この学園には入ったが最後、出られなくなる部屋がある。
そういう噂を少しは聞いたことがあったけど、まさか自分が当事者になるなんて思わなかった。
この部屋に唯一ある扉は、押しても引いても、開かない。
「……それで私たち、どうなるんでしょうか? まさか一生ここに暮らすんじゃないですよね」
不安になって見上げると、レオナ先輩が呆れたように眉をしかめる。
「んなわけねえだろ。こういうのは、課題さえクリアすれば出られるようになってんだよ」
「課題……」
残りの顔ぶれ――つまり私、ジャック、ラギー先輩の三人は、顔を見合わせる。この部屋について、多少なりとも知っているのはレオナ先輩だけのようだ。
「カードがあるだろうが」
レオナ先輩が指さした先のテーブルの上。そこには確かに、何か紙のような物が置いてある。ジャックが素早く駆け寄り、それに目を走らせた。
「なんて書いてある」
レオナ先輩が聞き、私は固唾をのんでジャックの答えを待つ。課題って、いったい何をさせられるんだろう。痛いこととか、怖いことじゃないといいけど。
しかしいつまで待っても、ジャックは固まったまま何も言わない。
「おい、さっさと言え」
レオナさんが語気を強めると、ジャックはだらだらと汗を流して、やっと声を絞り出した。
「いや、ちょっと……これは……できないっす」
「何がだ。まさか――」
レオナ先輩が、顔をしかめる。
「殺し合えとでも書いてあんのか」
そんな物騒な課題なんて、ありえるのだろうか。だとしたら、ここは何て恐ろしい場所だろう。私がぞっとしていると、ジャックはしどろもどろになりつつも否定する。
「いえ。そういうんじゃ……」
「見せろ」
しびれを切らしたレオナ先輩が、ジャックの手からカードを取り上げた。それから彼もカードに目を通し――ジャックと同じように固まった。
「なんて書いてあるんスか」
なかなか進まない状況に、ラギー先輩は呆れているようだ。私はさっきからハラハラしているのに、彼はずいぶん落ち着いている。
「は、馬鹿馬鹿しい」
レオナ先輩は答えず、カードを後ろに投げ捨ててしまった。二人とも、勿体ぶらずに早く教えてくれたらいいのに。気になって仕方なかった私は、床に落ちた紙片のもとに走る。
「もーレオナさん、何してるんスか」
ラギー先輩がいつもの感じでそう言っている間に、私はそれを拾い上げた。逆さまになっていたカードをひっくり返して、文字を読み上げる。
「ええと、『全員が監督生とキスしないと出られない部屋』……て…………え?」
目を疑った私は、まばたきをしてカードを読み直す。だけど確かに、何度見てもこう書いてあるのだ。
『全員が監督生とキスしないと出られない部屋』
裏返しても、透かして見ても「どっきりでした」とは書いていない。
「…………何これ」
動揺して、私は思わずラギー先輩を見た。
レオナ先輩とジャックも、ラギー先輩を見た。
その時その場にいた全員が、彼の硬直した顔を見ていた。
私の、恋人の顔を。
「いや何なんスかこの部屋! ありえないっス!」
私は大いに頷いた。こんなの、従えるわけがない。
「三人で破壊すれば何とかなるかも……やりましょうよ」
「無駄だ」
ラギー先輩のもっともな提案を、レオナ先輩はあっさりと却下した。
「なんでッスか!」
「試してみる価値はありますよね」
ジャックも加勢してくれたけど、レオナ先輩は意見を変えない。彼は忌々し気に、つぶやいた。
「もう何度も試したからな」
「……は?」
まだ何もしていないのに、どういうことだろうか。もしかして――。
「前にもこの部屋に来たことがあるんですか」
私が聞くと、レオナ先輩は鼻を鳴らして「まあな」と答えた。
「さすが何度も留年してるだけあるッスね」
「うるせえ」
「じゃあ、その度に誰かとキ、キスしたってことですか」
ジャックは「キス」という単語を口にするのが嫌みたいで、そこの部分だけ小声で言った。
「んなわけあるか。前の時はもっとどうでもいい事だったんだ。問題を解けとか、激辛料理を食べろとか、踊れとか」
「アンタ何回閉じ込められてるんスか」
「踊ったのか……」
レオナ先輩が嫌々踊らされているところを想像すると面白いけど、それどころではない。どうして今回も、そんな平和な課題にしてくれなかったのだろう。よくわからないけど、私はこの部屋を作った何者かを恨んだ。
「うるせえな。とにかく散々試したんだ。この部屋からは課題をクリアしないと出られない」
「はあ~!? そんなの、許せるわけないッスよ!」
「なら一生ここにいるかよ」
それは困る。だけど、全員とキスも困る。私は、ラギー先輩と付き合っているのだ。しかも最悪なことに、キスはまだしていない。というか、誰とだってしたことない。
ラギー先輩は悔しそうに拳を握りしめ、疑いの眼差しでつぶやく。
「……レオナさん、監督生くんとキスしたいからって嘘言ってるんじゃないですよね」
「ああ?」
レオナさんは一瞬怒ったように見えたけど、すぐに気を取り直したように目を細めて、口の端を上げた。
「どうだかな。だとしても確かめようはねえだろ。お前らだけじゃどっちにしてもここは破壊できない」
ラギー先輩は少しの間、納得できないようにレオナ先輩を睨んでいた。だけどそのうち観念したように、視線を外す。
「…………アンタがそういう嘘を言うとは思ってないッス」
つまり流れは、課題をこなす方へと向かっているようだ。私は、まだ納得していない。それでもそれ以外に方法が思いつかなくて、ただ茫然と、突っ立っているしかなかった。
しばし、沈黙が続く。だけど突然、ラギー先輩が感情を抑えたような声で、つぶやいた。
「……監督生くん」
彼は、私の手を掴んだ。その表情が、よく見えない。
「ラギーせんぱ――」
何を言う間も無く突然引き寄せられて、彼の片手が私の頬を包んだ。それからぐい、と彼の方を向かされる。次に気づいた時には目の前にラギー先輩の顔があって、唇と唇が触れていた。
「な――」
慌てて私が後ろに下がると、彼もすぐに離れた。
「や、急に」
恥ずかしさで、顔がかっと熱くなる。ラギー先輩の顔が見られない。これが、私たちの初めてのキス。当然、レオナ先輩とジャックは私たちを見ていた。するにしても、こんな、丸見えの場所で。せめて、他の二人には見えないようにするとかできたのに。
うろたえる私には構わず、ラギー先輩は淡々と言う。
「……じゃ、さっさと終わらせてください」
彼は私たちに背を向けると、どっかりと座り込んでしまった。どうも、すごく怒っているみたいだ。
だけど、私だって今は彼を気遣う余裕がない。恋人と初キスしてそれだけで死にそうなのに、次はその先輩と、さらに後輩と、キスするのだ。意味が分からない。というかまだ信じられないけど、本当にするのだろうか。
「……言っときますけど、必要以上に触ったら許さないんで」
ラギー先輩の声が肩越しに聞こえた。
すごく気まずい。
微妙な空気が流れて、私と、レオナ先輩と、それからジャックは、なんとも言えない視線を交わす。どうしたらいいかわからなくて黙っていると、ついにレオナ先輩が舌打ちをした。
「仕方ねえ……ほら、来いよ」
私の心臓が、跳ね上がった。来いよ、とはつまりキスしに来いよというわけで。たった今ファーストキスを済ませた小娘にする要求にしては、難易度が高すぎる。私は「あの」とか「その」とか意味のない言葉を連発して目を白黒させながら、その場に立ち尽くした。
あまりに混乱している私に、レオナ先輩は心底呆れてしまったらしい。ため息をつくと、彼は私の目の前に立つ。それから、見下ろしながら言った。
「座れ」
「は…………はい」
とにかく、言われた通りにするしかない。床にぺたりと座り込むと、レオナ先輩も私の目の前に腰を下ろした。こうすれば、立っている時よりはずっと、目線が合うようになる。彼は立てた足の間に私が入るよう、体を近づけた。
「あ、あの、ちか……近くないですか……」
思わず、俯いてしまう。だけどそうすると、目と鼻の先に彼の開いた襟元が見えて、その隙間から、なんだか大人っぽいいい匂いがした。こんなに男の人に近づいたことはないのに。緊張して、心拍数がやたらと上がっているのがわかった。困り果てた私は、ぐっと息を止める。
「――近づかないとキスなんてできねえだろうが」
それは、その通りなんだけど。
この期に及んで、私はまだ覚悟ができていなかった。
なんで、こんなことに。
レオナ先輩の指が、私の顎を持ち上げた。無理やり彼の方を向かされて、緑色の目が私をとらえる。
この目を見れば、誰にだってわかるだろう。もうこうなったら、逃げられない。
彼の顔が近づいて、吐息がまつ毛にかかる。私はぎゅっと、目をつぶった。
レオナ先輩は、小さく笑ったようだった。
「別に、息は止めなくていい」
そのささやきが耳に届いた瞬間、唇の横にあたたかいものが触れた。それはすぐに離れて、同時にレオナ先輩の匂いも遠ざかった。
「あ、あの……」
驚いて、言葉を探す。
彼がキスをしたのは、頬だった。
私が目をぱちくりとさせていると、レオナ先輩は立ち上がりながら、にやりと笑った。
「なんだ、舌でも入れて欲しかったのか?」
慌ててぶんぶんと首を振りながら、私は頬をおさえた。心の中で、安堵のため息をつく。
別に、口にしなくてもいいのだ。確かにカードには場所の指定は無かったし、部屋の常連であるレオナ先輩の判断なら、間違いないのだろう。
私たちを見ていたらしいジャックも、安心したような表情を浮かべている。勇気づけられた私は、すっかり元気になってしまった。この分なら、問題なく課題をクリアできるだろう。
「じゃ、次ジャックね」
「ああ」
肩の荷が下りた私たちは、さっきと同じように向かい合って座る。
このまま、頬にキスしておしまい。簡単だ。
だけど、さあやろうと目と目を合わせた瞬間、ジャックの顔が真っ赤になった。
「え」
ジャックも、自分で気づいているようだ。それが恥ずかしいのか、余計に動揺している。悪循環だ。その上、何だか私の顔まで熱くなってきた。
気配を感じて見上げると、レオナ先輩が面白そうに私たちを見下ろしている。その、悪人顔といったら。
「レオナ先輩、あの、見ないでもらえます」
「何恥ずかしがってやがる。さっさとしろ」
「わ、わかってますよ」
仕方なく、私たちは再び向き合った。ジャックの長い足の間にすっぽりおさまった私は、視線を落としたまま、じりじりと彼に近づく。
よく考えたら、先輩とするより、友達とする方が恥ずかしい気がしてきた。だって普段は、絶対にこんな雰囲気になりっこないし。
レオナ先輩よりも更に背の高いジャックの顔は、座っていてもかなり高い位置にある。胸板も、すごく広い。普段は考えることはないけれど、彼も男の人なのだ。その筋肉から意味ありげな熱を感じて、私はまた、すっかり緊張してしまった。体に触れないよう極力気をつけて、位置を調整する。
意を決して見上げると、ジャックの目はかっと見開き、刺すように私を見ていた。
「こ、こわ」
「わ、悪い」
ちょっと、目が血走っている。私もそうだけど、緊張しすぎなのだ。ジャックは慌てて何度か深呼吸をした。それで、少しは落ち着いたらしい。彼は気を取り直したように顔を引き締めると、おずおずと私の両肩に手を乗せた。それから、確かめるように言う。
「まだ怖いか」
私は、思わず笑顔を浮かべた。焦るジャックを見ていたら、何だか逆に落ち着いてきた。
「ううん」
気を使って目を閉じ、少しだけ顔を上に向ける。背の高いジャックは、額を選んだらしい。彼の唇は、優しく触れて、レオナ先輩と同じようにすぐに離れた。
ガチャリと音がして、私は目を開ける。これで、帰れる。なんでこんなことになったのかわからないけれど、とりあえずは解決だ。思わず、安堵の言葉がこぼれる。
「良かった」
ずっと背中を向けて座っていたラギー先輩が、立ち上がったのが見えた。彼と一緒に帰ろう。多分、機嫌を損ねているようだから、何か楽しい話をしよう。
レオナ先輩とジャックが、ラギー先輩を追い抜かして扉に向かった。レオナ先輩が、一瞬ラギー先輩を振り返る。
「おいラギー、メシは――」
そこで、レオナ先輩の言葉は途切れた。
「ああ――やっぱなんでもねえ」
ラギー先輩が振り返り、私の方を見る。その顔には、何の表情も浮かんでいないように見えた。
「あの、ラギー先輩……」
彼は黙って、私の方に近づく。ジャックの声が聞こえた。
「もう扉開きましたけどあの二人――」
「ほっとけ、しばらく出てこねえよ」
そのまま立ち去ったレオナ先輩の言葉の意味を、考える余裕は無かった。ジャックも一緒に、出て行ったみたいだ。
「座って」
よくわからないけど、ラギー先輩は、せっかく立ち上がった私を再び床に座らせようとした。もう、外に出られるのに。だけど何となく抵抗しない方がいい気がして、私は彼のいう通りにした。もしかしたら、何か話があるのかも。こんな変なことになってしまって、彼氏としてのフォロー的なやつとか。
ラギー先輩は、私の正面に膝をついた。レオナ先輩や、ジャックと同じように。
違うのは、彼が私の肩を押したことだ。その力がずいぶん強くて、私は簡単に床に倒される。
「やっ」
すぐに起き上がろうとしたけれど、そのまま上からのしかかられて、私は呆気にとられた。すっかり、身動きが取れなくなる。
「先、輩……?」
ラギー先輩の顔が影になって、表情がよく見えない。
何だかよくわからないけど、何かが起こっている。
握られた手首が少し、痛い。
彼は、唐突に言った。
「舌」
「え?」
「舌、入れられなくて良かったッスね」
最初は何のことだかわからなかったけど、少し考えて思い至った。レオナ先輩の言った言葉のことだ。
「え、と。入れられてないです。大丈夫です」
「入れられてたら許さないんスけど」
その冷たい言い方に、私は生唾を飲み込んだ。薄々感じていたけど、どうやらラギー先輩は怒っている。それも、かなり。
どうしたらいいんだろう。謝った方がいいだろうか。別にしたくてしたわけじゃないけど、彼に嫌な思いをさせたのなら、そうするべきかもしれない。
「あの、ごめんなさい――」
言いかけたところで、彼は急に私の口を手でふさいだ。何も話せなくなって、私は呻く。
「アンタは何も謝らなくていいッス」
そうは言っても、現にラギー先輩は怒っている。それにしても、なんだってこんなに怒っているんだろう。頬と額に、キスしただけで――。
そこまで考えて、私は気づいた。もしかしたら、ラギー先輩は、唇にキスしたと思っているんじゃないだろうか。彼は、ずっと後ろを向いていた。だからよく考えたら、頬と額にした事なんて、わからないのだ。
それを伝えようと声を出しても、彼の手にさえぎられて、全く言葉にならない。
私が何か言おうとしているのは気づいているはずなのに、ラギー先輩はそれを無視した。彼は目を細めて言う。
「ジャックくんともいいムードだったじゃないッスか。『怖いか』『ううん』なんて言っちゃって」
それは――それは、ジャックの顔の話だ。普通だったら笑ってしまいそうな勘違いだけど、今はそんな余裕もない。
「その後も『良かった』って言ってましたよね。そんなにジャックくんのキスが良かったんスか」
誤解だ。それは、鍵が開いて良かった、という意味だったのに。精一杯の力でよじった体を、ラギー先輩は片手で簡単におさえつけた。
「自分の彼女に手出されて、オレがムカつかないと思った?」
どうしよう。本当にキスしてたと思っているなら、彼氏のすぐ後ろで堂々とそんな会話をしていたと思われているのなら、それは激怒しても当然かもしれない。
彼の顔が、目の前まで近づく。
額と額がこつんと触れて、まつ毛とまつ毛が触れた。
そうすると私には、ラギー先輩の青い瞳以外、何も見えなくなる。心臓が、破裂しそうなほど騒いでいるのを感じた。
おさえつけた手のひら越しに、彼は言う。
「アンタは悪くないッスよ。みんなの為にやった事ッスから。これは全部、ただのオレの嫉妬だから――」
口を塞いでいた手が、そっと外される。今こそ、説明するべきだ。
それなのに声が、喉に貼り付いて出てこない。
ただ、彼の瞳から目を離せない。
ラギー先輩は、静かにささやいた。
「まずはキスから、やり直そうか」
一夜開け、その不思議な部屋は跡形もなく消えた。
それからラギー先輩は、三日三晩、謝罪のためオンボロ寮に通い詰める羽目になった。