手元の煙の行く先を目で追っていたのはただ、何を話せばいいか、何も思い浮かばなかったからだ。また一口、小さくチリっと音がして光が増す。そうして肺に入れた煙はまた、すぐに吐き出されて消えた。
「その煙草やだな」
俺に聞かせるための独り言を言う彼女は、だけど俺の方はちらりとも見ない。ごめん、煙草嫌いだった? どうして? 嫌な思い出でもあるの? 会話にしようと思えばいくらでもできたけど、しなかった。面倒だったからじゃない。それが効果的であることと同時に多分、純粋な興味だった。
そうなんだ。興味ないような素振りでわざとそんなことを言った。予想通り彼女は、理由を聞かないの? と俺に向き直る。ほらね、これが正解だ。俺は言う、聞いてほしいなら聞くよ、と。どうせ一度きり、きっと二度と会わない相手になら言えることもあるだろう。聞き役に徹して、適度に肯定して、慰めて、そうやって勝手にすっきりすればそう、過度に悪い印象は残らないだろう、例えばそれ以外がひどいものだったとしても。
「元カレがね、同じやつ吸ってた」
「へえ、そうなんだ」
「そいつ、最悪で」
「うん、どんなふうに?」
「私を捨てて居なくなった」
「そうなんだ? 最悪だね」
相槌を打ちながら聞き流す。女の子の愚痴って要領を得ない事が多いし、話の本筋はわからなくたっていい。説明させる義務も、俺が理解する義理もないんだから。そして結末がどうであれ俺がかけるべき言葉は一つ。君は悪くないよ、これだけだ。
「めっちゃ好きだったんだよ、っていうか今も好きだし、多分ずっと好き」
「そっか」
「あいつがいる場所はわかってるんだけどさ」
「へーそうなんだ」
「うん、もしさ……もし、押しかけたらさあ、私ストーカーかなあ」
「うーん、どうだろうねぇ」
一瞬身構えた。あまりいい印象を残したら後で面倒なことになるかも、と。適度に嫌味なことを言って、二度と会いたくないと思ってもらわなきゃいけない。自意識過剰と言われればそうだが、常に警戒はしておいたほうがいい。それが楽に生きていくためにする苦労だ。
「あなただったらどう? 追いかけて来られたら、ウザい? キモい?」
「ちょっと嫌かも。けどやってみたら? 嫌われる覚悟があるなら、ね」
ちょっと嫌味すぎただろうか。彼女は目を伏せて下唇を少し噛んでいた。俺は指で彼女の唇をごく軽く突いて、落ちちゃうよ? せっかく可愛い色なのに、と言った。その言葉で眉と口元の緊張は解けて、代わりに指を噛んだ、俺の。思わずいたっと声に出したら、指を舌で追い出して、言い方きつくない? って言った。
「ごめん。けどさ、どんな結果になるかはわからないけど、俺は応援してる」
「ほんとに?」
「うん、ほんと」
「じゃあ協力してくれない?」
まずいことになった。完全に見誤った。人を見抜く目はそれなりにあると思ってたけど、たまにこうやって扱いづらい人間と扱いづらいやり取りをする羽目になる。俺もまだまだだな、なんて思っても後の祭り、ここは密室、それに俺一人ですぐに出られるような場所じゃない。いつもはいくらでも出てくるそれっぽい言い訳もなにも見つからない。
「俺にできることなんて何もないと思うけど」
「あるよ」
「ないよ?」
「大丈夫、あなた囚人だよね?」
「……なんだ、気付いてたの」
「わかんないはずなくない? 知らない人のほうが珍しいよ」
「それは、どーも」
ますます厄介だ。そんな素振り見せなかったのに、今になって。うまく断って、今日はありがと、楽しかったよ、ってきれいに別れて帰りたい。帰りたい? あの場所に? 帰るしかないんだけどさ。ああ頭がうまく働かない。飲み過ぎちゃったかな。俺の失敗はそこからすでに始まっていたということだ。
「だから、ね? 助けてくれればいいの」
「どんなふうに? 代わりに連絡を取る、とか?」
「ううん、送ってほしい」
「足枷のついた囚人に? それは難しいかな」
「すでに前科ついてるじゃん」
「刑期延びるのいやかも」
「バレないようにする」
「どうやって?」
彼女は射るように俺を見て、そして言った。
「自殺に見せかけるための準備は、できてるから」
完全敗北だった。はじめから全て彼女の手の内だったのだ。すべてを理解した俺は努めて冷静に、できる限り穏やかに、緩慢とした動作で煙草に火をつけて、慎重に灰皿の上に立ててこう言った。
「彼のために線香を上げてあげること以外、俺には出来ないよ」
彼女は、そっか、と言った。それからもう一言、その煙草、もっと嫌いになった。そう言って泣いた。