【ドラロナ】愛の咀嚼音を聞きやがれ むし、むしり、がりがり、ざくっ。ざくっ……。
ロナルドがやたらと熱心に見ているスマホのヌーチューブ画面には、ヌンタッキーのチキンが映っている。
山盛りだ。
それはどうやら咀嚼音のASMR動画のようだった。
がりがりざくざく、チキンの衣が歯で砕かれ、肉が毟り取られる小気味の良い音が部屋中を満たしている。
聞こえてくるのは咀嚼音だけだった。美味しいとか不味いとかそういった感想どころかBGMも特になく、本当にただ配信者が黙って画面いっぱいのチキンを食べているだけの動画らしい。
ドラルクが目を覚まして、こうしてソファベッドの後ろから覗き込んでみても気づかないほど熱中するには、どうにも面白味の足りない内容に感じる。今夜は早くに起き出し趣味に出かけたためジョンもいない、美味しそうだなとか今度食べに行こうぜとか、もしくは、ドラルクに作らせよう、とか。そういう他愛ない会話を楽しむ相手もいない状況で、ただひたすら、山盛りのチキンが減っていく動画を見続けている。
どれだけ山盛りかと言うと、チキンの山から配信者の手だけが生えているぐらいの量だ。食べている姿を見せるための動画でもない。本当に音だけ。これにはどういった需要が?
ロナルドの横顔を見ても真剣、というよりは何だろう、“夢中”をハンサムにした顔つきをしている。
「……そんなに見つめても今日の夜食は魚だぞ、ロナ造」
どたんっ。
耳許に吹き込むまでドラルクに気づかず、驚いてソファから弾け飛んだゴリラの、何と無様なことだろう。
「冷蔵庫を開けることすら忘れてしまったのかね、ゴリ造くん。ここは手入れの行き届いた私の城だぞ、漁らずとも食べ物くらい見つかるだろうに」あれ、と思った。全部言えてしまった。てっきり言葉の途中で拳を叩き込まれると思っていたのだが。
床に尻餅をついているロナルドは、木から落ちたリンゴのようだった。
真っ赤になって驚いている。
ただそれだけ。
「……何をそんなに。別に、」ロナルドのそばで転がっているスマホの画面に目を落とす。「やましい動画を見ていたわけでもないだろう」
がり、がり、ざくっざくっ。
もぐ、もぐ、ごくん。むしっ、むしり……。
咀嚼音。嚥下音まで聞こえてくる。新たなチキンをむしって、それの繰り返し。しかしチキンの山が少し崩れ、配信者の頭のてっぺんが覗こうとしていた。なるほど。完食まで見届ければ顔が拝めるというわけか。それなら少しは気になって見てみようと思うのかもしれない。
ドラルクはちっともその動画に興味はなかったが、ロナルドが熱中していた理由には興味があったので、彼からの反応がないのをいいことに、ソファの背もたれに肘を置いてじっとそれを眺めていた。ごくんっ。もう一度喉が動いた音のあと、ようやくリンゴは自分がリンゴじゃないと気づいたようだ、ゴリラの如く機動性でロナルドがスマホを取り上げる。
「こっここここれはっ違っ、ちげーからな!?」
「何が」
「チキンが美味そうだなーって思って見てただけで!! べっ別にそれ以外の目的があって見てたわけじゃッ」
「…………」
「ウルセーッ!」叫んで拳を繰り出す。「下手くそな誤魔化しだって分かってるわ黙って死ね!!」
「ブェアーッ!」叫んで自ら塵と化す。「何も言っとらんだろうが!!」拳の風圧がおさまる前に再生が始まり、うぞうぞと輪郭を取り戻していく。「何だ何だ、前もって素直な自供をすれば私の興味が逸れるとでも思ったか、余計に気になるわ! きみ一体何を誤魔化したいんだ。ってかやっぱり誤魔化したい何かがあるんかい」指が真っ先に形を成したので人差し指を突きつけ閃きのままパチンと鳴らす。「配信者がおっぱいのでかい裸カーディガンのお姉さんとか? BANされる前に見とこうって?」
「仕事行ってくる!!」
ぴゅうっ。
イリュージョニストも顔負け、退治人衣装に着替えるとロナルドは出て行ってしまった。再生を終えたドラルクのマントが、ゴリラの高速移動ではためいて揺らぐ。
それが止まる前にソファへと腰掛け、自分のスマホを取り出しヌーチューブを開いた。逃げたゴリラを追うより、ゴリラが熱心に見ていたものを探してみる方が断然、楽だと思ったからだ。
チキン 大食い ASMR
で検索をかける。
料理動画や買い出し動画ならドラルクの趣味の範囲内だったが、大食い動画、しかも誰とも知れない人間の咀嚼音を聞き続けるだけの動画は本当にちっとも魅力的に思えなかった。たとえばロナルドが見ていたものがただの大食い動画なら、ああ、この若造これが食べたくて見ているのか、まあ気が向いたら作ってやろうぐらいは思ったのに。あの慌てようじゃ、確実にただの大食い動画ではない。
内容自体に興味はないが、ロナルドが何を誤魔化したのかはやはり気になる。
好奇心のままにスクロールしていくが、どのサムネも、大食いアイドルや一般人が大量のチキンと一緒に活発に映っているだけだった。試しにひとつふたつ再生してみたが、配信者は最初から顔出しをしているし、チキンの量も常人やドラルクから見れば大量だけれども画面を埋め尽くしてはいない。ロナルドが見ていたものとは違うだろう。検索して容易に候補に出てくるような人気ヌーチューバーではないということだ。
じゃあ本当に、単純に、ロナルドは自ら好んであの咀嚼音のASMR動画を見つけ、眺めていたということになる。
「……他人の咀嚼音て聞いてて楽しいか……?」
不思議だ。
まあ楽しむ者もいるだろう。
ドラルクとて、ジョンが小さな口で物を食べる音は聞いていて楽しいし、愛しさがある。ヒナイチがドラルクの焼いたクッキーを頬張る姿は歓迎できるし、ロナルドがドラルクの作った料理を食べる様子はやたらと安心する。
つまり全くの他人が何かを食べる咀嚼音を聞かされても何とも思わないものの、なるほど、動画のコメント欄を見てみると他人の気持ち良い食べっぷりは妊婦のつわり等に効いているといった意見もあった。あとは単純に食べ物や、美味しそうに食べている姿が好きだとか。確かに需要はあるようだ。ロナルドもテレビで大食い番組を見つけるとそのまま見入っていることがたまにあった。それ自体はおかしなことじゃない。ひとが美味しそうに物を食べる様子には魅力があると言っていいだろう。
だけどASMRだぞ。
咀嚼音を、聞く、動画だ。
検索結果にはチキンを食べるASMRがいくつもあったが、どれも食べている様子込みの動画だった。上位には、口許がきちんと映っていて、骨付きの肉を、豪快に、しかしとても綺麗に齧り付く細身のアイドルの大食い動画がきている。アイドルとしての口上もそこそこに、あとはもうひたすら黙ってにこにことチキンを頬張る様は、興味の薄いドラルクからしても割に素敵に見えた。こんなに食べても細いのは驚愕だが、美味しそうだなと思う、血が。チキンを食べる肌には張りがあり、手は力強く、笑みは健康そのもの。流れる血も美しい味がしそうだった。
まさか人間であるロナルドがそう思うわけでもあるまい。
そもそも、再三だが、ロナルドの見ていた動画には手しか映っていなかった。細く、骨張っていて、節が硬そうで、女性の手には見えなかった、と思う。おそらく。
奴は一体どういう気持ちで咀嚼音を聞き、そうしてドラルクにあんな態度を取って、何を誤魔化そうとしたのか。
「……手羽先でも揚げてやるか……」
もしかしたら本当にただチキンを食べたいと思って見ていただけなのかもしれないし。
ドラルクは腑に落ちないながらもひとまずはそう結論づけて、夜食の準備に取り掛かることにした。
帰ってきたロナルドが魚の煮付けと、揚げたての手羽先を見て、分かりやすくぱっと顔を輝かせたので、何だまさかマジでチキンが食べたかっただけなのかと思ったが、食事中ちらちらとドラルクの方を見ては逸らすといういかにも何かありますといった態度を見せるので、ドラルクはやはり眉をひそめるしかなかったが。
疑問点は解決するべきだ。
探究心は追い求めるべきだし、興味のあることにはとことん首を突っ込んでいきたい。
あの後それとなく、何の動画を見ていたの、私も料理の参考にしたいから教えてよ、と意訳をすればそんなふうな意味になる煽りを持ってロナルドにボロを出させようともしてみたが、パンチと共に返ってきたのは『別にテメーの料理に満足してねえわけじゃねえ! いっつも美味いから大丈夫!!』という本題を誤魔化したいがために普段取り繕っている部分を全力で素直に暴露してしまった言葉で(ドラルクの料理に満足しているのは見ていれば分かるものの)得をした気分にはなったが、ドラルクが今聞きたい答えではなかったし、一寸のちに我に返った照れゴリラに殺し逃げされたので肝心なところは分からずじまいだった。
そんなに気になるか? とドラルクは自分に思わないでもない。気になるだろ、と思った瞬間に自分で即答してしまう。
だってあんなに夢中になって見ていたんだもの。
特段、趣味のない、暇があれば爪を切るかメビヤツを磨くか家電を撫でるかジョンと戯れるしかない男が、ASMRと言えど、料理を見つめて瞳を煌めかせていたのだ。食べたいわけではなく、何か別の理由で。音が良かった? 咀嚼音? それならそうと言うはずだろう。隠したい性癖としてはこの街では弱すぎる。
口八丁で聞き出すにしても自分がやけにこの件を気にし過ぎていることは重々承知なため──何でそこまで気にすんだよ、と突っ込まれたら返答に窮す。なぜか──またロナルドが動画を見ている瞬間に遭遇しないかとそわつくこと数日。ようやく機は訪れた。
ドラルクがジョンと共にいつもより早く目覚めると、ソファベッドに座っているロナルドの跳ね回っている癖毛頭が見えた。
ドラルクのここ数日間の思惑を理解している察しのいいジョンへと目配せをする。そうっと背後から覗いてみた。あれからドラルクの前でヌーチューブを見ない警戒ぶりを見せていたロナルドだったが、今日は事務所を休みにしている。趣味のない男が一人きり、おそらく今一番ハマっているであろう動画を見ないわけがない。
咀嚼音が聞こえてこないので違う動画を見ているのかと思ったが、丸っこくて柔らかそうな耳にイヤホンをつけている。
ビンゴだ。
スマホの画面には大量の、今度はシュークリームが映っている。
画角も、シュークリームの山から生えているように見える手も、前回の配信者と同一人物であろうことが窺える。
手は色が白く、血管が浮き出ていて、手のひらが広く骨っぽい。やはり男の手に見えた。
何だ?
ドラルクは何となく、面白くはない気にさせられた。
ロナルドの横顔を盗み見る。画面に釘付けになっている瞳はやっぱりキラキラと輝いていた。いや。キラキラと、というか。
何だかもう少し、別の。
彼が敬愛して止まない実兄を見つめる表情によく似ているが、それとは別の、まだドラルクの知らない表情だった。
「……そんなに。咀嚼音マニアだったのか?」
思わず漏らしたぼやきを、さすがに耳の近くだ、イヤホン越しでも気づいたロナルドがぴくりと肩を揺らして反応した。振り向き、ドラルクと目が合う。
は、と思った。かち合った視線が煮詰めたジャムのようにとろりとしている。
微睡みや、恍惚、そういう言葉をもっと単純にして、うっとりと目元に赤く色付けたようだ。
決して咀嚼音を聞くだけの動画でしていい顔つきじゃない。
これは知らない五歳児だ。
ドラルクが面食らい、なぜか顔の表面がさらさらと崩れ落ちかけたとき、瞬きひとつで我に返ったロナルドによって殴殺された。ヌー! ジョンがドラルクとロナルドとスマホを交互に見やって慌て泣く。助かった、と思った。よくは分からなかったが、よく分からない死因を遂げるところだった。彼の兄じゃないのだ、彼の目から皮膚の表面を溶かすビームが出ているわけでもあるまいに、ドラルクを形作っている輪郭が崩れて、何か知らない弱点のようなものが暴かれる心地だった。いかにすぐ死んですぐ復活すると言えど、それをされたら不味いという感覚はあった。何かは分からなくても、不利な状況に身を置きたくはない。
「テッテメー! 一度ならず二度までも……!」
イヤホンとスマホを驚いた拍子に落とし、握った拳をわなわなと震わせるロナルドは、もうドラルクのよく知っているゴリラの五歳児だった。ほっとするも、やはり腑に落ちない。
「それはこっちの台詞だ若造、隠したいんならもっとコソコソ見ろ、それを発見するのが醍醐味なんだぞ。あと共同スペースで見られて困るもん見るな」
「ぐう!」
の音と共に再び拳を見舞われる。爆散しながら、「今度はシュークリームが食べたいのかね」とわざとらしく訊いてやると、ロナルドはぐっと喉を詰まらせ「そ、そういう……わけでも、なくはなく、なく、ねェけど」ともごもご言った。ここで器用に、そうだからシュークリーム作れや、と横暴に誤魔化さないあたりが、らしいっちゃらしかった。誤魔化しでなくても、そう言えば甘いお菓子にありつける可能性が出てくるのに、この男ときたらいつまで経っても狡賢くなる方法を知らない。これじゃあ益々何かを隠していますと言っているようなものだし、自分が不利になる状況に自ら進んでいる。(とは言っても彼は全ての不利を暴力で打開できる実力があるが)
愚直で、純粋、あまりに阿呆だった。
だから気になるのだ。
保護者じみた考えなのかもしれない。違う気もするが。しかしこちとら二百余年生きているのだ、たった二十数年生きただけの面白い男をやたらめったら気に掛けてもおかしくはないだろう。年寄りならみんなそうする。たぶん。
「そんなに私に知られたくない動画なのか? 何か変なもんじゃないだろうな」
ヌ、と二人と投げ出されたスマホの間で右往左往していたジョンが物言いたげにドラルクを見上げる。分かっている。随分と心配性な、まるで親みたいなことを言った。違う。ドラルクはロナルドの親になりたいわけではない。言ってすぐ微妙な顔をしたドラルクと同様、ロナルドも顔をしかめて見せた。
「親ぶるには押しかけ居候の罪状が重すぎるぜ、吸血鬼おじさん」
「うるさいわセールス電話も上手く断れんくせに、五歳児ゴリラ」殴られ、砂になる。ヌー。泣くジョンをロナルドが抱き上げる。ドラルクは塵のまま悟られないのをいいことに、目つきも唇も僅かに尖らして言った。「教えてくれたっていいだろ。きみあんな顔して見といて、何でもないことないでしょうが。何かはあるだろ絶対」
「……べ、べつに、」
抱き上げたジョンを落ち着きなく撫でくり回してロナルドが言う。
「て、てめーには関係ねーし……」
ハァアア?
「とっとにかく! ドラ公が気になるようなアレじゃねえっていうか! 余計な詮索すんなよな!」買い出し行ってくる! 言うが否や、びゅんっ。スマホを掴みジョンをソファに下ろしてまた突風の如く出て行ってしまう。
残されたドラルクは静かに再生し、青筋の形にこめかみを失くしながら、やはり静かに声を落とす。
「ジョン。若造が寝ている間にセロリ咀嚼音耐久8時間でも開催しようか」
ヌャ、ジョンはどっちつかずの返事をした。さすがのジョンでもセロリだけを食べ続けるのは嫌だろう。半田にも協力してもらおうか、ドラルクが嫌がらせに全振りした計画を立て始めようと顎に手をやったとき、ジョンがソファの背もたれをよじ登って、ドラルクさま、と小さな手を伸ばした。何だい、と抱っこをする。使い魔の愛しきマジロは続く言葉を言うか言うまいか迷う素振りを見せたあと、ロナルドくんが見ていた動画のひと、と言葉にした。「ヌーヌヌヌヌヌオヌヌ」……吸血鬼だと思う。
ロナルドくんが見ていた動画のひと、吸血鬼だと思う。
「は」
あの大量のチキンやらシュークリームを食べていた配信者が?
吸血鬼?
「ど、どうしてそう思うんだい、ジョン」
「ヌヌヌヌヌヌヌ、」ドラルクさまと、ロナルドくんが言い合ってたとき、シュークリームの山が崩れて、見えた顔が吸血鬼っぽかった。動画越しだしコスプレと言われればそうかもしれないけれど……。
ドラルクはジョンの言葉を疑わなかった。
「でかしたぞジョン」
甲羅を撫で撫で、勢い良くソファに座る。そして自分のスマホを取り出した。
吸血鬼 大食い ASMR
とヌーチューブで検索をかける。
吸血鬼向けの大食い動画なんて、今まで気にも留めたことがなかった。
古の、まだ紙面が全盛を誇っていた時代には、吸血鬼が大量の人間を食い殺していく美食家レポや事件が流行ったこともあったそうだが、今は吸血鬼と人間が手を取り合って踊りそれがバズるような時代だ、食事を必要としないドラルクには吸血鬼の大食い事情なんざてんで興味がなかった。だから丸切り選択肢になかったのである。
てっきり人間の大食い動画を見ていると思ったのに!
「……結構あるんだな。まあ、人間からしたら吸血鬼が人間の食事を大量に摂っているのは面白い、か……? なるほどな……」
いくつか出てきた動画のサムネに少しは納得してしまう。確かに。ドラルクとて人間が大量の血液を飲んでいたら怖いものみたさで見てしまうだろう。ねえそれって共食いってやつなんじゃないの、と突っ込んでしまいそうだ。しかしそれとは少し違う感性なのかもしれない。ロナルドも、吸血鬼退治人をしているくせに、人間と同じ食事をしたり薔薇から生気を吸う吸血鬼を知って引いたり驚いたり関心したり、おおよそそこまでマイナスな感情は持っていない様子を見せていたし、一定数、他種族の食事の様子を興味深く思う派はいるだろう。ドラルクもそれだ。ジョンと、ロナルド、ヒナイチ、自分の城に招き入れた者たちが自分の作ったご飯を平らげる様は飽きない。
じゃあロナルドは知らない吸血鬼の咀嚼音にハマって聴いているのか?
何故?
だから。興味深いからだろ。
家にはほぼ食事を摂らない吸血鬼しかいないのだから、食事を、しかも大量に摂る吸血鬼を珍しく思って見続けてもおかしくはない。ひとの父親を捕まえてニンニクを使ったラーメンを食べに行くようなやつだ、移ろいやすい興味をそっち方面に惹きつけられても仕方なくはないが……。
本当に?
「あいつ、どれ見てたんだ? これかな。いや違う……」
吸血鬼らしく、大量の市販血液パックに挑んだり、トマト料理をテーブルいっぱいに並べたり、いくつかはドラルクの気を引くものもあったが、ロナルドの見ていたものは中々出てこなかった。
ダンピールかもしれない、ジョンが画面を覗き込みながら言った。そうだね、ドラルクは言い、そっちの方がどんなにいいだろう、と無意識に思った。だってそっちなら、私の方が勝っている。
何が?
血の強さ。
それを比べて何の得が?
「ヌヌヌヌヌヌ!」
名を呼ばれ、はっとする。たった今まで考えていたことが霧散し、画面に釘付けになった。あった。これだ。
サムネは大量のチキン。どうやらそれがチャンネル内で一番人気の動画らしかった。
チャンネルの概要と名前は『吸血鬼の食事』、動画のタイトルも【食事ASMRチキン】といったシンプルを極めており、コメント欄も非表示にしている。チキンの動画を再生してみても、「いただきます」の一言も発さずにいきなり咀嚼音で始まっていて食べている者の情報は極めて少なかった。
むしっ、むしり、がりがり、ざくっざくっ……。
ドラルクに咀嚼音を聞き続ける趣味はない。動画時間は20分程あったので半分飛ばす。チキンの山がちょうど半分崩れ、配信者の、吸血鬼の顔がようやく拝めた。
手首から察していたが、細い。
そして男だ。
ドラルクよりは若く見えるが、大体の吸血鬼は容姿をいくらでも操作できる。実際のところは分からないものの、とにかく、ドラルクよりは若そうな、吸血鬼の、男が、ひたすらにチキンを噛みちぎっている。
おっぱいのでかいお姉さんでもカーディガンを羽織らせたくなるような隙のある女性でもない。
落ち窪んだ目と牙のある口とよく動く喉仏はどう見たって痩せぎすの青年吸血鬼だった。
「ヌッヌヌヌヌヌヌヌニニヌヌ」
ちょっとドラルクさまに似てる、ジョンが言った。
ドラルクさまの方が畏怖くてハンサムで優雅だけれど、と続けて言った。でもドラルクさまがご飯をたくさん食べられたら、こんな感じかもしれない。
ふうん、ドラルクはそれだけ思った。興味深そうに画面を眺める愛しき使い魔と、画面の中の男と、ロナルドの出て行った扉と、ついでにキンデメと死のゲームにも視線をやって、前触れなく内側から弾け死んだ。間髪入れずジョンがヌーと泣き叫ぶ。わけが分からなかった。ドラルクが一番知りたい。なぜ死んだ?
ロナルドはドラルクに似ているらしいこの吸血鬼の咀嚼音を聴いて、あんな、蜜のたっぷり詰まった赤いリンゴのような顔をしていたのか?
ドラルクじゃない吸血鬼に対して、あんな態度を?
面白くない。
今度は明確にそう思った。“面白くない”、それも、“かなり”
「ねえジョン」
ドラルクは全く楽しくなさそうに言った。
「やっぱり半田くんも呼んでセロリ咀嚼音耐久用の音声を録ろう。私も食べるよ。ほら、私たち全員歯の形が違うからそれは素晴らしいセロリ音楽を奏でられると思うんだ」
ジョンはまたどっちつかずに顔を上げたが、最終的には愛する主人の意向が一番だ、つまらなさそうなドラルクに寄り添いながら気遣わしげにヌン、と鳴いた。
セロリの咀嚼音耐久8時間ASMRを眠る前に聴かされたロナルドは部屋の中で突如流れた咀嚼音をそれは不可解な顔つきで聴いたものの、同じく寝入り際のドラルクにこれはセロリの咀嚼音だよと知らされた瞬間大絶叫をかましてドラルクを殺した。大絶叫、大号泣、阿鼻叫喚。おおよそ想像通りの反応を全て録画し半田にも送ったところで音声を止め(本当に8時間も流したら近所迷惑と睡眠妨害この上ない)そろそろ大人しく寝ろゴリラ、もう夜が明けてしまうぞと宥めすかしてまた殺された。これはドラルクが悪い。
錯乱しているゴリラをソファベッドに誘導し、ドラルクをちょっと嗜める目つきで見てきたジョンにウィンクで返事をして抱かせ、毛布を被し、緑の悪魔が耳元でずっと囁いてくる脳内にこびりついて離れないとしくしく泣いているかわいそうな真っ白頭をぽんぽんと叩いて「大丈夫だよ、全部美味しく食べたからね。ここにはいないよ」と優しく声をかけてあげた。「それに、そう悪くはない音だっただろう。私の牙がセ……きみの緑の悪魔を噛み切る音もさ。ちゃんと聴いてた?」また今度もっとじっくり聴かせてあげるよ、今夜はもうお休み、とドラルクは優しい気持ちで続けようとした。
しかしロナルドは泣き濡れた瞳をぱちりと瞬かせて、「おまえも食べたのか」と腕に抱いたアルマジロのようにまあるくなって訊いてきた。ドラルクは続けようとしていた言葉をなぜか飲み込み、大人しく頷いていた。
「え、うん。まあ。食べたよ。何とか」
「おまえが?」
「歯で噛んで飲み込むだけだ。できるよ」
久しぶりに喉を通った固形物の違和感にやられて秒で死んだけれども。
「味は?」
「それはジョンに訊いてくれ」
「ヌイシヌッヌヌ」
「半田くんも完食してくれてたしな。まあ私の腕にかかれば何でもそうなる」
「…………」
ロナルドの眉がちょっと下がった。あれに似ている、不貞腐れた子ども。ドラルクは反対にひょいと眉を上げながら「きみの分も作った方が良かった?」とまさかそんなわけないだろうと思いながら訊いた。まさかそんなわけがなかった。「いらねえ」と殺される。ヌー。
「……緑の悪魔汁に骨溶かされねえようしっかり歯ァ磨いて寝るんだな、悪食吸血鬼おじさん。おやすみ」
ジョンを抱いたまま丸くなって眠る姿勢を取る。ドラルクは首を傾げつつも、朝方も近かったので、その様子を消音で写真を撮ってから棺桶に入った。毛布に包まる大きな子どもの写真をしげしげ眺め、半田にも送ろうかと少し迷って、やめた。特に深い意味はない。ただ、今この瞬間は、ドラルクのスマホに縁取られているのが一番似合っている気がしただけだ。ドラルクのスマホにはそういうロナルドの写真がいっぱいある。料理やゲームと同じく趣味みたいなもので、それはドラルクの吸血鬼生における無限の時間を使ってもいいものだった。
ロナルドはいつだって面白い。
その面白い男がなぜあんなつまらない吸血鬼の咀嚼音にハマっているのか、どうしても知りたい。
せっかくいい写真を見ているのにやはりモヤモヤと楽しくはない心地になりそうだったので、スマホを閉じ、静かに瞼も瞑った。翌晩はいつも通りまたすぐやってくる。
そのすぐの間に、少しだけドラルクの知らない話をしようと思う。
彼が眠っている間の、つまり太陽が出ている間の話だ。
ロナルドのことなのだが、彼は別に咀嚼音マニアというわけではない。大食いや食レポは気になって見ることもあるし、たとえばジョンがクッキーを、パンダが笹を食う音なんかは可愛いと聞き入ったりもするが、決して、咀嚼音のASMRを自分で探して聴くような趣味はない。
たまたまだった。
ある日の昼時、ジョンもドラルクもキンデメも死のゲームも、事務所の夜型勢はまだ全員ぐっすりで、冷蔵庫に用意してあるドラルク手製の昼食をチンして食べようと事務所側のソファに座った。事務所側にはメビヤツがいる。可愛く優秀な門番は食事を必要としないが、ロナルドと共に昼間の時間を過ごしてくれる愛情があったので、ロナルドは昼間ひとりのとき、よくそこで食事をとっていた。
メビヤツが自身の能力で壁にヌーチューブを映してくれた。よくある。ロナルドのためにニュースやポールダンス動画、可愛い動物の生活、色々と映し出してはロナルドの好みを一生懸命学習しようとしているのだ。その日映し出されたのが、最初は、ただの大食い動画だった。人間の細身のアイドルがサテツのように次々と料理を平らげていく様をロナルドは楽しんで見ていた。メビヤツは好感触を得たことだろう。次に再生されたのが、咀嚼音だった。まだ人間のだ。
ロナルドは、ひょあ、と言った。
初めて聞いた人間の咀嚼音だけの動画に、身震いすらしていた。黒板を爪で引っ掻いた音や、発泡スチロールが擦れ合う音を聞いたときのような、何とも言えないゾクゾク感があった。人の咀嚼音をメインで聞いたことなど一度もなかったので未知への不安感とも言えた。
ロナルドの反応を見たメビヤツはすぐに別の動画に変えた。
関連の強い動画が再生されてしまったようで、それが、例の吸血鬼の咀嚼音動画だった。慌ててまた別の動画を再生しようとしたメビヤツを止め、ロナルドはじっとその動画を見てしまった。
流れる咀嚼音。
配信者の顔も見えないほど山盛りのチキン。
そして山が崩れ、吸血鬼の男と目が合う。
ドラルクに似ていた。
そう視認した瞬間、ロナルドにとってかなり興味深い動画となった。がりがりざくざく、チキンの咀嚼音がまるで脳みそまでくすぐってくる。不安感はこそばゆさに変わり、細身の吸血鬼がチキンを平らげていく様はあまりに魅力的にその目に映る。
それからである。
ロナルドが空いた時間に自分のスマホで検索して見てしまうほど、そのチャンネルにハマったのは。ほかの配信者の動画じゃだめだった。その吸血鬼の咀嚼音だけが特別だった。
これだけ。
あとはロナルドも知らない話だ。
夜になるのを待とう。
※
さて目覚めの夜である。
ドラルクが棺桶から起き上がると、居住スペースにはロナルドの姿は見えず、先に起きていたジョンがぴょんと飛びついてドラルクさま、おはよう、と言った。おはようジョン、今宵はいい夜かい、と顎をくすぐりながら訊くとヌンと頷かれた。それから、ロナルドくんなら半田くんを殴りに行ったよ、とも。昨夜の恨みをきっちり晴らすつもりなのか、しかしセロリ両手に追いかけられて泣きながら逃げる羽目になるに決まっている。目に浮かぶ。
「ねえジョン。今日もロナルドくん、あの動画見たのかな」
と言いつつ自分のスマホのヌーチューブを確認する。すっかり監視対象じみていた。
あの吸血鬼の新着動画は上がっておらず、最後の投稿は五日前だ。四、五日に一回の頻度、明け方前の投稿が多いようなので今日あたり更新されるかもしれない。ヌーチューバーとしての歴もまだ短いのか、一番古い咀嚼音動画は三ヶ月程前のもので、気まぐれにその一番古い動画を再生しテーブルに置いた。山盛りのパスタの咀嚼音動画だった。やはり最初は顔が見えない画角になっている。
ずずず、ずぞっ、ずずるずる。
「クソヒゲの説教よりはマシだと思おう」
いきなり始まったパスタが吸い込まれていく音を顰め面で聴きながら、軽く部屋の掃除をしていく。ずるるるるる、ずるっ。ずるり。ずぞっ。もちゅっ、もちゅ……。
「何だこの不快な音は」
「やあおはようございます、キンデメさん。やはり魚にとっても不協和音ですかな」
「川で流してみろ。九割の魚が不快だと言う」