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    しんした

    @amz2bk
    主に七灰。
    文字のみです。
    原稿進捗とかただの小ネタ、書き上げられるかわからなさそうなものをあげたりします。

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    しんした

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    3月の新刊予定の七灰。
    原作の世界観のまま、灰原くんが天使という設定。とりあえず呪専で七海に正体がバレるところまでなんとか書けたのでモチベ維持のためupしました。
    天使とは?の説明が多めかなと思います。
    読み返してないんでおかしなところはスミマセン。またなおします。

    天使は恋をしない①【序章】【天使は恋をしない】*





    天使とは。
    見護るもの。
    手を差し伸べるもの。
    分け隔てなく慈しむもの。

    天使とは、誰かのために生きるもの。










     【序章】


    灰原雄は人間ではない。
    修行中の天使である。
    天使は神様からほんの少しだけ与えられた奇跡の力を使い、人間の手助けをする。そのために、天使は自分たちが庇護する人間という存在の、表と裏も光と闇も尊さと愚かさも知らなければならない。生まれたばかりの天使は神さまによって地上へ送られる。灰原もとある人間の夫婦の間に舞い降り、彼らの第一子として過ごしながら人間と人間が暮らす世界について日々学んでいた。
    幼い天使のできることは、ほんの少しの奇跡の力を除くと人間の子どもと大差ない。灰原は優しい人間の両親のもと、ただの人間の子どものように穏やかな数年間を過ごした。
    灰原に転機が訪れたのは、両親の間に赤ん坊が生まれた時だった。
    本来なら優しい両親の初めての子どもになる、まるで天使のような、という形容詞を使いたくなるくらい愛らしい女の子。人々へ分け隔てなく接すべき天使ではあったが、立場上兄になる灰原は妹である小さな命を心から慈しんだ。
    しかし、妹には他の人間が見えないモノが見えた。
    呪いと呼ばれる、人間の負の感情の集まり。もちろん、天使である灰原もその存在を認識していたが、自ら積極的に関わることはしなかった。いくら奇跡の力のカケラを貰っているとはいえ、未熟な天使である灰原に出来るのはほんの些細なことしかなかったからだ。
    だが、そんなことを言っていられなくなった。呪いはより弱い者を標的にする。見ることしか出来ない幼い妹は恰好の獲物だった。
    灰原は妹を守るために呪いと対峙するようになった。
    もちろん、最初は上手くいかなかった。神さまから貰った奇跡の力は本来ならば何かを生み出す力。何かを壊すことには向いていない。それでも、灰原は試行錯誤を繰り返して『呪いを祓う』ということを身に付けた。
    初めて呪いを祓った時、灰原は器である身体だけでなく天使の本体にも傷を負った。修行中の天使は神さまからの貰った奇跡の力に守られている。しかし、まだ未熟な灰原では、自分を守っている分の力も使わなければ呪いの元である負の力を消し去ることが出来なかった。
    生まれて初めて体験した、自分の存在を削られる痛み。だが、天使は誰かを助けるために生まれたもの。たとえこの身が消え去ることになっても、それは天使の本望であるべき姿なのだ。
    灰原は震えながら背中を掴む小さな手のひらを握って「大丈夫だよ!」と笑顔を浮かべた。
    妹には、自分も呪いが見えること、祓える力を持っていることを伝えた。流石に天使であることを話すことは出来ないが、呪いから妹を守れるのは自分しかいないのだと思うと、天使としてもっと強くなろうと灰原は今まで以上に努力した。
    それから数年後。灰原は呪術高専という機関から声をかけられた。その時になってやっと、人間の中にも呪いを祓う力を持つ者がいること、その者を呪術師と呼ぶことを灰原は知った。
    妹と離れることに戸惑いはあった。灰原がこうして本来とは違う力の使い方をしている理由は、妹を守るためだからだ。しかし、灰原が渋っていると、呪術師になれば今後は高専が妹を呪いから警護すると関係者は提案した。
    天使の修行がいつ終わるかは神さまの一存で決まる。修行が終わった天使は地上を離れ、その後は誰に気付かれることなく人間の手助けをする。
    いつか妹や両親の前から姿を消さなければならないことを、もちろん灰原は知っていた。そして、妹を呪いから守り始めた時から、ずっと気掛かりだった。
    自分がいなくなった後の妹のことを考えると、高専の提案は願ってもないことだ。その提案に灰原は大きく首を縦に振っていた。
    呪術師は呪いの元になる負の感情──呪力を操るが、天使である灰原が扱うのは神さまから貰った奇跡の力。分かるものには違いを見抜かれてしまう可能性もある。だが、妹やもっと大勢の人間を助けられるのなら、多少の不安があったとしても構わなかった。
    誰かのために生きる。
    それが、天使である自分の役目なのだから。









    【天使は恋をしない】


    薄暗い帳の中。うっそうと繁る木々の合間を走り回っていた灰原は、向かってくる呪霊へ向けて勢いよく拳を放った。
    完璧に急所を捉えた。そう思ったが、寸前のところで呪霊の形が変化し、拳は末端の尻尾のような部分をかするだけだった。しかし、神さまから貰った力を纏わせた拳は、格下の相手であれば触れただけである程度効果を発揮できる。呪霊の身体が末端からボロボロと崩れていく。呪力の集まりである呪霊は容易に自身を再生できるが、灰原が素早く放った一撃によって呪霊は跡形もなく消え去った。
    周囲の気配が変わり、帳の中にもう呪霊がいなくなったことに灰原の口から安堵の息が漏れた。低級とはいえそれなりに数がいたせいか疲労は大きい。何度も奮った拳は赤く腫れて、皮膚の裂けた所からぷくりと血が溢れていた。
    天使とはいえ、器である身体の作りは人間と大差ない。神さまから貰った奇跡の力──呪術的に言えば正の力によって傷を治すことは可能だが、修行中の灰原が使える力の総量は少なく、呪霊と対峙したあとは自分の身体の修復に割ける余裕はほとんどなかった。ひとまず傷口を覆った方がいいかと思ったが、生憎ハンカチなんてものをポケットに常備はしていない。参ったなとこれ以上血が溢れないようにと拳を胸の辺りで掲げながら歩いていると、よく知った気配が近付いてくることに気がついた。
    「七海!」
    木々の向こうから現れた人物の名前を呼んで、小走りで駆け寄っていく。だが、名前を呼ばれた人物は灰原の右手の不自然さに気付いたのか、形のよい眉を微かに歪めた。
    「どうした」
    それ、と切れ長の翠眼が右手を捕らえる。
    「ちょっと切れちゃっただけだよ」
    「ほんとか?」
    七海の眉間の皺がググッと深くなり、灰原は仕方なく手を差し出した。思っていたよりも傷は深かったようで、鮮血は手の甲の傾斜に合わせて手首まで流れかけている。小さなため息をこぼした七海は、何やらゴソゴソと制服のポケットを漁った。
    「これ、使ってくれ」
    七海が取り出したのは、綺麗に畳まれた薄いブルーのハンカチ。しかも灰原が鞄に入れっぱなしにしているタオルハンカチではなく、きっちりアイロンがかけられている綿のものだった。
    「悪いよ。絶対染みになっちゃうし」
    血液はしっかり洗濯したと思っても案外落ちないものだ。自分のものならまだしも、こんなに綺麗なハンカチを血で汚してしまうなんて申し訳ない。灰原が遠慮がちに手を引こうとすると、七海は躊躇なくハンカチを灰原の手の甲へ当ててきた。
    「あっ、あー……」
    灰原の口から驚きと落胆の声が漏れるが、真っ赤な染みは淡いブルーの布地へどんどんどんどん広がっていく。もうどうすることも出来ずその光景をただ眺めていると、片手に握っていた呪具の鉈を脇に挟んだ七海は広げたハンカチを灰原の手に巻き始めた。
    「ごめんね」
    「血だらけなのを見てる方が不快だ」
    七海は不機嫌そうな顔をしてハンカチを巻いている。しかし、その手付きはとても慎重で優しいものだった。
    巻き終わると七海はフイと踵を返して歩き出した。灰原は慌ててその背中を追って隣に並んだ。
    「ありがとう!」
    「別にいい」
    「七海は?どこも怪我してない?」
    「ああ」
    七海はそう言ったが、ハンカチを巻くために脇に挟んだ鉈の柄に血が滲んでいたことに灰原は気が付いていた。獲物を扱う七海の手のひらにいくつもマメがあることはもちろん知っている。再び柄を握ってしまったせいで手のひらを確認することは出来ないが、きっとまた新しいマメが潰れてしまったのだろう。けれど、今それを指摘してしまうことは、巻いてもらったハンカチに悪いような気がした。
    ほんの少しだけ距離を詰めた灰原は、鉈を持つ七海の右手へバレないようにそっと手のひらをかざした。
    天使が得意なのは癒すこと。潰れたマメを完全に治してしまえば七海は不審に思うに違いないが、しみる傷口の痛みを和らげるくらいならきっと大丈夫だろう。しかし、力のコントロールに集中したせいか一瞬肩が触れてしまい、七海がパッとこちらを向いた。
    「あ!ごめんね!」
    「いや、それより本当に大丈夫か?」
    「全然大丈夫だよ!」
    灰原が誤魔化すように笑うと、七海は怪訝そうな顔をした。だが、寄っていた眉間をほんの少し緩めた七海は「帰ったらちゃんと手当てして、しっかり休むんだぞ」と柔らかな声色で言った。
    「え、あ……うん!」
    そんなに疲れていると思われたのだろうか。たしかに七海の傷を癒したことで力はほとんど空になってしまった。けれど、胸の奥はぽかぽかと温かいもので満たされてくるようでなんだか落ち着かなくなる。
    高専へ来て二ヶ月ほど。初めて出来た肩を並べられる人の側は、とても心地がいい。
    しかし、七海建人との出会いは灰原にとって危ういものだった。
    穏やかな春の日、十年余り過ごした街を離れてたどり着いた山あいの長閑な田舎町。豊かな自然に囲まれた呪術高専の敷地内は、たくさんの生命の気配に満ち溢れていた。これから住うことになる古びた寮の傍らにもたくさんの桜の木々が植っており、もう満開を迎えたのか顔を上げると視界に入るのは淡いピンク一色。そんな、桜色の空は天使として生まれてすぐ目にした景色とよく似ていると灰原は思った。
    この光景に囲まれていたのは、人の時間で言うとたったの十六年前のこと。途方もない時間を過ごす天使にとってはほんの一瞬のはずが随分と昔のことのように感じてしまう。
    生まれたてで愛することしか知らない自分が、修行のために降りてきてから最も大きな出来事は妹が生まれたことだった。小さな彼女を守るため戦うことを選択し、本来とは違う力の使い方も覚え、これからはその力をもっと多くの人のために使おうとしている。修行中の天使としてイレギュラーなことをしている自覚はあるし、まだ未熟な身で身近な人以外を助けたいと思うのは傲慢だということも分かっている。けれど、神さまは何も仰ることはなかった。
    天使として自分はきちんとやれているだろうか。そして、これからも。
    懐かしい光景を思い出したせいか、小さなため息が灰原の口からこぼれていく。すると、風も吹いていないのに、満開の桜の枝が小さく揺れた。
    「元気づけてくれてるの?」
    頭上へ声をかけると萼もついたままの桜の花が一つ、舞い落ちてくる。手のひらに乗った小さな花に頬を緩めていると、また桜の枝が揺れた。
    「ありがとう。きれいだね」
    そう言って手のひらに乗った花を掲げると、今度は二、三個同時に花が落ちてきて灰原は慌てて全てを受け止めた。
    「もう元気いっぱいだから大丈夫だよ!」
    桜の気遣いは嬉しいが、せっかく満開の花を自分が独占してしまうのはよくないだろう。キョロキョロと周りを見渡した灰原は、いつもは隠している背中の羽を広げて浮かび上がった。太い枝の上に腰掛けて、中心の幹へそっと手のひらを当てる。助ける側の天使が助けられたことは不甲斐ないが、その分これからもっと頑張っていこうと気合が湧いてきた。
    「僕だけじゃなくて、いろんな人のこと元気づけてあげてね」
    花の密度が増した桜の木に頬を寄せ、もう一度お礼を告げる。よしっ、と軽く頬を叩いた灰原は、そのまま枝から飛び降りた。
    しかし。
    「は?」
    ふわりと地面へ降り立つ直前、小さな声が灰原の耳へ届いた。
    「え?」
    たったいま飛び降りた桜の木のすぐ傍ら。漆黒の制服を身に纏った人物が、今まさに灰原が飛び降りた桜の木を見上げていた。驚きで丸くなっている翡翠によく似た透明感のある緑の瞳とパチリと視線が交わり、灰原の頭は真っ白になる。まさか、誰かいたなんて。数秒前の迂闊な自分を知った叱咤したくなったが時すでに遅し。
    ひとまず、枝から降りる時に羽を出していなかったのは不幸中の幸いだ。桜と話していた時の声は小さかったし、何事もなかったかのように振る舞えばきっと乗り切れる。
    そう思った灰原は、まだ目を丸くしている人物へスタスタと歩み寄っていった。
    「初めまして!僕、灰原雄って言います!きみ新入生?」
    「ええ」
    「僕もだよ!新入生二人だけなんだって!これからよろしくね!」
    「……よろしく」
    差し出した手はぎこちなく握り返してもらえたが、灰原が口を開く前に彼は踵を返してしまいその場では名前を聞くことも出来なかった。だが、間近で目にした彼は驚きの表情を浮かべていたものの、陽の光をキラキラと反射する金色の髪や彫りの深い目元、スッと伸びる高い鼻筋にその下にある薄い唇も全てがバランスよく整っていて、すごく綺麗な人だったなと遠ざかる背中を見ながらそんなことを思っていた。
    灰原が彼の名前を知ったのはその数時間後。二つだけ机の並んだ小さな教室で担任が名簿を読み上げた時だった。
    唯一の同級生である彼──、七海建人は整った顔立ちとは裏腹にいつも気難しそうに眉間に眉を寄せていた。言葉数は少なく、話しかけても返ってくるのは必要最低限の応答のみ。不機嫌以外の感情はあまり面に出さないようで、講義や実技に対しての姿勢は至って真面目だがやる気に満ち溢れているというわけでもない。灰原が目にした不機嫌以外の表情といえば初対面での驚きの顔くらいだった。
    だが、呪霊を前にした七海は普段以上に冷静で、それでいて何の迷いもなく呪霊へ立ち向かっていける人だった。天使である灰原は守るべき対象である人間の前へ出る。いざとなれば、自らを削って助けることもいとわない。そのことに疑問を持ってことはなかった。天使は誰かの力になるために存在するからだ。
    しかし、灰原が前へ出ると、七海は少し苦い顔をしながらも同じように前へ出た。七海は頭の回転が早く、自分と相手の力量のみならず、地形や天候までも考慮して動くタイプだった。灰原が反射的に動いてしまったあとは無茶をするなと眉間の皺を深くし、どうしても譲れない時は衝突することもあった。それでも、次第に相手の得手不得手を把握していき、実習や任務をこなすたびお互い自然と呼吸が合うようになった。
    天使であることは誰にも言えない。だからこそ、呪霊に立ち向かうものとして七海と背中を預けていることは不思議な気分だった。
    非術師の家系である七海も高専からのスカウトを受けたらしいが、どんな気持ちでこの道を選んだのかはまだよく分からない。けれど、一緒に過ごす時間が増えるうち、表に出さなくとも七海がとても思いやりにあふれている人だということは分かるようになっていった。
    「七海ってさ、ほんと優しいよね」
    「急になに言い出すんだ」
    「えー、本当のこと言っただけだよ?」
    丁寧にハンカチの巻かれた右手を胸元へ掲げると、七海の眉間がまた小さく寄る。けれど、それが照れ隠しであることを、灰原は少し前から気が付いていた。
    「……ほら、こっち通っていくぞ」
    細いけもの道へ入り並んで歩けなくなったせいで、七海がどんな顔をしているのか見ることはできなくなってしまう。だが、一歩前を進む七海の背中がいつも以上にピンと真っ直ぐ伸びていることはよく分かった。まるで褒められ慣れていない子どもが懸命に喜びを隠しているようだと、また新しい七海の一面を垣間見れたことに灰原の頬も自然と緩んでいた。





    呪術師として初めて迎えた繁忙期を終え、学生の一大イベントでもある夏休みが数日後に迫る放課後。灰原は溜まりに溜まった課題のプリントを必死に片付けていた。
    「夏休みの宿題とまとめてくれていいのに〜」
    苦手な数学をなんとか半分終わらせたところでたまらず机に突っ伏したが、すぐさまポコンと軽く頭を叩かれた。渋々顔を上げると、向かいに座る七海が丸めたプリントの束を手にしていた。
    「一学期の課題を終わらせないと成績つけられないからだろう。提出期限伸ばしてもらったんだから文句言うな」
    七海の言う通り、机に散らばっているプリントはとっくの昔に期限が過ぎている。本来なら夏休みに補講を受けることになるのだろうが、ここは呪術高専であり灰原も一端の呪術師だ。まだ学生とはいえ立派な戦力を何日も机に縛り付けている余裕はないらしい。
    「はーい」
    ごもっともの言葉に放り出していたシャーペンを握りなおした灰原は、次のプリントへ目を向けた。
    丸めたプリントを置いた七海は、しおりを挟んでいた文庫本へ視線を落としている。当たり前のことだが、七海は課題に追われてはいない。課題を出されるたびに毎回きっちり提出しているし、むしろ提出期限の数日前に終わらせることが常だった。毎日同じように授業と任務に明け暮れていたのにどうしてこんなにも差があるのかと疑問が浮かぶ。しかし、今は課題を終わらせる方が先だと、灰原は問題に集中した。
    基礎の計算問題を終え、応用の文章題が数問続く。後半になるにつれ難易度も上がり、問題文を読み取ることも難しくなっていく。もう数時間働かせ続けている頭からプスプスと煙が出そうな気分になりながら計算式を書いては消しを繰り返していると、向いからスッとペン先が伸びてきた。
    「これはあってる。でもこっちはこの公式じゃなくて、」
    「えぇー……ん?あっ!もしかしてさっきのやつ!?」
    「正解。で、まだ途中だから」
    「ちょっと待って……えっと、この解といま出した解を使って……解けた!」
    ついさっきまで迷宮の中を歩いていたはずが、七海の一言に導かれるように問題が解けていく。
    「これと次のプリントはいまの解き方で大体いける」
    「ありがと七海ー!」
    「まあ、二問くらい引っかけあるから気をつけろよ」
    「どの問題か教えてくれないの?」
    「甘えるな」
    「そこをなんとか!」
    それから灰原は「ここ?」「もしかしてこっち?」と食い下がってみたが「うるさい」と一蹴されてしまった。
    でも、わざわざ部屋に来て課題に付き合い、こうしてアドバイスもしてくれている。七海が案外面倒見のよい人ということはもうよく知っているのだ。静かに文庫本をめくり始めた七海をチラリと見た灰原は、ほんの少し口元を緩めてシャーペンを再び動かした。
    一時間後。なんとか全てのプリントを埋めた灰原は、そのまま後ろへ寝転がった。
    「終わったぁ」
    「お疲れ」
    「もうイチ+イチもできないよ……」
    「まあ、これだけの量を一気に終わらせたらそうなってもおかしくないな」
    灰原が唸っていると小さな笑い声が耳に届いた。
    「ちょっと自販機行ってくる。灰原はコーラでいいか?」
    「え?悪いよ。僕が行ってくる」
    「足し算もできないのに大丈夫か?」
    「それは例えだし!ていうか自販機なら計算いらないじゃん!」
    反論するも笑いながら適当にいなされる。一体どうしたんだろうと疑問に思っていると七海の立ち上がる気配がして、灰原は慌てて身体を起こした。
    ぱちりと、淡い翠眼と視線が交わった。見上げた先の七海は珍しく楽しげな笑みを浮かべている。それを見つめていると、何故か灰原の胸はきゅ、と締め付けられた。
    「別にいいから」
    「でも」
    「課題終わらせたご褒美だ」
    「え、……じゃあ、オネガイシマス」
    まさかご褒美なんて言われると予想していなかったせいか、返事がカタコトになってしまう。それから、また小さく笑った七海をどこかぎこちないまま見送った灰原は、部屋にぽつんと残された。こんな量の課題を終えたのだから、いつもならもう一度寝転がってしばらくの間ごろごろしているところだ。けれど、何故かそんな気にはなれず、机に広げていたプリントやノートを片付けていく。整理はすぐに終わってしまい、手持ち無沙汰になるとどうも落ち着かない。とりあえず気分を変えようと勢いよく立ち上がった灰原は、閉め切っていた窓を開けてベランダへ出ていった。
    夏の湿ったぬるい空気が冷房で冷えた肌を包み込む。すぐにじんわり汗が滲んできたが、自然の風はやっぱり心地いい。一度ググッと大きく伸びをすると、何時間も机に齧り付くなんて慣れないことをした身体も頭もほぐれていく。ベランダの手すりにもたれた灰原は、深い藍色と橙色が混ざる空をぼんやりと眺めた。
    天使が生まれた場所に夜はなく、いつも柔らかな光に包まれていた。それを不思議に思ったことはなかったが、修行のために降りてきて初めて夕暮れの空を見た時、光と闇の交わる光景はこんなにも美しいのかと感動したことはよく覚えている。そして、夜の闇の中で輝く月の明かりの優しさに気がついたのは、呪いに立ち向かうようになってからだった。
    視線をもっと上へ向けると、ほとんど藍色になってしまった空の端っこに浮かぶまん丸に近い月が目に入った。満月までもう数日といった淡く金色に輝く月は、藍色の空の中でよく映えている。その光景を眺めていると、灰原の頭には自然と七海のことが浮かんできた。
    七海と出会ってからほんの数か月。けれど、夜空に浮かぶ月を最も多く一緒に眺めているのは七海だと、そう思っていた。闇の中を駆け回り、呪いを祓う。これまで一人でしていたことを今は七海と二人でしている。人々を助けるため誰かと背中を預け合うことがとても心強く安心すると知れたのは七海のおかげだった。
    人間の世界で過ごすようになってもうそろそろ十六年。天使の力を呪いに向けて使うことになるとは思ってもみなかったが、その選択をしなければ知り得なかったことはたくさんあるのだ。
    ふと、ついさっき目にした七海の表情が脳裏に蘇る。あんなふうに笑う七海を見たのは初めてのことだった。そもそも、出会った当初は桜の木から降りてきた所を目撃されたせいか、どこか距離を置かれていたようにも感じていたくらいだ。それでも、二人しかいない学年のおかげか、少しずつ七海もいろんな顔を見せてくれるようになった。まだ難しい顔や困った顔も多いが、教室や任務で二人きりのとき垣間見せてくれる表情が柔らかくなっていることは気のせいではないだろう。
    自分の正体を明かすことが出来ないとはいえ、七海はこれまで出会った人のなかで一番深い関係になっていると思う。そして、誰かと背中を預け合えることだけで十分すぎるくらい嬉しいというのに、七海と一緒に過ごす時間はとても心地がよくて安らぐのだ。
    けれど今は、七海のことを思い浮かべるとなぜだか胸の奥がほんの少し苦しくなる。ついさっき目にした楽しげな微笑み以外にもふとした時の七海の表情が浮かんできて、落ち着いてきたはずの気持ちがまたおかしくなってしまう。
    「なんか僕、変なの……」
    こんなことは初めてで、自分のことなのによく分からなくなる。小さく息を吐いて柵に身を預けると、寮の庭の木々たちが風とは違う動きでそよそよと揺れたことに気がついた。
    二階のベランダからは庭の木々は目の前に見えて、高専へ来たばかりの時に元気付けてくれた桜の木もすぐそこに植っている。揺れる葉はどうしたのかと心配しているように思えて灰原の口から小さな笑みがこぼれた。
    「また見られちゃったね」
    灰原が声をかけると、返事のように緑葉が一枚ベランダへ舞い降りてきた。
    ここの木々たちは高専の結界の中にあるからなのか外よりも意識が通じやすい。精霊とまではいかないが、数百年くらい経てば力を持つものも現れるだろう。
    「ありがとう。大丈夫だよ」
    お礼をしなければと思ったが、今は七海がいつ帰ってくるか分からないからあの春の日のように枝へ飛んでいくことは出来ない。ひとまず柵から葉先へ触れるくらいは大丈夫だろうと、灰原はベランダの柵から大きく身を乗り出した。だが、指先が届く直前、背後でガチャリとドアノブが回る音がした。
    「コーラ売り切れだったから、」
    「え、っわ、」
    「灰原っ!?」
    ぐらりと体勢が崩れて視界が反転すると同時に、七海の慌てた声が灰原の耳に届いた。呪いと対峙するようになって高い場所から落ちたことは一度や二度ではない。地面へ辿り着く前に受け身を取ればなんとかなると頭では分かっている。しかし、駆け寄ってきてなんとか服の端を掴んだ七海がこのまま一緒に落ちてしまいそうな勢いで柵から身を乗り出している光景に、灰原の思考は止まっていた。


    数秒経っても、衝撃は訪れない。身体の前面に重みが掛かっているが背中がどこかに触れている感触はなく、むしろよく知った感覚が肩甲骨辺りから広がっている。
    灰原は反射的につぶっていた目を恐る恐る開けた。視界いっぱいに見えたのは淡い金色の髪。その向こうには濃い藍色の空と髪と同じ色をした月が浮かんでいる。夜空を見上げているのに背中がどこにもついていないなんて。
    「あ、」
    灰原が小さく声を漏らすと、庇うように後頭部を包んでいた大きな手のひらがピクリと動いた。淡い金色が離れていき、今度はきつく寄った眉の下で困惑を滲ませる翠眼と視線が交わった。
    「……はい、ばら」
    身体の前面の重みは咄嗟に引き寄せた七海のもの。そして、背中の感覚は。
    「これ、なんだ?」
    視界の端に入るもの。それは天使の証である真っ白な羽だった。
    「えっと、その」
    どう説明しようか必死に思考を巡らせていると、七海の手のひらがやんわりと羽に触れた。その感触に身体はふるりと震え、バランスを保つことが難しくなる。七海もそれに気付いたのか、また庇うように手のひらで頭を包み込んできた。
    「とりあえず降りるから」
    七海の返事を待たずに、灰原はゆっくりと地面に降り立った。当たり前だがどこにも痛みはなく、目の前に立つ七海も怪我はなさそうだ。しかし、七海がどんな顔をしているのかは分からない。見ることが怖くて顔を上げることが出来ないのだ。
    自分を助けようとして一緒に落ちそうになった七海を見た時、咄嗟に羽を出していたらしい。もっと他の方法があったように思うが、過ぎたことはどうにもならない。
    今さら羽を仕舞うことも出来ず、そのままじっと足元を見つめて言葉を探す。術式と誤魔化そうか。けれど、七海とはもう何度も呪霊を祓っているのだから、不信に思われる。七海に避けられるくらいなら、正体を明かして七海の前から去った方がずっといい。
    「あのね……実は僕、その、……天使、なんだ」
    なんとか絞り出した声は自分でも驚くほど小さいもので、ドクンドクンと心臓の脈打つ音の方が大きく聞こえた。
    「ごめんね嘘ついて!僕、呪術師どころか人間でもないし、力も呪力とかじゃなくて、神さまに頂いた力を使ってるだけなんだ」
    沈黙が続くことを避けたいせいか、最初の消え入りそうな声とは裏腹に声は少しずつ大きくなっていく。もし他の誰かに見られたらと頭の片隅に浮かんだが、そんなことよりも七海がなんて返してくるのかという不安が頭の中を占めていった。
    「家族も本当の家族じゃないんだ。修行のために勝手にお世話になってただけで、本当の子どもでもお兄ちゃんでもなくて、ただ、勝手に入り込んで」
    天使としてすべきことには精一杯取り組んできたつもりだ。けれど、自分の状況を言葉にしてみると、何故か虚しさが込み上げてくる。
    視界に入る七海の足は動くことはなく、言葉も何も返ってこない。怒らせてしまった?気味悪がられてしまった?けれど、それを確かめることは怖くて出来なかった。
    「でも、もうそんなことはしないから!全部きれいに、何もなかったように、してくから」
    修行を終えた天使は関わった人から自分の記憶を消していく。元々何もなかったかのようにすれば誰も傷付けないからだ。
    そんなこと、生まれた時から知っていたというのに。どうして、こんなにも悲しくなるのだろう。
    このまま、飛び去ってしまった方がいいのかもしれない。どこか、誰の目も届かない場所で自分の痕跡を全て消してしまおう。
    灰原は羽を大きく広げた。重力から身体が解き放たれて、地面から足が離れていく。だが、完全に身体が浮く直前、ぎゅっと手首を掴まれていた。
    「待って……!」
    顔を上げると、必死な表情をした七海と視線が交わる。瞬きも出来ずにただ見つめていると、七海は一度唇を結んでからゆっくりと話し始めた。
    「正直、灰原の言っていることはまだよく飲み込めない。天使だとか、修行とか、本当の家族じゃないとか、いろいろ。でも、私が灰原と出会ってからのことは、私にとっては本当のことで、」
    こんなことを言われるなんて思ってもみなかった。たとだとしく話す七海を見たことも初めてで、頭も上手く回らない。
    「二人で授業を受けたり任務に行ったり、ただ一緒にいたり、こうしていま私の目の前に灰原がいることは、嘘でも間違いでもなんでもなくて、だから、私にとってきみは……いや、その、」
    ああ、クソ。
    七海が小さく悪態を吐く。その理由もよく分からなかったが、灰原の口からは勝手に言葉がこぼれていた。
    「七海、怒ってないの?」
    一瞬きょとんとした七海は、心底不思議そうに首を傾げた。
    「どうして私が怒るんだ?」
    「だって、僕いろいろ嘘ついてたし」
    「私は別に嘘をつかれたとは思っていない」
    「え、でも、僕人間じゃないんだよ?」
    「別にそんなこと、いや、きみにとってそんなことではないのか」
    何かを考え込むように七海の視線が下がる。少しの間沈黙が流れたが、何故かさっきのような怖さは感じない。手首を掴む手のひらの感触も不思議と心地よくて、気が付くと、引き寄せられるがまますとん、と地面へ降りていた。
    同じ高さにある翠色の瞳は、まだ少し戸惑いを滲ませている。けれど、それは真っ直ぐに自分を射抜いていた。
    「とりあえず、これまで二人でやってきたし、私はこれからも灰原と二人でやっていきたいと思ってる。灰原が人間じゃないとか、天使だとか、関係ない」
    ──灰原は、灰原なんだから。
    七海の落ち着いた声が頭の中で反響して、こわばっていた身体から力が抜けていく。
    「……じゃあ僕、七海と一緒にいてもいいの?」
    「当たり前だろ」
    七海の瞳が柔らかく細まっていき、つられるように灰原の頬も緩んでいた。
    ひとまず部屋へ戻ろうと、羽をしまって七海と並んで庭を歩く光景はもういつものもので、この当たり前がまだ続くことに安堵感が込み上げる。
    けれど。
    「どうした?」
    「っ、なんでもない!」
    すぐ隣にいる七海の横顔を見ると胸が苦しくなってしまう理由は、よく分からなかった。




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