8月七灰原稿進捗③四.拝啓
二つ折りにした便箋を名前しか書いていない封筒へ入れる。
きっちりと糊付けで封をしたら、同じ封筒だけが入った引き出しへと仕舞う。
机の浅い引き出しの中には、出す宛てのない手紙が増えていくばかりだ。
それでも。
私は、筆を執ってしまうのだ。
*
帳が上がると、七海の頭上に青空が広がった。
砂埃を払うように呪具を軽く振る。そこそこの呪霊だったが、想定していたよりも早く祓えたようだ。古びた雑居ビルの階段を降りると補助監督は少し驚いた表情で出迎えてくれたが、七海は「お待たせしました」といつも通りに声をかけた。
呪術師へ出戻って一年。
あのパン屋を出て五条へ連絡を取ってからの日々はとにかく慌ただしかった。卒業ぶりに顔を合わせた五条に「いつかこうなると思ってたよ」と笑われながら、呪術師へ復帰する手続きを済ませた。勤め先へ退職届を出した時は上司から随分と引き留められたが、もう決めたことなのでと押し通した。(入ったばかりの新人には悪いとは思ったが、かなり細かく引き継ぎをしておいたので大目に見てもらいたい)
呪術師という職業は本当にブラックで、証券会社を退職する前から度々現場に駆り出された。一応、卒業前に一級昇格の許可が下りていたが、呪具を握るのも四年ぶりということもあり最初は二級や準一級の任務から感覚を取り戻していき、有休消化をしつつ鈍った身体をトレーニングで鍛え直した。
七海としては一年ほどは準一級で任務をこなしていきたいと考えていた。そもそも、自分に一級の実力があるとは昔も今も到底思えなかったのだ。しかし、呪術は万年人手不足。結局、五条の強引な後押しもあり、前職から完全に離れたタイミングで一級へ昇格させられることになった。
出戻ることに一切不安が無かったわけではない。
自分は一度逃げ出した身。呪いからも他人からも。眩しく輝いていた思い出からも、自分は目を背けた。
とはいえ、呪いと対峙するうち、身体は呪術師という生き方に適応していく。醜悪な負の感情を目の前にしても、己を律することができるようになっていく。
その結果、昔の自分では到底敵わない呪霊を祓えるようになった。名も知らぬ誰かを救うことに繋がった。熱心に慕ってくれる後輩もできてしまった。
それでも、迷うことは多かった。この判断は正しいのか。別の手段があるのではないだろうか。本当は、自分は何がしたいのだろうか。
そんな時。つい、こんなふうに考えてしまう。
──灰原だったら、どうしただろうか。
もちろん、自分の頭で考え、自分の脚で進んでいかなければならないことはわかっている。ただ、灰原と過ごした一年と数ヶ月はあまりにも濃く、いまだに色褪せることがない。灰原の裏表のない言葉が、前向きな考え方が、真っ直ぐな生き方が。心の奥深くに、今もずっと鮮明なまま刻まれているのだ。
とある任務で、七海は呪霊に取り込まれかけていた幼い兄妹を救助した。
二人とも侵食は深かったが、兄が懸命に妹を励ましながら、なんとか持ち堪えたようだった。七海が二人の元へ駆け寄った時、兄は自分よりも先に妹を七海へ託そうとした。
「がんばったね!えらかった!もう大丈夫だよ!」
兄は、安心したのか七海の腕の中で泣きじゃくる妹へ対して、自身も目に涙を溜めながら気丈にそう声をかけ続けていた。
帳の外へ出たあと。妹の方を補助監督へ任せてから、七海はしゃがみ込んで兄へと話しかけた。
「あなたもよく頑張りましたね。ずっと妹さんを励まして、本当に偉かった。もう、我慢しなくて大丈夫ですよ」
そして、ぐしゃぐしゃになっていた頭をそっと撫でると、兄は堰を切ったように声を上げて泣き出した。
きっと灰原なら。こんな時、こうするだろう。
「怖かったですね。本当に頑張りましたね。立派なお兄さんだ」
立ち尽くしたまま大粒の涙をこぼし続ける兄をそっと抱きしめた七海は、背中をさすりながらそう優しく声をかけた。
後日、七海は補助監督経由で助けた兄妹からの手紙を受け取った。
『きんぱつのスーツのおにいさん
ありがとうございました!』
決して読みやすいわけではない、大きさも形もバラバラな字。妹が描いたのだろうか、用紙の半分ほどのスペースにクレヨンで描かれた黄色の髪でスーツ姿の人物の絵があった。
呪霊に取り込まれかけたなんてトラウマになりそうなものだが、兄妹の中で『金髪のスーツのお兄さん』の方がインパクトに残ったのならむしろ良かったのかもしれない。小さく笑った七海は、目一杯の感謝が綴られた手紙を丁寧に便箋へと仕舞った。
こういった手紙が呪術師に届くことは珍しく、今回の出来事は補助監督のみならず東京校に所属している術師の間でもそこそこ広まったらしい。何かと顔を合わせる伊地知や猪野からは尊敬の目を向けられ、偶然高専内で出会した家入からは「やるなぁ、お前」と珍しく笑いながら肩を叩かれ、出張中のはずの五条からは何故か手紙とは言えないふざけた内容のメモが書類の間に挟まっていた。
そこまで騒つくことかと思ったが、通信網が発達した昨今、必要な書類は郵送することもあるが、急ぎの用事なら電話をするし、そうでないならメールで済ませることがほとんどだ。こうして手書きの手紙を受け取ることはもちろん、手紙を書くことなど、余程のきっかけがない限りしないだろう。
そんな珍しい出来事があったからだろうか。
ふと、あることが七海の頭に浮かんだ。
次の休日、七海はレターセットを買いに行った。罫線だけの落ち着いたものから、キャラクターが印刷された子ども向けのものまで揃う売り場。いろいろと目移りする中で七海が最終的に手に取ったのは、虹をモチーフにした、シンプルだが明るくてあたたかな色合いのレターセットだった。他にも、せっかくだからとペンも新調しておいた。
家に帰ると、七海は早速机へ向かった。まずはいらないメモ紙でペンの具合を確認する。普段使っているペンよりも少しいいものを選んだおかげか、ペン先はスルスルと紙の上を走っていく。それから、一呼吸置いた七海は、開いていたまっさらな便箋の一行目に文字を綴っていった。
『拝啓』
我ながら堅苦しい書き出しになってしまったと、ほんの少し後悔が浮かぶ。だが、どうせ誰にも読まれないのだと思い、ペンの動きをゆっくりと再開させた。
『灰原雄様』
この名前を書くのが一体何年ぶりなのか覚えていない。様付けなんて、確か寒中見舞いを書いた時以来だ。
幼い兄妹から貰った、純粋な感謝の気持ち。それを読み返しているうち、自分も手紙を書いてみようかと思った。出す宛てなんてなく、ただのひとりよがりなものだとわかっているが、灰原へ手紙を書いてみようかと、そう思い立ったのだ。
拝啓
灰原雄様
今さら手紙を書くなんて、自分でも馬鹿げているとわかっています。
それでも、日々生きているときみへ伝えたいことがたくさん溢れてくるので、こうして言葉にしてみようと思いました。
まずは、手紙を書こうと思ったきっかけの幼い兄妹のことを聞いてほしいと思い、筆を執っています。
本当に馬鹿なことをしている自覚はあった。そもそも死んだ人間に手紙を書くなんて。どこまで未練がましいのだろうと自分自身へ呆れるばかりだ。
それでも、灰原と過ごした日々が今の自分を形成していることは紛れもない事実で、灰原が亡くなってしまってからも心の一番大切な場所に灰原はずっといて、こうして今も灰原のことを想いながら生きている。
二人を助けたあと妹の方を抱き上げたんだが、二人ともまだ小さいし兄の方にも抱っこしようかと声をかけたんだ。でも、「大丈夫ですっ!」と断られて。涙をいっぱい目に溜めていたのにだ。
兄というものはみんなそうなのか?泣いてはいなかったけど、きみもたまに変に我慢して意固地になっていた時があったなと思い出したよ。
呪術師を辞め、呪いからも人からも一度は逃げ出した。しかし、灰原との思い出を完全に捨てることはできなかった。
携帯のメールも、手渡しの年賀状も、小さな誕生日カードも。辞書の間に挟まっていたノートの切れ端ですら。結局はずっと手元に置いていた。見返すことはしなくとも、灰原から貰った些細な優しさをただそばに置いておきたかった。自分だけの、拠り所にしておきたかったのだ。
今でも私は子どもの扱いに慣れてないが、昔きみが妹さんとどんなふうに関わっているのか話していたことや実際にきみが助けた子どもへどう接していたのかを思い出したらなんとかなったよ。
ありがとう。
幼い兄妹から貰った手紙にも書いてあった、感謝の言葉。あの頃、灰原は何かとこの言葉を口にしていた。先生に対しても、補助監督に対しても、先輩に対しても。もちろん、たった一人の同級生に対しても。
──ありがとう!七海!
そう言って笑う灰原の姿が、瞼の裏に鮮明に映し出される。じわりと、閉じた瞼の隙間から温かいものが滲んでいく感覚がした。
涙が頬を伝う前に七海は目元を覆った。ペンを置き、椅子の背もたれへ身体を預ける。ぐっ、と唇を噛み締めてみるが、涙は静かに溢れていく。
灰原のことを想って泣いたのは高専二年の秋以来だ。しかし、あの時よりも灰原への気持ちはずっと大きくてなってしまったのだ。
もっと早く、灰原への気持ちに気がつけばよかった。そんな後悔が今になって押し寄せる。書きたいことはまだあるが、今はこれ以上無理そうだった。
気持ちを落ち着けてから、七海は便箋を半分に折って封筒へ入れようとした。ただ、その時になって、表書きをどうするか考えていなかったことに気がついた。
どこに出すわけでもない手紙。それでも、何も書かないのはどうかと思った。
七海は封筒の表に『灰原雄様』と丁寧に綴った。便箋を入れて、しっかり糊で封もしておく。そして、誰にも読まれることのない手紙を、七海はそっと机の引き出しへと仕舞った。