8月東京七灰原稿進捗2冊目*
あの頃と同じように、足は自然と寮へと向かう。
そういえば、日が暮れて暗くなり始めると、こっそり手を繋ぎながら寮へ帰ったな。指まで絡まった七海の手のひらの感触に、そんな記憶が灰原の頭に蘇る。当時、七海と付き合っていることは一応周りには隠していたから、誰かの気配がするといつも七海の方が先に手を離していた。だが、気配が遠ざかると、またすぐに七海の方から手を繋いできていたのだ。
今考えると、別に隠さなくてもよかったかもしれないが、お互い何もかもが初めてで、気恥ずかしさや照れも多かったのだから仕方がなかったと思う。それでも、やんわり重なる手のひらのむずがゆさや心地よさはあの頃だからあったものだと、今だからこそ思えた。
「何笑ってるんだ」
「えー?なんか、よくこっそり手繋いでたなぁって思い出して」
「ああ……まあ、若かったからな」
「ほんと、十代って感じだった」
十七で時間が止まってしまった自分がこんなことを言うのは少しおかしいかもしれない。しかし、大人になっていく七海を空港から見ていると、時の流れというものを実感せざるを得なかった。
変わらない自分、変わっていく七海。ただ見ることしかできない自分、迷いながらも懸命に進む七海。ふたり交わっていた時間が、どんどん離れていく。
けれど、今。
「あとね、また七海と手繋いで歩けてるの嬉しいなって思ってた」
切れ長の翠眼がパチリと大きく瞬いた。じわりと七海の頬が染まっていく。太陽はもうほとんど山の向こうに沈んでいるから、夕陽の色でないことは確かだった。
一度ぐっ、と目を閉じた七海が小さく息を吐く。それがただの照れ隠しであることは、もうずっと昔から知っていた。
「私も嬉しいよ」
「へへっ、よかった」
絡まっていた指にぎゅっと力を入れてみると、七海も同じように握り返してくれる。お互いにぎにぎと遊ぶように手を繋いでいるうち、いつの間にか寮の前に着いていた。
寮の前に植わっている太い桜の木も、建付けの悪い玄関扉も、歩くたびに軋む廊下も、隣同士の部屋割りも七海と過ごしていた頃のままだった。
「どっちの部屋に行こうか」
二階に上がり、部屋番号のプレートに『灰原』と書かれた扉の前で足を止めた。あの頃、どちらかといえば灰原の部屋で過ごすことが多かった。階段から近い方にあって、一緒に帰った流れでそのまま七海が寄っていくことが日課のようになっていたからだ。
しかし、今は自分の部屋へ行くよりも、もっと七海の気配に包まれていたかった。
「七海の部屋がいいな」
「分かった」
小さく頷いた七海に手を引かれて廊下を進む。隣の部屋は数歩先だというのに脈が早足になってしまったが、重なる七海の手のひらも熱くなっていく気がしてなんだか安心した。
七海の部屋の中に入ると、懐かしい光景が広がった。
きちんと揃えられている玄関の靴、綺麗に掃除された台所、食器棚に並ぶ色違いのマグカップ。物の少ない部屋の中で唯一スペースを取っている本棚代わりのラックに、備え付けの机の上に数冊積み上がっている文庫本、椅子の背に掛かったカーディガン。灰原用にと、いつしか部屋の隅に置かれるようになったなんでもボックスも。七海と過ごした思い出の中と同じだった。
「あの頃のままだね」
「私たちの記憶が反映されているのかもな」
勝手知ったる場所のはずなのに、どうにも緊張してしまうのは七海と流れた時間の差だろうか。それでも、またこの部屋に来られたことは嬉しくてたまらない。
灰原がソワソワ部屋の中をうろついていると、七海は台所へ戻っていった。どうしたのだろうと後を追う。すると、七海はおもむろに冷蔵庫の扉を開けた。
「え?中身入ってるんだ!」
「そうみたいだな」
「七海知ってたの?」
「いや……」
言い淀んだ七海の頬がじわじわと染まっていく。
「この部屋にきみがいるのを見ていたら、あの頃みたいにまたここで、きみとふたりでご飯が食べたいなと思って。そうしたら、なんとなく入っているような気がして」
そう言ってはにかんだ七海は、赤くなった頬を誤魔化すように顔を冷蔵庫の中へと向けた。自分だけがはしゃいでいるとは思っていなかったが、こうして浮き足立つ七海を目の前にすると喜びで胸がきゅうっと高鳴る。
「そうなんだぁ。ありがと七海」
「まあ、簡単なものしか作れなさそうだけどな。それでもいいなら何か作るよ」
「やったー!ていうか七海の簡単は簡単じゃないよっ!」
僕も手伝うからと主張すると、七海は嬉しそうに目尻を下げていた。
あの頃のように協力してご飯を作り、向かい合ってご飯を食べ、ふたり並んで後片付けをする。どうせならと順番にお風呂に入り、炭酸が飲みたくなったからと寮の玄関前にある自販機へコーラを買いに行って、灰原の部屋で見つけた映画のDVDを七海の部屋へ持ち帰り、コーラを飲みながらベッドにもたれてテレビ画面を眺める。
一緒にいた頃を再現するように、七海となんでもない時間を過ごす。
エンドロールが流れ始めた時、最初は触れていなかった手のひらはしっかりと重なっていた。
「おもしろかったね」
「そうだな」
「……どうしよっか」
いまから。
自分で思っていたよりも声は小さくなってしまった。けれど、少し間をあけてから「そうだな」と同じように小さな声で返してきた七海は、重なっていた手のひらに優しく指を絡めてきた。
顔を上げると、すぐそばには綺麗な翠眼がある。涼やかな色に反して、瞳は熱っぽく揺れているように見えた。
「キスしてもいいか?」
「うん……でも、それだけでいいの?」
あの頃、七海とキス以上のことはしていた。素肌を重ねて、お互いの熱に触れて。自分でも知らない場所を、七海に晒して。だが、最後まではしていなかった。
受け入れるように出来ていない男の身体。まだ準備の段階だというのに、慣れない感覚にぐったりとシーツに寝転がることしか出来ずにいた時。ごめんね、と小さくこぼしてしまったことがあった。
「謝る必要なんてない」
「負担がかかるのはきみなんだから」
「ゆっくりしていけばいいさ」
「私は、灰原のことを大切にしたいんだ」
けれど七海は、そんな言葉と共にたくさん甘いキスをくれた。優しく抱き締めて、眠るまで背中をさすってくれたのだ。
こうしてまた、七海と一緒にいられる。あの頃を取り戻すように、七海と過ごせている。そして、あったかもしれない時間をこれから七海と経験することも、きっと出来るはずだ。
「七海が今も僕のこと大切にしてくれてるの、ちゃんとわかってる。でも僕、七海ともっと……七海と、最後までしたいよ」
まん丸くなっていた翠眼が、じわりと細まっていく。あの頃何度も見たことのある、とても嬉しそうで、少し申し訳なさそうな微笑みが七海の顔に浮かんだ。
「ありがとう。あと、大事なことをいつも言わせてしまってすまない」
「ううん。僕が言いたかっただけだもん」
そう言って重なっている手を握り返すと、七海はぎゅうっ、と抱きついてきた。
「私も灰原と最後までしたいと思ってた。でも、私は一応二十八で、きみは十七だ。だから、本当にいいのかと迷ってしまって」
「僕ら生まれた年同じだからそんなの関係ないって。それに、七海こっちにきた時から昔の姿だったし、僕そんなの全然気にしてなかったよ」
ていうか、空港でキスしてきたじゃん。
そう付け加えると、「あの時は、つい我慢できなくて」と気まずそうな声が返ってきた。
「ほんと、そういうとこは素直だよねぇ」
くすくす笑いながら頭を撫でていると、七海がゆっくりと顔を上げた。浮かんでいるのは情けない表情だが、内心喜びで溢れているのは一目瞭然だ。
「灰原」
「なーに?」
「きみとしたい。できれば、最後まで」
「うん。一緒にがんばろうね」
心底嬉しそうに細まった翠眼が金色のまつ毛の下へゆっくりと隠れていく。その動きに合わせるように瞼を下ろしていくと、程なくして、あの頃と同じ優しくて甘い口づけが灰原の唇へ訪れた。