【飯PネイP】煙るバーカウンターにて/03ブルームーン 火曜の繁華街は、週末に比べるといくらか落ち着いていた。古びたビルの周りにも、そう酩酊している人はいない。夜の街に生きる人々が足取り軽やかに行き交い、曜日の感覚の薄れている学生たちだけが、酔いのまわった陽気さで語り合っている。
足音の響く薄暗い階段を上がり、四階にある『Veil』の扉を開けると、前回と違いマスターが不在だった。
「いらっしゃいませ、どうぞ」
ピッコロさんは相変わらず微笑みもしないが、僕が二度座ったカウンターの席を手で示してくれる。覚えてもらえていたということが、浮き足立つように嬉しい。
「何になさいますか」
「僕、本当にお酒よく知らなくて……ピッコロさんの好きなカクテル、作ってもらえますか?」
一対一で向き合うと何だか緊張してしまう。僕のおかしな注文に、ピッコロさんは少し思案する様子を見せた。流石に不躾すぎるだろうか? 言葉を重ねようとする前に、ピッコロさんが口を開く。
「今日は少し遅いご来店ですが、食事は? もう飲まれましたか?」
「食事は軽く……お酒は飲んでないです」
話している間にも、ピッコロさんは小皿にドライフルーツを出してくれる。脚つきの小さなグラスと三本の瓶がカウンターへ並べられ、シェイカーに次々と注がれる。ピッコロさん一人だから、なんだか忙しそうだ。ジン……レモン……それからこの紫色の瓶は何だろう? ワインに見られる葡萄の紫ではなさそうだが、全く味の想像がつかない。
本当に、カクテルを作る動作の一つ一つがなんて絵になるんだろうか。大きな手で振られるシェイカーが、薄暗い店内で眩しくきらめき、氷が騒がしく崩れる音がする。
「どうぞ。ブルームーンです」
グラスに注がれたのは、青に近いすみれ色がなんとも美しいカクテルだった。
「色も名前もきれい……ピッコロさん、これが好きなんですか?」
「好きというか……故郷によく咲いていた花が、こんな色だったので、懐かしい気持になります」
ブルームーンは、色合いだけでなく匂いもすみれの花に似ていた。あの紫の瓶のリキュールに、すみれの花が使われているのかもしれない。
レモンの風味と、花とハーブの香り、甘さも少しある。これまでの人生で似たものを口にしたことがない、未知の味だった。なのにどこか懐かしく、探していた相手を雑踏のなかに見つけたような親しみを感じる。ピッコロさんが好きなものを一つ知れて、嬉しかった。
「……マスターは、お休みですか?」
「さっきレモンを切らしてしまい、買いに。自分で見たがるのです、あれは。忙しい時はおれが行きますが」
おれ、という一人称にどきりとした。あまり話さない人だから、考えてみれば初めて聞いた。物静かな口調なのにそこだけ荒っぽい感じがして、ひどくアンバランスに思える。
たかだか一人称を初めて聞いたというだけで僕はそわそわし、もっと何か話さなくてはと店内を見回した。濃いすみれの匂いに冷静を奪われ、早くも酔いはじめてしまったのかもしれない。
ふと、いつもはカウンターの左端を覆うように引かれている手織りのカーテンが、今日は巻き上げられていることに気付いた。上部から細いホースの伸びる、片手では持てない大きさのガラス瓶が、カーテンの下でカウンターに陣取っている。
「ピッコロさん、これなんですか?」
「水煙草です……さっき帰られたお客様が、お好きな方でしたので」
水煙草、という名前は聞いたことがあった。実物を見るのは初めてだ。
「なんだか大掛かりですね」
「大抵は二人以上で共有するので……一人のお客様が多いうちでは、ほとんど従業員専用です」
水の入ったガラス瓶の上に金属の器があり、熾ったままの炭が載っている。器で燻された煙が一度水に入る。水で濾過された煙は気泡として弾け、瓶の上部に溜まる。上部から外へ伸びるホースの端には、吸い口らしきものがあった。化学の実験のようで、何とも面白い。
「……興味があるなら、吸ってみますか? 三度目の来店記念に、奢りましょう」
「いいんですか? 僕、一人ですけど」
「では、おれもご一緒させてください」
一緒に……知らないものに対する後込みが無いでもなかったが、この提案はあまりにも魅力的だった。ピッコロさんはすぐそばの窓を細く開ける。喧騒は感じられなかったが、晩春の夜風が店内に優しく吹き込んだ。
若草色の手が吸い口を新しいものに取り替えて、湿った枯葉のようなものを器へ移す。かさついた匂いの紙煙草の葉より、紅茶の葉や料理用のハーブのような印象だ。興味津々の僕の目線に気付いたのか、ピッコロさんが説明してくれる。
「多様な品種の葉を、ハーブやフルーツのシロップに浸けてあります」
「じゃあ、そこの瓶はぜんぶ違う匂いなんだ」
「今日はブルームーンに合わせて、すみれとレモングラスを」
本当に、実験室のようだ。二人黙して熾火を見つめていると、何年も昔からの知り合いのような、不思議な心地がした。ずっと子供の頃に、他に明かりのない岩山で寄り添って焚き火を見つめたことがあるような……。
アルコールのせいか、あらぬ想像をしていると、ピッコロさんが吸い口を咥え深く息を吸う。前の客が残していった煙を、いちど空にしているのだろう。気泡が静かに弾け、新たに燻された煙が瓶に満ちる。瞼を伏せた横顔、薄い唇がゆっくりと煙を吐き出す姿は、目を逸らせないほど婀娜っぽい。漂う煙から、密やかなすみれの香りがする。
「深呼吸するように吸って、静かに吐き出す……どうぞ」
吸い口を渡されて、僕はまごつく。つい今しがた、あの薄い唇が咥えていたものを……それも、ピッコロさんはきっと何とも思っていない。悪事に手を染めるような気分だ。躊躇っていると、ピッコロさんが、あ、と小さく呟いた。
「失礼しました、吸い口を取り替えます」
「いえ、いいです!」
僕は慌てて吸い口を咥え、言われたように深く息を吸って……吸って、吸いすぎて、思い切り噎せてしまった。
ピッコロさんがカウンターのこちら側に来て、向き合って背中に手を添えてくれる。手のひらから体温が伝わり、余計に落ち着きが失われる。煙を深く入れすぎたのだろう、慌てて立ち上がったところに水煙草の酩酊感が響き、僕はピッコロさんに倒れかかってしまった。
ますます焦るが、ピッコロさんは特段払い除けもしない。僕が転ばぬよう片手で受け止めておいて、もう片方の手のひらと指先が背中に滑る。慈しむように優しいのに、服地越しの指先も、分からないほど弱くこめられたかすかな力も、妙に焦れったくて、僕は心乱され固まってしまう。触れられていないところにまで、体温を感じてしまうような……漸くのことで呼吸が整い顔を上げると、気遣わしげな面差しと目が合った。
「大丈夫ですか?」
「……はぁ、はい……ちょっと慌てました……」
「慌てた? ……何故」
今度こそ、僕は完全に目を奪われた。
はじめて、ピッコロさんが微笑んだのだ……かすかに目を撓ませて、静かに、可笑しそうに。緩ませた口元から、なんとも扇情的な尖った犬歯と、暗いすみれ色に湿って見える舌が覗いている……トニックウォーターのあの日から、ずっと見たいと思っていた笑顔が、突然にあらわれ、僕の心に強く焼きついた。
「……良いですね、これ。噎せちゃったけど、すみれとハーブと、シロップの味の甘い煙」
嘘ではなかった。煙の向こうに春野が広がるような、それまで煙草というものに抱いていた印象を一変させるような香りだった。
「気に入ったなら、よかった。落ち着いて吸えばもっと楽しめます」
僕を椅子へ座らせ、ピッコロさんはカウンターの向こうへ戻ってしまう。しかしその横顔は、まだ笑っていた。微笑を浮かべると、想像以上に優しげな印象になる。冷たいほど鋭い切れ長の瞳が、本当はあたたかな慈愛に満ちていることが露になる。僕は煙より、その笑みに酔わされていた。胸が甘く疼き、じっとしていられない。
カウンター越しに水煙草を渡すと、自分の吸い口へ取り替え、実にゆっくりと煙を吐き出す。その艶、蠱惑……口腔の熱を孕んだ煙が、ゆらゆらと薄明かりに溶ける。見てはいけないものを見るようなのに、目が離せない。ふと目を上げて、ピッコロさんはまた微笑む。誘うような風情に、手のひらが汗ばむのが分かる。
「何か、飲まれますか?」
「はい……あの」
あなたの笑顔を初めて見た、それがとても嬉しいと伝えようとしたその時、店の扉が開いた。
「ネイル、遅かったな」
「ああ……お客様、いらっしゃいませ。水煙草ですか」
「……ピッコロさんに教えてもらって」
マスターは提げていた紙袋をピッコロさんへ渡す。受け取ったピッコロさんの手を両手で軽く握りながら、わずかに顔を寄せて、キッチンへ、と囁いた。二人の視線が一瞬だけ交わり、ピッコロさんは頷いた。
カウンターにあった空のグラスと、並んだ酒瓶を見て、マスターが穏やかに微笑む。
「ブルームーンですね、故郷の花の色に似ていて……昔からピッコロの気に入りのカクテルだ。お客様も、お好きで?」
……僕が今日初めて知ったことを、マスターはとうの昔から知っていた。幼馴染みなのだから、同じ店で働いているのだから、当然だろう……分かっているのに、暗澹とした気持が湧きあがる。
「はい、好きです」
己が心ながら見知らぬこの気持を、なんと表現するべきか分からない……カウンターの内側に立つマスターの微笑を、そして先程まで近く感じていたのに、今は扉の向こうへ去っていこうとしているピッコロさんの背中を、表現できない気分のまま、まっすぐに見た。
「……多分、これからもっと、好きになります」