ご都合〜で猫になった七海と事情を知らない灰原くんのラブコメ②*
午前中はペアでの呪術実習だったが、灰原一人しかいないため急遽自習となった。
「きみのお世話に充てていいって言われたから、とりあえずお風呂入ろっか!」
お風呂!?
七海はアワアワともがいたが、今は猫なのだから何の意味もなさない。灰原の部屋につき、そのまま脱衣所へ向かう。そっと床に降ろされたが、ぴっちりと扉を閉められてしまえばもうどこにも行くことはできない。背後で衣擦れの音がして、灰原が制服を脱いでいるのだと容易に想像できた。
今までも一緒の部屋で着替えたことはあるし、下着姿も見たことはある。だが、風呂となるとやはり何かが違うのだ。
「準備オッケー!ってあれ?」
そんな、まだ心の準備が。脱衣所の隅でじっと壁の方を向いたが、抵抗むなしく軽々と持ち上げられてしまう。
「ほら、怖くないよ〜」
灰原の腕の中にぎゅっと抱き込まれる。ああ、初めて灰原の素肌に触れるのが猫の肉球でなんて。
そう思いながらも、七海はゆっくりと灰原の胸に身を委ねた。しかし、肉球から伝わってくるのは、滑らかな素肌ではなく柔らかな綿の布地だった。見上げると、灰原はインナーのTシャツ姿で、下もズボンを膝上まで捲っているだけだ。
そうだ。別に灰原が全て脱ぐ必要はどこにもない。
「大人しくしててね」
自分はこんなに馬鹿だったのかと、いたたまれなくなった七海は言葉通り灰原の腕の中で大人しくすることしかできなかった。
灰原は動物を飼ったことがあるのか、随分と手慣れている様子だった。お湯の張られた洗面器の中へ七海はゆっくりと降ろされた。
「猫なのに全然驚かないね。お風呂慣れてるのかな?それか、使役されてるからすっごく賢いとか?」
まあ、中身は人間だからな。
灰原は不思議そうにしながらも、チャプチャプと手のひらで少しずつお湯をかけていた。夜蛾が用意したという猫用のシャンプーもしっかり泡立てて、優しく撫でるように全身をもこもこの泡で包んでいく。もこもこの泡で顔まわりをマッサージされて、思わずグルグルと喉が鳴った。
「ケントはいい子だね」
小さな子どもへ向けるような言い方に、気恥ずかしさが込み上げる。だが、今の自分は子どもどころか猫なのだから仕方がない。
風呂から上がったあとも丁寧にタオルドライされ、最後は灰原の腕に抱かれながらドライヤーでしっかりブラッシングまでされた。
「完了〜!」
ドライヤーが止まり、灰原は満足げな声を上げた。泥だらけで分かりにくかったが、自分の毛色がクリーム色というよりも髪色と同じ淡い金色をしていたことに七海は気がついた。
「やっぱり綺麗な色してたんだね。それに、洗い立てでふわふわだ」
微笑む灰原に喉元を撫でられ、その心地よさに自然と瞼が降りてくる。ドライヤーの時から、全身を撫でる灰原の手のひらが気持ちよくてたまらなかった。
「気持ちいい?」
ああ、すごく。
返事の代わりに喉を鳴らすと、灰原は嬉しそうに目尻を下げていく。庇護すべき対象に向けられる、慈愛に満ちた表情。まさか、灰原が自分へこんな顔をする日が来ると想像したことはなかった。
ほんの少しのむず痒さと、灰原への愛おしさが心の奥から滲み出てくる。もし、灰原の特別になれたら、またこんな風に微笑みを貰えるのだろうか。そして、同じように微笑んで、灰原に触れることができるのだろうか。
灰原の手のひらが心地よくて、思考が徐々におぼつかなくなる。いつの間にか、七海は灰原の膝の上で意識を飛ばしていた。
パチリと瞼が開いた時、部屋の中は真っ暗だった。ベッド脇に置かれている目覚まし時計の針はちょうど七時を指していて、半日以上も寝ていたのかと七海は少々驚いた。
灰原の膝の上で眠ってしまったと思ったが、いま七海が横になっているのは二枚重ねの座布団の上だった。冷気を遮るためなのか囲うようにして毛布も置かれている。猫になっているからか毛布から灰原の匂いを強く感じて、胸の奥がむず痒くなった。
座布団から降りて丸まった背筋を猫らしくググッと伸ばしていると、ガチャリと扉の開く音が鳴った。電気のついた台所へそっと向かうと、灰原はいくつかのタッパーを作業台に並べていた。
すると、気配に気付いたのか灰原がパッとこちらへ顔を向けた。
「あ、起きてたんだ!」
小さく鳴き返すと、しゃがみ込んだ灰原は頭や喉を撫でてきた。
「お腹空いてる?夜蛾先生からケントはキャットフードは食べないらしいって聞いたから、食堂の人に頼んでお魚とか用意してもらったんだよ〜」
猫になっているからとはいえ、中身は人間なのだからその気遣いはとてもありがたい。これまで、自分から灰原へスキンシップはしにいかなかった。恥ずかしさはありつつも、七海は感謝の気持ちを込めて手のひらへグリグリ頭を擦り寄せた。すると、灰原は嬉しそうに目尻を下げた。丁寧にほぐされた焼き魚と柔らかめの白米を食べている間も、灰原はニコニコ笑ってその様子を眺めていて、なんだかまた胸の奥がむず痒くなった。
お風呂から上がった灰原は髪も乾かさないまま机に向かい、何やら「うーん」と小さく唸っていた。机の上を覗き込むと、提出期限が明日までの課題プリントが広げられていた。課題が出たのは先週だったはずだが、プリントには空欄の方が多く、灰原の手はあまり動いていない。なんとか一問解いたところで、灰原はころりとシャーペンを置いた。
「もー、なんで化学ってこんなややこしいの?」
灰原は理系が苦手だ。単純な暗記は得意だが、応用問題はとても時間がかかってしまう。
「ケントこの問題分かる?」
このプリントは任務の前に終わらせていたから、空欄全て埋めることは可能だ。しかし、いまの自分は猫であり、ペンを持つどころから口頭で答えを伝えることもできない。黙ったままプリントを見つめていると、灰原は「真剣に考えてくれてありがと」と額をチョイチョイと軽く撫でてくれた。
「あーあ。いつもなら七海に聞きにいくんだけどなぁ」
灰原の口から自分の名前が出たことに、七海の心臓はドキンと跳ねた。確かに、灰原はよく課題を持って部屋へやってくる。入学して然程日にちが経っていない頃から自然に始まり、それは今も続いており頻度も多くなっていた。
「あ、七海って僕の同級生だよ!ケントとおんなじ名前!」
七海を抱き上げて膝の上に乗せた灰原は、何故か得意げな顔をして話し出した。
「七海って頭いいんだよ!理系はバッチリだし、英語も得意でしょー。古文はちょっと苦手って言ってたけど、七海のノートすごく分かりやすいんだよ。字も綺麗だしまとめるのも上手なんだよね!」
灰原は無意識に人を褒めるところがあり、どれも普段から面と向かって言われていることではあった。しかし、本人のいないところでしかも猫相手にも話しているなんて、嬉しさと恥ずかしさの両方で自然と尻尾が揺れてしまった。
「よーし、ケントも応援してくれてるし頑張ってやるか!」
一通り話して満足したのか、灰原はペンを握り直して再びプリントへ向かった。真剣な顔の灰原を見上げることは新鮮で、七海はカリカリとペンが走る音を膝の上で聞いていた。
小一時間ほどで課題を終えた灰原は、テレビのバラエティ番組を見てから寝支度を始めた。
昼間眠っていた時と同じように座布団と毛布をセットした灰原は、さらにもう一枚薄手のブランケットを座布団の上に敷き詰めていた。
「寒くないかなぁ」
寝床のふかふか具合を前足で確かめていると灰原はそう呟いた。ここまでこしらえたら十分だろうと顔を上げたが、灰原は何か考え込むように腕を組んでいた。しばらくしてベッドの上の枕を少し壁際に寄せた灰原は、掛け布団の端をめくって分厚めのパーカーを敷いた。
「ここの方が床よりあったかいと思うけど、どうかな?」
微笑みながらポンポンとベッドを叩く灰原に背を向けて、七海は慌てて座布団の上で丸くなった。
「そっかぁ、流石に一緒に寝るのはいやだよね」
少し寂しげな声が耳に届き、そんなことはないと主張したくなる。だが、猫になっているとはいえ、流石に片想い中の相手と同じベッドで寝るなんて、そんな度胸は持ち合わせていなかった。
「場所空けとくから、寒くなったらこっちおいでね」
灰原は囲いのように毛布の位置を直してから、そっと頭を撫でてきた。後頭部に触れる、さっきよりも遠慮がちな手のひらに申し訳なさが大きくなる。電気が消えてから、七海は少し離れた場所から伝わってくる灰原の気配を感じながら眠気の訪れを必死に待った。
*
翌朝、念のため朝イチに様子を見せにくるよう家入に言われていた七海は、始業前に灰原と共に医務室へと向かった。
「おはようございます!」
医務室には夏油もいて、灰原の腕に抱えられていた七海を見た瞬間、二人とも吹き出して笑った。
「部屋から抱っこしてきたのかい?」
「最初は嫌がってたんですけど、まだ本調子じゃないかもだからって言ったら大人しくしてくれました!」
これは致し方ない状況だ。今朝起きた時、ベッドへ乗った気配がなかったことに残念そうな顔をされた上に、抱き上げようとする手を逃れると困ったように眉を下げられたのだから。
「灰原にはデレデレじゃん」
「でも流石に一緒には寝てくれませんでした」
「へえ、恥ずかしかったのか」
ニヤつく家入へを睨むが、灰原の腕に抱っこされているこの状態では何の効力もなかった。
「随分甘やかされたみたいだね」
先に教室へ向かうよう言われた灰原が医務室から出ていくと、夏油は小さく笑ってそう言った。
確かに灰原はこちらが恥ずかしくなるくらい甘やかしてくれた。触れる手のひらや見つめる視線から、灰原が見つけたばかりの猫を心から慈しんでいると感じた。
灰原が優しい人間であることは出会ってすぐに気が付いた。最初は灰原の分け隔てなさを理解できず、訝しく思うこともあった。だが、一緒に過ごすうち、呪術師としては甘すぎる灰原の隣にいることが心地よくなった。優しさを向けてほしくて、自分も同じだけ優しさを返したいと思った。その気持ちが、たったの一晩でさらに大きくなったのだ。
楽しげに瞳を細める夏油に心を見透かされているような気がして、七海はフイとそっぽを向いた。
一番面倒な五条が任務で不在なのは幸いだったが、昨日の態度から灰原へ片想い中なことは夏油に知られているし、おそらく家入も気付いているのだろう。これ以上揶揄われたくはない。そう思い扉の方へ向かおうしたが、七海はまた家入の手に捕まっていた。
「ちょっと待て。呼んだのは一応診ておこうと思ったからだ」
両手で顔を包み込まれて眠たげな瞳にじっと見つめられる。
「まあ、問題ないな。昨日より呪力の流れもいい」
グリグリと頭を撫でる手から逃れると、家入も後ろに立っている夏油もさっきの揶揄うような表情ではなく、優しげな笑みを浮かべている。灰原に対する気持ちを揶揄っているだけかと思ったが、どこか見守るような表情になんだか落ち着かなくなった。
教室まで運んであげようかという夏油の申し出を全力で断った七海は、一年教室へと向かった。二つしかない机の窓側に座っている灰原は、難しい顔をして昨日の課題プリントを見直している。静かに近付くと、気配に気付いたのか灰原はパッと後ろを振り返った。
「ケント!一人で来たんだ!」
おいで、と言われて七海は膝の上に乗ろうかどうか迷ったが、廊下から教員の近付いてくる気配を感じて、七海は空いている自分の席に飛び乗った。灰原は少し残念そうな顔をしたが「今日はケントがクラスメイトだね」と言って微笑んだ。
すぐに座学担当の教員が入ってきたが、事情は伝わっているのか椅子に座っている猫(七海)を見ても少し笑っただけで何も言わずいつも通り授業を始めた。
その日一日、七海は灰原の横顔をこっそりと眺めつつ、大きくなった灰原への気持ちをどうすべきか悩みながら過ごした。
夜になり、灰原はまた昨日のように机に向かっていた。広がっているのは明日の現地実習の資料。本来なら七海も一緒に行くはずのものだったが、今は名目上研修中のため、代わりに夏油がペアで行くことになったらしい。
「七海だけ研修とか全然知らなかったなぁ」
灰原の膝の上で資料を覗き込んでいると、頭上からそんな呟きが七海の耳に届いた。パッと上を向くと、資灰原は肘をついてぼんやりとしていた。
「急に決まったって夜蛾先生は言ってたんだけどね」
視線に気付いた灰原は、七海の背中を撫でながら話を続けた。
「高専入ってからいつも一緒にいたから、なんか変な感じなんだ。そりゃ、最近は僕も七海も単独任務増えてきたし、一人で授業受けるのも慣れてきたけどさ。あ!今日はケントが一緒だったね」
ありがと、と頭を撫でられて、また胸の奥がむず痒くなる。
「でも、研修忙しいのかな。メールも返ってこないし」
メール。そんなことすっかり頭から抜け落ちていた。
携帯はカバンの中に入っている。確か荷物は夏油が回収してくれたはずだが、どこに保管されているのかは分からない。明日確認して早急に返事を送らなければ。
「まあ、気にしても仕方ないかぁ」
そう言った灰原は、再び資料へ目を向けた。だが、灰原がほんの少し寂しげな表情を滲ませたようにも見えて、目の前にいるのに何も伝えることのできない今の自分に対して七海は苛立ちを覚えた。
一通り資料に目を通した灰原は自分の寝支度を終えると、昨日のように寝床を整えてくれた。
「明日ちょっと早いからもう寝るね。おやすみケント」
二枚重ねの座布団の上に七海をそっと降ろした灰原がベッドへ入る。枕元には昨日と同じようにパーカーが置かれたままだった。
七海がそこへ飛び乗ると、灰原はパチリと大きく瞬きをした。
「一緒に寝てくれるの?」
本当は猫の姿で灰原のベッドに入るなんてことはしたくなかった。だが、どうにかして灰原を元気付けたいと思ったのだ。
にゃあと返事をすると、嬉しそうに目尻を下げた灰原はそっと布団を掛けてくれ、七海は灰原の手のひらに頭を擦り寄せた。
「名前もだけど、ケントはほんと七海に似てるね」
七海が枕元で丸くなると、それを見ていた灰原はそう言って微笑んだ。
「毛の色もだけど、目の色も七海とおんなじ。薄い茶色と緑が混ざった綺麗な色だ」
灰原がそんな風に思っていたなんて知ったのは初めてだ。柔らかな視線に見つめられ、鼓動が早まる。そして、視線の先に猫でない自分がいるのかもしれないと思うと、心臓が爆発しそうだった。
「入学したばっかの時、七海ってだいたい眉間に皺寄せててさ。なんでって聞いたら『元々こういう顔です』ってもっと皺深くなったんだよね。でも、僕そう言われてから、七海の笑顔がすごく見たくなったんだ。僕らたった二人の同級生だし、できるだけ一緒に笑って過ごせたらいいなって、そんな風にも思った」
入学したての頃、高専のことはさほど信用していなかった。それに、同じ非術師の家系出身ながら、心からの笑顔を向けてくる灰原のことも、ただただ不思議で仕方なかった。
「それで、春の終わりくらいだったかな。いつも通り授業が終わって、晩ごはんどうしようかなとか今日の課題難しそうとか、そんななんでもないこと話してた時、七海ちょっと笑ってくれたんだ。なんで笑ったのかは今でも分かんないんだけどね。でも、その時すごく嬉しかったんだ」
そんなことあっただろうかと、全く自覚していなかった出来事に気恥ずかしさが込み上げてくる。しかし、最初は理解できなかったり灰原の笑顔にいつのまにかつられるようになって、気が付いた時には灰原と笑い合うことが楽しくなっていたことは自覚していた。
「七海ってね、いろいろ面倒がるけど実は結構熱いんだよ。僕が人が好きって言うと七海はよく分かんないって顔するんだけど、七海も目の前で困っている人のことほっとけなくて、そんな人のために自然と身体を張っちゃう人なのになって思ってるんだけどな」
初めて知る灰原の思いに鼓動はドキドキと早まっていく。灰原がこんな風に自分のことを見てくれているなんて思ったことはなく、馬鹿みたいに舞い上がってしまいそうになる。
しかし、目の前にいる猫が話に上がっている当の本人だと灰原は知らない。こんなの人の心を盗み見たようなものだと、七海は後ろめたさを感じた。
「ケントも七海と会ったらきっとそう思うよ。あ、でも七海って猫苦手じゃないかなぁ。また聞いてみよ」
どちらかと言えば猫は好きな方だ。しかし、猫のケントと人間の七海が会うことは叶わないのだと思うと、罪悪感は大きくなった。
「なんかいっぱい喋っちゃった。眠たいのにごめんね、ケント」
謝らないといけないのはこっちの方だ。けれど、今はそれを伝えることもできない。
嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちの両方を抱えながら、七海は静かな寝息を立て始めた灰原を見つめた。
③へ