしながらぼんやり考えていたが、今すぐにできることが思い浮かばずに一旦は花瓶に生けておくことにした。これは何本目だっただろうか。いつもは一本か多くても三本だったのに、前回はやけに張り切って五本まとめて花束にしたものを贈られてさすがに驚きを隠せなかった。たしかあれで十九、とかそれぐらいだったからという今回で二十本目になる。
(ハッサクさんなら薔薇以外でもいくらでも知っていそうなのに、不思議なもんだ)
部屋着に着替えて、少し前に涸れてしまったために空になっていた花瓶に先程の薔薇を生けた。
一息つくためにソファに腰を下ろすと、同時にスマホがメッセージの受信を告げた。見ればハッサクからで、彼が無事に家に着いたことと次回はいつ出かけようか、という内容だった。手早くスマホのカレンダーを開いて自分のスケジュールを確認する。仕事を除いて直近で出かけられそうなのは二週間後ということを確認し彼に返事をすると、すぐさま喜びを爆発させたようなスタンプが帰ってきた。
あれからもハッサクは変わらず自分に花を送り続けた。特別なことを言うでもなく、ただ「今日もありがとう」とだけ告げて赤い薔薇の花を差し出す。初めは受け取ることすら恥ずかしく感じていたが、彼なりの感謝の伝え方なのだろうと思い今では素直に受け取れるようになった。キザだなと思う一方で彼らしい気もする。真っ赤な花は彼の放つ華やかなオーラととても合う。彼とは正反対な自分にはあまり似合わないような気もしたが、彼自身の想いが込められたものをだと思えばあまり気にならなくなった。むしろ、淡白な自分の部屋に彼の断片が宿ったようなそんな感覚すらあった。本数が増えるにつれて、花を生けるだけでは味気がないかもしれないと思い何か良い保存方法はないかと調べ、ドライフラワーにしたり、押し花にしたりと様々な方法をとった。今まで枯らしてしまった分を惜しく感じたが、今後花をもらうことがあれば大切にしようと思った。
ローテーブルにはプリザーブドフラワーが入ったガラスのオブジェが飾られていて、それを見るともらった日のことを思い出す。まっすぐ自分の目を見て、恭しく手渡す様が脳裏に浮かぶと一気に顔に熱が集まる。
(何を思い出してるんだか。それにもう見慣れた光景のはずなのに)
パタパタと右手で顔を仰ぎながら視線をオブジェから逸らした。花を扱うなんて自分の性分には合わないはずなのに、貰った日のことを覚えているのも、こうしてきちんと保管しようと思うのも、やはり彼に惚れているからなのかもしれない。
何度も花を貰ううちに、あることが頭をよぎるようになった。ハッサクは日によって渡すバラの本数を変えているのにはなにか明確な意図があるのではないかと。明らかに遠出をしてしまった時でも三本渡してくる時もあれば、ちょっとした時でも一本だったりする。少し豪華な食事を共にした時なんかは四本。五本だった時の張り切りも、あれもなにか意味があったのか。自分の考えすぎなのかもしれないが、一度頭に浮かんでしまったことは少しでも疑問を解決しなければ気がすまなかった。意味がなければただの彼の気まぐれ、気分次第だったのだと思える。
『赤い薔薇 本数 意味』
ちょっとした好奇心が引き寄せたのはとんでもない事実だった。たまたま1番上に表示されたページをスクロールすると何行もの表が現れ上からざっと眺めていたが、途中から恥ずかしさで思わずスマホの画面を消して天を仰いだ。そこに書かれていたのは送った本数に対する意味だった。一部にはネガティブな意味が含まれているらしかったが、そのほとんどが愛を表すものばかりだった。そして、あまり落ち着かぬ頭で今まで貰ったバラを思い返す。
記憶が定かでは無いが、間違っていなければバラを渡す度にその合計本数がこの表とマッチするようになっていた気がした。そして今は。
(五十……)
もう一度画面を付けてその意味を確認すると
『永遠、偶然の出会い』
そう書かれていた。彼が意図したのかまでは分からないが、本当だったとしたら自分は彼からの大事なメッセージを見逃してしまっているのではないだろうか。きゅっと心臓が縮み上がるような感覚に襲われる。だが答え合わせをしたくとも直接聞くなんて無粋なことができるわけもなく、途方に暮れた。
(流石に考えすぎか)
それに、本当に意味があるのならハッサクは自分に伝えてくるのではないか。そう結論づけたところで妙な昂りを見せていた全身の熱はすっと引いていった。ただ純粋に、彼の愛を受け取るだけでも十分幸せなのだからあまり考えすぎるのも良くないだろう、と思考の沼に入り込みそうだった自分を無理やり引っ張りあげて、脳内からそれを消し去った。
しかしそれから、彼から花が送られることは無くなった。変わらず出かけたり2人で過ごすことはするが、帰り際は自分を送り届けると別れの挨拶はそのままに帰っていくだけだった。花を渡さなくなっただけでそれ以外は何も変わりはなく満たされた生活を送っているのに、どこか引っかってしまう。花を渡さなくなってからしばらくした頃、たまらずハッサクに「今日は何の花ですか」と聞いてしまったことがあったが「まだ入手ができていなくて」と曖昧な返事でかわされてしまった。
(こんなことで一喜一憂するなんて自分も随分女々しくなった)
以前なら気にならなかったはずなのに、要らぬ憶測が生まれてしまったせいで簡単には脳内から離れていってくれそうになかった。
事態が変わったのはそれからさらに数日がたった頃で、この日は自分の誕生日だからと業務終了後に四天王のメンバーが集まりささやかな食事会を開いてくれた。ハッサクは、気持ちだけでいいのにと遠慮しようとした自分を引きずるように会場に連れていき、自分の隣に座らせた。チリが場所を選んだというレストランは申し分ない美味さで、彼女のセンスに賞賛の言葉を送りながら、次々に出される料理に舌鼓を打つ。
「アオキさんお誕生日おめでとうございます〜」
「おめでとうですの!」
プレゼントまで用意してくれていたようで、若干の申し訳なさを感じつつ有難くそれを受け取り感謝の言葉を告げた。あくまで職場での繋がりと思っていたが、関係の深い彼女たちから生誕を祝われることはあまり悪い気もしなかった。
「大将は?何選びはったんです?」
「ふふふ、小生はですね……ちょっと待っててください」
そのままハッサクは個室から出ていくと、数分して背中に何かを隠しながら戻ってきた。
「じゃじゃーん!」
と上機嫌で取りだしたのは薔薇の花束だった。それもとびきりのサイズ。
「な……!」
「おー!大将情熱的やなあ」
「まっかっかでキレイですのー!」
見たことのない本数のバラが束ねられた花束を見て困惑のあまり言葉を失う。いや、嬉しいのは事実だがチリやポピー、先程から一言も話さないがオモダカだって見ている。意味ありげな笑みを貼り付けながら。
「いつもありがとうございます。素晴らしい一年になりますように」
そう言って恭しく自分に花束を差し出した。
「流石にこれは……大袈裟ですよ」
「日頃の感謝を込めて、です」
そう告げるハッサクの表情は柔らかいもので、あまり直視していられず恥ずかしさを誤魔化すように咳払いをして「ありがとうございます」と精一杯の言葉を返した。
「大将、それ何本あるんですか?」
何とか照れを隠そうと心を落着けている所に投げかけられたチリの言葉にドキリと大きく心臓が跳ねる。概ね赤い薔薇の花束には本数によって意味が添えられていると少し前に知ったところで、思わず意識がそちらへと向かう。チリは自分たちの関係を知らないから半ば冗談のつもりで聞いたのかもしれないが、ハッサクはなんと答えるつもりなのかと気が気ではなかった。
「秘密なのですよ」
なんや残念、とむくれているチリ。いや、それはそれで意味ありげな言葉にも聞こえてしまうんじゃないかとも思ったが、それ以上チリも追求するつもりは無いようだった。
「この一年も素敵な年にしてください」
一度席に座り直し、自分の方を向いたハッサクの表情に一瞬だけ2人で過ごす時の顔が浮かび、傍から見てもわかってしまうのではないかと思うほどに顔が赤くなる。わざとやっているんじゃないか、と怒ってやりたかったが場のことを考えてぐっと堪える。そしてまた、そんな彼の行動に振り回されている自分も大概なのかもしれない。
「さぁ、プレゼントも私終わったことですしそろそろお開きにしましょうか。アオキ、これからもよろしくお願いしますね」
「皆さん今日ありがとうございました。まぁ、程々にやらせていただきます」
オモダカの一言で場は解散の空気になり、各々で帰り支度をしながら言葉を交わしていた。
「花束、持っておきますよ。すみません持ち帰りづらいもので」
ジャケットを着るために花束をどうしようかと辺りを見回していると、ハッサクが自分の手の中から花束を取り少し申し訳なさそうな顔をしていた。
「……いえ、お気遣いありがとうございます」
今は皆がいる手前不用意なことは言えないため当たり障りない言葉を返しつつ、ジャケットを着てもう一度ハッサクから花束を受け取った。
「この後、お時間ありますか」
彼の横を通って外へ出ようとした時に、自分にしか聞こえないぐらいの声で告げられて足を止める。
「少しお話がしたくて。すぐに済みます」
今ここでじゃだめなのか、という言葉は真剣な顔つきをしていたハッサクに返すべき言葉ではないなと飲み込む。
「いいですよ」
「ありがとうございます。じゃあ、とりあえず外に出ましょうか」
気づけば他の皆は既に外に出てしまっていたらしくハッサクとあとを追いかけた。
「ほなまた、休み明けに〜みんな気ぃつけて帰ってください」
「ええ、チリさんも」
「バイバイですのー!」
こちらに手を振り去っていく女性陣の背を見送り、姿が見えなくなったところで隣に立っていたハッサクの方を向いた。言葉にするのは難しいが、仕事のモードは完全に解けていつも二人で過ごす時の空気が流れる。その全身を優しく包み込むような、暖かいその中で大きな花束を持ちながら立っているのに少しむず痒さを感じた。
「……話とは」
二人きりなんて今更もう恥ずかしいことでも何も無いのにな、と思いながら少しの間トクトクと鳴る緊張の拍動の音に耳を傾けた。
「そのバラ、ちょっと数が半端になってしまってすみません」
バランス悪いですよね、と自嘲気味に笑う。
「今は時期ではないので手に入りづらいのですよ。でも、アオキへの感謝の気持ちをめいっぱい詰め込んでみました!」
「……」
その声色、やけに明るく話す様子に、きっと今一番言いたいのはそんな話じゃないと咄嗟に察する。
「ありがとうございます。流石にでかいですけど、嬉しいです」
しかしそれが思い違いだったらと思うと素直に聞くこともはばかられ、しばしの沈黙を選んだ。話があると言ったのはハッサクなのだから、彼の口から言葉がつむぎ出されるのを黙って待っていた。
「……今週末、なにか予定は?」
咄嗟に頭にカレンダーを思い浮かべたが直近は特に何も無かったはずで、ありません、とすぐに返す。
「じゃあその日空けておいてください、お願いします」
「おねがいって、ちゃんと空けておきますから」
「絶対に、絶対ですよ」
「大丈夫ですから……」
彼を安心させるように言えば目の前のハッサクの肩の力が抜けたのが分かった。そんなに不安に思わせていたのかという疑問が生まれたが、やはり要らぬことは言わぬが吉だろうと口を噤む。
「時間はまたご連絡しますね。あ、でも小生が迎えに行くから安心してください!」
「何するつもりなんですか」
「まぁまぁ、とりあえず帰りましょう。冷えてしまいます」
またもハッサクに自宅まで送り届けられ、改めて一人で抱えるのには少し重く感じる花束のバラの数を数える。数は半端と言っていたが、確かに五十七本は傍から見れば不自然な数字だった。でも、今まで貰った数と彼の先程の様子を見れば、あながち不自然なものでもないようにも思えた。今日は泊まっていかないか、と聞きそびれて結局彼を家に返してしまったが今この場にハッサクがいなくて本当に良かったと思う。酒のせいにはしがたい頬の紅潮を感じながら花束を少し強く抱き、次回会った時どんな顔をすればいいかと思いをめぐらせた。そして、然るべき言葉も。
「お待たせしました。さぁ、行きましょうか」
時間を知らせる、とだけ言ったハッサクは本当に待ち合わせの時間だけの連絡を寄越しただけだった。何をするのか、どこへ行くのかも言わぬまま当日を迎え、彼は時間通りに自分の家の前へやって来た。
「どこに行くんですか」
「小生の家です」
「は?」
今日この日を迎えるにあたってどれだけ気持ちの準備をしたか。指定された時間が夜だったからてっきりディナーにでも連れ出されるのかと勘繰り普段よりは多少マシな服を見繕っていた。だから、彼の家に行くと言われ思わず素っ頓狂な声を漏らしてしまった。
「そう言ってくれたら自分で行けましたよ」
「ダメです!今日は小生にエスコートさせてください」
「エスコートって……ていうかその服装は?」
ハッサクもかなり気合いの入った服装をしていて、普段のジャケットとは違って何故かネイビーのスーツを着ていた。
「いいじゃないですか!小生だって気合を入れてアオキをもてなしたい日だってあるのですよ」
「そういうもんですか……」
明らかに普段と様子が違うが、彼の気持ちを削ぐようなことをしてはいけないと素直に彼のエスコートを受け入れることにして、差し出された手に自分の手を重ねた。
「これは……」
彼の自宅にたどり着き、ダイニングへと足を踏み入れるとテーブルには高級レストランでしか見かけないようなセッティングがなされており、思わずハッサクの方を見た。
「今日は気合を入れて小生お手製のコースを味わってもらおうと思いまして。たまにはいいじゃないですか?こういうのも」
なるほど、スーツを着ていたのはそれらしくするため、といったところなのだろうか。それにしても些かやりすぎのような気もするが。
「シェフなのにスーツでいいんですか」
「細かいことはいいのですよ、ほら座って座って」
促されるままに席に着くと、ハッサクは早速とばかりにキッチンへ消えてゆき、前菜とスープをアオキの前に配膳した。考え抜かれた色彩と、スープの香りに食欲を掻き立てられる。ハッサクも自分のものを準備してアオキの正面に座った。
「さぁ、食べましょうか。」
流石と言うべきか、彼の料理は完璧に自分の好みを捉えたもので、自分のために頑張ったのだと何度も誇らしげに語る様子に自然と口角が上がってしまった。本当に自分なんかでいいのかと初めの頃は悩むことも多々あったが、今となっては素直に彼の愛を受け取ることができるようになっていたのだと、今頃になってようやく実感することができた。
「美味しいですか」
「完璧です。流石ですね」
「そりゃあアオキのためですからね。貴方のためなら、何だってしますよ」
「大袈裟です」
何だってする、か。自分は何かを返してやれるだろうか。そういえば薔薇だって一方的に貰ってばかりだった。自分があげたいから、という彼の言葉を文字通りに受けとって結局自分は何かを返したわけではない。気を遣わせるから、というのは言い訳にしかならないなとこれまでの自分を恥じた。
そんなふうに内省する自分のことを知ってか知らずか、ハッサクはデザートを食べる自分を愛おしげに見つめていた。恥ずかしいからやめてください、と目線で訴えてもハッサクはやめる気配はなく嬉しくてたまらないと言った表情をしていた。
「アオキの食べているところを見ていると幸せな気持ちになりますね」
「またそんなこと言って……でも、こんな美味いコースは初めてです。今まで食べてきた何よりも、美味いです」
「そうですか……良かった」
ハッサクの声色からして心の底から安堵しているのが伝わったが、彼にしてはあまり自信がなかったのか不思議に思い彼を見た。少し不安げな顔をしていたように思ったものの、目が合った途端ににっこりと微笑まれて今度はこっちが恥ずかしくなってしまった。
食事を終えてハッサクが入れてくれたコーヒーを飲んでいた時、彼の手がずっと止まっていることに気づいた。どこか表情が固く、なにか迷っているようなそんなふうにも見えた。
「どうかしましたか」
「……今、お時間を頂いても?」
「?もちろん構いませんが」
「では少し待っていてください」
そう言うとハッサクは立ち上がりリビングから出て行った。
アオキにずっと渡してきた薔薇の花。あまりにもキザすぎるだろうかと初めは思ったが、どれだけ愛してると言っても彼は本当かと自分の気持ちを疑うことだって考えられるから、真剣さを伝えるならこれしかないと彼に送り続けてきた。自分の予想通り、彼は慣れないからか受け取ることを遠慮しようとしたが、根気強く渡して素直に受けとってくれるようになった時は涙が出るほど嬉しかった。そしてこの花を渡し続けたことに意味があったことに、アオキは気づいていただろうか。薔薇には渡す本数に意味を持たせていることが多い。何本渡そうかはずっと決めていた。どうしても要らないと言われたらそこで諦めようと思っていたが、今日に至るまでアオキは自分の花を受け取ってくれた。
(驚きますかね。やっぱり一遍に渡した方が……)
今までずっと彼は断らなかった。でも今日のこの花ばかりは断られてしまうかもしれないと、一輪で丁寧に包装したバラの花束を握り締めながら、彼の待つダイニングへ戻ることを少し躊躇っていた。
「遅いな」
先程からから物音も聞こえなくなり、何かあったのかと心配になり立ち上がったところでようやく廊下で彼の足音が聞こえた。ガチャりと扉の開く音で慌てて椅子に座り直し、なんでもない風を装う。
「すみません、お待たせしました」
緊張した面持ちのハッサクは、スーツはそのままに左手に何かを持っていた。少し後ろ手に持っていたからかそれがなんであるかはハッキリとは見えない。席に座り直したハッサクはこちらからも分かるほどに緊張していた。
「……アオキ、これを」
そう言って差し出されたのは一輪の薔薇の花だった。その瞬間に頭が真っ白になってしまい、上手く感謝の言葉すら出てこずにただ黙って頷いてそれを彼の手から受け取った。心臓がうるさい。彼に聞こえていなければいいが。自分が受け取った薔薇の花はこれで……。
「百八本。あなたに渡してきた薔薇の数です。全然数えていないと思いますけど」
ピッタリだった。そしてその意味することが瞬時に頭に浮かぶ。
「アオキ」
「……はい」
確かそれは。
「結婚してください」
その言葉はあまく脳を痺れさせ、指先が震え始める。もしかしたら、と心のどこかで思っていたし、そのための答えもずっと準備していた。しかし、現実に届けられた花と言葉は自分で想像出来る以上に彼の気持ちが込められたもので、軽々と自分の予想を超えてきた。たった一言返せばいいのに、上手く口が動いてくれない。
「すみません、いきなり過ぎましたよね……」
沈黙をNOと取ったのかハッサクは申し訳なさそうに謝罪した。明らかな落胆が伝わってくる。違う、そうじゃなくて。
「か、数えてました。ずっと。あと意味も……調べて……」
「え?」
「初めは、分かりませんでした。でも途中で気づいて…勘違いだったら恥ずかしいなと思って、言いはしませんでしたけど」
あぁ、こんなことを白状するなんて恥ずかしすぎる。
「もしかしたら今日がその日かもしれない、とも……なんとなくは」
目を見られない。彼は一体どんな顔をしているだろう。気づいているのなら言ってくれたって、と思われていたら。でももう話し始めたのならきちんと伝えなければいけない。彼に話を遮られたら、もうそれ以上を紡ぐことは出来ない気がしていた。
「イエスです」
「……!」
「自分で良ければ、ですけど……」
そう言って顔を上げると、ハッサクは呆然としながらも顔を真っ赤に染めていた。
「なんですかその顔……不満ですか」
照れ隠しに指摘すると、そんなわけないと彼は意識を引き戻して前のめりになった。
「自分と結婚してください」
そしてようやく自分からの言葉を飲み込んだのか、徐々に顔をゆがめてその目から大粒の涙を零し始めた。
「もちろんなのですよ……すみません、嬉しくて……ふふ、良かった……」
鼻をすすりながら何度もしゃくり上げて彼は泣いていた。これから何もかもが変わるというのに、いまいち実感が持てずにいた。
「あ、指輪……一緒に渡そうと思っていたのに……バラに気を取られてあっちの部屋に忘れてきてしまいました……」
目に見えて落ち込むハッサクを見て何だかすっかり体から力が抜けてしまった。そしてそんなところもやはり愛おしいと思ってしまう。
「うう…締まらなくてすみません……」
「いいですよ別に、後でください。それにずっとかっこよくても困りますからね。たまにはそういうところがないと」
先程までの緊張感はどこへやら、すっかり解けた空気になったダイニングで嬉しさと締まらなさへの落胆を交互に出すハッサクと、それを宥めながら関係が変わる事の喜びをかみ締める自分。なんて愛おしい光景なのだろうか。こんな素晴らしい日を象徴するこの薔薇は一生大切にしなければいけない。
はてどんな風に飾っておこうか、何度もこの日を思い出せるようにしたい。そんなことを考えながら右手に持った薔薇の花を見つめた。