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    しんした

    @amz2bk
    主に七灰。
    文字のみです。
    原稿進捗とかただの小ネタ、書き上げられるかわからなさそうなものをあげたりします。

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    しんした

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    七灰原稿
    あの世で再会した七灰(28×17)
    センチメンタルのち、少しずついちゃつく二人。
    早くちゅーさせたい。
    (誤字脱字等チェックしてないのであればスルーしてください)

    夏インテ原稿(七灰)③



    あてもなく、灰原がイメージした思い出の街を歩いた。
    ここに時間なんてものがないと頭では理解できる。しかし、いつまでも色の変わらない空を目にしていると、胸の奥から物悲しさが滲んできた。手のひらは繋がったままだったが、灰原がどんなことを思いながらいつまでも変わらない澄んだ秋の空を眺めているのかはわかるはずもなかった。
    街の中心部を流れる河沿いを歩いていた時、ずっと口を閉ざしていた灰原がパッと明るい声を上げた。
    「さっ、次はどこ行こっか!」
    向けられた表情はあの頃からよく目にしていた和やかな笑みだった。
    「次は七海の行きたいとこにしよ!って、僕が割り込んだんだけどねー。次はどこがいいかな?夏、秋って来たからやっぱ冬?まあ、別に順番通りじゃなくていいんだけどさ!」
    さっきまでの静寂をかき消すように、灰原は絶え間なく言葉を続けていく。竹林の小径で垣間見せた寂しげな雰囲気はどこにもない。しかし、それが反対に無理をしているようにも思えて、七海の胸はまたズキリと傷んだ。
    「どうする?七海寒いの苦手だしまた夏でもオッケーだけど、」
    「もう、いいのか?」
    七海がそう静かに口にすると、わざとらしいくらいの笑みを浮かべていた灰原は微かに表情を曇らせた。はつらつとしていた眉が困ったように下がっていき、弧を描いていた口元もじわじわと真っ直ぐに降りていく。
    「……うん」
    少し間を開けて小さく返事をした灰原の瞳が大きく揺らめいた。潤む瞳からそのまま涙が溢れてしまいそうだったが、一度グッと唇を結んだ灰原は寂しげな笑みを浮かべた。
    「七海の行きたいとこ、連れてって」
    繋がっていた手のひらがきゅっと遠慮気味に握られる。
    「わかった」
    灰原がほんの少し心のうちを見せてくれたような気がして、七海は記憶の中にあるよりも小さな手のひらを強く握り返した。


    暗い山の中で灰原と再会した時、どうして灰原があんな場所まで来てくれたのか、七海はわからなかった。だが、今ならわかるような気がしていた。
    灰原はずっと一人だった。思い出の中をたった一人で巡っていたのだ。
    思い出というものは美しいものだと思う。懐かしさというものは優しいものだと思う。けれど、変わることのない世界は、ひどく物悲しくもある。
    灰原は寂しかったのかもしれない。一人ではなく、あの頃のように二人になりたかったのかもしれない。だから、あんな暗い場所まで探しに来てくれたのではないかと、そう思った。
    灰原は、また自分を見つけてくれた。この手を掴んでくれた。思い出の中でずっと、自分のことを想っていてくれた。こんなに嬉しいことがあるのだろうかと、七海の胸は熱くなっていた。
    ずっと一人だった灰原のことを思うと、こんなふうに喜んしまうことはよくないとわかっている。しかし、灰原を失った後の自分と同じように、灰原もあの頃の思い出の中で過ごしてくれていたなんて考えもしなかったのだ。
    ここへ来た時とは反対に、七海は灰原の手を軽く引いて歩いていった。灰原のイメージした思い出の街が少しずつ薄れていき、景色は境目の真っ白な空間へと変わっていく。
    灰原との思い出はたくさんある。灰原にとっては些細な出来事も、自分にとって大切な思い出になっていることもあるだろう。思うことが全ての世界で驚くということはきっとなかったかもしれない。なら、灰原が予期しない思い出の世界へ連れていきたいと、七海はそう思っていた。





    境目を抜け出ると、視界に広がったのは重たい灰色の空とどこまでも続く真っ白に染まった稜線だった。
    「雪だぁ」
    小さく声を上げた灰原が、頬を緩めてこちらを見上げてくる。作っている笑みではないことに七海は内心安堵した。
    「冬の場所、だね」
    「ああ」
    灰原の言う通り、七海がイメージしたのは雪の積もる冬の景色だった。他の季節と随分様相を変えているが、雪の降り積もった山は高専を取り囲んでいるもので、少し離れた場所にはあの頃灰原と寝食を共にしていた学生寮が佇んでいる。
    「なんか意外。七海寒いの苦手なのに」
    「寒いのは苦手だったけど、冬自体は別に嫌いじゃなかったからな」
    「へぇ、そうなんだぁ」
    キョロと、辺りを見渡した灰原もここが寮の近くだと気づいたようだった。しかし、ふっと視線を落とした灰原は、しばらくして足元の白い地面を爪先で軽く蹴り上げ始めた。降り積もってまだあまり時間が経っていないのか、雪は簡単に崩れて小さく舞う。灰原は何度かそれを繰り返していたが、七海が「行こうか」と軽く手を引くと、ゆっくりと歩みを再開した。
    静かに着いてくる灰原は、感触を確かめるように柔らかな新雪をキュッ、キュッと踏みしめている。すると、寮の玄関に差し掛かった時、灰原はふと立ち止まった。そして、視線を足元へ落としたままぽつりと言葉を漏らした。
    「七海が行きたかったのって寮なの?」
    「そうだよ」
    七海が返事をしても、灰原は下を向いたまま何も返さない。
    「寮はイメージしたことないのか?」
    「ううん、あるよ。でも、こんな雪が降ってる景色はないかな。だからちょっとびっくりした」
    「そうか」
    灰原がイメージしたことがない景色なら、自分の思惑は少し成功したようなものかと七海は思った。しかし、ゆっくりと顔を上げた灰原はどこか戸惑ったような表情を浮かべていた。
    「あのさ」
    「なんだ?」
    「七海の部屋、行ってみてもいいかな?」
    おずおずと口を開いた灰原は、窺うようにこちらを見上げている。
    「ああ、もちろんだ」
    「ありがと」
    七海が迷わず言葉を返すと、灰原は安堵した様子で顔を綻ばせた。そして、繋がっていた手のひらもやんわり握り直されたように感じて、それに応えるように七海は灰原の手をしっかりと握った。
    当たり前だが寮の中に自分たち以外の気配はなく、シンと静まり返っていた。ただ、よく先輩たちがたむろしていた玄関横の皮張りのソファも、時々何の脈絡もなく開催されるたこ焼きパーティの会場だった共用の台所もあの頃の記憶のままで、想像していたよりも胸の奥がジンと熱くなる。それを悟られていたのか、灰原は「あの頃のままだね」と小さく笑った。
    階段を上がり、二階へと向かう。一つのフロアに個室が五つほど並んでいるが、そこが全て埋まった記憶はなく、あの頃も二階の個室は自分たちしか使っていなかった。そして、空室の方が多いというのに、何故か部屋は灰原と隣同士だった。
    階段に近い方の部屋の扉を開けると、記憶の中にぼんやりと残っている景色が広がる。靴が二足並ぶと足の踏み場が無くなる小さな玄関に年季の入った簡易のキッチン。タイルばりの浴室は冬場は結構冷えるくせに、たまにお湯が出なくなっていたことが頭をよぎってほんの少し頬が緩んだ。
    しかし、先に居室の扉を開けていた灰原は、何故か室内には入らずにぼんやりと立ち尽くしていた。
    「どうした?」
    ハッとした灰原は、こちらを向いてニコリと笑顔を作った。
    「ううん。なんでもない」
    それから灰原は、おじゃましまーす!と明るい声を出して中へ入った。
    「ちゃんと七海の部屋だね!」
    「ちゃんと?」
    「だって床にもの散らかってないし、ベッドの上グチャグチャじゃないし、本棚は難しそうな本ばっかりだし!僕の部屋と全然違う」
    そう言ってくるりと部屋の中を見渡していた灰原が、ふと動きを止める。視線の先にあったのは、壁際のレールのハンガーに掛かっている制服の黒い上着だった。それを見つめた灰原は、じんわりと目を細めていた。
    「七海の制服、いつもここに掛かってたよね」
    「そうだったか?」
    「そうだよ。シワにならないようにちゃんとハンガーに掛けてた。それに、僕が遊びに来た時、僕の分のハンガーも渡してくれてたよ。でも、僕はめんどくさがってその辺にポイッて脱いでたけどさ」
    確かに灰原は大抵いつも脱いだ制服は適当に端に放っていた。気まぐれに、その制服を自分の制服の隣に掛けたことも何度かあった。
    デザインの違う、然程サイズの変わらない黒い制服が並んで吊るされている光景。あの頃の些細な日常。けれど、あの頃にしかない穏やかな一瞬。灰原の言葉で、遠い日の記憶が七海の脳裏に蘇る。
    ゆっくりと歩み寄った灰原は、制服の掛かったハンガーを手に取った。そして、大きさを確かめるように制服を七海の前に掲げた灰原は、ほんの少し眉を下げて笑った。
    「これ、もうサイズ合わないね」
    灰原が合わせてくれた制服は肩幅も袖の長さも明らかに足りておらず、前を閉めることも難しいだろう。高専へ入学したての頃、この制服は少し大きいくらいだった。灰原と過ごしていた間にも身長は自然と伸びていたが、今のような身体になったのはまた呪術師の世界へ戻ってからのことで、あの頃の制服が合わないのは当然だろう。しかし、灰原と再会してからもう何度も目の当たりにしている『お互いに流れていた時間』の差を改めて実感して、胸の奥は苦しくなった。
    「そうだな」
    「身長とか体格とか、そんなに変わんなかったのになぁ」
    寂しそうに笑う灰原へかける言葉は、そう簡単には見つからない。七海が口籠っていると、制服を下ろした灰原は静かに言葉を続けた。
    「僕さ、寮は何回もイメージしてたんだよ。でも、七海の部屋には入らなかったんだ……入れなかった、っていう方が正しいのかも」
    そう言った灰原は、ここへ入った時と同じように部屋の中をくるりと見渡した。
    「七海の部屋はいつもきれいに掃除されてて、掛け布団もきっちり畳んであって、制服もハンガーに掛かってて、本棚もグチャグチャじゃなくて。僕の部屋とも、夏油さんや五条さんの部屋とも、誰の部屋とも違う」
    部屋の中を見渡していた灰原が、ふと視線を落とす。
    「ちゃんと覚えてる、イメージもできる。ここと同じように……でも、七海はいない。いっぱい、一緒の時間を過ごした場所なのに」
    一度言葉を切った灰原は、小さく息を吸ってから絞り出すような声でつぶやいた。
    ──どこにも、七海はいなかった。
    それから灰原は、腕に制服を抱えてゆっくりと俯いた。背中を丸め深く静かに呼吸を繰り返す姿は、まるで哀しみを押し殺しているようで胸が潰れそうになる。
    七海は小さく上下する肩へそっと触れた。灰原は微かに身体を硬くさせたが、肩をやんわり引き寄せてもただ身を任せていた。
    「私は、ここにいる」
    そう告げた七海は、己の存在を伝えるように灰原の身体を包み込んだ。
    自分たちがいるこの部屋も、二人の間に挟まれている制服もハンガーも結局は思い出の中のイメージに過ぎない。だが、灰原は確かに腕の中にいる。そして、灰原を包んでいる自分も、確かにここにいる。
    ぎゅっと腕に力を込めると、肩口へ体重が掛かりスンと微かに鼻を啜る音が聞こえた。それから「ほんとだ」と小さな声が耳に届き、ぐりぐりと痛いくらいに頭が押し付けられる。しばらくして顔を上げた灰原の瞳は少し潤んでいたが、浮かんでいたのは微笑みで、七海も同じように小さく笑い返していた。
    「灰原の部屋にも行っていいか?」
    「いいけど、七海が行きたかったのって僕の部屋だったの?」
    「そうだよ」
    「わかった。じゃあ行こ」
    そうニコリと笑った灰原は、きゅっと七海の手を握った。


    寮の部屋はどこも同じ間取りで、ベッドや勉強机も備え付けだ。ただ、部屋の主によって雰囲気が変わることは当たり前で、もちろん灰原の部屋と七海の部屋とでは物の多さや整頓具合に随分と違いがあった。そのなかで、自分の部屋と一番違っているところは部屋の中央に鎮座しているこたつだと、あの頃ずっと七海は思っていた。
    「わぁ!ちゃんと僕の部屋だ」
    居室の扉を開けた灰原は、パッと表情を明るくして足取り軽く部屋の中へ入っていく。灰原に続いて部屋の中をぐるりと見渡していると、思い出の中にある通りの光景が目の前にあり七海の胸は熱くなった。
    「すごい、漫画の種類も完璧じゃん」
    そう言って本棚の前にしゃがみ込んだ灰原は小さく感嘆の声を漏らしている。あの頃、灰原の持っている漫画にそこまで興味を抱いた記憶はなかった。しかし、予想していたよりも詳細にイメージできていることに、ここで灰原と過ごした時間の密度を実感してなんだかむず痒くなる。
    ほんの少し熱を持つ頬に気づかれないよう灰原に背を向けて床へ視線を落とした七海は、暖かそうなこたつ布団から伸びるコードを手繰り寄せた。それをコンセントへ射し込んで、スイッチをオンにする。カチッと乾いた音が鳴ったからか、七海の隣へとやってきた。
    「こたつ?」
    「ああ」
    「七海、こたつ入りたかったの?」
    「そうだけど」
    すると、パチリと一瞬瞳を大きくした灰原は、次の瞬間表情を崩して声を上げて笑った。
    「そんなにおかしいか?」
    「っ、だって、わざわざ僕の部屋イメージして、こたつって!」
    苦しそうに腹を抱えている灰原は、息継ぎの合間になんとか返事した。正直、ここまで驚かれるとは思っておらず、じわじわと羞恥が込み上げる。少しずつ寄っていく眉間に気づいたのか、息を整えた灰原から背中をぽんぽんと軽く叩かれた。
    「ごめんごめん、怒んないで七海。こたついいよね。僕も好きだから実家から持ってきたんだし」
    「別に怒ってない」
    そう返したが顔は勝手にムスッとしてしまう。子どもみたいな反応をしてしまうことは、少し恥ずかしい。けれど、それは相手が灰原だからで、あの頃も時々こんなやりとりをしていたのだと、七海の頭の中に遠い日の記憶が蘇る。
    「まさかこたつだと思わなかったんだよ。でも、こんなに笑ったの久しぶり。ありがと七海」
    灰原の目元は少し濡れていたがそれが哀しみから出た物ではないことに、眉を寄せながらも七海は内心安堵していた。
    先にこたつへ足を入れた灰原に促され、七海も腰を下ろした。スイッチを入れたばかりのヒーターはまだ十分に温まっていないが、綿入りのこたつ布団はそれだけでも温もりを感じさせる。もぞもぞとちょうど良い体勢を模索していると、トンッと軽く足を蹴られた。パッと右隣へ顔を向けると、思い出の中と同じように両肘をついた灰原がにこにこと笑っていた。
    「懐かしいね」
    「そうだな」
    あの頃、灰原の定位置はちょうどテレビの正面で、七海の定位置は灰原の斜め隣だった。初めて灰原と一緒に課題をした時は向かい合わせに座っていた。だが、課題が終わった流れでダラダラと灰原の部屋で過ごすようになると、灰原がテレビをつける時にいちいち移動するのが面倒になり、いつしかこの位置が定着していたのだ。
    「結構足ぶつかってたよね」
    「ああ。でも、今のはわざとだろ?」
    「バレてたかー」
    「バレバレだ」
    そんな他愛ないやり取りをしながら、こたつの中で軽く小突き合う。平均よりも体格の良い男二人には少し小さなこたつだったが、自然と距離が縮まることはあの頃から七海にとって好都合だった。
    ヒーターがジワジワと働いてきて、少しずつこたつの中も暖まってくる。小突き合いも終了して温もりに身を任せていると「あったかーい」と表情を崩している灰原と同じように七海の頬も緩んでいた。
    「私は、寒いのは苦手なんだ」
    そうポツリとこぼすと、組んだ腕に顔を埋めていた灰原はゆるゆるとこちらを向いて目尻を下げた。
    「うん。知ってるよ」
    「でも、灰原と一緒の時は少しマシだった」
    「こたつがあるから?」
    「そうじゃない」
    「冗談だよ!」
    食い気味に言葉を返すと、灰原は小さく吹き出してくすくすと笑った。あの頃、幾度となく目にしていた光景に、七海はジンと瞳の奥が熱くなるように感じた。
    「灰原と一緒にいると、いろいろと安心したんだ」
    ずっと一人でいいと思っていた。それが、この世界で生きる最善と思っていた。
    けれど、灰原と出会ってしまった。二人でいる心地よさを、知ってしまった。
    「……僕も、同じ」
    組んだ腕に口元を埋めた灰原が小さく呟く。少し伏せられた目元が微かに色づいていることは気のせいではないように思え、七海は指の背でそっとそこへ触れた。灰原は何も言わず、瞼を閉じてただ身を任せていた。
    「あの任務のあと、一度だけ灰原の部屋に入ったよ」
    「うん」
    「畳まれていない布団も、脱ぎ散らかしてるジャージも、期限が過ぎてる課題も、読みかけの漫画も全部、一緒にここを出発した時と何も変わってなかった」
    ゆっくり瞼を開けた灰原が視線をこちらへ向けた。あの頃と何も変わっていない黒い瞳を見つめていると、少しずつ視界がにじんでいくことに七海は気がついた。
    「でも、灰原はいなかった……きみだけが、どこにもいなかったんだ」
    ここへ入った時、思い出の中と同じ光景に喜びと同時に苦しみが込み上げた。灰原と一緒にいた頃の 満たされていた日々と、灰原を失ってからの空虚な日々が鮮明に蘇ったからだ。
    思い出に満ち溢れた部屋だというのに、最も大切な存在はいなかった。教室にも、中庭にも、食堂にも。人が行き交う街にも、のどかな田舎道にも、寂れた駅にも、どこにも灰原はいなかった。
    熱いものが瞳の奥から込み上げてくる。すると、灰原に触れていた指へ温もりが訪れた。
    「僕は、ここにいるよ」
    そう言った灰原はやんわりと七海の手を握り、そっと自分の頬を包み込ませた。すりすりと手のひらに頬が寄せられたかと思うと、時々ぐーっと頬を押し付けられる。すると、成人男性とは違う、まだ微かに丸みの残る灰原の頬がふにっと形を変え、その光景に七海の頬も自然と緩んでいた。
    「本当だな」
    あの頃も、こんなふうに灰原に触れたいと望んだことはあったが、それを叶えようと行動することはなかった。想像の中にしかなかった出来事に、むず痒さが押し寄せる。だが、はにかんでいる灰原の頬を優しく撫でると灰原はまたすりっと手のひらに頬を預けてくれて、七海は心の中が満たされていくような感覚に包まれた。
    二人で過ごす時間はもう二度と訪れないのだと、何も変わっていない部屋の中で、涙をこぼした暑い夏の日。あれから、十年以上が経った。
    一度全てから逃げ、結局曖昧なまま戻って来た。それから、内心迷いながらも己の成すべきことに力を尽くしてきたつもりでいた。
    辛いことの方が多かった。だが、幸いなことに仲間には恵まれた。面倒な先輩や慕ってくれる後輩、あの頃の自分たちと同じ年齢の子どもたち。安らぐひとときはあった。誰かと笑い合うこともあった。
    この十年、一人ではなかった。しかし、独りではあったのだ。
    灰原が満たしてくれていた、心の空白。いくら思い出に浸っても、いくら思い出の中に問いかけても、灰原がいないという事実を何度も突きつけられるだった。もう二度と心が満たされることはないのだと、幾度なく実感した。
    それなのに。
    「灰原」
    「なに?」
    「また会えて、嬉しかった」
    少し涙声になってしまったことに、情けなさを感じる。それでも、想いを言葉にせずにはいられなかった。
    「また、私を見つけてくれてありがとう」
    独りだった自分を、ずっと迷っていた自分を、あの夏の日に囚われていた自分を、灰原は見つけてくれた。
    七海の頬に温かなものが一筋流れていく。すると、一瞬瞳を大きくさせた灰原は、じんわり目尻を下げてからそっと七海の頬へ手を伸ばしていた。
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