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    Shiori_pow

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    Shiori_pow

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    厄災戦後、晶ちゃんがヒースクリフに忘れられる話です。
    ハピエンになる予定ではあります……!

    【ヒス晶♀】My wish is only you.   1

     世界の秘密は解明された。壊れかけの世界は救済された。その瞬間、私の役目は終わりを告げて、だからそれはきっと必然だったし、私たちはある程度それを予測していた。
     もう〈大いなる厄災〉とは呼ばれることのない月の、圧倒的な神秘の下、私の身体は淡い光に包まれた。足元から吹き上げるあたたかな風に衣服や髪が舞い上がって、懐かしい音がどこかから聞こえた。チン、とエレベーターが到着する音、行き交う車のエンジンノイズ、雑踏のにぎわい、軽やかなお喋りの声、スマートフォンの着信音――私の世界の音。は、と息をこぼしたところで、私の周囲に立つみんながどよめいた。私の身体が、指先からさらさらと光の砂になって、消滅しはじめたから。賢者。賢者様。賢者さん。賢者よ。――魔法使いたちが、口々に私を呼ぶ。私はぎゅっとくちびるを引いて、
    「みなさん」
     微笑んで、口をひらく。
    「私は、元の世界に戻るみたいです。みなさんに助けられてばかりの賢者でしたが、みなさんを率いる役目をいただいたこと、本当に光栄でした。みなさんに出会えて、みなさんと友達になれて、本当に、」
     いつかこの瞬間が訪れたとき、絶対に言おうと思っていたこと。今日という日を意識して、ずっと胸に置いておいた言葉。
     だけど、言葉の続きを声にしようとしたそのとき、サファイアブルーの瞳と視線が合わさった。その途端に、声になりかけた言葉は失われた。代わりに胸に込み上げたのは、苦しいほどの切なさ。あふれるほどに膨らんだそれは胸をぎゅうと押しつぶして、呼吸すら困難にした。
     ヒースクリフと私は恋人だった。いつか突然に訪れるかもしれない別れを意識しながら、それでも今はそばにいたいと、慎重に指先を触れ合わせるように、大切に紡いできた関係。昨夜、薄闇色の私の部屋で、私を抱きしめながら、ヒースクリフは告げた。
     明日、世界がどう変わろうと、俺の恋は晶様のものです。
     その言葉に、私は頷いた。本当は、もしも私が元の世界に戻ることになったら、私のことは忘れてくださいね、と言ってあげたほうがいいのかもしれないと思った。だけど、そこまで物わかりのいい恋人にはなれなくて、私は涙をこらえながら言った。
     私の恋も、ずっとずっと、ヒースのものですよ。
     別離を予感しながら、その刹那だけは、互いの温度に浸って。
     神秘の月明かりの下、言葉を失った私の手が、完全に光の砂となった。手首も、靴先もさらさらと解けはじめて、それを凝視した私は恐怖した。
     いつか、別れは訪れるのだとわかっていたつもりだった。
     それを互いに承知の上で、ヒースクリフと恋をしていたつもりだった。
     だけど本当に別れが訪れた今、私は何もわかっていなかったのだと思い知る。永遠の恋を打ち明け合っても、私たちはもう一緒にいられない。笑い合うことも、指先を触れ合わせることも、抱きしめ合うことも、もう二度と叶わない。
     あ、と声を落っことしたくちびるがわななく。私は瞳を激しく揺らしながら、その場で立ち尽くした。そうしているあいだにも、腕がさらさらと消滅してゆく。
     ――ヒース。
     口の中で、声にならないまま彼を呼んだ、そのとき。
    「――晶様っ」
     まるで思いが届いたかのように、ヒースクリフの声が私に応えた。揺らぐ瞳を上向ければ、転ぶようにして駆けてきた彼に抱きしめられた。その途端に、バチバチと電流が走るような音がした。私を抱きしめるヒースクリフの腕が一瞬強張って――けれど、もっともっと強く私を抱きしめる。
     彼の重みになし崩しになるようにして、私たちは地面へと膝を突く。私を抱きしめるヒースクリフは、「すみません」と懸命に絞り出したような声で言った。
    「俺、何もわかっていませんでした」
    「ヒース、」
    「晶様。俺はやっぱり、あなたと、」
     そこまで言ったヒースクリフが、くぐもった呻き声を出す。
    「ヒース⁉」
     うろたえる私を抱きしめたまま、ヒースクリフは呪文を唱えた。
    「《レプセヴァイヴルプ・スノス》」
     懸命に、叫ぶように。
     その途端、圧倒的な光が周囲に弾けて、世界が真っ白になった。その眩さにぎゅっと目を瞑れば、私を抱きしめていたヒースクリフの腕が緩む。
    「ヒース、ヒース……っ!」
     真っ白の中、手探りでヒースクリフを探して、彼の匂いと温度を必死で手繰り寄せた。ぎゅう、と今度は私が彼を抱きしめたとき、ようやく白が霧散して。
     白の残像の中で、私に体重を預けたままぴくりとも動かないヒースクリフに動揺していると、
    「賢者様っ」
    「賢者」
     魔法使いたちがこちらへ駆け寄ってきた。ファウストが私のそばに片膝を突く。そうして、私を見て、ヒースクリフを見て、途端に表情を厳しくした。
    「賢者。きみは大丈夫か」
    「私は大丈夫です。ヒースが、」
     早口でまくしたてる私から、ファウストは丁寧にヒースクリフを引き取った。ヒースクリフの容態を確認したファウストは、
    「気を失っているだけだよ」
     と、短く告げる。それに安堵してほっと息を吐くけれど、ファウストの表情は厳しいままだ。
    「ファウスト……?」
     あまりにもただならぬ様子に、おずおずと声を掛ければ、ファウストの代わりにオズの重々しい声が応える。
    「道筋は途絶えた。ヒースクリフが閉ざした」
    「え、」
     言葉の意味が咄嗟にはわからず、私が首を傾げれば、ファウストが渋面で告げる。
    「きみは、元の世界に戻れなくなった」
     え、と声をこぼしたきり、私は言葉を失った。

     白い月が、澄んだ朝空に残っている。
     透明な空気を吸い込んで、カーテンから手を離した私は、振り返って、ベッドに横たわっているヒースクリフを見下ろす。朝の眩さにさらされた白い頬に血の気はなく、力なく結ばれたくちびるも本来の赤みを失ってくすんでいる。数歩、靴先を進めた私はベッドのふちに腰掛けて、片手でヒースクリフの前髪を梳く。さらり、と柔らかな感触が指先に絡む。指の腹を掠めた温度は、ちゃんと命の温度をしている。その事実がわずかでも私を安堵させた。私は静かに目を閉じて、ヒースクリフの温度の残る指先を握りこむ。そうして、軽やかな鳥の鳴き声や風の流れのさざめきの中、彼が呼吸をするごく微かな音を聞いていた。
     私の世界から強い抵抗を受けたのだろう、とファウストは言った。私が光の砂となって消滅しかけていたあのとき、私は、私の世界とこの世界の狭間に立っていたのだという。そこへ、ヒースクリフが飛び込んだ。
     狭間、というものはそもそもが無秩序だ。あちらとこちらの理が行き交い、混合している。招かれざるものが飛び込めば混乱に呑み込まれる。さらに、きみの世界に魔法使いはいない。きみの世界の理は、魔法使いを受け入れない。きみの世界の理に触れたヒースクリフは、激しい抵抗を受けたはずだ。
     その説明を聞いて、ヒースクリフが私を抱きしめたときにバチバチと電流が走るような音がしたことを思い出した。ヒースクリフの腕が、一瞬強張ったことも。それでも、――彼は私を手離さなかった。
     私は目をひらいて、ヒースクリフの面差しを見つめる。精緻で繊細で美しい顔。長い睫毛に縁取られた目は今は閉じられているけれど、彼の青い瞳は、私を穏やかに見つめてくれた。薄いくちびるが紡ぐ柔らかな声は、ごく丁寧に私を呼んだ。柔らかでほんの少しだけつめたいくちびるは、壊れ物に触れるときのようなおののきを含んだ慎重さで、優しく私にキスをした。
     ヒース、と、声になりきれない息の音で彼を呼ぶ。祈るように、願うように。
     元の世界に戻れなくなったとファウストに告げられたとき、またね、を言い置いたまま会えなくなったひとたちの顔が思い浮かんだ。走馬灯が回るように私の心の中を駆け巡って、ひとりひとりが、強烈な切なさを置いていった。
     あ、と息をこぼして呆然とした。瞳がふるえて、指の先も小刻みにふるえた。それでも、絶望と呼べるほどの深刻な恐慌状態へ陥らなかったのは、胸を埋め尽くした失意と釣り合うだけの安堵があったからだ。
    「――ヒース」
     今度はちゃんと声に出して、彼を呼んだ。意識を失ったままの彼が答えることはないとわかっていたけれど、祈るように、願うように。
     そうして、ぎゅっとくちびるを噛んで涙を堪える。
     元の世界に戻れなくても、あなたと運命をまっとうできるなら。
     その思いが、失意にもたらされた安堵の正体だ。
     光の砂となって消滅しかけたあのとき、私は、ヒースクリフと永遠に分かたれることに恐怖した。彼と別離するということがどういうことであるのかようやく理解して、それに戦慄し、愕然とした。
     だから、もしもこの世界でずっとヒースクリフのそばにいられるのなら、失意を抱えて生きていけると思った。
     あなたと笑い合って、指先を触れ合わせて、抱きしめ合うことができるなら。
     それなら、私は――。
     ぎゅ、と膝の上で手を握りしめたとき、とんとんとん、と丁寧なノックの音が聞こえた。顔を上げて扉を見て、けれどここは私の部屋ではないので、返事をするのは変だろうかと一瞬迷ったところで、
    「入るね」
     と、穏やかな声が言った。フィガロの声だった。静かに扉をあけて入室してきたフィガロは、ベッドに腰掛ける私に眼差しを合わせて、小さく笑む。幼い子供をあやすような、お医者さんの笑みだった。隣にはシノもいた。
    「朝食ができたみたいだよ。ヒースクリフは俺が見ておくから、きみは朝食をとって、少し休んで」
     フィガロが、お医者さんらしい口調で言う。
     私はヒースクリフの面差しを見て、フィガロを見て、「でも、」と控えめに戸惑った。そんな私に近づいて、私の目を覗き込んだフィガロは、ごく気軽な声で続けた。
    「きみが倒れたら、ヒースクリフが目を覚ましたときに気に病むよ」
     フィガロらしい、相手を説得する術を的確に心得た言葉選びだと思った。それでいて、ヒースクリフが目を覚ますという希望を台詞に込める優しさがある。
     私は少し笑って、「わかりました」と答えた。
     フィガロは頷いて、扉の横に立つシノを振り返る。
    「シノ。賢者様に付き添ってあげてね」
    「わかってる」
     短く応じたシノは、つかつかと私に歩み寄る。ルビーレッドの瞳が、私を見下ろす。
    「行くぞ。賢者」
    「はい」
     私は頷いて、ベッドから立ち上がった。

     静かな廊下に、ふたりぶんの足音が響く。シノの靴先が鳴らす硬質な音は、多分の焦りや憤りを含んでいるように思えた。固くくちびるを結んだシノの横顔を見て、私は慎重に口をひらく。
    「すみません、シノ」
     シノは足を止めて、驚いたように私を見る。
    「どうしてあんたが謝る」
    「私のせいでヒースがこんなことに」
    「賢者のせいじゃない」
     即座にそう告げたシノは、少し顔をしかめて、続けた。
    「あんたに苛立ってるわけじゃない」
     シノの瞳が揺れる。その表情は、戸惑っているようにも、困窮しているようにも見えた。睫毛をふるわせてまばたきをしたシノの手が、胸の前でぎゅっと握られる。
    「無茶をされるとこんな気持ちになるんだって、わかった」
     普段のシノの振る舞いとは打って変わって、弱く頼りなげな声だった。は、と息を呑み込んだ私は、伏せられたシノの瞳を見つめて、おずおずと口をひらいた。
    「原因となった私が言えることではないかもしれませんが」
     そう前置いてから、続ける。
    「ヒースは大丈夫ですよ。フィガロが診てくれましたし、ファウストが祝福の魔法をかけてくれました。それに……大丈夫だってシノが信じています」
     そっと微笑めば、シノが泣きそうな顔をする。そうしてゆっくりとまばたきをしたシノは、ルビーレッドの瞳で私を見つめた。
    「ヒースが目を覚ましたら、ヒースと結婚してくれ」
    「えっ……⁉」
     唐突な言葉に私が戸惑えば、シノは真剣な面差しで続ける。
    「ヒースは無茶をしない。いつだって、思慮深く冷静だ。でも、あんただから、無茶をした」
     淡々と告げられる言葉は、けれどとても重々しくて、私も表情を真剣にする。その次の刹那、シノが懺悔をするように床へ片膝を突いて頭を垂れた。
    「シ、シノ……⁉」
    「元の世界に戻るはずだったあんたを、ヒースがこの世界に引き留めた。そのことに対する非難や恨み言は、従者であるオレが全部引き受ける。だからあんたは、これまで通りヒースを愛してくれないか」
    「ま、待ってください、立って……頭を上げてください」
     慌てて膝を折って、シノと目線を合わせる。思いつめたような瞳をしているシノをまっすぐに見たまま、私は注意深く言葉を選ぶ。
    「ヒースを恨むような気持ちはありません。もちろん、何も戸惑っていないといったら嘘になりますけど……でも、」
     ひとつ、慎重に息を吸ってから言葉を続ける。
    「光の砂になった自分の手を見たときに、怖いと思ったんです。もう二度とヒースに会えないんだって思って」
    「……賢者」
     ゆっくりと顔を上げたシノが、気抜けしたように呟く。私はぎこちなく微笑んだ。
    「だから、ヒースが目を覚ましたら、これからのことを話し合います。私の気持ちを全部伝えて、ヒースの気持ちをちゃんと聞いて、その上で、私たちがどうするのかを」
    「……わかった」
     短く頷いたシノは、祈るように目を閉じた。そうしてふたたびゆっくりと目をひらくと、私の手を取りながら立ち上がる。
    「食堂へ行こう」
     シノに促されて立ち上がった私は頷いた。エスコートするように握っていた手を解いて、一歩、シノが靴先を進める。
     そうしてシノとふたりで食堂へ向かうと、そこにはにぎやかな光景がひろがっていた。
     テーブルの上に並んだ、焼き立てのパンにオムレツ、目玉焼き。ココットにキッシュ、サラダ。
    「おはようございます、賢者様」
     斉唱のように重なったミチルとリケの挨拶。
    「おはようございます、ミチル。リケ」
     笑顔で応じれば、横からカインの挨拶も飛んでくる。
    「おはよう、賢者様」
     ハイタッチはもう必要ないのだけれど、つい、いつもの癖で。
     壊れかけの世界は救済された。だからもう、この場所で魔法使いたちが共同生活を送る必要はない。思い思いの居場所に帰って構わないのに、
    「おはようございます」
    「おはよう。賢者様」
    「よう、賢者」
     北の魔法使いまで今朝もここにいてくれるのは、きっと。
     またね、を言い置いたまま会えなくなったひとたちが、もう戻れない世界にいる。胸が押しつぶされそうになるほどの切なさが、完全になくなることはきっとない。
     だけど、大切な友達がいるこの世界で、私は前向きに生きていけると思った。
     魔法使いたちと言葉を交わして、あたたかな朝食を口にしながら、私は穏やかに笑った。
     大切な友達と、大切なひとがいるこの世界で、幸せに生きていけると思った。
     ヒースクリフが目を覚ましたのは、その日の午後だった。

     私は自室のベッドで、普段着のまま休息を取っていた。まどろみのふちで揺蕩っていた意識に、とんとんとん、と慌ただしいノックの音が響いた。
    「は、はい!」
     少し裏返った声で返事をすれば、がちゃっと荒っぽく扉がひらく。入室してきたのはシノだった。
    「ヒースが目を覚ました」
     それを聞いた途端に、私はベッドから飛び起きた。すぐ向かいのヒースクリフの部屋の扉はあいたままだった。私は、ベッドから飛び起きた勢いのまま、転ぶようにして駆けこんだ。
    「ヒース! よかったです、目が覚めて……」
     ベッドの上で上体を起こしたヒースクリフと視線が重なった瞬間に、違和感は覚えた。けれど胸に込み上げる圧倒的な安堵に比べたらそれは些細なもので、私は構わずにベッドへ近寄った。枕元にはフィガロが立っていた。
    「身体、痛いところはありませんか?」
     サファイアブルーの瞳を見つめれば、ヒースクリフは落ち着きなく眼差しを揺らめかせた。
    「は、はい……」
     かろうじて返事はあったものの、どこかいつもと様子が違う。
     どくん、と胸の内で心臓が低い音を立てた。
    「ヒース……?」
     慎重に名前を呼べば、彼は困窮しきったように眉根を寄せた。かたちのいいくちびるが、ゆっくりとひらいて、動いた。
    「申し訳ありません。かつてお会いしたことがあるのだろうと思うのですが……失礼をお許しください」
     ヒースクリフは、私に向かって丁重に頭を下げた。え、と私は息をこぼす。たった今、ヒースクリフが発した言葉の意味がわからなかった。
    「何言ってる、ヒース。賢者だぞ」
     立ち尽くす私の横をつかつかと進んで、シノがヒースクリフの肩を掴む。シノを見上げて驚いた顔をしたヒースクリフは、
    「賢者様……? 俺たちを導くっていう……」
     戸惑いの声音でそう言った。シノが絶句する。
     呆然と立ち尽くす私の前で、フィガロが膝を屈めてヒースクリフに視線を合わせた。
    「ヒースクリフ。俺のことはわかるかい?」
    「フィガロ先生……」
    「彼は?」
    「シノです」
    「なら、彼女は?」
     フィガロに問われたヒースクリフは、不安げな眼差しで私を見上げた。
    「賢者様、ですか……?」
     頼りなげな声音は、私の一切に疑問と困惑を投げかけている。
     どくん、と胸の内で心臓が低い音を立てる。身体全体から瞬く間に熱が引いていく感覚に襲われた。
     
     絶望、という感情を抱いたときはもっと、取り乱したり泣き叫んだりするのだと思っていた。
     だけど、力なくあいたくちびるからは、ひとつも言葉が出てこなかった。身動きを失って立ち尽くしたまま、見ひらいた目で、眼前の現実を見つめていた。
     フィガロが、ヒースクリフに問う。
    「きみが覚えている中で、最も新しい記憶は?」
    「眩い光が辺りに満ちて、〈大いなる厄災〉が夜空へ帰っていって、歓声が上がって……ふらついて膝を突きかけた俺を、ファウスト先生が支えてくれて、……それで、そのあとは……」
     言葉を戸惑わせて、ヒースクリフは不安げに瞳を揺らす。「うん、わかった」と穏やかな声で応じたフィガロは、シノを見た。
    「シノ。賢者様を彼女の部屋へ。付き添ってあげていて」
    「……わかった」
     固い声で頷いたシノが、身体ごと私に向き直る。
    「行こう。賢者」
    「……はい」
     ひどく掠れた声でようやく返事をして、私は足を動かした。シノに肩を抱かれるようにして踵を返せば、ヒースクリフの姿が視界から失われる。一歩、二歩、と靴先を進めた。不安定なシーソーの上を歩いているような感覚。ぎぃ、と世界が傾いで、足元の床を踏み外しそうになる。
     シノに支えられながら、自室までを歩いた。ぱたん、と背中側で扉が閉まった途端、ふっと身体から力が抜けて、私は膝から崩れ落ちるように床へうずくまった。
    「賢者っ」
     焦った声を出したシノが、床へ膝を突いて私に寄り添う。
     ごめんなさい、と言おうとした。けれど、くちびるがふるえて、上擦った呼吸が濡れて、頬を涙の感触が滑り落ちる。
     ほろ、と静かにこぼれた涙は、顎先を伝って床へと落ちた。
     大切な友達がいるこの世界で、大切なひとがいるこの世界で、幸せに生きていけると思った。心に灯った希望の名残は、まだあたたかいのに。
     私に向けられた疑問と困惑。戸惑いの声音。落ち着きなく揺らめいたサファイアブルーの瞳。
    「……ヒース、」
     恋人の名前を呆然と呼んだ。名前を呼べば、あなたは優しい眼差しを向けてくれた。目を細めて、柔らかな声で私を呼び返してくれた。繊細な指先で、私の髪を梳いてくれて、そうして。
     呼吸をわななかせて涙をこぼす私の肩を、シノが両手で掴む。私の目をまっすぐに見つめて、「大丈夫だ」と告げる。
    「忘れるなんて、そんなはずはない」
     濡れた視界の中で、私を見据えるルビーレッドがきらめく。
    「あんたは、ヒースが心に決めた相手だ」
    「……シノ」
    「起き抜けで混乱してるだけだ。あいつは、寝起きが悪い」
     シノが淡々とした口調で言い捨てる。その気軽さに幾分か勇気づけられる心地で、私は泣き顔のまま微かに笑った。
     ――あんたは、ヒースが心に決めた相手だ。
     ヒースクリフの幼馴染であるシノの言葉は、力強かった。その言葉が、ふたたび心に希望を灯した、――けれど。
     結論から言えば、ヒースクリフは私のことを忘れてしまった。
     窓から差し込む夕焼けのオレンジを浴びながら、フィガロは静かに告げた。
     恋は時に、信仰よりも一途で、衝動よりも無謀で、祈りよりも痛切なものだよ。強固で鮮烈な思いは、心で使う魔法にとって、最上級の媒介になり得る。
     おそらくヒースクリフは、一途な恋を、――きみへのひたむきな思いと、それに密接に絡んだ記憶を、媒介にした。ミスラにも、オズにも使えない魔法を成立させるために。
     世界の狭間に導かれたきみを、この世界に取り戻すために。

     午前のきらめきを含んだ清々しい風が、ささやかな葉擦れの音を運んでくる。涼しさになびいた髪を指先でなでつけて、私はそっと息を吸った。
    「ヒース」
     中庭に佇む彼に声を掛ければ、彼は少し肩を跳ねさせて、私を振り向いた。サファイアブルーの瞳をわずかに緊張させて、慎重に、丁寧に私に視線を合わせる。
    「……賢者様」
     ぎこちなくそう応じた彼は、少し考えるような顔をして、礼儀を尽くした声音で問う。
    「以前の俺は、あなたのことを何とお呼びしていましたか」
    「賢者様。もしくは、……晶様、と」
     私がそう答えれば、ヒースクリフは少し困ったように眉を下げた。
    「どちらでお呼びすることが多かったですか」
     真面目で誠実な彼は、私たちの関係性を可能な限り再構築しようとしてくれる。彼のその気質に訴えれば、私が望むことや願うことは、きっとすぐに叶えられるのだろうとわかっていたけれど。
    「どちらでも構いません。もちろん、どちらでもなくても。今のあなたが呼びたい呼び方で呼んでください」
     え、と声をこぼすヒースクリフに、私は丁寧にお辞儀をする。
    「初めまして、ヒースクリフ。私は真木晶です。ここではない別の世界からやってきました。月と戦うあなたたちを率いる、賢者の役目を務めていました。それから、ええと……あっ、猫が好きです」
     少しはにかむ私を見下ろして、ヒースクリフは戸惑ったように目を瞬く。途端に切なさや苦しさが胸に過るけれど、私は笑みを深めて続けた。
    「よかったら、私のことを知ってください。よかったら、あなたのことを教えてください。そうして、あなたと、仲良くなれたら嬉しいです」
     祈るように、ブルーサファイアの瞳を見つめれば、彼は瞳の緊張をほんの少し緩めて、ぎこちなく私に微笑んでくれた。
    「光栄です、賢者様。俺も、あなたと良い関係を築いていけたらと思います」
     ――真面目で誠実な彼は、私たちの関係性を可能な限り再構築しようとしてくれる。彼のその気質に訴えれば、私が望むことや願うことは、きっとすぐに叶えられるのだろうとわかっていた。
     だけどそうして手に入れた関係は、きっと、私のことも彼のことも苦しめる。
     心を何よりも大切にする彼らの在り方に触れてきた。そんな彼らと、大切に心を繋いできた。
     賢者という私の役目は終わったけれど、この世界で生きる私は、彼らから教えられたすべてを忘れたくない。
     だから私は、私たちが恋人だったことをヒースクリフに伝えないことにした。
     涼やかな風が、私たちのあいだを吹き抜ける。その爽やかさに勇気づけられる心地で、私は口をひらく。
    「クロエとルチルが、お茶に誘ってくれたんです。よかったら、ヒースも一緒にいかがですか」
    「はい。ぜひ、よろこんで」
     丁寧な微笑みを交わし合って、私たちは中庭を後にした。

     もしも――もしも、私たちが運命というもので結ばれているのなら、私たちはきっともういちど恋に落ちるから。



       2

     私たちが、恋人、という関係になる少し前のことだった。
     デスクの上のランプの灯りが柔らかく揺れる、ヒースクリフの部屋で。魔法でねじが巻かれたオルゴールの繊細なワルツが響いて、
    「そうです、そのまま……」
     いち、に、さん――と、囁くようなヒースクリフの声がリズムを刻む中、ヒースクリフに片手を預けて、私は懸命に足を動かしていた。緩やかなリズムに合わせて、いち、に、さん。いち、に、さん。それを何度も繰り返していると、少しずつステップがわかってきた。靴先を床につけて、離して、膝を曲げて。ぎこちなかった動きがだんだんと軽やかになってきて、表情にも少し余裕が生まれてきた。いち、に、さん。いち、に、さん。――楽しくなってきて、ふ、と笑みをこぼしたとき。
    「慣れてきましたね」
     そう言ったヒースクリフが、やんわりと動きを止める。
    「はい。だいぶ……!」
     ステップを踏む足を止めた私は、彼を見上げて笑みを返した。すると彼は微笑を浮かべて、私に向き直る体勢になる。
    「では、実際に踊ってみましょうか」
    「はい!」
     やるぞ、という気持ちで、私は元気よく頷いた。つい今まで軽やかにステップを踏んでいたせいか、気分もそれなりに高揚していた。
     だけど、ほんの数秒ののちに、私は借りてきた猫のように口数を失った。
    「お手を失礼しますね」
     と、ヒースクリフが私の右手を握った。先程彼に片手を預けていたときとは違って、ぎゅ、と肌と肌をぴったり組み合わせるみたいに。室内だから、彼は手袋をはめていない。少しひんやりとした彼の温度が、じかに密着する。その瞬間に、気づいた。なよやかで繊細だと思っていた彼の手は、私のそれよりもずっと骨っぽくて大きい。
     は、と息を詰めた私のすぐ間近で、ヒースクリフが囁く。
    「賢者様。左手を俺の肩にのせてください」
    「は、……はい、」
     声は、不安定に掠れて上擦った。それをひどく決まり悪く思いながら、ぎこちない動きで彼の肩に左手をのせると、
    「――失礼します」
     彼が私の背中に手を回して、ぐっと身体を引き寄せた。途端に近づいた彼との距離に、私の息は刹那止まった。
    「では、先程のようにステップを踏んでみましょう」
     その言葉に我に返って、
    「は、はい」
     慌てて返事をした。ランプの暖色の灯りを滑らかな頬の輪郭にまとわせたヒースクリフは、ふたたび緩やかにリズムを紡ぐ。――いち、に、さん。いち、に、さん。
     長い睫毛の影を色濃く映して、ほんの少し彩度を落としたサファイアブルー。高い鼻筋も、薄いくちびるも、夜色の影を静謐にまとっている。
    「重心の移動に合わせて、身体を動かしてください。俺がそちらへ重心をかけたら、足を後ろへ」
    「……はい」
    「反対に、俺が身体を引いたら、足を前へ」
     頷くのが精一杯だった。胸の内で鼓動する心臓の音がうるさくて、オルゴールのワルツがよく聞こえない。
     いち、に、さん。いち、に、さん。――ヒースクリフが口ずさむリズムを懸命に辿ってステップを踏んだ。けれど何度目かのそれのあと、ふっ、と彼が私から目を逸らした。いち、に、でリズムが途絶えて、私は靴先を戸惑わせる。
    「……すみません」
     ヒースクリフが顔を俯けた。けれど彼より背の低い私には、はっきりと。
     魔法でねじを巻いていたオルゴールのワルツが、緩やかになって、消えゆく。
     一秒の無言ののち、
    「……いえ」
     と、私は上擦った声で返した。それ以上の何かを言う余裕なんてなかった。
     だって、私の頬だって、きっとヒースクリフと同じだけの熱の色に染まっていたはずだから。

       *   *   *

     昼下がりの眩さを溶かした談話室は光と影のコントラストが鮮明で、空間できらめく微細な埃や、カーテンのドレープに沿った暗色の影が、たとえばセピアの写真みたいな、どこか懐かしいような雰囲気を醸している。
     懐かしさ、はともすれば切なさになる。たとえば、からくり時計の仕組みについてほんの少し詳しくなったいつかの昼下がり。たとえば、紅茶の香りの中で交わした何でもないお喋り。――不意に意識が無意識へ沈めば、今はもう一方通行になってしまった記憶を思い出して、胸に切なさが飛来する。だから、
    「素敵でしょう? この前、ルチルと一緒に、王都へ行ったときに見つけたんだ!」
     軽快に弾むクロエのお喋りがありがたかった。クロエへ預けた左手の、淡いピンクに塗られた薬指の爪へ、パール色の小さなビーズが置かれる。ふたつ、みっつ、バランスよく並べられたビーズは、私の爪にさりげない華やかさを添えた。
     透明なトップコートを重ね塗りしたあとに、ネイルの仕上がりを確認したクロエは、よし、と小さく呟いた。
    「じゃあ、乾かしちゃうね! 《スイスピシーボ・ヴォイティンゴーク》!」
     クロエが呪文を唱えると、即座にマニキュアが乾いて固まった。魔法ってやっぱり便利だなあと感心した私は、自分の爪を見つめて思わず笑みを浮かべる。
    「綺麗……! 気分が華やぎます。ありがとうございます、クロエ」
    「えへへ! どういたしまして」
     クロエが嬉しそうに笑ったそのとき、かちゃりと扉がひらく音がした。音がしたほうへ視線を向けると、わずかに表情を緊張させたヒースクリフと目が合う。私を認めた彼は、ぎこちなさを残した笑みで会釈をする。
    「こんにちは、賢者様」
    「こんにちは、ヒース」
     私が挨拶を返せば、次にヒースクリフはクロエへと向き直る。「こんにちは、クロエ」と、クロエに向けられた笑みは柔らかい。その笑みがかつては私にも向けられていたことを思えば胸に切なさが過るけれど、それを決して気取られないように、私はきゅっと口端を持ち上げる。
    「やっほー、ヒース。……あれ、蝶?」
     クロエの言葉を聞いて、ヒースクリフの顔の辺りに綺麗な青色の蝶が飛んでいることに気づいた。
    「あ、うん。ブローチを探していて……」
     ヒースクリフがそう言うあいだに、ふわりふわりと舞う蝶は、優雅に羽を動かしながら、私とクロエが隣り合って座るソファへと着地した。と、クッションの隙間にきらりと光るものがあることに気づく。ヒースクリフがいつも胸につけているブローチだ。
    「わああ、ごめんね! 全然気づかなかった。俺、お尻で踏んじゃってたかも……」
    「私もです! ごめんなさい、ヒース!」
     大いに慌てる私たちに、ヒースクリフも慌てたように手を振った。
    「いえ、落とした俺が悪いのでお気になさらないでください。クロエも、気にしないでね」
     丁寧に微笑んだヒースクリフは、ソファへと数歩足を進める。私はクッションの隙間からブローチを拾い上げて、それをヒースクリフへと手渡した。ほんの一瞬、指先と指先が触れ合う。
    「ありがとうございます」
     胸の前に右手を添えてお辞儀をしたヒースクリフが、ふと、私の手元に視線を止めた。
    「マニキュアですか?」
    「あ、はい。明日のパーティーのために、クロエが塗ってくれたんです」
     手をぱっとひらいてヒースクリフに差し出せば、彼はまじまじと爪を見つめたあと、はっと気づいたように表情を慌てさせる。
    「すみません、失礼いたしました。不躾に見つめてしまって……」
    「いえ! つい見てしまいますよね。すごく綺麗に塗ってあるから」
    「は、はい……。描かれている花がとても繊細で」
     クロエに視線を向けたヒースクリフは、「やっぱり、クロエはすごいね」と笑いかける。クロエははにかむと、照れくささをごまかすように早口で話しはじめた。
    「賢者様の世界の、サクラって花を描いたんだ。賢者様の明日のドレスは澄んだ湖みたいな淡いブルーなんだけど、柔らかいピンクがブルーに映えるかなって思って。……って、ああ、立たせたまま話しちゃってごめんね! 座って座って!」
     クロエに促されて、ヒースクリフが隣のソファに座る。そのまま三人でお喋りをするような流れになった。
    「サクラって、花の時期と葉っぱの時期が別々なんだって。珍しいよね!」
    「え、葉がないのに花が咲くの?」
    「葉っぱと花が同時に咲く品種もあるみたいなんですけど……なじみがあったのは先に花だけが咲く品種で。一面ピンクになって、すごく綺麗なんですよ」
    「そんな花があるんですね。賢者様の世界は興味深いです」
     ヒースクリフが感心した声を出したとき、「ああ、花といえば!」とクロエがぱちんと両手を合わせた。
    「この前、ルチルと行ったお店でね、食べられる花があったんだ!」
    「食べられる花ですか?」
     私は目を瞬く。
    「スミレの砂糖漬けとか?」
     ヒースクリフが、続けて首を傾げる。
    「ううん! 飴とチョコレートとケーキでできた花なんだ! お皿の上で小さいブーケみたいになってて、すごく可愛くて、美味しかったよ!」
     へえ、と感嘆する私とヒースクリフの声が重なった。
    「食べてみたいです」
     ごく素直にそう言えば、「俺も、食べてみたいかも」とヒースクリフが言った。どき、としたのは、彼を誘えるかな、という下心めいた思惑が頭に過ったから。
     恋人という関係にあったときなら、ごく当たり前のように誘えていた。それよりずっと前、彼への恋を自覚する前も、何の気なしに友人として。
     だけど明確に恋を抱える今、しかもそれが独りよがりだと自覚している今、自分の中に存在する期待や打算に怯んでしまう。自分の口から発される言葉が、どうしようもなく不誠実なものに思えてしまう。
     だから私はそっと眼差しを伏せたのだけれど、軽やかなクロエの声がぱっと弾ける。
    「あっ、そうしたら、お店を教えるね! せっかくだから、ふたりで一緒に行っておいでよ!」
     えっ、と私は顔を上げた。
    「王都の、ブティック街から少し歩いたところ。お店の名前は――」
     言いながら、クロエが私のほうを見て、さっとウインクをした。
     私は膝の上でぎゅっと手を握りしめて、思い切って口をひらく。
    「もし、ヒースがよければ、一緒に行ってみませんか」
     どくどくと、身体全体を忙しなく血が走り抜ける音がする。握りしめた手のひらの中に汗がにじんで、たった一秒がとてつもなく長く感じた。
    「あ、はい。こちらこそ、俺でよければぜひ」
     笑みはやっぱり少しぎこちないけれど、柔らかく親しみのこもった声音だった。途端に安堵する心地になって、私はひそやかに息を吐く。
    「凱旋パレードとパーティーが終わったあと、少し実家に戻ることになってるんです。それが終わってからでもいいでしょうか」
    「はい。もちろんです」
     サファイアブルーの瞳を見つめて、笑みを浮かべて返事をした。ヒースクリフの面差しに差す、昼下がりの眩さが美しいと思った。

    (続く)
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