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    しんした

    @amz2bk
    主に七灰。
    文字のみです。
    原稿進捗とかただの小ネタ、書き上げられるかわからなさそうなものをあげたりします。

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    しんした

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    3月の新刊予定の七灰。
    原作の世界観のまま、灰原くんが天使という設定。
    今まで知らなかった感情に戸惑いまくる灰原くん。
    おかしいところはまた書き直します。

    天使は恋をしない②【天使は涙をこぼさない】



    本格的な夏の到来と共に、学生の特権である夏休みが始まった。とはいえ、呪術師界隈は年中人手不足であり、呪術高専の学生は一か月半丸々休めるというわけではない。座学はないものの体術や基礎的な呪力操作の鍛錬は自主的に行い、任務が舞い込むと速やかに現場へ赴くのだ。授業がない分、学期中よりもいくらか時間的に余裕がありそうなものだが、自主練に任務、そして長期休みに見合った寮の宿題を片付けなければならず、思っていたよりも毎日あっという間に時間が流れていった。
    八月に入ると希望する学生は帰省が許されて、灰原も突発的に任務が入りやすいお盆を終えてから一週間ほど実家で過ごした。数か月ぶりに顔を合わせた妹は心底嬉しそう歓迎してくれ、実家にいる間はべったりとくっ付いて離れなかった。
    「兄ちゃんがいない間、怖いことなかったか?」
    「うん!怖いのいそうだなって場所見つけても、いつのまにか怖くなくなってた」
    妹の言う通り、妹の生活圏内で呪いが発生しやすかった場所は定期的に見回りがされているようで、以前よりも澱みが停滞していなかった。
    「何回か黒い服の人見たよ」
    「その人たちが呪術師って言うんだ」
    「そうなんだ!じゃあ、みんなお兄ちゃんとおんなじで怖いのを倒せるんだ!すごーい!かっこいいー!」
    妹が危険に晒されることなく笑顔で過ごせていることは純粋に嬉しい。けれど、本当は自分が、妹が思っているようにみんなと同じではないことにほんの少しだけ胸が痛くなる。
    「あっ!でも一番はかっこいいのはお兄ちゃんだから安心してね!」
    珍しく黙ってしまったからか、慌てたように付け加えた妹は真剣な顔で見上げてきた。まさかそんなことを心配されたとは思わず、灰原はプハッと大きく噴き出して笑った。
    「よかったー!兄ちゃんもういらないのかと思っちゃった!」
    「そんなわけないよ!今までずっとお兄ちゃんが守ってくれてたんだから!」
    天使である自分は他の誰とも違う存在だ。それでも、妹を脅威から少しでも遠ざけられているのなら、周囲に正体を隠していることも天使の力を本来とは違う使い方をしていることも素直に受け入れられる気がした。
    「ありがとう。でも、これからは兄ちゃん以外にも守ってくれる人がいるからもっと安心できるよ」
    自分はいつかここから去る。記憶も痕跡も全てを消して。
    けれど、きみは大丈夫。自分が守らなくても、もう大丈夫。
    妹は不思議そうな顔をしていたが、灰原は小さな頭をただ優しく撫で続けた。


    あの子を呪いから守ることを選択しなければ、知り得なかったことはいくつもある。
    癒す以外の力の使い方。自分の存在を削られる痛み。夜の闇を照らす月の輝き。誰かと背中を預け合う心強さ。それから、本当の自分を受け入れられた安堵感。
    夏の日の夕暮れ。一緒にいることを当たり前だと言ってくれた七海の微笑みは、頭の中からずっと離れない。





    帰省から戻って数日後。ランニングを終え、グラウンド近くの手洗い場で蛇口の水を頭から被っていた灰原の視界に、見慣れたスニーカーのつま先が入り込んできた。
    「七海おつかれっ!」
    勢いよく頭を上げると、ボトボトの髪から水滴が勢いよく飛び散った。七海はそれをもろにくらって顔をしかめたが、手洗い場の上に置いてあったタオルを手渡してくれた。
    「先に拭いてくれ」
    「うん!ありがと」
    ゴシゴシと適当にずぶ濡れの頭と顔を拭いていると、七海も隣で顔を洗い始めた。
    「七海は筋トレ?」
    「ああ」
    「えらいなぁ。僕もちゃんと身体づくりもやんなきゃ」
    筋トレも嫌いではないが、室内で黙々と同じ動作を繰り返すことよりも、外の空気や景色を感じられるランニングの方がどうも性に合っている。つい好きなことを優先してしまう癖は、修行で地上へ来てからもなかなか直らない。
    苦手なことがあって、本来とは違う力の使い方もして、自分は天使としてちゃんとやれているのだろうか。
    顔を上げると目に入るのはどこまでも高くて青い夏空で、今の自分の曇りがかった心がより強調されるようだった。まだ濡れた毛先からポタポタと水滴が落ちていくことも構わずそのまま空を仰いでいると、七海の小さな声が灰原の耳に届いた。
    「別に偉くない。私はただこんな暑い中走りたくなかっただけだ」
    「七海もそんなことあるんだ!」
    パッと顔を横へ向けると、タオルで顔を拭っていた七海は一瞬目を丸くさせてから小さく眉を寄せた。
    「あるに決まってるだろ。真夏にランニングなんか気が狂ってる」
    「それ言い過ぎじゃない!?ていうか僕走ってきたばっかなんだけど!」
    あまりな物言いに灰原は思わず大きな笑い声を上げた。
    確かにゴールデンウィークが明けたあたりから基礎体力作りでランニングのプログラムがあると、七海の眉間の皺はいつも以上に深かった。あの頃はまた今ほど七海のいろんな表情を見ておらずはっきりと分からなかったが、思い返すと普段の不機嫌な顔とは少し違った、小さな子どものようなぶすっとした顔で不満を表に出していた。
    「笑い過ぎだろ」
    「だって、七海ってなんだかんだ言って真面目だし、苦手なこともちゃんと取り組むタイプだと思ってたから!」
    「……別に、そんなことない」
    知らなかった七海の一面を垣間見れたことで、いとも簡単に心は晴れていく。
    自分は天使なのに、七海に助けてもらいっぱなしだ。漠然とした疑問や不安は残ったままだが、七海と一緒にいられる間、天使として小さなことでもいいから七海の力になりたいとそう思った。
    「僕、日陰のコース知ってるよ?一緒に走る?」
    「いや、それは遠慮しておく」
    「えぇー」
    「もう少し涼しくなってからにしてくれ」
    「それじゃ苦手の克服にならないんじゃない?」
    「灰原こそ筋トレしないのか?メニュー見てやるぞ」
    「うーん、それはまた明日ってことで!」
    「なんだそれ」
    歩きながらそんなやりとりを繰り広げ、自然と笑みがこぼれる。些細なやりとりが七海とならとても楽しくなってしまう。もっと、こんな時間が続いてほしいと思ってしまう。
    「七海も今日オフでしょ?このあとなんか予定あるの?」
    「いや、特に考えてはないな」
    学生兼呪術師にとって丸一日のオフというものはなかなか貴重だ。しかも今は夏休み。自主トレで午前中は終わってしまったが、今から都心へ足を伸ばし終電で帰ってきたとしても、明日授業はないのだ。
    「じゃあさ、どっか遊びに行かない?せっかくの夏休みなんだし!」
    「あぁ、まあ、たまには……」
    帰省していた時テレビで見た新しい室内アミューズメント施設のことが頭に浮かび、そこなら冷房も効いていて七海ものってくれるかもしれないと心が躍る。
    だが、何か思い出したように片方の眉を寄せた七海はポツリと口を開いた。
    「宿題は?」
    「へ?」
    頭の中でこれからの予定を組み立てていたせいか、七海の言葉に灰原は間抜けな声を出した。
    「進んでるのか?」
    「あ、えーっと、実家でもやってたし、大丈夫……かな?」
    帰省中は思いっきり朝寝坊をし、昼からは中学時代のクラスメイトと顔を合わせ、夕暮れ時に帰宅しては母の手料理をたらふく平らげ、夜は遅くまで妹と遊んでいた。一応空き時間に問題集は開いていたものの、白いページの厚みはまだそれなりに残っている。
    全てを理解したのか、両方の眉を寄せた七海の口から大きなため息が漏れた。
    結局、夏休み前と同じようにみっちり課題に取り組むこととなり、なんとか苦手な数学と化学の問題集を終わらせた時には太陽は沈みかけていた。
    「しばらく数式と化学式は見たくない……」
    「そればっかり後回しにしてたからだろう」
    「だって数学と化学わかんない問題多いんだもん」
    「解き方は教科書に書いてある」
    「読んでもわかんないんだって」
    文系はまだ自力で出来るが、理系は本当に理解するのが難しい。まだ頭の中には数字や元素記号がぐるぐると回っている。
    「でも、今はできたじゃないか」
    「それは七海のおかげ。七海教えるのすっごい上手だからできたんだよ」
    当たり前のように言ったが、向かいに座る七海からは何も返ってこない。机に突っ伏していた顔を上げた灰原は、頬杖をついていた七海の目元が窓から差し込む夕陽よりも濃く染まっていることに気がついた。
    「……そうか」
    手のひらの奥から小さな返事が聞こえ、俯き加減だった顔がさらに下を向く。だが、いつもは下がっている口角は嬉しそうに上がっていた。ここまで分かりやすく喜ぶ七海を見たことは初めてで、こっちまで動揺してしまう。ほんの少しの沈黙の間、灰原は自分の頬が熱くなっていくことを不思議に感じた。
    「えっと、そうだ!僕なんか飲み物買ってくるね!」
    「一緒に行くよ」
    「いいって!宿題教えてくれたお礼!」
    立ち上がりかけた七海を静止していつも飲んでいるコーヒーの銘柄を口にする。七海は一瞬驚いたように目を丸くしたが「じゃあ、頼む」とついさっきのように口元を緩めた。
    少し早足で歩いているが、それだけではここまで脈は乱れない。おかしな自分について理解できないまま、灰原は薄暗くなった敷地内を進んだ。
    ついさっきまで頭の中は数字と元素記号でいっぱいだったはずなのに、今はもう七海のことで埋め尽くされている。いつかの任務の時も、ピンと背筋を伸ばして前を歩きながらあんな顔をしていたのかと思うと胸の奥がきゅうっと苦しくなったが、決して嫌な苦しさではない。内側から何かがあふれてしまいそうな、不思議な苦しさだった。
    あえて寮から少し遠い自販機まで足を伸ばし、帰り道も意識してゆっくりと歩いた。残暑が厳しいとはいえ、八月も終わりに差し掛かると日の入りが早くなっていることは実感できる。すっかり暗くなった寮への道すがらで立ち止まった灰原は大きく空を仰いだ。徐々に深みを増す藍色の空の中には、ポツポツと星たちが輝いている。どうやら今夜は新月に近いようで、その分いつもより小さな星の姿も目に入った。
    「きれいだなぁ」
    自然と言葉がこぼれた。明るい満月の夜が一番好きだが、高専がある山間では星々が瞬く夜空もとても美しい。こんなに綺麗な景色を七海にも見てもらいたいという願望が、ふと心に浮かんだ。
    自分が七海に返せることは、さほど多くはない。勉強を教えてくれてありがとうとお礼を言って、いつも飲んでいるコーヒーを買ってきて、あとはやっと慣れてきた手料理を夕食に振る舞うくらい。けれど、天使としてならもう少し七海に返せることはあるのかもしれない。そう思うと、コーラとコーヒーの缶を抱える腕にぎゅっと力がこもっていた。
    部屋が近づくにつれてドキドキと心臓がうるさくなる。少し駆け足になっているからコーラの缶はすぐに開けない方がいいだろうと、変に冷静な自分がいることが不思議だった。
    「ただいまー!」
    「おかえり。遅かったな」
    「校舎の方まで行ってたから!」
    「そうか。わざわざありがとう」
    「ううん!全然!」
    いつもならすぐコーラへ口を付けるせいか、ソワソワとタイミングを見計らっていると数口コーヒーを飲んだ七海から怪訝そうな視線が向けられる。昼間のように誘えない自分にさらに動揺してしまうが、七海に喜んでもらいたいという気持ちは抑えられそうになかった。
    「あのさ、せっかくだし晩ごはん食べてかない?」
    「いいのか?」
    「うん!」
    「ありがとう。じゃあご馳走様になるよ」
    翠色の瞳が柔らかい弧を描いていく。それだけで心臓がまた駆け足になってしまうが、このタイミングを逃してはいけないと、灰原は意を決して言葉を続けた。
    「あとねっ、よかったらそのあと付き合ってくれないかな!?あ!できたら朝までなんだけど!」
    缶を傾けていた七海の喉がングッと不自然に鳴り、ゴホゴホと咳き込みだした。
    「大丈夫!?」
    「っ、すまない……大丈夫だ」
    数回咳き込んだところで七海はなんとか落ち着きを取り戻したようだが、視線はうろうろと漂っている。こんな七海を見ることは初めてで、何かまずいことを行ってしまったのかと焦ってしまう。けれど、耳まで赤く染めていく七海の姿はなんだかおかしくて、灰原は思わず小さく吹き出していた。


    高専の敷地は広大だ。大小様々な寺社仏閣、校舎に学生寮、グラウンドや室内鍛錬場、高専所属の呪術師や補助監督が出入りする事務棟。呪具を保管する蔵なども多く、立ち入り禁止の場所も少なくはない。そんな中、入学してから敷地内のランニングを続けていた灰原は、お気に入りの場所をいくつか見つけていた。
    「こんなものがあったのか」
    主要な建物が集まるエリアからそこそこ離れた、敷地の外れ。そこにあったのは古びた寺塔だった。
    「僕もたまたま見つけたんだよね。近付いてみてもハリボテじゃなかったし、上まで登ると景色がよく見えたから時々来てたんだ!」
    「上まで?普通こういう塔は二階以上には登れないようになってるはずだが……」
    「中からはね」
    塔を見上げていた七海が怪訝そうな視線をこちらへ向ける。にこりと笑い返した灰原は、周りを確認してから七海の両手をぎゅっと握った。
    「なッ、」
    「ちゃんと捕まっててね!」
    慌てる七海をよそに、灰原は仕舞っている羽を大きく広げてふわりと飛び上がった。鍛錬や任務の時、高い場所から飛び降りることはあってもこんな風に飛び上がることはない。向かい合っている七海の瞳はこれでもかと丸くなっており、いつもより子どもっぽく見えて微笑ましく思えた。
    「おい、灰原っ」
    「すぐだから!」
    塔は所謂五重塔で、高さも十階建てのマンションくらいはある。それでも、天使の羽で飛んでしまえば、ものの十数秒で一番上の屋根までたどり着けるのだ。
    ふわりと瓦の上に降り立ち、空を見上げる。すると、七海も上を向く気配がした。
    「綺麗だ」
    「でしょ!」
    時刻はもうすぐ日付けをまたぐ頃合いで、月のない夜空には大小無数の星たちが輝いている。
    「あそこ、見て」
    頭上から南の山際へ流れ落ちる白くて淡い雲のようなもの。それを指差してなぞっていくと、七海も追うように顔を下ろしていくのが分かった。
    「あれは……?」
    「たぶん天の川だと思うんだ。僕も最近気付いたばっかで自信ないけど」
    「いや、きっとそうだ。初めて見たよ」
    「よかった。七海に見てほしいなって思ってたから」
    こちらを向いた七海は少し驚いた顔をしていたが、じんわりと目尻を下げて「そうか、ありがとう」と小さく囁いた。
    中心の柱の側に腰掛けて夜空を眺める。高専へ来てから何度もしてきたことだが、今は隣に七海がいる。自分から連れてきたというのに、この状況がなんだか不思議で心がふわふわと落ち着かない。
    「それにしても、朝までは言い過ぎだろう」
    「んー、そうかもだけど」
    確かに、七海を誘った時はかなり必死で自分がどうして朝までと口にしたのかは分からなかった。けれど、実際に七海と綺麗な景色を見ていると、自分の気持ちを少し整理できたように思えた。
    「まあ、僕も一晩中いたことはないけど、天使が生まれたところには夜がないから星とか月とか見てると時間忘れちゃうんだよね。それに、夜明け前にランニングしてた時に、夜から朝に変わっていく空もすごく綺麗だなぁって思ったこともあるし、そのどっちも七海に見てほしいって思っちゃったのかも!」
    言葉にすると浮ついていた心もすっ、と落ち着きを取り戻していく。綺麗と思ったものを七海と共有したいという望みが叶ったこと、天使の力を使って七海にお返しが出来たこと。そして、七海から「ありがとう」の言葉を貰えたこと。そんな、たくさんの喜びで自分は浮かれていたのだ。しかし、隣から大きなため息が聞こえ、灰原は慌てて夜空から視線を下した。
    同じように夜空を見上げていたはずの七海は、背中を丸めて抱えた両膝に顔を埋めている。
    「え?なに?どうしたの?僕変なこと言った?」
    「……いや、違う。気にしないでくれ」
    くぐもった声は小さく、後頭部しか見えないせいで七海がどんな顔をしているのか分からない。しばらくソワソワ見守っていると、七海はぐしゃぐしゃと頭を掻いてゆっくりと顔を上げた。
    「大丈夫?」
    「ああ、すまない。本当に、なんでもないから」
    怒ってはいないようだが、七海の眉は困ったように寄っている。けれど、再び空を仰いだ七海はぽつりと静かに口を開いた。
    「天使の生まれたところは、昼しかないのか?」
    七海に天使と知られて一か月弱。その間も今まで通り二人で過ごす時間はたくさんあったが、天使について聞かれたことは初めてで灰原は内心驚いた。
    「うん。夜も朝もないから昼って言っていいのかわかんないけど、ずっと明るいよ。春の陽だまりの中にいるみたいな感じ、かな」
    「じゃあ、夜に驚いたんじゃないのか?暗くて、自分の姿もおぼつかなくて。いつか、闇の中に融けてしまうんじゃないかって」
    七海の言わんとしていることを、灰原は自然に理解していた。夜の闇にあるのは月や星のような綺麗なものばかりではない。呪いという存在を知っているのなら尚のこと。天使として、小さな命を守ると決めてから十年余り。そのあいだ自分の身に起こったことは、きっと七海と共有できる部分も多いだろう。
    「そうだね、最初はびっくりしたかな。でも、こんな風に夜空の星が綺麗だとか、月明りが心強くて優しいって知れたのは、すごくよかったなって思ってる」
    「……すごいな。灰原は」
    「なにが?」
    「そうやって、どんなことも前向きに捉えられるところが、とても凄いと思う」
    こちらを向いた七海がふわりと微笑む。その瞬間、灰原の胸は今までにないほどぎゅうっと苦しくなった。
    「えっ、そ、そうかな?僕、修行中だけど一応天使だし、天使は自分に出来ることを一生懸命頑張るものだから……あ、でも苦手なことはちょっと後回しにしちゃう時もあるけど、自分なりに出来ることはやってるつもりで、えっと、その、」
    一体何を言っているのだろうと、徐々に口ごもってしまう。呪いと立ち向かっていることは修行中の天使としてはイレギュラーで、自分のしてきたことが最善かどうかは定かではない。高専へ来ることを選択した結果、妹を脅威を遠ざけられたことで今までの自分を少し肯定できたような気はしていた。けれど、他者から、しかも七海からそんなことを言われるなんて思ってみたこともなく、どうしたらいいか分からなくなった。
    顔面どころか全身が熱くなっていくようで、灰原は思わず羽で自分を覆い隠していた。
    「なっ!?灰原?どうした?」
    七海の慌てた声が聞こえるが、いま七海と顔を合わせたらもっと胸が苦しくなるような気がして、ただ羽の中で膝を抱えることしか出来ない。
    「なんでもない!ちょっとしたら大丈夫になるから!」
    「そうか……?」
    羽に触れるか触れないかのところに七海の気配がある。心配してくれていることが分かり申し訳なくなるが、何かそれとは別の苦しさはいつもまで経っても灰原の胸の奥から消えることはなかった。
    結局、羽から出てからもどこか落ち着かず、七海も不安げな表情を浮かべていたこともあり、天体観測は切り上げて寮へ帰ることになった。
    「ごめんね。僕から誘ったのに」
    「いや。もう大丈夫なのか?」
    「うん、大丈夫!」
    本当は屋根から降りるために七海の手を握った時に、脈はドキドキと速まっていた。寮までの道を並んで歩いていても、ふとした瞬間距離が縮まると何故か心臓が大きく跳ねていた。
    寮に着き、深夜の廊下を音を消して歩いた。二階に上がり七海の部屋の扉が近付いてくると、この時間がもう終わってしまうのかと名残惜しさが滲んでくる。数時間後には食堂で顔を合わせるというのに、どうしてだろう。
    「灰原」
    「なにっ!?」
    ぼんやりしていたせいか思わず声が大きくなり、七海が口元に人差し指を当ててしいっ、と顔をしかめる。ごめんと、ジェスチャーで返すと、小さく眉を寄せた七海は内緒話をするように顔を近付けてきた。
    こんなに顔が近くなったとこは、ベランダから落ちそうになった時くらいだ。あの時の、庇うように頭をぎゅっと包み込んでいた七海の手のひらの感触が不思議と蘇る。
    「今日はありがとう。楽しかったよ」
    いつもとは違う、囁くような七海の声にまた脈が速くなる。
    「僕も楽しかった」
    トーンを上げないよう意識して声をひそめると、七海の眉間の皺が薄くなっていく。
    「途中なんか変なことしちゃってごめんね」
    「別にいい……まあ、お互いさまだから」
    一層声を落とした七海がふい、と視線をそらせる。その仕草が何故か可愛らしく見えて小さく笑ってしまったが、しばらくすると七海も同じように口元を綻ばせていた。
    「また、あそこに連れていってくれないか?」
    「うんっ、また一緒に行こっ」
    つい声が大きくなってしまったが、口元に人差し指を当てている七海の頬も緩んでいるように見えて嬉しくなった。





    あの夏の夜から、七海の側にいるとふいに胸の奥が苦しくなることが増えた。
    例えば、なんでもない話の合間で七海が笑みをこぼした時。例えば、任務の後に無茶しすぎだと言いながらお互い手当てをしている時。例えば、当たり前のようにどちらかの部屋で二人一緒にいる時。その苦しみは辛いものではなかったが、それがさらに不可解だった。
    季節が進むにつれて、七海の前で羽を出して過ごすことも増えていった。
    「羽を出していることが天使にとって自然なら、私の前でくらい無理しなくてもいいんじゃないか」
    部屋で一人の時は羽を広げている。特に何も思わずそんな話をした時、七海は当たり前のようにそう言った。
    天使の証である羽を人間の前で広げるなんておかしなことだ。いつか、神さまに叱られてしまうかも知れない。けれど、ありのままの自分を当たり前のように受け入れてもらえることが嬉しくて、つい七海の言葉に甘えてしまったのだ。
    「邪魔にならないように、あんまり広げないようにするからね」
    すると、七海は「別に邪魔なんて思わないよ」と小さく笑った。その笑顔を見た時、胸の奥がまた苦しくなった。
    天使は誰かのためにこの身を尽くす。それは生まれた時から刻まれている、天使の使命。修行を終えて一人前となり、より多くのひとへ手を差し伸べることが自分の役割だと思っていた。
    けれど、七海の前では、自分がよく分からなくなるのだ。
    気配が隣にあるだけで、心が満たされる。
    名前を呼ばれただけで、不思議と元気が湧いてくる。
    笑ってくれるだけで、幸せだと思えてしまう。
    なんて、おかしなことだろう。天使であるというのに七海にたくさん助けられている。本当なら天使である自分が与える方だというのに、気が付くと七海に貰ってばかりの気がしてならない。
    七海の側にいると少し苦しくて、とても心地いい。
    けれど、どうしてそう感じるのかは上手く説明出来ないままでいる。


    長い残暑が終わり、短い秋があっという間に過ぎ去ろうとしていた、とある日の夕方。特に何があるわけでもなく、自分の部屋でただ七海と二人で過ごしていた時のこと。買ったばかりの漫画本からふと顔を上げると、ベッドにもたれてハードカバーの分厚い単行本を開いていたはずの七海が珍しくうたた寝をしていることに気が付いた。
    最近はお互いに先輩とペアを組んで任務へ赴くことが増え、昨日の七海の任務も夏油とのペアだった。様々な術師と組むことは経験値を積むために必要で、実際に一年ペアでは充てがわれない任務も担当でき、とても有意義だと思う。もちろん、それは呪術師としてだけでなく、天使としてもより多くの人を助けられることに繋がるのだからメリットしかない。しかし、七海と共有できる部分が少なくなってしまったことに、どこか寂しさを感じてしまう自分がいるのだ。
    七海は不満や小言はよく口にするくせに、弱音というものは滅多に吐かない。昨日の任務のことも朝食の時に聞いてみたが「面倒な案件だった」と一言返ってきただけだった。任務内容によってはあまり口外できないこともあるし、別に詳細な任務内容が知りたいわけではなかったから、その場は別の話題に切り替えた。けれど、今までなら尋ねなくても共有できていた任務に伴う肉体的・精神的な疲労を理解できないことにもどかしさを感じた。
    朝食のあと、午後から部屋へ行ってもいいかと七海に聞かれた時、昨日帰りが遅かったのだから休まなくていいのだろうかと、本当は心の片隅で思っていた。けれど、ついもちろんと頷いてしまった。
    寝転がっていたベッドからそっと降りた灰原は、七海の隣に座り瞼の伏せられた横顔を静かに見つめた。出会った頃よりも少し彫りの深くなった目元にはよく見ると薄っすらと隈があり、ちゃんと断って寝かしつければよかったかと罪悪感が滲んだ。肩が触れそうな程の距離まで近付いているというのに、七海は一向に起きる気配を見せない。中途半端な体勢で眠った方が起きてから辛いかもしれないが、思っていたよりも深い眠りについている七海を起こすことも心苦しい。
    ひとまず膝にブランケットは掛けたが、もっと自分に出来ることは何かとグルグル思考を巡らせる。七海の身体が楽になるように、けれど眠りは妨げないように。ピンと閃いた灰原は、出しっぱなしだった羽の片方を広げ七海の身体をふわりと包み込んだ。天使の羽は地上の物とは全く存在が違う。重さは無く、視認できても天使の意思によって触れた感触を無くすことも出来る。
    暖かさがあるかどうかは分からないが何もないよりかはいいだろうと、灰原はもう片方の羽も広げて自分ごと包み込んだ。羽で包んだ七海の肩を慎重に引き寄せて、自分の方へもたれ掛けさせる。少し体勢が変わったが七海は規則正しく寝息を漏らすだけで、内心ホッと息を吐いた。
    やんわりと重みの掛かる肩から伝わってくる体温。すぐ側から聞こえる微かな呼吸音。触れている場所から感じる穏やかな鼓動。羽で包み込んだせいか七海の存在をよりはっきりと感じ、胸の奥がぎゅうっ、と苦しくなった。けれど、この時間が出来るだけ長く続いてほしいと、そんな矛盾することも思っていた。
    誰かのために自分の出来ることを探すのは、天使として当然だ。今までもずっとそうしてきたし、これからもそうあるべきだと思っている。
    しかし、相手が七海になると、なんだか少しおかしくなってしまう。七海にしてあげたいことはたくさんあって、それが出来るだけで嬉しいし、自分がしたことで七海が喜んでくれたのならこの上なく幸せになる。けれど、七海との時間が増えるにしたがって、自分の方も七海に何かを望んでいるように感じるのだ。
    天使は他者へ与えるもの。それなのに、何かを欲しがるなんて。一体、自分はどうしてしまったのだろう。
    少しの苦しさと心地よさの狭間で、そんな疑問は日々深まっていく。
    そして、二年に進級する直前の穏やかな春の日。初めての感情に、疑問は深まるどころか数を増すことになった。
    春休みで宿題もなく繫忙期も少し先でのんびり出来るかと思ったが、細々とした任務が舞い込み、結局慌ただしく日々が過ぎていく。だが、任務自体は先輩たちと赴くほどのレベルでもなく、二学期の終わりや三学期に比べて七海と一緒に過ごす時間が増えたことに灰原は内心浮かれていた。
    午前中にお使いのような任務を終え、ゆっくり外で昼食を食べた帰り道。高専の敷地へ入る前から続いていた桜並木は、校舎や寮のある中心部へ近付くにつれて密度を増していく。だが、足元も桜色に染まりだしていることに、ほんの少しだけ寂しさを覚えた。
    「結構散ってるねぇ」
    「夜は雨だったからな」
    「ほんと、お昼のうちにお花見してよかったね!」
    昨日の昼。一つ上の先輩とつい先日入寮したばかりの新入生を誘い、お花見兼歓迎会を開催した。主な準備はもちろん言い出しっぺである灰原が行なったが、お花見自体に乗り気ではなかった七海も何だかんだ言いつつ手伝ってくれたのだ。
    「花を見るほど余裕もなかっただろ」
    「まあ、そうだけど!」
    夏油たちが持参したジュースの中身が実はお酒で、気付かぬままコップに注がれたものを飲んでいた新入生の伊地知が早々に酔いつぶれてしまい、灰原は介抱で付きっ切りだった。
    「七海も勧められてたよね?お酒って分かったの?」
    灰原はずっとコーラを飲んでいたので幸いにもお酒を口にすることはなかったが、七海は新入生と同様に先輩たちに絡まれていた。
    「分かるに決まってるだろう」
    「でもさ、七海も飲んでたよね?」
    「……デンマークは飲酒の年齢制限に関する法律がないんだ」
    「ここ日本なんだけど」
    七海の母方の祖父はデンマーク人で、中学生の時、祖父の母国へ行った時にほんの少しアルコールを嗜んだという話は、夜空を見上げながら耳にしたことがある。七海が昨日どのくらい飲んだのかは分からないが、すでに酒豪と噂の家入同様に顔色は全く変わっていなかったから、きっと将来は酒飲みになるだろう。七海は気まずそうに視線を逸らしており、灰原はたまらず声を上げて笑った。
    思いつきで開催した会だったが、想像していた以上に楽しい思い出になった。ここは普通の学校とは違うが、あんな風に穏やかな時間を過ごしてもいいだろう。
    「来年はちゃんとチェックしなきゃ!」
    「来年も主催するつもりか?」
    「うん!」
    灰原が強く頷くと、七海の口から大きなため息が漏れた。
    「なら、また手伝わないといけないな」
    「手伝ってくれるの?」
    「灰原がやるのなら」
    七海はやれやれといった様子だが、ため息を吐いた口元は柔らかく綻んでいる。
    「ありがと七海!」
    やっぱり、七海って優しいな。そう思いながらこっそり七海の横顔を見つめていると、何かに気が付いたのか七海の足がぴたりと止まった。
    「どうしたの?」
    「ああ、灰原と初めて会った場所だなと思って」
    視線の先へ目を向けると、春風に揺れる桜の木々があった。
    「たしか、あの辺りの桜だったな」
    「よく覚えてるね」
    「まあな」
    「あの時の七海、すっごくびっくりしてたもんね」
    この一年ずっと一緒に過ごしていたが、驚きで目をまん丸にした七海は初めて出会った時以来目にしていない。あの時の七海の顔が蘇り、自然と笑いがこぼれてしまう。すると、七海から不満げな視線が向けられた。
    「仕方ないだろう。一番大きな木だと思って近付いたら、上から人が飛び降りてきたんだ。驚かない方が難しい……」
    まさか、天使だとは思わなかったけど。
    そう付け加えた七海は、いつものように小さく眉を寄せて笑みを浮かべた。だが、再び桜を見上げた横顔はどこか寂しげで、灰原は言い知れぬ不安を感じた。
    「灰原」
    「なに?」
    「今は修行中だ、って言っていたよな?」
    これまで、七海は天使について多くを聞かなかった。何かの流れで自分から天使について話をすることはあっても、七海から話を振られたことはあの夏の夜だけだった。
    「うん。そう、だけど」
    自然に返事をしたつもりが少し言葉が詰まってしまった。七海は桜を見上げたままで、横顔からは読み取れるものは少ない。徐々に脈が早まっていき、指先は冷たくなっていく。
    「どのくらいで終わるか、決まっているのか?」
    「えっと……それは、神さまがお決めになることだから、分からないんだ」
    ほんの少し、静寂が流れる。微かに息を吸った七海は、ゆっくりと顔をこちらへ向けた。
    「修行が終わったら、どうするんだ?」
    低くはっきりとした声に、喉の奥がぐっと締まった。脈はさらに早まり、指先も微かに震えだす。だが、淡い翠眼に真っ直ぐ射抜かれ、上手く息をすることも動くことも出来なかった。
    修行が終わったらどうするか、なんて。そんなこと、最初から決まっている。天使として生まれた時から、決まっているのだ。
    冷たくなった手を握り込み、声が震えないよう必死に腹へ力を入れて口を開いた。
    「天使としての、役目を果たすよ」
    自分を移していた翠眼が小さく揺れる。きつく寄った眉は何かを堪えているように思えて、ズキリと胸が痛んだ。
    「それは、」
    何かを言いかけた七海は、薄く開いた唇を結んでぎこちなく微笑んだ。
    「……いや、分かった。急にすまない」
    「ううん。別に、大丈夫」
    灰原は同じように微笑み返したが「先に部屋へ戻るよ」と歩き出した七海の背中をすぐに追うことが出来ず、その場に立ち尽くしていた。
    頭上へ視線を向けると、修行のために地上へやってきた時のことが頭の中に蘇る。一人前の天使になって、たくさんの人の役に立とう。人々を見護って、時には手を差し伸べて、絶え間なく慈しもう。そう、強く誓った。
    修行が終わった天使は姿も痕跡も記憶も消して、誰にも知られることなく誰かのためにこの身を尽くす。それが天使の役目。天使として生きる意味。
    修行が終わった天使が出会った人々から自分の記憶を消すのは、未熟な自分を成長させてくれた人たちを悲しませないためだ。出会った記憶が無ければ、別れる悲しみもない。何もなかったように、それまで通り過ごせるのだ。
    十年以上家族として側に置いてくれた人間の両親もいつも頼ってくれた妹も、仲良くしてくれた友達もたくさんのことを教えてくれた先生も。高専で出会った人々もみんな、自分のことを忘れてしまう。
    寂しいとは思う。けれど、それは仕方ない。
    自分は天使だから。
    最初から決まっていたことだから。
    それなのに、胸がとても痛い。苦しいのではなく、痛い。
    これは寂しさではない。悲しみだ。
    痛みの正体に気が付いた時、灰原の脳裏には、ついさっき追うことの出来なかった七海の背中が浮かび上がった。
    「七海も、僕のこと忘れちゃうんだ」
    口からこぼれた言葉は鼓膜を揺らし、頭の中で響き渡る。まるで、それは避けようのない必然だと刻み込むようだった。
    仕方のないことだと、分かっている。
    それなのに。
    自分は天使なのに。
    最初から決まっていたことなのに。
    どうして、こんなに悲しんでいるのだろう。
    どうして、涙が出そうになるのだろう。



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