其葉蓁蓁堅い壁に頬を預けていると、ふんわりと汗の香りが漂ってきて鼻をくすぐる。
いつも衣に焚き染められている麝香が混じる、深く官能的な香り。
風信の香り。
腹の底が熱くなる。思い瞼を上げて、手元を確かめた。もう、酒は持っていないようだが。
はて。酒をあおったわけでもないのに、どうしてこんなに腹が焼けるのだろう。
首を傾げて見上げると、今宵しずかに嗜んでいた蜜酒よりもとろりと輝く、極上の琥珀色が、私を映していた。
「起きたか?」
「ねていない」
「嘘つけ船を漕いでいたくせに」
「おきている」
「分かった、分かった、この酔っ払いめ。お前はずっと起きていた。起きていたなら承知だろうが、とっくの昔に殿下たちが菩薺観に戻って半刻も前に散会したぞ。部屋に戻るか?」
「んん」
考えるのが面倒で、目を閉じてうるさい壁に頭突きした。また、良い香りがする。風信が何かグダグダ言っているが、その声が、案外ここちよい。
あたたかい音と香りにひたっていたくて、そっと瞼を閉じる。
すると、顎を下から軽く押されて、なにか柔らかい感触がくちびるに触れた。
それが何なのか、目を開けて確認する間もなく、柔らかいふわふわは離れていく。
くちびるに少し、濡れた感覚が残ったので、何だろうかと舐めてみる。あまいあまい蜜酒だった。
柔らかいのと、甘いのと。
よい香りに包まれて、心地がよくて、いっそ嬉しくなってくすくす笑っていると、唸り声がしてまた柔らかいのが覆いかぶさってくる。
「ふ……、ん」
柔らかいものは、濡れた熱い塊になって、私の口の中へ滑り込む。
ちょっと苦しいけれど、熱を帯びて甘さと香りを増した蜜酒がくちいっぱいに広がって、頭をとろけさせてゆく。
「……はあ……」
骨がとろけて座っていられなくなった頃、熱いのが、名残を引いて離れてしまう。
少し残念な気持ちで目を開ける。
すると、驚くほど近くに風信の顔があって、柔らかいのがまた、落ちてきた。
ちゅ、と吸われて、きゅうと胸が締まる。
ああ、夢をみているのか。
なんてしあわせな夢だろう。
舌を撫でる熱にうっとりとして、身が崩れるまま風信にもたれかかる。
「んう、……っふ、」
きゅうう、と、体を締め上げられて、ふしぎな充実感に満たされる。
「……たまらない、むーちん、」
息継ぎができないくらい、甘い蜜を注がれる。
注ぎ込まれているのに、なんだか、私が食べられているみたいだった。
ああ、素晴らしい。
何百年と生きてきて、修行こそあれ少しは酒をたしなむ機会もあった。
薬酒の調合だってするし、宴席で勧められれば口をつけ、ほろほろと酒精に酔って微睡んだことだってあった。
けれど、こんな夢をみたのは初めてだ。
あたたかくて、良い香りがして、甘い。
素晴らしい夢。
謝憐が振舞ってくれた今日の酒は、太蒼山に実る柚子の花からとった蜂蜜をゆっくり熟成させて作ったという蜜酒だった。
ほのかに柑橘が香る、風信の瞳と同じ琥珀色の酒。
二人と出会った故郷の山が育む蜜からできたあの酒が、こんな夢をみさせてくれるのだろうか。
唇が離れて、ほうっと息をつく。
鼻やら頬やらをごしごし擦りつけてきて、ごにょごにょ喋る男に手を伸ばす。
伸ばした手にくっついている指が捕まって、食べられる。
腹の奥になんとも言えない疼きが奔って、身を捩った。
「指を、食べるな」
文句をつけると、やけに真剣なまなざしが私を射抜く。
「いやか?」
いやか、いやじゃないかと聞かれたら、いやじゃない。
「汚いだろう」
「汚くない。もっと食べたい」
それなら、いいか。こんなに切実に食べたいといってくるのだ。食べさせてやろう。
そう思いながらも、体が落ち着かない。
そわそわして、じっとしていられなくて、目のやり場にも困ってしまう。
「……くちづけ、した」
ちゅ、と音をたてて食べられて、少し前の官能を思い出して、ためいきする。
「……いやだったか?」
風信の声が低く、密やかになった。
だから私も静かにこっそり、首を横に振る。
「……もっと、してもいい」
そうっと呟いたら、指を乱暴に握りこまれた。それは好きじゃない。もっと丁寧に扱われたい。
不満を訴えようとしたが、それより先に唇が塞がれる。
これも乱暴ではあったけれど、後ろ頭を捕まえてまさぐってくる手つきは優しい。心地よくなったので、文句は飲み込んでやることとした。
「………」
口づけの合い間に、吐息が言葉を紡ぐ。
うっとりとその音に浸りながら、舌を撫でる熱におぼれた。
めざめると、見慣れた天井をろうそくの灯りがゆらゆらと照らしていた。
見慣れた天井、体にしっくり馴染んだ牀榻。けれど何か、違和感がある。
首を傾げて、枕があんまり堅くて頭が動かしにくくて、顔を顰めた。
枕が、いつもと違うのか。
しかもこの枕、熱くて、でかい。
押しのけようにも牀榻をふさぐくらいに大きくって、堅いけれどもふしぎと肌に馴染み、そしていい香りがすることに気が付いた。
ああ、わたしはまだ、夢のつづきにいるのか。
「ふぉんしん……」
香りを引き寄せると、口づけの雨が降ってくる。
「起きたら、殴られるかと思った」
口づけの合い間に風信が呟くので、私はおかしくなる。
たしかに、コイツに抱きしめられて眠るなんていうことが現実におきていたのなら、目覚めてまず風信を殴りつけるだろう。
だけど、そんなことは起こりえない。
夢だから、私は風信の腕の中にいて、夢の中なのに、おかしな現実味がある。
「殴られると分かっていて、隣で眠るのか?」
笑って、風信の背に手を回す。
「口づけを、なかった事にされたくなかった。それになにより、名残惜しくて離れられない」
「……ああ」
それはまさしく、私の心だ。
できるなら、ずっとずっといつまでも、この夢の中を揺蕩っていたい。
謝憐に、あの蜜酒を分けてもらえるように頼みに行こう。
目覚めても、ふたたびこの夢にまどろむことができるように。
かわりに、何を持っていこうか。福地で採れた桃がよいか。茘枝にするか。
つらつらと考えていると、隣で転がっていた風信が乗りあがってくる。
唇がのどぼとけを食み、首筋を辿って内衣を分け入り、胸をかじった。しらない感覚が体を走って、思わず腕が泳ぐ。やけに質のよい絹の袖が顔を撫でて、びっくりする。なんと、謝憐と血雨探花の成婚百とせの祝いの宴席用に誂えた、上等な衣を着たまま寝っ転がっている。このままでは絹に皺が入ってしまうじゃないか。
「悪い、これは嫌か?」
慌てて飛び起きると、押しのけられた風信が眉を下げた。
こちらはちゃっかり帯を解いて、下着姿になっている。
「服が皺になる」
む、としながら深衣をおとすと、風信も声をきつくした。
「おい、お前、今俺の前で衣を脱ぐ意味が分かっているか? まだ酔ってるな」
「酔っていない」
眠っているだけだ。
反論して、混乱する。
あれ、そうだ、夢の中にいるのならば服の皺なんて、気にかけても仕方がないじゃないか。
いや、それでも気になるものは気になる。習慣というのは面白いものだ。
ふふふと笑いながら内衣まですっかり脱いで衣紋かけにかけると、素肌に野太い腕が巻き付いてきて、褥にさらった。
風信も素肌をみせている。
裸の下に慕情を敷きこんで、あちこち舐めまわしてくる。
「つけこむぞ」
「なに、に」
「お前を、抱きたい。酔ってないって言うのなら、意味が分かって衣を落としたということにする」
「? ああ」
「やっぱり、分かってないな……」
話の合間にもいたずらな舌が体中を辿り、慕情の肌を、吐息がさわるだけでわななく何かに替えていく。舐め上げられるたび、感度が磨かれていくようだった。けれど戦闘の時とは逆に、感覚が研ぎ澄まされるほどに思考が濁り、沈んでゆく。なにも考えられなくなってゆく。
「お前を、抱く。お前の意思を確かめるのは、これが最後だ」
いやか?
夢の中、何度も尋ねられた問いかけが、また、くる。
いやじゃない。
やけに舌足らずな自分の声が聞こえる。
ぶちぶちぶちっと荒い音が空気を割いて、足首が潰れるほどに力がかかり、足を割られる。
鋭い痛みに、慕情ははっと目を覚ました。
何事か、と、慕情は体に神気を巡らせる。
頭がずきずきする。気を高めて酒精を飛ばし、視線を巡らせた。
「悪い、乱暴にした」
耳に慣れた声が聞こえて、するりと足を撫でられる。
足首を握っていたらしい手が、ふくらはぎを辿って太ももをさすり、足を腹に押し付けた。ばっくりと足を開かされ、しかもその足の間には一糸まとわぬ姿の風信がいる!
何が起こっている!!!???
叫びそうになった口を手で覆って、慕情はなんとか悲鳴を飲み込んだ。夜更けに大声で叫んで、小神官たちが駆けつけてこんな場面を見られでもしたら恥が過ぎて正気でいられなくなる。
「優しくする」
慕情の混乱をよそに、風信はちゅ、ちゅ、と先ほど握りつぶそうとした足首を吸ってから、薄く口をあけて慕情の目の前に迫ってきた。
見慣れた男の、初めて見る顔に、ぞくりとする。
「んっ! ……ふ……ん、」
風信の舌が、我が物顔で慕情の口の中で暴れまわり、堅い剛直がせわしなく腹をさする。
なんてものを擦りつけてくるのか!
目を白黒させながら、慕情は今の状況を整理しようとした。
しようと、したけれど、風信の舌が、肌が、体中に熱を擦りこんできて、まっとうに思考することが叶わない。
注ぎ込まれる唾液を飲み込み、きゅ、と拳を握る。
口のなか、ふんわり香る酒精が教えてくれる。風信は酔っぱらって、理性を失しているのだ。
何がどうしてこうなったのか、とんと思い出せないが、どうせ単純な風信の事だ。謝憐と血雨探花の、結び合ったころから変わらない互いを心底愛おしむ姿に当てられて、酔ったついでに盛り上がったのだろう。
たぶん、慕情がいやだと言って、この胸を押しのければ、風信は止まる。
理性を失していたって、根が優しい男だ。無理強いなんてできるやつではない。
酔いが醒めた後、気まずい思いをしたくないのなら、今慕情がやるべきは風信を牀榻から蹴り落とすことだ。
口づけが終わり、きつく瞑った瞼を風信が舐め上げる。
「力、抜け」
やわらかく頭を撫でられて、そろりと目を開ける。
欲に濡れながら、優しく笑う風信が、慕情の視界を埋め尽くす。
……今更蹴り飛ばしたところで、気まずくなるのは同じだ。
それなら、いっそ。たとえ酒の過ちだとしたって、一夜の思い出をもらったっていいのではないか? だって、体が熱くて、何も考えられない。そう、慕情も今日はいつもより酒を過ごしたから、何も考えられないのだ。
言われれるがままに力を抜いて、開かされた足を、そっと風信の腿に絡めた。
褒めるようにまた、頭を撫でられて、それからきゅうっと抱きしめられる。
背中から足の間に指が滑り、風信が求める場所をつついた。
できるだけ力を抜いて、風信の背に縋る。
蝋燭が尽きて、宵闇が二人を隠す。
ほっとして、息を逃しながら風信の胸に甘えた。また、唇が唇に捕まって、体中が風信に埋め尽くされていった。