草の苑 人界の南方に福地がある。
深い山の奥深く、高い渓谷のはざま。
清い水が絶え間なく流れ、陽の気が朝露とともに大地に降り注ぐ、天と地のあわい。
その地で育まれた草木は特上で、谷の木々に絡みつく葛の根ですら、高麗人参にも劣らない滋養を含んだ。
ひとりの神官が、そこに薬草園を造った。
庵を結び、手ずから世話した薬草を干して保管し、茶にしたり、調薬する。男を鎮める茶などはここでしかつくられず、貴重な断根茶を神官は仙境に持って戻っていた。
余った薬草は麓の里にも卸した。
里の者は、山から極上の薬草を携えて下ってくる漢をいつだって歓迎した。尊敬と親しみをこめて歓待されることは満更でもなく、永い間、幾度か分身の姿を替えて、神官は人界との関係を繋げていた。
その薬草園に、二人の鬼が棲みつく。
母子の鬼たちであった。
ある神官に追われ、逃げ場を探してここにたどり着いたらしい。
面倒ごとは御免だと、神官は見かける度に鬼たちを薬園から蹴りだしていた。だが、神官が仙境に戻り勤めをしてから薬園に降りてくると、鬼たちはまた、入り込んでいる。
蹴りだしても蹴りだしても、きりがない。
鬼たちは、薬園の管理を良くした。
ざっくばらんな気性に似合わず、こまやかな世話をするたちらしい。
母鬼は余分な草をひき、枯れた下葉を掃除し、適切に水をやって、土をかえして柔らかくした。
小鬼は母鬼について回って、薬草につく虫などを払う。
薬草たちはきらきらと輝き、鬼の世話を喜んだ。
朝露の中で薬草を収穫し、さんさんと降りしきるお日様に干し、夜露が降りる前に庵にしまってまた日が昇れば天の下に出す。薬草の品質は一段と上がった。
こうなってしまえば、鬼たちを追い立てる筋もない。神官は鬼たちを蹴りだすことを止めた。
鬼たちは、神官にへつらうこともなく、薬園の隅で生活を整え、淡々と薬の世話をした。
三百年もすると、小鬼の邪気が薄れ、人の形をとり始めた。
ぱっちりとした瞳の、涙袋の膨れたやんちゃな顔立ちの子供だった。
あんまり精の強そうな顔相なので、薬草の品質になど影響しないか心配したが、それはまあ取り越し苦労だった。
小鬼はゆっくり成長していき、ある時から年々、年をとるようになった。
子供から少年に、少年から青年に体を伸ばし、母鬼をよく手伝って薬園を切り盛りした。
人と変わらないようにみえる姿に、神官はもうそろそろだろうと腹積もりする。
小鬼はこのまま、人と同じ時を過ごし、人生の幕を引くのだろう。
きらきらきらめく木漏れ日を浴びて笑う小鬼は、かつての凶暴な姿が幻だったかのように屈託がなく、健全だった。
よく働きよく笑う明るい青年が薬園にいるという噂は山を下って里に流れ、やがて、ひとりのかわいらしい娘が薬園に姿をみせるようになった。
娘は働き者の母子の正体が鬼だと知っても態度を変える事もなく、ふたりと馴染んだ。
そのうちに、神官は母鬼に、娘を嫁に迎えたいのだと相談される。
神官は、知った事かと顔を顰めた。鬼の母子は勝手に薬園に棲みついているだけで、神官が世話をしているわけでもない。
そういうと、母鬼はまぶしそうに笑った。
天を仰いで目を細めるかんばせに、執念の影などなかった。
ある日の夜。
仙境にて神官は、床に就く前に断根茶を淹れた。その日の分で、茶葉がきれてしまう。
神官はしばらく忙しく、人界に降りている暇はない。しかたがないので小神官に申し付け、翌日とりに行かせた。
それからすぐに、仙境に噂がたちはじめる。
神官が管理する薬園に、美しい鬼の親子が棲んでいる、と。
遣いにやった小神官は、大人しい者ぞろいの金殿の中では珍しく口まめなほうで、見たものを具に報告する性質であったようだ。
まさか神官の妻子か? などとひそひそやられたが、千年以上根を断ってきた筋金入りの童子に子を成せるはずなどない。
ひとりの神官が目の色を変えて薬園に降り立ったのをきっかけに、幾人かの神官たちが覗きに行ったようだが、福地の隅に棲みつき、ただ勤勉に薬草の世話をする鬼の母子になんの面白味も見いだせず、噂は沈静していったらしい。
らしい、というのも、そのあたりの細かい事を、神官は知らない。
噂が沈静する前に、あんまりうっとおしいので別の福地に降り立って、閉閑修行を始めたからだ。
神官は方位を司る将軍であったが、同じ方位を護る将軍がもう一人いた。
そのもう一人は自分の役目に融通がきかないくらい真面目な漢だったので、神官が数十年姿を隠したところで何の問題もない。みずからへの祈願は福地からでも裁量できた。
茶は口の堅い小神官を選んで届けさせるように采配し、静かな福地で独り、神官は修行に勤しんだ。
そうして一つの境界を越え、神官が仙境に戻る頃には、あの薬園の母子はいなくなっていた。
小鬼が天寿をまっとうして浄化したらしい。
すると母鬼も未練がなくなり、ほどなくして形を失ったそうだ。
薬園は今、小鬼が妻を迎えて授かった子が、世話をしているという事だった。
手入れがどうなっているのか、確認しないといけない。これまで断根茶に問題はないようだったが、他がどうかは分からない。世話の仕方がわたし好みでなかったら、また手ずから世話をしよう。
そう思い、久しぶりに神官は薬園へと降り立った。
薬園はかわらず美しかった。
萌える緑が陽光を乱反射して、きらきら、きらきら。水の音、風の音、あおあおとした草木の香り、土の香り。
すこし歩いただけでも、薬園がよく世話をしてもらっている事が分かる。
景色を懐かしんでいると、ふと、異物を認める。
薬園の端に墳墓がたち、その前に、昔なじみの神官が佇んでいた。
やかましいのがいる。と、神官は顔を顰めた。無視して通り過ぎようとしたが、久しぶりに会う神官は眉間の皺を深めつつも、ずんずん距離を詰めてくる。
そうして神官の前に立ちはだかると、大げさな身振りで拱手の礼をとった。
深く拱手してから、顔を上げるついでにごつんと頭を小突いてくる。
殴られる筋合いがないので、神官は神官を蹴りとばした。
蹴られた神官は笑って、慕情の背を叩いた。