1月七灰原稿③ 時間というものはあっという間に過ぎていく。
季節が秋から冬へ移り変わっても、灰原の記憶は戻らないままだった。
「呪詛師の足取りを追ってはいるが、ほとんど手がかりがなくてな」
担任はそう言ったが、現状で半年分の記憶がない以外灰原に問題はなく、この案件がそこまで重要視されていないのだろうと七海は薄々感じ取っていた。
記憶がなくなってからの一ヶ月弱で灰原は半年分の実技の大半をこなした。自身の術式の扱い方も、実践での立ち回り方も身体に叩き込んだ。二人での任務も再開され、座学の内容も灰原の復習と並行しながら新しい単元も行なわれるようになった。
はたから見れば、この半年間の日常が戻ってきたように思えるだろう。しかし、灰原のふとした瞬間の表情に七海は違和感を覚えるようになっていた。
「大丈夫か?」
放課後。夕暮れの教室。いつものように、これまでの復習と今日の課題を灰原と二人でしていた時のこと。
灰原の右手がしばらく動いていないことに気がついた七海は小さく声をかけた。
「なにが?」
ぼんやりと教科書を眺めていた灰原がパッと顔を上げた。
「手、止まってたから」
わからない問題でもあるのかと続けると、灰原は笑って首を横に振った。
「ちょっとぼーっとしてただけ」
「休憩するか?」
「ううん、大丈夫。あと少しだから」
そう言った灰原は、ペンを握り直してプリントへ英単語を綴っていく。開けている教科書のページは、あの任務の数日前にやったところ。灰原は英語が苦手で、長文読解は七海も協力していた。英文に所々引かれている蛍光のマーカーも、欄外に赤ペンで書かれている文法のポイントも七海が解説したもの。そのことを今の灰原にわざわざ言ったことはないが、おそらく気がついているだろう。
プリントの空欄が全て埋まり、灰原の手が止まった。見直しをしているのか、黒い瞳がプリントと教科書を行き来している。しかし、灰原の横顔は何か気持ちを押し隠しているようにも見え、七海は意を決して口を開いた。
「何かあったのか?」
「どうしたの急に?」
「なんとなく、元気がないように見えたから」
「えー、そんなことないよ?」
灰原はさっきと同じように笑っているが、どこか無理をして作ったように見えて心苦しくなる。これ以上踏み込んでほしくないのかもしれない。余計なお世話なのかもしれない。けれど、自分はこの半年の間灰原を見つめ続けてきた。灰原が無意識に一人で抱え込む癖があることにも、薄々気がついていた。
「本当に?」
ここで引いてはいけない気がする。
そう思い言葉を続けると、灰原の表情が微かに強張った。黒い瞳が微かに揺れる。寄った眉間は怒っているのではなく、何かを堪えているようだった。
「何か、無理してないか?」
ぐっと唇を結んだ灰原は、小さく息を吐いてから困ったような笑みを浮かべた。
「七海には隠し事できないなぁ」
灰原は一度口をつぐんだが、七海が黙って待っていると淡々と言葉を続けた。
「記憶、全然戻らないよね」
「……ああ」
「わかってるよ、仕方ないって」
いち学生のトラブルよりも日々発生する呪いの駆除の方が高専にとって重要だ。自分の身に起こった事態の優先順位が低いことは灰原も理解していた。
「それに、だんだん勉強も追いついてきて任務にも出れるようになって、僕はここでやっていけるんだ、誰かの役に立てるんだって、自信が持てるようになって。だから、このまま思い出さなくても大丈夫なのかもって、そう思えるようになってきたんだ」
確かにこの一ヶ月の間で灰原は高専での生活に馴染んだ。その日の授業の時間割、昼食のメニュー。夜のテレビ番組、明日の実習内容。なんでもない日常の話をしていると、七海でさえ灰原から半年間の記憶がなくなっていることが頭の中から薄れてしまう時がある。
「でもさ、ちょっとした時にみんなが言ってることがわからないんだよね。お土産のお菓子のこととか先生の言い間違いの話とか、ほんとに些細なことばっかりなんだけど。別に最初は気にならなかったよ。それどころじゃなかったっていうか」
灰原の表情は一見穏やかだ。しかし、机の端に置かれた灰原の拳は、グッと握り締められている。
「でも、こんなふうに教科書の端っこに書いてる落書きとか、ケータイに入ってる写真とかメールとか見たら半年間の僕はちゃんといるってわかるのに、その実感がどうしても持てないんだ」
記憶はただの記録ではない。その人が過ごしてきた分の感情の集まりだ。知識や技術を身につけても、半年分の空白が埋まるわけではない。
頭ではわかっていたつもりではいた。しかし、本当のところを、灰原の本当の辛さを何もわかっていなかったのだと痛感させられた。
「きっと大切な気持ちがたくさんあったはずなのに、今の僕にはそれがわからない。何も思い出せない。それがやっぱり、悔しくて……」
微かに声が震え、灰原は俯いた。かける言葉が見つからない。自分の無力さに、ただ唇を噛み締めることしかできない。
長いようで短い静寂が二人の間に流れる。それを破ったのは灰原だった。
「ごめん!」
弾けたように顔を上げた灰原は、わざとらしいくらいの明るい声で謝罪の言葉を述べた。
「こんなこと言ってもどうにもならないのにね!ごめん、課題付き合ってもらってるのに!続きしよっ!」
向けられた表情は、これまで数えきれないほど目にしてきた笑顔。しかし、黒い瞳は潤み、口元は不自然に力が入っている。笑みを崩さないよう、懸命に堪えていることは明白だった。
「笑わなくていい」
七海の口から咄嗟に出た言葉に、灰原は大きく目を見開いた。薄く張っていた涙の膜がゆらりと揺蕩う。
「謝らなくてもいいし、明るく振る舞わなくてもいい。私の前では無理しないでほしい」
大丈夫だ。きっと記憶は戻るよ。なんて、何の根拠もない励ましをかけたとしても、気休めにもならないだろう。それなら、心に浮かんだままの気持ちを言葉にしようと、そう思った。
「私は高専に来る前、誰にも心を許してこなかった。誰にも、本当の苦しさは理解されないと思っていたから。でも、高専に来てから……灰原に出会ってからそうじゃないんだとわかったんだ」
灰原はいつも真っ直ぐに向き合ってくれた。自分を理解しようとしてくれた。それだけではなく、灰原自身がどんなことを感じてどんなふうに考えたのかを伝えてくれた。
──僕ね、ここで七海と会えて、ほんとによかったって思ってるよ!
頑なだった心を解きほぐしてくれたのは、灰原だった。
いつの間にか、灰原の前では心の奥深くに隠していた悲しみや辛さを出すことができるようになった。楽しさや嬉しさを灰原にも知ってほしいと思うようになった。気づいた時には、心の中にいつも灰原がいた。
「きみは私に大切なものをたくさんくれた。きみがいてくれたから知れたことが、数えきれないくらいたくさんあるんだ」
温もり、安らぎ。愛しさ、切なさ。浮き立つ気持ち、焦がれる気持ち。
抑えることが難しいくらいの、たった一人を求める願望。
「私はきみを助けたい。きみの力になりたい。きみがくれた大切な気持ちをきみへ返したいと、そう思っている。だから私の前では無理しないでほしい。辛いことも悲しいことも、隠さないでほしい」
くしゃりと表情を歪めた灰原が俯いた。微かに鼻を啜る音が鳴り、目元をゴシゴシと擦る手の動きも止まらない。
こんなことを言って、灰原を余計困らせただけだったかもしれない。そんな懸念が頭の片隅に浮かんだが、パッと顔を上げた灰原は大粒の涙を零しながらこう言った。
「ありがとう、七海」
僕、七海と会えてほんとによかった。
在りし日の灰原の言葉。灰原と気持ちを共有した時に、灰原が返してくれた気持ち。
「私も灰原と会えてよかったよ」
また同じ言葉をもらえたことが嬉しい。灰原も目元をぐしゃぐしゃにしながら微笑んでおり、思わず頬が緩んでいく。しかし、涙を拭った灰原がポツリとこぼした言葉に、七海は思わず息を呑んだ。
「僕こんなにいい友達ができたんだぁ」
ずきりと胸が痛む。喉の奥が詰まったように苦しい。気がつくと、七海は無意識のうちに奥歯を噛み締めていた。
灰原が涙を見せてくれた。笑顔も見せてくれた。
少しでも、灰原を支えることができた。それだけで十分嬉しいはずなのに。たったの一言に、心が騒ついてしまう。
灰原がその言葉を使うことは当たり前だとわかっている。それ以外の言葉を使うことの方が不自然だ。自分たちは二人きりの同級生で、初めてできた仲間で。かけがえのない、友達で。
けれど、もし仮に。今の灰原へ、別の関係性を伝えたらどうなるのだろう。何も知らない灰原を、自分の慾で染めたらどうなるのだろうか。
耳元で悪魔が囁くなんて、フィクションの中だけの話だと思っていた。
何を考えている。そんな卑怯なこと。灰原の状況につけ込むなんて。
だが、灰原は半年分の空白を埋めたがっている。灰原が記憶を、気持ちを、欲しているのなら。自分がそれを与えてはいけないだろうか。きみからもらったものだと、返したらいいのではないだろうか。
灰原はいま、私を頼りにしてくれているのだから。
自分は理性的な人間だと思っていた。少なくとも、そうあろうと努力してきたつもりだ。しかし、募った想いはいとも簡単に理性を飛び越えていった。
七海はまだ微かに濡れる灰原の目元へそっと手を伸ばした。灰原の頬がピクリと震える。しかし、灰原はただ真っ直ぐにこちらを捉えていた。
ゆっくりと瞬いた黒い瞳から涙が一粒溢れ、指を伝っていく。ああ、他人の涙って温かいんだな。いや、灰原の体温が高いからなのか。頬っぺた、さっきよりも赤い気がする。
こんなふうに灰原へ触れるのは初めてだというのに、何故かどこか冷静な自分がいる。灰原のことをもっと知りたいと望む貪欲な自分もいる。
「私たちは、友達じゃないんだ」
「え?」
「私たちは付き合ってる……恋人同士、なんだ」
言ってしまった。言葉に、出してしまった。喉がカラカラに乾いていく。顔面が燃えるように熱い。その反面、指先は驚くほど冷えていた。
灰原はこれ以上ないほど目を丸くしてこちらを見据えている。どんな反応をされるのだろう。半信半疑でも受け入れてくれるだろうか。何かの冗談だと笑われるだろうか。やんわりと流されるだろうか。それとも。
「なんで最初に言ってくれなかったの?」
「……え」
もっともな疑問に一瞬思考が止まった。最悪の返しではなかったことに、どこかホッとした面もある。
「いや、その……きみを、驚かせるかと思って」
「今でも十分びっくりだよ」
「ごめん」
素直に謝罪すると、灰原は表情を和らげた。
「恋人……僕と、七海が」
目元を指先でなぞっていた灰原がぽそりとつぶやく。元々赤かった頬が、さらに深く色づいていくように見えた。
「そっかぁ」
よかった。
聞き間違いではないかと七海は自分の耳を疑った。しかし、灰原は気恥ずかしそうに言葉を続けた。
「七海って今までいた友達とは、なんとなく違う感じがしてたんだよね。同じ呪術師っていうのもあると思うけどそれだけじゃないっていうか。上手く説明できないんだけど……僕にとって特別な人だったのかなって。そうだったらいいなって、思ってたから」
自分も同じように思っていた。灰原ともっと特別な関係になりたいと思っていた。
それなのに。灰原に、嘘を吐くなんて。どうしてこんなに最悪な方法をとってしまったのだろう。今さら後悔しても何の意味もない。一度口にしたことは、訂正できてもなかったことにはできない。
「だから、すごく嬉しい」
心底安心したような笑みを向けられて、心臓が押し潰されそうになった。