【飯マジュ】空っ風とダッフルコート コンビニから出ると、真冬の風が吹きつけ思わず肩を竦めた。コートを着ている僕でさえ寒くて仕方ないのに、マジュニアさんは制服だけで平気なんだろうか?
駐輪スペースが混んでいて、自転車をずいぶん隅へ停めてしまった。駐車場を横切る途中、前を歩いていたマジュニアさんが不意に足を止める。
「どうしました?」
「自転車に何かついてる」
慌てて足を早めると、二人で乗ってきた僕の自転車に、ワイヤーロックがかけられていた。
「えーっ、いたずらかなぁ?」
マジュニアさんをちらと見遣ると、困ったような、憤慨したような表情で黙り込んでいる。時間はそう遅くなかったが、日が暮れるのが早い季節だ。夕焼けさえも失せかけて、空の端にはもう夜が顔を覗かせていた。
「走れないな……」
「うん、どうしましょうか」
二人してしゃがみこんでよく見てみると、華奢なワイヤーを小指ほどの太さに束ねたもので、いかにも安物といった感じだ。これは、ちょっと頑張れば千切れるかもしれない。手を出しかけて、同じく反対側から手を出しかけたマジュニアさんと目が合った。
「……これ、鍵がないと外せないものだよな?」
「そう……うん、そうです。困ったな」
僕は慌てて手を引っ込め、マジュニアさんも出しかけた手を僕と同じように引いた。危なかった。マジュニアさんは僕のことを、勉強ばかりしている穏やかな男と思っているのだ。そんなところを見せては、怖がらせてしまうかもしれない。
「マジュニアさん、僕これどうにかしますから、今日は歩いて先に帰って」
「いや……ネイルの家が近いから、切る道具でも持って来てもらおう」
ちょっと戸惑ったが、ありがたい提案だった。僕はあまりネイルさんとは交流はないが……薄暗い中、マジュニアさん一人で歩いて帰らせるのも気が進まない。大人しく、甘えることにする。
立ち上がって電話をかけはじめるマジュニアさんを何気なく見上げたら、危うくスカートの中が見えそうになり、僕も慌てて立ち上がる。わざとじゃないんです、見えてません、と胸中で言い訳をするが、マジュニアさんは全く気付いていない。
「……そう、ワイヤーの束で……小指くらいだ。え? 出来ると思うけど嫌だ、悟飯がいるのに……なんだよ、笑うなよ! 頼んだからな!」
ちょっと声を荒げて、マジュニアさんは電話を切る。僕がいるとしたくないこととは、何だろう。生じた疑問を深く考える間もなく、マジュニアさんはため息をついて僕を振り返った。
「15分くらいで来る」
「すみません、マジュニアさんだけでなくネイルさんにまで迷惑かけて」
「いや、オレは……それにあいつも面白がってる……」
僕らは揃って、すぐそばの金網に凭れ掛かった。コンビニの駐車場は、入っては出て行く車たちでひとときも落ち着きがない。
ダッフルコートの首元を、北風が吹き抜けていく。空は瞬く間に暗くなって、街のあちこちにある看板にも明かりが灯りはじめた。マジュニアさんはじっと押し黙ったまま、夜に変わりはじめる景色を睨みつけている。その首筋が、短いスカートから伸びる脚が、寒そうに見えて仕方がない。
「マジュニアさん、僕のコート着てください。風邪ひいちゃいます」
ボタンを外しながら話しかけると、マジュニアさんははっとしたようにこちらを見た。
「いい。お前が寒くなるだろ」
「僕は大丈夫ですから」
「オレだって大丈夫だ!」
脱いだコートを肩にかけようとすると、全身で拒否されてしまう。マジュニアさん相手にあまり力ずくにもなれず、僕は狼狽える。とうとう、逆に元通りにコートを着せられてしまった。ここまで拒否されると、何だかショックだ……僕が着ていたものなんか、羽織りたくないということなのか? 暗澹とした気持になりかけていると、険しい目をしていたマジュニアさんがふと瞼を伏せた。
「きっと、オレのせいなんだ……」
「何がですか?」
「いたずらされたの……オレのこと、嫌ってる奴は多いし……お前を巻き込んだ上に寒い思いまでさせられない」
マジュニアさんは珍しく弱気な口調で、僕に目を合わせようともしない。普段とあまりに違うその様子がどうにも痛ましくて、僕は今すぐ犯人を捕まえて一発殴ってやりたい気分になった。自分の自転車にいたずらをされたことよりも、マジュニアさんにこんな顔をさせていることが、許せなかった。
「悪かったな、オレのせいで」
「マジュニアさんのせいじゃない!」
思わず大声を上げてしまい、マジュニアさんが目を見開く。
「もしマジュニアさんを困らせようとした誰かがやったんだとしても、直接言わず、卑怯なことする人が悪いに決まってます。マジュニアさんのせいじゃないです、絶対」
「……怒ってないのか?」
「怒ってなんか……いや、怒ってますよ、コート着てくれないから。貸すから、着てください、風邪ひいちゃう」
しばし沈黙があった。
金網から身体を起こしていたマジュニアさんが、じっと僕を見つめている。思案と戸惑いの風情だったが、とてもとても小さく、ありがとう、と聞こえた。何か返事をしようと口を開きかけたそのとき不意に、するりと、マジュニアさんの身体が僕のコートへ滑り込んでくる。
「ちょっと! 脱いで貸しますから!」
「でも……こうしたら二人とも寒くない」
僕に背中を預けて、何でもないことのように言う。背丈はほとんど同じだが、マジュニアさんは脚を前に投げ出すように僕に凭れていたため、少し見下ろすような角度だった。尖った耳の先が、俯けば噛んでしまえるほどの位置にある。
多分こういう時、腕を回したりするのが正解なんだろう。けれど僕は、固まるばかりで何も出来なかった。手袋を着けた手をポケットに突っ込んで、マジュニアさんが僕へ凭れるに任せていて情けないことこのうえなかった。マジュニアさんは自分でコートの前をかき合わせて、往来を眺めている。
車道も歩道もすっかり夜に満ちて、時おり吹く北風が、街路樹に辛うじて残っている枯葉を散らしていた。コンビニの灯りはますます眩しく、吸い寄せられる冬の装いの人々は手に手にあたたかいコーヒーを持って自動ドアから吐き出されてくる。
コートの中にある身体は確かに温かいのに、生き物の匂いがしなくって、まるで植物を抱えているようだ。ここからだと顔もよく見えないから、尚更そう感じる。僕に怒ったり、反発したり、叱ったり、憤慨したり……考えてみれば、思い出されるマジュニアさんの表情は不機嫌なものばかりだ。けれどそれで良いと思えた。先程の、こちらを窺うように遠慮がちなさまは新鮮で可愛らしくも思えたが、やっぱりいつもの強気なマジュニアさんの方がいい。
どれくらいそうしていただろう。
僕も段々と落ち着いてきて、一瞥して通りすぎる人たちも既に気にならなくなった。
「……オレの親族はみんな背が高いから、きっと大人になったら、こんな風にはできないな……」
誰にともなく、マジュニアさんが溢す。
「……大人になっても、僕とこんな風にしてくれるんですか?」
途端、マジュニアさんが身体を起こして振り向く。あまりに近くで交わったまなざしに息を呑むと、一瞬の沈黙のあと、ネイルが来た、と短く告げた。顔を上げてみれば、駐車場の向こうに、ニッパーだけを片手に提げたネイルさんが見えた。
「早すぎるな、あいつ」
呟いて、入ってきた時と同じくらい自然に、僕のコートから出ていってしまう。
呆然としている僕を置き去りに、マジュニアさんは自転車を指差しながら何やら説明している。僕も漸くのことで身体を起こし、二人の方へ歩きだした。マジュニアさんが、早く! と急かす。急に呼び出されたにも関わらず、ネイルさんは心底面白そうに笑っている。
僕は頭を下げ、二人の会話に加わった。ほんの一瞬だけ、ひどく近くでかち合い、ロックされたように動かせなかった視線を思い出しながら。