ため息は途中で止まるものなのだと知った。
ふと足を止めたすぐ横の壁、視界に入った長い線、昨日までは無かったはずの、亀裂。ああまた誰かが、それとも私が? どう修繕しようか、その前になんて報告を……そんな事を考えながら何気なく人差し指で亀裂をなぞる。強めに擦ったら消えてくれたりしないかな、そんな魔法、私が使えるはずもない。
私という存在が消えてしまったかのように、誰も私の行動を気に止めることもなく、落胆に気づくはずもなく、甲斐田くんは後ろを横切り、御子柴くんはゲームをする。
長い、長い、まだある、もうここまで、ああどうしてこんなことに。まだある、あとどれだけ続くのだろうか。一秒でも、一センチでもはやく終点にたどり着いてほしいと祈りながら漏れため息はしかし、吐ききる途中で終点を迎え、止まった。
たどり着いた終点には穴があった。だけど大きな穴ではない、亀裂が一部剥がれて出来たような小さな穴。その穴に驚いたのだ。
「あのー、すみません、これは誰が?」
一番近くにいた御子柴くんに声をかける。さぁ、と言ってちらりと甲斐田くんの方を見たので、今度は甲斐田くんに聞いてみる。凌牙に聞けば? そう言って御子柴くんに目配せをする。
何か知っているのは間違いないと思うけれど、話す気はないらしかった。と言うことはこれをしたのは土佐くんということになるのだろうか。
土佐くんはどちらに? と聞くと甲斐田くんは、右手の指を口に近づけるとすぐに離して、投げキスじゃないよ? と言って笑った。であれば煙草だろうと探しに行こうとした私に甲斐田くんは、可愛いよね、とだけ言ってまた何事もなかったように通り過ぎていった。
見つけた土佐くんはちょうど戻るところだったのか、揉み消した煙草から生まれる僅かな煙の向こうにいた。
「あの、土佐くん、あれは土佐くんですか」
声をかけるととさくんは、バツが悪そうに目を逸らす。やはりそうだったのだとわかったので、何があったんですか、と努めて穏やかに尋ねてみた。
「わりぃ、わざとじゃねえ」
「何があったんですか?」
「ダンベルぶつけた」
「そうだったんですね。怪我はないですか?」
「ああ」
「土佐くん、あれも土佐くんですか?」
下を向いて口篭ったが、むしろ私には顔が見やすくなった。気まずそうな、照れたような、いつもの土佐くんはあまりしない表情だ。しばらくの間を置いて、諦めたように彼は口を開く。
「昔、ガキの頃、よく怒られた、おふくろに。でも、悪気がねえ時は、やったら、笑って許してくれた」
「素敵ですね」
「ああ」
「土佐くんもですよ」
「……」
少しだけ顔が赤い気がしたけど、暑さのせいかもしれない。今日は風もない、見上げれば夏空。遠くの入道雲がなんだか少し、土佐くんのシルエットに似ているなあ、と思った。
「では私は花瓶……は、ここには無いので、ちょうどいいサイズの空き瓶を探してみます。いつまでも壁の穴の中じゃ窮屈でしょうし」
「捨てろよ」
「そんなことしません。私の部屋に飾ってもいいですか? お花は癒やしになります」
さてどの空き瓶がいいだろうか、ゴミの日に全部出してしまってはいなかっただろうかそんな事を考えながら何気なく下ろした目線のその先には、先程壁の穴から柔らかな色を滲ませていたあの花が、日陰で私を見上げていた。