【ネイP】解剖台で夢を見た/01.夢より静かに、死より美しく 気味の悪いものが運び込まれた、とため息をついたのは、ムーリだった。
第四処理室の照明は極端に抑えられ、気温は低く保たれている。静まり返った室内に、二つの足音が響いていた。
「ナメックのことはナメックに、というわけですか」
この研究所に何年も勤めているネイルも、この処理室では、自然と小声になってしまう。生きたものは自分とムーリだけのはずなのに、無数の視線を感じる気がしてならない。検体として提供されたもの、身元の分からないもの、司法解剖や病理解剖を待つもの、すべての処置を終え、月に二度の火葬処理日を待っているもの……。
「標本はそこのケースだ。37番。発見された石室の気温と湿度を再現してある……いたって普通の気温だ。自治体の記録を辿るだけでも、少なくとも七百年は閉じ込められていたのに、腐敗も硬直もない」
「崖崩れで……石室が偶然露出したんでしたね」
「そう、君なら〝扱える〟とされている……私も、適任だと考えている」
ムーリの声音には、微かな圧力が感じられる。気味が悪い、とは言ったものの、同族の不可思議な遺骸を、同族であるネイルにこそ託したいという気持が滲んでいた。
強化樹脂の標本ケースは通常のもののように透明ではなく、開閉できる覆いのついた観察窓以外は暗いグレーだった。これもまた、光のない石室を再現しているのかもしれない。何もかもが、特殊だった。
ネイルはケースに近付き、観察窓から中を改める。なめらかな輪郭、若葉色に澄んだ膚、ナメックに於ける戦士型であると察せられる偉躯……瞼は閉じられているが、整った容貌の同族が、静かに横たわっていた。
「……生きているようにしか、見えないな」
「そう思うなら、それでいい。ただ、記録に感情を持ち込むなよ。君のことだ、言うまでもないだろうが」
ネイルは頷き、再び観察窓から中を覗いた。持ち込まれて以来、石室の標本、ナメックの標本、と呼びならわされてはいるが、いわゆる標本化の処理は施されていない。何百年も腐敗しなかったのだ、手を加えるより、まずはそのままの状態での検査が必要だと考えられていた。ナメックという種族の可能性そのものと、見なされているのだ。
――暗い石室でたった一人、ずっとこんな風に……。
静かに瞑目した面差しを見つめていると、微かに胸底が疼く思いがした。しかし今は、努めてそれを鎮める。ケースの中にあるのは「誰か」ではなく「何か」だ。そう信じなければ、検査も解剖もできない。
「後で上へ運ばせる。本日正午より、君がこれの管理責任者となる。ケースの温度確認を怠るなよ」
解剖台に横たわった標本N037は、やはり眠っているようにしか見えなかった。
記録用のボイスレコーダーを起動し、ディスポ手袋を嵌めた両手を手のひら、手の甲、そしてもう一度手のひらと確かめる。昔、手袋の端を巻き込んで手首近くが露出していることに気付かず、ひどい目に遭って以来の癖だった。
「対象個体の初期観察を開始する。時刻は……14時11分。ナメック人成体、体表に損傷なし」
淡々と記録しながら、ネイルは目の前の個体から目が離せなかった。遺骸と呼ぶのが憚られるほど、異様に美しい。職務上、人の容貌に美醜を感じることは、意識して避けていたのだが……この個体は、背後の経歴も手伝い、あまりに強烈だった。
まっすぐな頸部、通った鼻筋に滑らかな頬……唇は引き結ばれているが、今にも微笑みそうだ。投げ出された前腕の張りから、長い指の先の、つややかな黒瑪瑙の爪。肩から滑り落ちる胴の輪郭は、腰部でなだらかに引き締まり、長い脚はしなやかなばねを感じさせる。生きたまま、時間が止まっているようだ。
記録に感情を持ち込むな。ムーリが忠告したことは尤もだ。忠告されていなければ、まともな観察が出来ていたかどうか分からない。こんなことは、研究職に就いてからはじめてだった。
遺骸の腕に、手のひらで触れる。体温は、やはりない……とはいえ、冷たくもない。腕を持ち上げれば、まったく抵抗なく素直に肘が曲がる。
「触感はやや弾力を伴う。腐敗と硬直は見られない……」
瞼をそっと持ち上げ、ネイルは瞳を覗き込んだ。虹彩の色まではっきりしており、濁りもない。しかしやはり、焦点が合うことはなかった。
「眼球反射なし……瞬き、呼吸反応、拍動もなし。やはり臨床上は〝死亡〟と判定される」
横たわる遺骸の頭から爪先まで、ネイルは再度眺めた。手袋の指先を、胸部から腹部へ滑らせる。膚が乾いているようにも、思えなかった。
――異常な個体だが、異常らしい異常がない。
強いて気になる点を挙げれば、骨格や筋肉の発達は戦士型に近いのに、下半身の構造は龍族のものだ。しかしこれは「強靭な龍族」と呼ぶだけで説明がついてしまう。
レコーダーを切って、ネイルはため息をついた。
「どこから来たんだ、お前は……」
誰かが「起きてくれ」と呼びかければ、目を覚ますのではという錯覚……研究者として、解剖医として、妄言でしかなかった。
「これがN037……石室の標本ですか。本当に腐敗がない」
「硬直もない。なのに拍動も呼吸も、反射もない……」
翌日の解剖には、若い助手が数名ついた。処置室の空気は乾いており、冷房の風が白衣の裾をわずかに揺らす。
メスを握るネイルの手は、これまでになく緊張していた。
「……対象個体に対し、初期切開を行う」
努めて普段通りの文言を口にしながら、ネイルは胸骨の中心に刃先を添える。滑らかで確かな皮膚の張り。硬直のないやわらかさからは、ぬくもりすら感じられそうで、息が詰まる。
――この身体に、自分だけが、メスを入れる権利を持っている……。
横たわる同族の、穏やかに閉じた瞼、薄く形よい唇……まるで恋人の寝顔をたったひとり覗くような甘やかな気分に、そこが処置室であることを忘れそうになる。
「……先生?」
小さく呟いた助手たちが、メスの先をじっと見ている。ひとつ息を吐いて、ネイルは静かに刃を入れた。ごく浅く、慎重に……出血はない。だが、メスが滑る感触が、生体のそれと変わらなかった。
「皮膚下組織、通常の構造と一致。血液は……停滞状態か」
「通常と同じ、紫の血液ですね」
しかしどこか、澄んでいる。死んだ血液とは思えない……だが、記録には「紫」とだけ書くだろう。根拠のない主観は、報告書には不要だ。
ネイルは、臓器をひとつも取り出さなかった。固定も染色も行わず、観察と撮影、助手による詳細な記録だけで済ませた。
「……全器官保持のまま、閉創処置へ移行する」
「え、解剖するんじゃなかったんですか?」
「特殊な個体だ……慎重になる必要がある。検査のための組織は採取した。内部の構造、配置が通常と同じと分かれば、今はそれでいい」
滅菌された針と糸で、丁寧に皮膚を閉じていく。肌の内側に針が沈むたび、相手の「内側」へ自分の指先を差し入れているような、生々しい錯覚に襲われた。そこに熱はないのに、絡みつくほどの体温を感じるようだ。
一針ずつ、可能な限り丁寧に縫合する。患者が目を覚ました時、傷跡が少しでも穏やかであるように。解剖ではなく、手術をする心持ちだった。
検査するべきことは、いくらでもあった。毎日のように向き合うたび、疑問は濃くなっていく。
――お前は本当に、死んでいるのか?
――生きているのではないか?
ケースから解剖台へ移さない日も、一日に三度の温度確認のたびに、ネイルは観察窓の蓋を開いて、透明な強化アクリル越しに遺骸を見つめた。本来、用がない時は光に晒すべきではないと、分かってはいたのだが。小さな観察窓からの光が、静かな面差しを照らすたび、閉じられている瞼が開くような気がしてならなかった。
検査のために触れると、わずかに皮膚が呼応するような気がする。何も映さないはずの瞳孔の奥に、誰かがいる気配がある。何より、生きたものよりよほど美しい……。
検体に美醜を感じるなど、医療従事者として倫理に反することだった。
標本N037。ネイルは何度もそう呼び、記録しながら、考える。この個体には、閨の暗闇の中で囁くのに相応しい、本当の名があるのだろう。その名を呼ぶことさえ許されれば、この感情にも名がつけられるはずだと……狂おしいほどの思いに、夜毎に苛まれていた。