【飯PネイP】煙るバーカウンターにて/06カンパリ 急な呼び出しを受けた僕は、夕暮れの住宅街を職場へ向けて歩き出していた。梅雨が近く湿度が高いためか、濃い絵の具をべったりと塗りつけたような、目に焼きつく夕映えだ。
「こんばんは!」
すれ違い様に声をかけられ、目を向けると、大きな紙袋を三つも抱えたデンデだった。
「こんばんは……大荷物だね、何?」
「摘んだハーブです! このあと家で邪魔なものを取り除いて、ブレンドして……。お店に持っていくので、飲んでくださいね」
なんとも朗らかな笑顔で、デンデが説明してくれる。こんな時間から職場へ向かうなど気が重かったが、屈託のないデンデの様子にたちまち明るい気分になった。
「楽しみだな。この辺りに住んでるの? 僕もだよ」
「全然気付きませんでしたね、嬉しいです! ……今からお仕事ですか? 遅い時間に、大変ですね」
僕の抱えたビジネスバッグと、ノートパソコンのケースに目を遣って、気遣わしげに尋ねてくれる。頷くと、紙袋を覗き込んで、包みを二つ取り出した。
「これ、ぼくの作ったハーブ入りのスコーンと……乾燥ハーブのティーバッグです。おやつにどうぞ」
「いいの? ありがとう」
ハーブティーには小さな説明書きが添えられており、「疲労回復」の文字がデンデの気遣いを感じさせた。ブレンドすると言っていたから、色んな効能のものを作っているのだろう。
なんと打算なく、善意を示せる子なんだろう。お店で会いましょう、と手を振って歩いて行く足取りすら、裏表のない優しさに満ちている。急な仕事とはいえ、良い夜になりそうな気がした。
研究室を出たのは、結局日付が変わる直前だった。
一杯だけ飲んで帰ろうと、店へ向かう。薄暗い階段を上がり、四階の奥へ……木製の扉には、既にCLOSEDの看板が下がっていた。しかし、扉の窓からは明かりが漏れている……近付くと、マスターとピッコロさんがテーブルで水煙草を囲んでいるのが見えた。ソファに身体を預けたピッコロさんが、水煙草の煙を細く長く吐き出す。
ふと顔を上げたマスターが僕に気付き、こちらへ歩いてきてくれる。
「すみません、お客様がいなかったので早めに閉めてしまって……」
「いえ、出直します」
マスターは少し考える素振りを見せたが、ピッコロさんを振り返り、僕へ向けて微笑んだ。
「ご迷惑でなければ、水煙草はいかがですか? せっかくですから」
扉を大きく開けて、僕を招き入れようとしてくれる。雰囲気はデンデと全く違うが、この人の優しさもまた、得難いものだった。ソファ席のピッコロさんも、身体を起こして僕を見ている。閉店後だからか、いつもと違い、甘い女性ボーカルののった穏やかな曲が流れていた。
「じゃあ少しだけ……ありがとうございます、ネイルさん」
頭を下げると、ネイルさんは驚いた顔をした。それから破顔して僕の手を引き、テーブル席に導いた。
「私の名前、覚えていて下さったんですね」
言われてみれば、初めて名前で呼んだ。何だか気恥ずかしくなり、僕は椅子へ掛けながら恐縮する。しかしネイルさんは心から嬉しそうな様子で、僕の向かいの椅子へ腰掛けた。木箱から僕の分の吸い口を取り出し、渡してくれる。
「よろしければ、私もお名前でお呼びしても?」
「もちろんです。悟飯です」
「では、悟飯さん、今日は林檎をメインに少しだけシナモンを……昔から、ピッコロが好きな香りです」
水煙草の煙は涼やかに甘く、いまが梅雨前だということを忘れさせるような、澄んだ秋の香りがした。静かに吸いながら、二人の様子を覗き見る。ソファ席のピッコロさんはリラックスした様子で、いつもより雰囲気もやわらかい。ネイルさんは炭の様子を見ながら、やはりリラックスした風情だ。
吸い口を取り外し、ピッコロさんへ水煙草を回す。はじめて水煙草を共有した夜と同じように、瞼を伏せたピッコロさんの横顔は婀娜っぽく、吸い口を咥える唇はつややかに湿っている。青白い煙をゆっくりと吐き出し、ピッコロさんはネイルさんに目を遣った。
「シナモンか……ニコラシカにシナモンシュガーをのせようとしたのは、どこのマスターだったかな」
「意地が悪いな、人の失敗をいつまでも……」
ネイルさんが苦笑し、ピッコロさんの手から吸い口を取り上げる。交換することなく自然にそれを咥えるので、僕はほんの一瞬、目を逸らした。別に、意識するほどのことでもないはずだ……特別に親しければ、気にしない人はいくらでもいる……特別に、親しければ。
ざわつきかけた心を抑え、僕は水煙草の気泡が弾ける様子を見守る。ふと、ピッコロさんの前にグラスが置かれていることに気付いた。僕の目線に気付いたネイルさんが、水煙草の吸い口を取り外しながら口を開く。
「ヴァージンモヒートです、いつもピッコロには私がこれを。酒が飲めませんからね」
水煙草を受け取りながら、僕は少し驚いた。
「え、ピッコロさん、お酒飲めないんですか?」
きまり悪そうにピッコロさんは頷く。いかにも飲めそうな雰囲気なのに、下戸だとは……。またこの人のことを一つ知れて嬉しいが、そんなことも知らなかったという、焦燥のような気持が湧いてくる。
「もう無くなるじゃないか、飲んでしまえ。新しいものを作るよ」
ネイルさんがグラスを持ち上げて、ピッコロさんへ促す。素直にそれに従い飲み下す、そのあやうい喉元の蠢動に、つい目が奪われてしまう。
「悟飯さんにも何かお出ししましょう。少し失礼しますので、ごゆっくり」
ネイルさんが僕の肩を軽く叩き、カウンターの奥へ行ってしまう。ピッコロさんと二人になり、俄に緊張が増してきた。林檎の香りの煙が、渇いてしまった舌に、さっきとは違う感触で纏わりつく。気泡の弾ける音が、狭いテーブル席の空間を埋めていた。
「新しい山への調査は、行かれたんですか?」
気を遣ったのか、ピッコロさんの方から話しかけてくれる。
「はい、でも思ったような成果は得られなくて」
「そうですか……」
「でもいいんです、空振りには慣れてます。あの山では見つからないということが分かっただけで収穫です!」
ピッコロさんの、微笑ましいものを見るような視線に気付いて、僕は話すのをやめて水煙草を吸った。先日それでグラスを倒したのに、またしても熱が入りかけていた。林檎の香りの煙が静かに立ち上がり、淡く消えていく。
「閉店後にこうされてること、多いんですか?」
「遅くならなかった日は、昔から、よく……」
「昔から……お二人、仲がいいんですね」
「……そう見えますか?」
ピッコロさんが微笑して囁く。カウンターの向こうのネイルさんを見遣る、そのまなざしがひどく甘やかに見えて、僕は答えられなかった。
何だろう、この落ち着かない気持は。店主と店員の間に、閉店後の習慣があったって、何もおかしくはない。それも同郷の幼馴染みだというなら、尚更だ。ほの暗い店内でたった二人、一日の疲れを労い合って、水煙草を楽しむ……。
「カンパリです、どうぞ。少し苦いですが、後味の甘いリキュールです」
ネイルさんにグラスを差し出され、僕ははっと顔を上げた。カクテルではなく、ロックだ。お礼を言って、ほんの少し口にする。カンパリの苦味は、甘い林檎の水煙草によく合っていた。合っていたが、今日に限っては、苦すぎるようにも感じられた。
ピッコロさんの長い指が、壊れ物に触れるように吸い口を包み込んでいる。慣れた仕草で煙を吸い、ゆっくりと吐き出す。暖色の照明が煙に色を添え、夢の中の朝焼けのように静かに溶けていく。
ピッコロさんが目配せすると、無言の内に、ネイルさんが新しく作ったヴァージンモヒートを差し出した。ミントを浮かべた炭酸水の中で、氷が冷たい音を立てる。グラスに口付けするような薄い唇は形よく、じっと見つめることが罪のようにすら思われた。
ネイルさんはゆったりと椅子に掛けて、受け取った吸い口を指先で弄びながら、ピッコロさんの様子を見守っている。その微笑の中に、慈しみや親しみ以外の、もっと特別な感情を探しそうになって、僕は慌てて自分に出されたカンパリを飲み下した。
「カンパリはよく、ソーダで割られますが、ロックも良いでしょう?」
「ええ……苦味が、この席にはぴったりです」
そのとき突然に、店の扉が開いた。
場違いなほど明るい笑顔で、紙袋を提げたデンデが入ってくる。
「あれっ、お客様、また会いましたね!」
「ああ、さっきはありがとう」
笑って会釈すると、デンデは、お仕事お疲れ様です、と無邪気に微笑んだ。
「こんな時間にどうした?」
「今日摘んだハーブ、ブレンドしたので急いで持ってきました! 僕、今週いっぱいは来れませんから……明日からお客様に生のハーブティー、出してください」
デンデはカウンターの奥の扉へ一度消え、すぐに戻ってくる。
「来週はまたお手伝いに来ますね。おやすみなさい!」
デンデが出ていくと、店内の静けさがますます際立った。僕は椅子を立ち上がり、お会計を、と呟いた。
「結構ですよ、私がお誘いしたんですから。でも、是非また飲みに来て下さいね」
「すみません……また必ず来ます」
ネイルさんが優しく笑う。僕に向けてくれる微笑みと、ピッコロさんを見ている時の微笑み、どうしても、どこかが違うように思えた。
店を出た廊下の半ばで、僕の足は止まってしまった。言いようのない、自分でも整理できない気持が、胸底からじわじわと染み出してくる……。
ビル街を抜けた生ぬるい風が、半屋外の廊下へ吹き込んでいた。青白い蛍光灯がひとつ切れかけて、耳障りな音を立てて点滅している。
背後から施錠の音がして、思わず僕は振り返った。店の照明は、カウンターの真上のものだけを残して落とされている。今度こそ、本当に閉店するのだろう。
ネイルさんが、ソファへ掛けたままのピッコロさんへ話しかけているのが扉の小窓から見える。ピッコロさんの手から吸い口を取り上げると、そのまま、自然にソファへ片膝をついた。ネイルさんの指が、ピッコロさんの顎をわずかに持ち上げる。
咄嗟に、見てはいけない、と思ったが、身体が動かなかった。
二人の影が重なり、唇と唇がそっと触れる。かすかな間をおいて、ピッコロさんの腕が、甘えるようにネイルさんの背中へ回された。ネイルさんがソファの背凭れへ片手をつき、口付けは深いものとなる。
カウンターの照明の暖色が、漂う水煙草の煙に滲み、二人がいかに幸福であるかを示しているようだ。覗き見に他ならないのに、手指が凍りついてしまったように冷えきって、僕は向き直ることすら出来ない……。
長い口付けと抱擁の後に身体が離れると、ネイルさんの指先が、名残惜しそうにピッコロさんの唇に触れた。このうえなく優しく、愛おしげに。
薄暗い廊下から小窓を通して見るそれは、あまりにも遠い光景だった。
昔から、よく……それは、水煙草だけのことだったのだろうか。
漸くのことで、僕は階段へ向き直り歩き出す。
口の中に苦味が満ちて、息苦しかった。きっと、今日のカンパリはやはり、苦すぎたのだ。後味が甘いというネイルさんの言葉を覚えてはいたが、自分の気持の原因をリキュールに押し付けることしか、今の僕には、できなかった。