バイオレット シエルがクロムの中で大切な存在になっていく。
彼がクロムにとってどれほど支えになっているのか。心の傷を癒してきたか。私は彼に感謝してもしきれないんだろう、上手く言葉に出来ないけど。
私は何も出来なかった。見ているだけで、壊れていくクロムを気遣う言葉を持てなかった。
でも、クロムが昔の自分を取り戻しつつある今、私は。今度こそ、何かあったら彼を支えたいと思う。シエルと共に。
そしてチームのために戦おう。持てる限りの力を尽くして。
「オレ達の、イメージ香水…!」
私がモデルを務めるブランドの会議室で、シエルが上ずった声で言った。
ペンドラゴンの三人をイメージして香水を作る。期間限定で販売される香水が完成したから、と、私達はこの日企業から呼び出しを受けた。雑誌に載せる写真を撮ってインタビューを受けて。私にはそう珍しくない仕事だけど、シエルにとっては初めてのコラボ企画だった。彼はベイについてのインタビューならたくさん受けてきたけど、香水については初めてだ。彼はそわそわしながらイメージ香水に向き合った。営業社員に勧められて香水を試す彼はおっかなびっくり、とても危なっかしかった。
シエルの香水は明るく爽やかでさりげない。
「オレってこんな匂いなんスか……、」
「イメージだから」
浮ついた調子の彼に釘を刺す。
「君の匂いそのものじゃない」
香水はあくまでイメージであって彼そのものの匂いじゃない。彼は完全に場の空気に呑まれていて、もしバトルなら瞬殺されていると思う。私の言葉を聞いているのかいないのか、舞い上がる彼をよそに私はシトラスの香りを捉えた。シエルのまとうそれはオレンジをメインにしていて、眩しくて温もりのある、太陽の光を連想させる。いい香りだなって思う。彼によく合っていた。
シエルはお日様の匂いがする。夜の終わりを告げ、みんなを照らしてくれる匂い。じゃあ私はどうなんだろう。私も彼と同じく、手首に香水を吹き掛ける。
「私のイメージは――バイオレット」
私を包み込む香りは甘く柔らかで、シエルのものと比べると強く感じられる。スミレの香りはふわりと広がり、じんわりと時間を掛けて染み渡っていくような感じだった。バラほど主張は激しくなくて、すれ違ったときに気づく強さ。そばにいるシエルにはスミレの香りが届いて、彼はさっきより慌てて、平常心を保とうと必死だった。
(イメージだから)
心の中でさっきの言葉をもう一度唱える。彼が慌てふためく中、私はそうなんだと、嬉しくも悲しくもない、平坦な感想を抱いた。
(私って、こういうイメージなんだ)
香水はシエル、私が試し終えて、最後にクロムの番。
「クロムさんの匂い……!」
「イメージだ、シエル」
ペンドラゴン以外の人が居る手前、クロムは動揺するシエルにぴしゃりと言う。ペンドラゴンのイメージもあるのだろう、掛ける声は厳しかった。彼だって頂上決戦のときひどかったと思うけど。頂上決戦だけじゃない、オールスターバトルの頃から彼はおかしくなっていた。
でも、頂上決戦のあの日倒れて目を覚ましてから、クロムは変わった。
昔よりシエルに優しくなって、ちゃんと見てて。シエルが大事だからこそ厳しいのかもしれない。クロムはきっちり仕事をこなす人で、だからチャンピオンとして信頼されていた。彼に言われてシエルは落ち着いて、私は胸を撫で下ろす。エクスが居た頃は急なすっぽかしなんかがあったけど、今日の仕事は順調に進みそうだった。
クロムの香りはオーキッド、らしいけど。実際にふわりと広がるのは濃厚な甘さの花束の香りだ。シエルとは正反対での夜の香り。暗闇の中に咲く花のような妖しく、影のある雰囲気。甘いけどどこか不安定な感じというか――ただの心地よい香り、というわけではなさそうだ。
クロムは高潔だブレーダーの鏡だ言われていたから、もっと真っすぐな……悪い言い方をしたら無難な香りになると思った。危うさが混じる香りが、昔精神を病んだ彼に重なった。パフューマ―にそんなことを言うわけないし、クロムにも何も話しはしないけど。なんだろう……彼のこと、わかる人にはわかるのかな。
彼が荒んで、壊れて。でもそんな彼はもう居ない。
今居るのはペンドラゴンのリーダーとして仕事熱心で、シエルを見て。彼は少しずつ昔の彼に戻っている。まだペンドラゴンが上手くいっていたあの頃に。
エクスが居なくなってこじれた彼が、多分まだ傷は塞がり切っていないけど。痛みを抱えても歩き出して、もう大丈夫。
(クロム…?)
そう思った私の前で、彼は顔を曇らせる。何かを思い出したような、考え込んでいるような。
その顔が、私には気懸りだった。
撮影とインタビューはシエルがテンパりながらも無事に終わり、私達はカフェで遅い昼食を摂る。その店はピークが過ぎて、私達以外に数人の客が居るだけだった。シエルがグラスの水を一気飲みしてぐったりする。今日の仕事はシエルには不慣れで、とても大変だったというのが見て取れた。
「疲れたッス…」
呟く彼の顔は疲労困憊を絵に描いたよう。一日中スパーリングするより大変そうだった。
「シエル、何だかんだでよくやってた」
「そ、そうっスか!? 嬉しいッス!」
褒められるととても喜んで、シエルはぱあっと笑顔になる。たった一言で元気になれるシエルを私は凄いと思った。色んな表情を見せる彼がちょっとだけマルチと重なる。あと、エクスにも。エクスもよく笑って、クロムが仕事で忙しいと口をとがらせて。彼も表情をころころと変えていた。
ひとつ違うのは、シエルはエクスよりずっと仕事に真面目なところ。シエルは気づいてないだろうけど、彼の性格はクロムを助けていた。私はちらりとクロムの方を見る。私がこっそり視線を向けたとき、クロムは顔を翳らせていた。
彼が人前で表情を曇らせるのは珍しかった。
(クロム)
クロムはセルフプロデュースが上手くて、自分の内側を人に見せない人だ。高潔、イケメン、完全無欠。そんなふうに言われてたっけ。実際はそうでもないけれど。彼が内面を見せるのは、なんだかんだで私達を信頼している証なのかもしれない。クロムが溜息を吐く。“クロムさんもお疲れですね”と、シエルが心配そうに言った。
シエルは私とは違って口に出す。クロムがとても大切だから、シエルは少しでも異変があったらすぐ気がついた。シエルはクロムだけを見て、戦い続けて。そんなひたむきさにクロムも応えたいのだろう、昔だったら絶対に出さなかった胸の内を打ち明けた。
「妙な夢を見た」
迷った末に話し出したそれは、ただの夢には思えなかった。
誰かにさらわれ、力を授けられた夢。
それさえあればエクスに勝てる。エクスに勝つためならば何も要らない、と、夢の中のクロムはすべてを捨てるのと引き換えに禁断のベイを手に入れた。シエルも私も、チャンピオンチームのリーダーの地位も捨てて。夢の中のクロムは力のために、エクス以外の全部を手放した。
「クロムさん……」
「随分と、物騒な夢」
険しい顔をするシエルの横で、私は冷めた反応をする。私は何が起きても何を感じても、表に出しはしなかった。シエルみたいに感情豊かじゃない。そもそも昔から、物心ついたときからそうだった。自分でも素っ気ないと思う、でも、私はそれなりにショックを受けていた。
病んでいた頃のクロムを思い出した。
仮面を被ってエクスの真似をするクロムは、誰にも止められないくらい壊れていた。
あの頃の彼が大丈夫になった彼の奥から顔をのぞかせた気がして、私は自分でもどうかというほどに彼を見据える。彼は居心地が悪そうに目を伏せ短くない時間、口を閉ざした。どれくらいそうしていただろう、不意に“ふっ”と、自分に苦笑するような顔をする。夢は夢に過ぎない、と。
「すまない。馬鹿げた話をした、」
「もしそんなベイが現実にあったら」
彼は話を打ち切ろうとしたけど私は出来なかった。軽く笑う彼に間髪を入れず、
「クロムはどうする?」
すべてを捨てて力を得るか。それとも禁断のベイの誘惑を退けるか。彼は夢と同じ選択をするのか、どうか――私は相手の目を真正面に見て、彼の出す答を待った。彼が見た夢は多分、彼が心の奥底に抱く願望。力が欲しいという気持ちは彼の偽らざる本心なのだ。頂上決戦でエクスに敗れた彼は、表向きは穏やかだけどまだエクスにこだわっている。
誰よりも強いブレーダーに、クロムはなんとしても勝ちたいのだ。
「……」
クロムは私を見つめ返したまま答えない。彼の緑の目が揺れていて、クロムの迷いが瞳の中に強く表れていた。彼はもしかしたら、現実にベイが在ったら手にするかもしれない。彼は驚いた顔のまま体を固くして、
「オレは、」
――ご注文のローストビーフサンドです。
答はうやむやになってしまった。
オーダーがいっぺんに来て、夢の話はそこで打ち切りになる。私達は食事の後も予定があって、ずっとここには居られなかった。場の空気が不自然で、シエルもほとんどしゃべらずにいる。私もクロムもそんなに話すタイプじゃないから、カフェはさっきより更にしん、と静かになった。ぽつりぽつりと話題にするのは私の仕事やスケジュールのこと。でも私が聞きたいのはそんな話じゃなかった。
クロムは煙に巻いたりはぐらかしたりする人じゃない。彼自身まだ迷っている、そう思った。
「シエルは、この後は自主トレだったか」
「はいッス」
クロムはマネージャーとエキシビションマッチの打ち合わせだ。私もマルチとコラボ動画を撮りにベイカフェに行く。私とマルチはずっとぎこちなかったけど、あの戦いでマルチと通じ合えた、ような気がする。少なくとも私が家を出たときよりずっとマルチが私に抱く気持ちは穏やかになった――そう思っている。
マルチとの動画、何を話せばいいんだろう。ざっくり流れは聞いているけど。上手く出来るのかな。私、コラボ動画なんて初めてだから。
“大丈夫、ボクに任せといて!”
昨日マルチからもらった言葉が頼もしい。マルチにそう言われると大丈夫って信じられる。
マルチ。私の大切な――出来ればクロムの答、聞いてから出掛けたかった。
「それじゃ、またね」
食事が済んでスポンサーによろしくとお願いして。私と二人が行く方向は違うから、クロムとシエルとは別れることになる。カフェは建物の5階にあって、普通ならエレベーターを使う。でもシエルには何かあるのだろうか、
「クロムさん。運動も兼ねて階段、降りませんか」
なんて言い出した。
シエルの顔が強張っていて、“何かある”と直感した。クロムも目つきが鋭くて、私と同じ気持ちだってわかった。シエルは夢について話したいのだろう。私はシエルの様子に気づかないフリをして別れた。
二人が階段を降りていくのを見送って、私はその場で立ち止まる。クロムはなんて言うだろう。力を求めるのか、どうか……とても気になる。クロムの答を知りたかった。
(どうしよう)
こっそり後をつけようか、と胸の奥で違う私が囁く。別の私がよくないことを考えて、でもそうしたい気持ちもあった。盗み聞きなんてよくないってわかっている、けど、クロムが気になった。誘惑は色んなところに転がっていて、クロムのことをあれこれ言える立場じゃない。そう思い知って私は立ち去る決心をした。
(やめておこう)
この場所を離れようとしたとき、
「行かないで」
シエルの声が聞こえた。
「どこにも行かないでください。たとえ強くなれるとしても、その道を……人の道から外れた道を、選ばないでください。
あなたの居る場所はここです……ペンドラゴンです、クロムさん」
今気づいたけど、ここはびっくりするほど音が響いた。
(しまった)
シエルの声が聞こえるならば私の足音だって聞こえるはず。そう考えたら動けるわけがない。シエルの声は切なくて、多分泣いているのだろう湿っぽかった。
(シエル……)
私は天井の方を向いて、出来るだけ二人の会話が耳に入らないようにする。あとは誰かが来たらこっちに来ないよう無言で圧を掛ける。大事な話をしているときに二人の話を誰かに聞かれたくはなかった。誰にも立ち入らせない。私でさえ、立ち入らない。
独りぽつんとここに居て、私はほんの少しだけ寂しいと感じる。昔はクロムとエクスが特別で、今はシエルだ。今も昔もクロムはもう一人の誰かと特別だった。
寂しい気持ちがある一方で、二人が関係を築けてよかったと思う気持ちは本物だ。私はシエルのこと、何でも知ってはいないけれど。最初の頃はクロムに雑に扱われていた。シエルに仮面を被せたのだってエクスを重ねたからなのだろう。クロムはあの頃、私ではどうすることもできないほどおかしくなっていた。
でも、
「すまない。不安にさせるようなことを言った」
今のクロムはシエルを大切にしている。声は全部は聞き取れず、二人の会話も少ししかわからない。そんな中でもクロムはシエルを案じていて、私はシエルが報われて、よかった、って思った。シエルはアマチュア時代、ペンドラゴンに入りたいってずっと言っていたらしいから。ペンドラゴンに入れて、クロムが優しい彼になって。
シエルはやっと、願いが叶ったんだ。
「どこにも行かない。約束だ」
(ああ……)
実感する。
クロム。本当に、戻ってきたんだ。
彼が壊れていくのを、私はただ見ているだけだった。
最初から壊れていたわけじゃない。でも時間が経って、エクスは戻ってこなくて、エクスが居なくなった傷はどんどんひどくなった。クロムは少しずつおかしくなって、気がついたときには取り返しがつかなかった。仮面を被ってエクスの真似をして。シエル――クロムを心から慕う子さえ利用した。
でも、あの頃のクロムはもう居ない。
スポンサーに見せる顔はまだ無理に作り笑顔しているけど、ファンに見せる顔は優しくて。彼は段々と元の彼に戻っている。まだペンドラゴンがXタワーを駆け上がっていく、クロムが眩しかった頃に。あの頃の彼は心から笑っていて、希望に溢れていて。あの頃の彼と今の彼が、私の中で重なろうとしていた。
クロムは、もう心配要らない。
シエルが居る。クロムが最も病んでいたとき、一緒に居てくれたシエルが。クロムが倒れて目を覚ましたとき、そばにはシエルが付き添っていた。私は仕事でその場に居なかったけど、二人は何かを話して、心が通じ合ったのだと思う。二人は特別で、私はやっぱり、遠くで二人を見ている。でも、二人が互いを見つめている姿は私の胸を温めた。
シエルがクロムの中で大切な存在になっていく。
彼がクロムにとってどれほど支えになっているのか。心の傷を癒してきたか。私は彼に感謝してもしきれないんだろう、上手く言葉に出来ないけど。
そして、
「オレはペンドラゴンのリーダーだ。今も、これからもずっと。
君とシグルと、三人で頂上を守る。
もしインパクトドレイクがあったとしてもオレは夢とは違う選択をする。
過ちを繰り返さない……君達と共に強くなる」
(ああ…)
私はクロムのために何も出来なかった。見ているだけで、壊れていく彼を気遣う言葉を持てなかった。
でも、私は今度こそ、何かあったら彼を支えたいと思う。シエルと共に。
クロムはシエルだけでなく私のこともチームメイトと認めている。三人で頂上を守ると言ってくれる。私はクロムがシエルしか見ていないと思っていたから意外で。でも、嬉しかった。
私にはベイしかない。
昔から勉強も運動も得意ではなくて、ベイだけが取り柄だった。だからエクスが仕事をしなかったとき、私ではカバーし切れなくて。結局クロムに負担を掛けていた。
(そんな私に何が出来る?)
決まっている。チームのために戦う。持てる限りの力を尽くす。クロムを支えてくれるシエルのために。過去を振り返り自分を見つめ直し、シエルの想いに報いるクロムのために。
私は今のペンドラゴンが、……好きだ。
(ねえ、クロム)
私に出来ることは、ほとんどないけれど。ペンドラゴンが頂上を守れるよう全力で戦う。
二人がずっと居られるように。たとえ私達を脅かす存在が現れても。
あるいはクロムの傷口が何かのきっかけで開いて、彼が迷うことがあったとしても。
私は、今度は少しは自分の想いを、口に出来て。クロムを助けられるようにしたい。
そして……。
(シエル)
二人が幸せでいられるように。私は願い、そっと見守る。
私達は三人で頂上を守る。たとえ誰が相手であろうと、何かが私達を脅かそうと。
共に歩んでいく。二人と共に。
そう私は胸に刻み、二人の足音がいずれ遠ざかるのを。二人が共に歩き始めるのを待った。