バレンタインその2カップケーキ 蛇足①
セが扉を開けると、恋人はまだベッドの中で寝ていた。パンツ一丁で敷布団に抱きついている彼の姿は、なさけないとも言えるが、そういう間が抜けているところもセは好きだった。
恋人だったら、どうやって寝ている相方に贈り物をするのだろう。とりあえず起こすところからだろうか。
セは手荷物を適当な所に置いて、ベッドまで歩き静かに腰掛ける。丸出しの彼の背中と尻は、綺麗な凹凸を描いている。後衛職のくせによく締った腰は、撫でたくなるほどの魅力がある。
だがそれは一旦我慢して、手を乗せるのは肩にした。
「カンゼ、まだ寝てるの?」
顔を近づけるために体ごと寄せて、彼の懐に迫る。するとカンゼと呼ばれた男は、ぐっと眉間に皺を寄せた。
「まだじかん、あんだろ…」
「ケーキがあるよ」
「あー、うん……」
カンゼはのろのろと体を起こす。セも追従して、彼の行く末を眺める。
カンゼはしばしぼんやりした後、ボサっと前に落ちている前髪を後ろにかき上げた。そしてセに半目を向けた。
「なに?もうマント羽織ってんの?」
「外に出てたから」
「落ち着かねー。脱いでよ。まだ出ないでしょ」
セが何かを言う前に、カンゼは抱きついてきた。セの肩に顔を埋めて、マントの下に入れた手で細い体を撫でまわす。
朝の怠さから抜けられない彼は、セを抱き枕にしようと目論んでいる。
「カンゼぇ、ケーキ作ったんだよオレ。スケイルも大丈夫だって言ってたんだから」
「うん」
「すごくレアなんだよ。オレのケーキは。だって処女作だもん。カンゼには処女はあげられなかったけど、ケーキ処女はあげられるよ」
「なにその食欲失せる言葉」
セも抱きつかれながらカンゼの髪を撫でているので、2人は一向にベッドから動かない。
セはこうして甘えられたり甘やかされるのが好きだ。これまでに経験しかこなかった心地よさだったから、セはすぐに虜になった。
カンゼは今までのお客さんたちとは一味も二味も違う、とても変わったお客様だ。心が広いというのだろうか?今までも優しい人たちはいたけれど、なんだかそれとは一線を画している。
例えば、虫を捕まえて食べてても許してくれそうなところとか、実際引くだけで済ませてくれるところとか。
カンゼとはできればもっと一緒に過ごしたいから、セは彼にたくさんサービスをする。メインはやはり夜の快楽だが、それ以外でも自分と居る時間が素晴らしいものだと感じてもらいたい。
今回のケーキもその一環だろうか。それは分からない。手作りという点に付加価値があるかどうか、良し悪しを判断するのはカンゼだ。
でも作ったケーキが悪しだとしても、カンゼはすぐにはセを見限らないだろう。そういうところが彼は特別なのだ。
「顔洗ってきなよ」
「んー…」
カンゼは鼻をセの首筋に擦り付ける。こそばゆい。
それからようやくカンゼは起き上がる決心が着いたのか、セから離れて伸びをした。服をとりあえず上下着て、部屋の外へ身支度をしに出ていった。
手持ち無沙汰になったセは、カンゼに言われた通りにマントを脱ぐことにした。
部屋入り口付近の壁にかかっているハンガーを目指すと、すでに引っ掛かっている白衣が目に入る。落ちない汚れが若干ついた、彼の白衣だ。
いつか一度は羽織ってみたい。今度ねだってみようか。白衣の隣に自分のマントを掛けると、とても仲睦まじい感じがする。
カンゼが帰ってくるにはまだ時間がかかるだろう。セはリュートを取り出す。弦をネックに縛りつけ、音を響かせないように練習をする。
リュート演奏など、こういう分かりやすくて派手な技能もお客さんを喜ばせることができる。演奏が上手ければ上手いほど目を引くし、押し倒した時の支配欲と背徳感が満たされるから。
セが無心で練習に没頭していると、やっとカンゼが帰ってきた。
顔を洗って剃り、髪の毛もバッチリ撫で付けて決めている。両耳に揺れる金のピアスは今日も似合っている。引き締まった体の背筋を伸ばして、いつも通りのかっこいいカンゼだ。
「おかえり」
「廊下寒かった」
カンゼはセの首に手を押し付ける。確かに手は冷たく、セは縮こまる。
「それでケーキあるんだっけ?どこ?」
「そうだけどさ。もう」
カンゼはテーブルに付けられた椅子に座って待つ。セは床に置いていた紙袋を拾い、差し出した。そしてもう1つ備え付けられている椅子に座る。なぜかこの部屋はベッドは1台なのに椅子は2つある。
「食いもんだろ、床に置くなよ。お、なかなかフツー」
「上出来でしょ」
ケーキを手に持ったカンゼは、感心したようにケーキをいろんな角度に回して眺めている。それから紙のカップを破いて真っ二つに割った。黄色のホロリとした生地は美味しそうだ。
「何?虫入れてないよ」
「らしいな。良かった」
やっとカンゼはケーキに齧り付いた。味も見た目と同じく無難に美味しい。少ししっとりした生地のせいか、甘味がしっかりと舌に伝わる。焼き菓子特有の香りと相まって、幸せな気分になる。意外にもまともな味をしていることにカンゼは驚く。
なにせ、セはその辺の虫や木の実を食べるのだ。ときに愛情表現の一環として虫を食べさせようとしてくることもある。食糧危機に陥った時の対策らしい。ひもじい思いをしてほしくないんだろう。でもぜひやめてほしい。
そういうセなので、作る料理に虫が入っていてもおかしくはなかった。実際スケイルが防がなければ、虫入りにはなっていたのではあるが。
「意外〜。セちゃんがこんな美味しいお菓子作ってくるなんて」
「本当は虫も木の実も入れたかったんだけど、スケイルに止められた」
「スケイル様ありがとう。今度お礼しよ」
「オレには?」
「セもこのケーキ食べる?」
「カンゼー…」
セは少し不機嫌な顔を作った。でもカンゼからケーキを割ったうちの1つはもらった。
紙袋の中にはケーキは3つ入っていた。カンゼは甘いもので腹を満たしたがらない。でも甘いものは苦手ではない。
「ちなみにこのケーキがね、3人の中では好評だったんだよ」
「なんで?」
「甘いから。他のはレシピの分より砂糖を減らしてあるの」
「へ、へえー」
「満足感があるよね」
「そうねー」
2つ目のケーキを食べ始めたカンゼは途中で立ち上がり、水を取ってくる。セがケーキを食べ終わったからだ。用意したグラス2つに注ぐ。セはグラスの片方を取って喉を潤す。焼き菓子には飲み物があると食べやすい。
「なんか不思議。カンゼだけが食べてるの。カンゼがご飯食べてるところちゃんと見たの、初めてかも」
「あんまり見んなし。でも確かに俺だけ食ってんのは珍しいか」
「いつもご馳走様」
「うん本当に。飯食わないのって生き物として破綻してるから」
セの食べ物の話題になると、カンゼはいつも「ちゃんとしたものを食え」と小言をいう。カンゼはセの食事をまかなっているから仕方ない。または彼氏として、恋人のことを心配しているのかもしれない。
とはいえ実のところ、セの食事費用が恋人ごっこの対価なのである。口約束すらしていない契約だが、いつの間にかそんな感じになっていた。
カンゼも2つ目を食べ終わり、最後の1つは鞄にしまった。
「美味しかった。こんな美味しいの貰っちゃったから、セちゃんに何かしてあげないとだなー」
「良かった。何してくれるの?」
「何でも。指定してくれてもいいよ。虫は食べないけど」
「しないよそんなの。んーと、そしたら、ぎゅっ、とかしてくれる?」
「するする」
椅子に座ったままのセは、両手を広げて待機してみる。
カンゼは席を立ち、言った通りにセを抱きしめた。中途半端な高さにも関わらず、胴が触れるようにしっかりと抱く。言葉の軽さの割に、だいぶ丁寧に触られている。
セはあまり予想していなかった状況に密かに面食う。彼に限って手酷いことをするはずがないが、人生を振り返ってこんな触り方をされてこなかったので新鮮なのである。
「セ。かわいい」
「そうでしょ」
「ちょっとやっぱ腰辛い。ベッド行こ」
カンゼは腕の中のセを抱えなおし、持ち上げる。これまた突然のことに、セは落ちないようにしがみつく。
ベッドは数歩も歩かない隣にあるが、雰囲気作りというのは無駄な工程を踏むことが大事なのだ。
ベッドに降ろされると、また強く抱きしめられた。シーツに降ろされているのに、背中に腕を回されて、胴が少し持ち上げられている。ピッタリとくっついて温かい。重みを感じながら、セもカンゼの背中に腕を回して目を閉じてみる。
探索の集合時間を考えると、多分お誘いではないと思う。ではなぜカンゼはこんなことをするのだろう。外が寒かったからだろうか。訊いてみるか?でも恋人との間ではよくあることだったら、なんの疑問も持たずに、受け入れるのが自然だ。
そこでセは思い出す。今カンゼは自分のお願いを聞いてくれているのだった。抱きついて、と頼んだのはセだった。
ならもっと可愛く。ねだることもできるのだろうか。
「ね、カンゼ。オレのこと好き?」
カンゼは絶対に好きだと言ってくれる確信があった。カンゼはとても優しい。セは今、安心感と心地よさを味わっている。だからもっと欲しい。
その言葉を聞いたカンゼは、少し間を置いてから片腕の肘立ちで胴を浮かせた。セを見下ろすその顔は無表情だった。
しまった。調子に乗ってしくじった。これは面倒臭い怒り方をしている時のカンゼだ。彼はたまにこうして謎の原因に対して怒ることがある。原因が謎なので解決方法がいまいち分からないから、セとしては非常に困る。なんとなくだが、食事の話題の時の怒り方と似ている。
セはリカバリーしようと口を開こうとした。それを見計らったかのように、抱きつかれた状態で転がされた。背中にあったシーツは、今は体の側面にある。2人で横寝になったようだ。
大きく動いた際に自らの髪が顔にかかる。この邪魔な髪の毛を払いたいのに、後頭部に手を回され、胸板に引き寄せられる。
髪の毛に触っているなら梳かして直してくれてもいいのに、カンゼは抱き寄せることに手一杯になっている。器用な彼らしくない。
しかしさっきからずっと彼の体温と匂いは心地よい。頭を撫でられていることだし、文句を言うよりは浸りきってしまうほうが良いかもしれない。セは再び目を閉じる。
「どう?伝わる?俺の気持ち」
カンゼが話しかけてきた。折角もうひと眠りしようとしていたのに。なんのことだろうか。
セは今までの流れを遡り、カンゼの問いかけは自分のおねだりに対する返事だと思い当たる。
「ううん。全然」
「ダメかー」
「やっぱり言葉にしないと伝わらないよ」
「お前だけには言われたくないかな」
胸板とくっつく額から、カンゼの声が響く。普段より張りのない、柔らかい低音だ。
「大好き。一番好き」
目の前も上も下も、背中にも腕が周っているので、ほとんどカンゼに囲まれている。その状態で聞かされる言葉には、うっとりしてしまう力があった。今この時だけは、互いに思い合っているのだと自惚れても良い気がしてくる。
「カンゼ、オレのこと好きだったら髪の毛整えて。今ぐちゃぐちゃなの」
「あー、うん。うん…」
カンゼに包まれながら髪を撫でられる。大きくて節立っているのに滑らかな手は、メディックゆえか柔らかく触れる。穏やかな気持ちよさに、セの瞼は重くなる。
カンゼとの恋人ごっこが一番楽しい。だからこの関係を壊したくない。この距離がセにとって1番近い距離なのだ。
ケーキのプレゼントは多分成功した。もう一度作ってあげてもいいかもしれない。そうしたらまた今と同じことをしてくれるかもしれない。セは落ちていく意識の中で考える。
しかしセは知らない。カンゼは見た目と所作の割にそこそこ真面目で純情派なので、後日お礼にシンプルな銀製の指輪を買ってきたりするということを。自己陶酔も甚だしい。良く言ってやるならば、可愛げのある仮彼氏なのだ。
セが朝の二度寝を始めたその後、カンゼも寝落ちした。幸運にも集合時間5分前に目が覚めることができたが、寝起きのベッドの上でいちゃつき4分消費した。集合場所に着いたのは時間を少し過ぎたくらいだった。
しかし特に小言を言われなかったのは、おそらく他のメンバーも仲睦まじい時間を過ごしていたのだろう。良かった!ケーキ様々である。
終わり