かつて子どもだったあなたたちへ.
雑居ビルの屋上の縁に立っていた虎杖は、人でごった返すスクランブル交差点を見下ろながらポケットの中で微かに震えた携帯端末を手探りで取り出した。
「はいはーい。どした?」
着信相手は今年呪術高専に入ったばかりの学生だった。一年生三人で比較的人通りがマシな南口周辺を回っているはずだが、定期連絡には少々早い。
「うん、うん……あー、それはお前らだけじゃ厳しそうな感じだな」
どうやら低級呪霊の気配を追っていったところ、思っていたよりも多くの呪霊が巣食っている場所へ入ってしまったらしい。
「おしっ、今からそっち向かうわ!位置情報送ったらとりあえずいけそうな範囲だけ祓っといて。あっ、無理はしなくていいからな!マジで!」
向こう側の状況を把握した虎杖は、念のため釘を刺して通話を切ってから非常階段へと向かった。送られてきた位置情報の地点は、スクランブル交差点から南へ二〇〇メートルほどでさほど距離はない。いつもなら屋上から適当なビルを伝って進むところだが、今日はあまり目立つ行動はしないようにと、この任務全体の責任者である伊地知が何度も口にしていた。
この人の多さなら、頭の上より足元を気にしそうだけどな。
徐々に近づいてくる人混みにそんな考えが虎杖の頭に浮かんだが、最近胃薬の量が増えたと力無さげにこぼしていた伊地知のことを思い出し、目立たない範囲の全速力で階段を駆け降りていく。
今日は十月三十一日。
呪霊による都内への立入禁止指定の全面解除後、初めて訪れたハロウィンの夜なのだ。
*
二〇一八年。
ハロウィンの渋谷を皮切りに、日本各地を巻き込んだ死滅回遊、そして新宿での激闘が繰り広げられた。それにより呪術師を取り巻く環境は随分と変化することになったのだが、呪いを祓うという呪術師の根本的な役割は変わることなく、虎杖たちかつての一年生をはじめとして生き残った者たちは今までと同じように呪霊と対峙し続けた。
死滅回遊後の立入禁止区域は都内の七〇パーセントを占め、新しい年を迎えてからも東京近郊の呪霊発生率は依然として高い水準で経過していた。しかし、いつまでも日本の中枢部を機能不全させておけないと、禁止区域の呪霊伐除、結界の再構築と並行して都市復興も凄まじい勢いで進められることになった。
幸いなことに呪霊は二十三区内を中心に生息しており、物的にも被害の少なかった二十三区外の指定解除を皮切りに、新しい年度に変わる頃には都内へ少しずつ人が戻り始めた。二十三区内でも物的被害が少なかった区は呪霊の掃討が完了した地域から早々に商業機能が再開したが、激しい戦闘の舞台となった新宿は瓦礫撤去に多くの時間を要した。ただ、中心部がほぼ更地となった渋谷は、元々推進予定だった大規模な都市開発計画を基盤にして新しいビルが次々と立ち並び、かつての景観を順調に取り戻しつつあった。
とはいえ、人が戻ってくると新たな呪霊が発生するものだ。そして、呪霊による都内への立入禁止指定の全面解除後初めての大きなイベントがハロウィンともなれば、復興した渋谷の街に多くの人々が集まることは容易に想像できるだろう。
そんな賑やかで危ういハロウィンの夜の渋谷には多くの術師が招集されることになり、虎杖もそのうちの一人だった。
なるべく目立たないよう全速力でスクランブルスクエアを抜け位置情報の場所に到着した虎杖は、学生の一人が取りこぼした呪霊を拳でひと薙ぎにして立ち止まった。
「状況は?」
電話口で聞いていたのは、襲ってくるのは低級ばかりで一匹一匹はたいしたことはないがとにかくキリがないということ。おそらく奥にいる大元の呪霊を祓えばよさそうだが低級の数が多くてなかなか近づけないこと。
ひとまず低級呪霊が人通りの多い場所へ出ないよう食い止めることに徹していたが、呪力も体力も削られ何体か表の通りに逃してしまったと、呪霊を取りこぼした学生が肩で息をしながらそう答えた。
事前資料で学生たちの術式は大まかに把握していたが、大元の呪霊へ近づく為の隙を作れるような広範囲は術式は誰も持っていない。
「オッケー。じゃあ俺が大元のとこ行くわ。多分大元狙ってるのバレたら低級は俺の方に集まってくると思うけど、通りの方に出ようとする奴もいると思うからそっちは任せた!もうちょい踏ん張ってな!」
息を切らしながらも「はい!」と大きく頷いた学生へその場を任せ、虎杖は思い切り地面を蹴った。
ある程度のダメージを覚悟で懐へ飛び込む選択も彼らの中にあったことは電話口で聞いていた。ただ、今日のように渋谷中に術師がいる状況では得策とは言えないだろう。
新宿での激闘後、新しい総監部によって術師の等級の見直しが行われた。元々人手不足な業界だ。特級のみならず一級以下の人数も大幅に減少したこともあって、今までのような御三家や各派閥による政治的な利権が絡んだやり方は一層され、昇級査定中の学生たちはそれぞれ実力に見合った等級へと上がった。在学中は準一級止まりだった虎杖も卒業から一年経ったのち、晴れて一級術師になったのだ。
今でも術師全体の人数が充分足りているとは言い難い。それでも、二〇一八年以降、呪術師を取り巻く環境は少しずつ変化していると虎杖は思っていた。
低級呪霊の群れの奥に潜んでいた大元の呪霊は、虎杖が放った一撃によって跡形もなく消え去った。思っていたよりも手応えがなかったことに内心驚いた。ただ、低級呪霊は大元の呪力から生み出されたものらしく、これまでに発生した低級は全て直接祓う必要があるようだ。それを含めると、やはり学生たちには少々荷が重い相手だったことは明らかだった。
呪術師は常に生と死の境を歩いている。それは学生である彼らも同じこと。高専へ足を踏み入れると決めた時点で、生き死にに関してある程度覚悟を決めているはずだろう。
しかし、呪術師である前に彼らは子どもなのだ。
二〇一八年以降、総監部が一新されたことで高専の教育方針も大きく変わった。等級にかかわらず学生のうちは単独での任務は基本的に禁止されたこと。学生だけの任務では極力等級よりも一つ下の任務を当てがうこと。教員が引率する実習や現役術師に同行する任務が増えたこと。
もちろん一人しかいない特級術師や数の少ない一級術師では例外もあるが、虎杖より後から入学した学生には概ね新しいカリキュラムが適応された。
甘すぎるという意見はあった。それでも、学生のうちの殉職割合は大幅に減り、呪術師全体の人数は徐々に増加していくと、任務の割り振りや教育に割く余裕が少しずつ確保できるようになった。
そんな小さな積み重ねの結果が、今回のように学生たちが周りの状況と自分たちの実力を冷静に天秤にかけ、その時一番的確な方法を選択できたことに繋がったのだ。
「お疲れ!とりあえずもう大丈夫だと思うけど、取りこぼした低級がいないかどうかちょっと範囲広げて引き続き見回りヨロシク!なんかあったらさっきみたくすぐ連絡な!」
「はーい」
学生たちは皆それなりにくたびれた姿だったが、とりあえずひと段落したこともあってか、通りに溢れる仮装した人々を見ては楽しそうに言葉を交わして歩いていく。
そして、何やら盛り上がりっている様子の学生たちを見送り、元の持ち場へ戻っていた時。
「若けえなぁ」
ぽろりとこんな感想がこぼれて虎杖は一人苦笑した。
高専を卒業して数年。二十代前半なんて世間一般から見れば若造に過ぎない。ただ、現役の学生を目の前にすると、学生時代を懐かしいものだと感じるようになった。それに、あの頃大人だった人たちの気持ちも少し分かるようになってきた気がするのだ。
子どもは大人に守られるものだということ。
子どもあることは罪でないということ。
あの頃そう言ってくれた人の年齢にはまだ追い付いていない。ただ、この言葉に込められた優しさについては、あの頃よりも分かったつもりでいる。
かつての街並みとは少し違っているが、あの人が最期まで力を奮った場所だからだろうか。子どもだった頃の自分と大人だったあの人との思い出が、頭の中に浮かんでは消える。
その時、虎杖は不思議な気配を感じた。
術師と非術師の区別は、術師が呪力の流れを意図的にコントロールしていない限りある程度捉えることができる。ただ、地下へと続く階段の先に、術師とも非術師とも何かが違う気配を感じるのだ。
虎杖はおそるおそる気配を辿って人混みを進んでいった。地上と比べ物的被害の少なかった地下通りは多少修復はあったものの、あまり変わってはいない。階段を降りていくと、柱の向こうに自動改札が見えてくる。そして、柱を回り込みんで続く通路の向こうは、あの人が亡くなった場所だ。
流れる人波の中で気配を探っていると、ちょうど大きな壁面広告の正面に不思議な雰囲気の二人組が佇んでいた。
黒い制服姿の金髪と黒髪の少年。おそらく、さっきの学生たちと同じ年頃だろう。黒髪の方は上着が随分と短いが、金髪の方の恰好は同級生の伏黒がかつて着ていた高専のスタンダードな制服とよく似ている。ただ、虎杖が知る限り、東京校では見ない二人組だった。
自分が把握していないだけで京都校から応援が来ているのだろうか。
もう少し近づいてみようか迷っていると、黒髪がパッとこちらへ顔を向けた。
まん丸な黒い瞳、はつらつとした眉、大きな口。一目見ただけで、人好きの良さそうな子だと感じられた。
見覚えはなかった。ただ、何故か初めて会ったような気もしなかった。
虎杖が立ち竦んでいると、何かを探すように少し視線を漂わせていた黒髪の少年とぱちりと目が合った。
一瞬瞳を大きくさせた少年がゆっくりと目尻を下げていく。思っていた通りの明るくて優しい笑みが少年の顔に浮かぶ。
やっぱり知り合いだろうか。
お互い視線を逸らさずにいると、不思議に思ったのか、手前に立っていた金髪の少年が黒髪の少年の方を向く。
すると、その時。喧噪の中だというのに、金髪の少年の声が虎杖の耳へはっきりと届いた。
「どうした、灰原」
記憶の中にあるよりも、少し高い声。それでも、聞き覚えのある声だった。
金髪の少年の顔はよく見えない。だが、黒髪の少年が虎杖の方を指差すと、金髪の少年がゆっくりと振り返った。
流した前髪、彫りの深い目元、高い鼻筋。
見覚えはない。だが、緑色の瞳と金髪の組み合わせを持つ人物はよく知っている。
──でも、眉間に皺全然寄ってねえな。
自然とそんな感想が浮かんだが、何故か驚いていない自分に虎杖は内心苦笑した。
思い出の中にある大人のあの人は、いつも淡々としていて何を考えているのか読み取ることは難しかった。だが、今金髪の少年はにこにことしている黒髪の少年に何やら詰め寄っている。遠目からみても金髪の少年が焦っていることは明らかで「あんな顔もするんだ」と虎杖は小さく笑った。
出会った時から大人だったあの人の子どもの頃のことも、あの黒髪の少年のことも、二人がどんな関係だったのかということも、何も知らない。
ただ、楽しそうに言葉を交わしている二人を見ていると、二人がとても仲が良いということは、はっきりと伝わってきた。
どうやら一通り話し合いが済んだのか、軽く頭を抱えていた金髪の少年がしぶしぶといった様子で再び虎杖の方を向いた。
相変わらずにこにこしている黒髪の少年が、虎杖を見つめてしぃ、っと人差し指を立てる。そして、金髪の少年も少し気まずそうな表情で小さく会釈をした。
どうして二人がここにいるのかも、二人が一体どんな存在なのかも何も分からない。これ以上二人に関わらない方がいいだろう。
それでも、自分は大人だったあの人に守られ、道を示してもらった。そして、かつて子どもだったあの人と一緒にいる黒髪の少年からも、不思議とあの人と同じものを託されたような気がするのだ。
「ありがとう!」
この言葉が正解なのか分からない。ただ、キョトンと一瞬顔を見合わせた彼らがくしゃりと笑う姿に、虎杖は大きく手を振ってもう一度同じ言葉を口にした。
*
地上へ出て元居たビルの屋上へ戻ると、ちょうど伊地知から着信が入った。
「お疲れさんですっ。はい、さっきの南側の呪霊の件っすか?」
どうやら、ついさっき学生からの定期連絡があり、現場へ駆けつけた虎杖にもその後の報告をしてくれたというわけだ。
「そっかー、あとはあの子らで大丈夫だと思ったんでよかった!」
取りこぼした低級呪霊も全て伐除が完了。索敵に長けた術師から、南側はひとまず見回り終了でいいと判断されたらしい。学生は終電までに任務を上がることになっていたから、なかなかいいペースだ。
『虎杖くんの方は特に異常ないですか?』
「おう!ない、よ……」
学生の頃から変わらず気に掛けてくれる伊地知の言葉に、何故か歯切れが悪くなってしまった。その理由は明らかだった。
人混みの中へ消えていく二人を見送った時は、詮索するなんて野暮なことはしないと思った。だが、あんなにも分かりやすく七海の表情を変えることのできる、あの黒髪の少年について少し知りたくなってきたのだ。
『虎杖くん?何か気になることでもありましたか?』
「あのさー、伊地知さん。全然関係ないこと聞いていい?」
『ええ、どうしました?』
さて、なんて聞いてみようか。おそらく『はいばら』というのがあの黒髪の少年の名前だろう。ただ、どうしてその名前を知っているのかと聞かれた時に上手く説明することは難しい。七海の学生時代を知りたいと言うのも少々唐突だ。
悩んだ末、直接的過ぎずかつある程度人物が絞れそうな特徴を思い出した虎杖は、根気よく待ってくれた伊地知へ、こう聞いてみることにした。
──昔、高専で短ラン着てた人っている?
○補足という名の言い訳○
本当はサクッと原作完結後、数年経っていろいろ復興した渋谷で大人になった悠仁が空港から現世へ遊びに来た七灰を目撃する、というSF(少し不思議)な小話にするつもりだったんですが、なんか忙しかったりその間にいろいろ考えているうちになぜが少し長くなりました。
とりあえず書き終えた今もあんまり頭の中が整理できていないので、考えていたことを列挙しようと思います。
・原作が終わり、生き残った学生(子どもたち)がこれからまだ生き続けていくことが明示され、彼らもいつか大人になり、作中の大人たちがしてきた子どもたちを守る立場になっていくんだなぁ、という部分を書きたかった。受け継がれていく優しさ的な感じで。
・大人になったことで、かつて子どもだった頃に大人だった人たちの気持ちをなんとなく分かるようになるのを書きたかった。
・学生姿の七海を見て、大人だった人たちもかつて子どもだったことを知ってほしいな。できるなら、どうして七海が学生姿でいるのかについて少し考えを巡らせてほしいな。(このへん全然書けていない)
・はっきりとは見えてないけど、悠仁の記憶の中に七海の死に際に現れた灰原くんの姿が残ってたらいいなぁ。なんせ灰原くんは死んでいるのに七海の為に現世にやってこれた人なので、他の人にも多少影響を残していたらいいなぁ。あわよくば、七海の託したものは灰原くんからの思いも入っているんだと感じてほしいなぁ、という灰原雄贔屓限界オタクの願望。(公式ガイドブック42話のところ読んでください)
今書き出せたのはこのくらいですが、まだあとから出てくるかもしれないので気が向いたら自分メモ用に加筆しているかもです。
大人と子どもについて
七海が悠仁に対して大人と子どもであることを何度も強調していたのは、かつて子どもだった自分たちが子どもでいられなかったことが大きな理由だったのかな、と思っています。
自分たちは子どもであり、学生である。でも、何より優先されるのは、呪術師であるということ。
いくら特別な力を持っていたとしても、他にやる人がいなかったとしても、まだ守られる立場のはず。そんな中で唯一の同級生を目の前で失えば、きっと子どもだった七海は守ってくれなかった大人に対して怒りを抱いたことだと思います(それ以上に自分を責めた部分もありそうですが……)。
そんな七海が大人になり、また呪術師に戻ると決め、あの頃の自分たちと同じ子どもである悠仁と出会った時、おそらくはあの頃の自分たちがしてもらえなかったことをしよう思ったのかな、と考えます。
「私は大人で君は子供。私には君を自分より優先する義務があります」
「子供であるということは決して罪ではない」
義務、罪。
言葉のチョイスが重すぎる。でも、かつて子どもだった自分たちを守ってくれなかった大人たち、そして一人生き残ってしまった自分に対する言葉だと思うと納得してしまいますし、今現在子どもである悠仁へ自分と同じ思いをさせたくないという強い意志を感じます。
そして、七海にそこまでの覚悟というか、道を選ばせた存在である灰原くんって本当に七海にとって特別だったんだな、と思わずにはいられません。七灰強火固定の人間なので……はい……。
長々と書いて少し疲れてきました。
何が言いたいのかもあんまり整理できていないので支離滅裂かと思います。
本当は現世へ遊びにいくことになった小話と悠仁と別れてからの二人の小話のネタはあるんですが、諸々原稿やらがあるのでそれが終わって元気だったら書きたいなぁ、と思っています。
とりあえず、悠仁にとって七海も特別な大人だったけど、間接的に灰原くんのことも特別だったらいいなぁ、という話が書きたかったやつでした。
以上です。
ここまで読んでいただいた方、本当にありがとうございました。