弱いところを見せられない🐬の話(フロジェイ)ジェイドは昔から、人一倍警戒心が強かった。その個性が、昨日遊んだ兄弟の命日が今日なんてことも珍しくなかった海の底で、彼が悠々と生き残ってみせたことの役に立ったのは間違いない。
警戒心が強い、というのは何も、臆病だという訳じゃなくて。どころか、彼は好奇心の赴くまま、自身の興味がそそられるまま。誰も行ったことのない沈没船にだって怯える素振りも見せず、僕が一番乗りです、とでも言いたげに、スイスイとひとりで煌めく尾ビレをはためかせていた。
では、一体どういうことなのか。──一言で表すのなら、ジェイドは己の身に迫る危機に非常に敏感だったのだ。
もう名前も忘れた兄弟たちと、棲み処よりも少し上の明るい海でくるくる追いかけっこをしていたときのこと、キラリと頭上が小さく光った。どうせ、小魚の鱗か何かが反射しただけ。気に留める者はいなかった。……他よりも獲物を余裕綽々、手にして見せるから半周りほど大きな個体の彼以外は。
「どうしたの、ジェイド。遊ばねぇの?」
「はい、僕は先にお家に帰ります」
「ふぅん。じゃあオレも帰ろうかなぁ」
何気無い会話。他の兄弟よりもジェイドと遊びたい気分だったから、戯れる稚魚にくるりと背を向けた。
これが、オレたちと雑魚との分かれ道。──この日から、オレとジェイドは双子になった。きっと、いいや、絶対に、幼いジェイドはあのままあそこにいたらどうなるかを分かっていた。それから、囮のエサを用意しないと、自分が食い千切られることも。
隙を見せたら言葉通り、命取り。広大な海ではちっぽけな、ただの人魚の生命の灯火なんてものは、ロウソクの炎を吹くように簡単に消えてしまう。
だから海の生き物ならば、慎重すぎるくらいが丁度良い。そうでなければ、淘汰される。それは、よぉく身に染みていたけれど。
ああ、ジェイドの奴、またじゃんね。
隣の席、リゾットにスプーンを挿し入れた兄弟を、頬杖をついてじいと見上げる。オレの視線には気づかないまま、彼は口へと匙を運んだ。一口、二口、ゆっくりゆっくり咀嚼して、既に随分と嵩の低い水を飲む。ふぅ、と息を吐いて、また動き始める手。
「ね~、ジェイド」
「……はい、何でしょう?フロイド」
名前を呼べば、器を見つめていた顔を上げ、ニコリといつものように微笑んだ。いつも通りじゃないのは、顔色だけ。今は人間のからだのくせをして、元の姿を思い起こさせるような青が透けていた。ジェイドがいくら器用でも、血液までは操れない。
「オレ、これ飽きたからそっちと交換してくんね?」
言いながら、ジェイドのリゾットの皿とオレの手元のサンドイッチの皿を取り替えた。今日のはトマトリゾットだから、キノコが入っていないことは確認済みだ。流石に、キノコだったらオレも食べてやったりはしない。それは、自分で何とかして。
まだ半分以上残ったリゾットと、あと一口分しかないサンドイッチ。普段だったらこんなアンフェアなシャッフルは、「嫌です」と一蹴される。けれど、今日は。
「仕方ありませんね、構いませんよ。……まあ、もう交換されてますけど」
「ありがとぉ、ジェイド」
安堵するように顔の強ばりが解けたのを、オレは見逃さなかった。ちんまりとしたパンを長い指先でつまみ、それでも少しずつジェイドは食んだ。
「……全く、お前は」
「あ。アズール、仲間外れにしてごめぇん」
「おやおや。寂しがらせてしまったようで、申し訳ありません」
「誰もそんなこと言ってないだろ!」
アズールの手元、サラダの海藻に勢い良くフォークが突き刺さる。
……アズールは「お前たち」じゃなくて、はっきりと「お前」と言った。オレだけを指定した。そこに込められた意味が分からないほど、オレとアズールの付き合いは浅くない。
わざとおどけてみせたオレに乗ってくれたのは彼の慈悲に違いなかったけれど、それで逃がしてくれるほど八本足のタコは甘くもなかった。
「フロイド。お前は後で僕のところへ来なさい。……話があります」
「ゲェ、アズールの説教なげえからヤダぁ~」
べ、と舌を出せば、横でジェイドがナプキンで口元を拭いクスクス笑った。あれっぽっちの朝食を、やっと食べ切ったようだった。
「それでは、また後ほど」
E組のクラスルームに入るジェイドを見送って、アズールと廊下を歩く。隣のクラスだからすぐに自分の教室の前に着いたけれど、中には入らずもう少し。C組とD組の丁度あいだ。そこでオレたちは足を止めた。
オレは別に遅刻なんてどうでもいいんだけど、アズールはきっと許さない。だからこその、この位置だった。
予鈴が鳴るまで、あと5分。足音と話し声、たくさんの小魚の群れ。ザワザワとしていて騒がしいここでは、周りのことを気にしているヤツなんかいやしない。話し場所としてはピッタリだった。
「さて、時間もありませんし手短に話します」
「はぁい」
く、と眼鏡を押し上げて、アズールの唇が動き出す。何を言われるかはもう、予想がついていた。
「あまりジェイドを甘やかすな」
思った通りの台詞だ。
澄んだ薄青の瞳が真っ直ぐにオレを射抜く。これで三度目。いい加減、耳ダコってやつだった。
「アズールが言いてぇことは分かるよ。でもさぁ、現状これがベストでしょ」
「いえ、最善ではないでしょう。あいつのあの悪癖は、矯正しないといけません。お前のやっていることが間違っているとは言いませんが、根本的な解決になっていないのは明らかです」
「んー……。つっても、だったらどうすんのぉ?ヤバくなるまで放置して、頼ってくんの待つ?そんなの絶対ムリだよ、ジェイドは。そっちのがマズいことになるって」
ガシガシと髪を掻きながら返せば、アズールがきゅうと眉根を寄せた。考えを巡らせているときの表情だった。
「……まあ、いきなりは無理でしょうね」
「でしょ?だから、やっぱりオレが……」
「勘違いするな。いきなりは、と言ったんだ。少しずつ、慣らしていけばいい。まずは些細なことから始めましょう」
だから、それが難しいんじゃん。反論しようと思ったけれど、その前にアズールが続ける。
「それに、今年は良いとしても来年はどうするんです?三年生からはお前たちも一人部屋ですし、余計にフォローしてやるのも難しくなりますよ」
正論に胸が詰まる。そんなの、オレだって知ってるよ。
「このままでは、ジェイドにとって良くありません」
「それは、分かったけどぉ……」
歯切れの悪い返事に、アズールが目を側める。苛立っているのかもしれない。
「兎に角、お前は何でもかんでもフォローしてやらなくていい。手を貸して良いのは、明らかに不味いときだけだ。……これは、お前の訓練でもあるんですからね、フロイド」
「……うん」
キンコン、とチャイムが響く。お別れの合図だった。
アズールの言っていることは分かる。このままじゃあ、他でもないジェイドにとって良くない。良くないっていうか、そのうちどこかできっと良くないことになる。
欠片も興味の沸かない中世の魔法戦争についての講釈を右から左へ聞き流しながら、オレはどうしたらいいかなぁ、なんてマジカルペンをくるくる回して思考を巡らせた。
……ジェイドには、悪いクセがある。それは、海にいた頃は大した問題にはならなかった。どころか、長所と呼ばれる類。けれど、陸ではウィークポイントに他ならない。
──ジェイドは、極端なほど人に隙を見せることを厭うきらいがあった。
ナイトレイブンカレッジに入学して三つの月が過ぎた頃のこと。初めてのそれは訪れた。
木枯らしがびゅうびゅう吹き荒む涼しい冬の中庭だったのを、よく覚えている。
「あれ、ジェイドさあ……」
「はい?どうかしましたか、フロイド」
「何か、顔赤くねぇ?」
そうでしょうか、と振り返り首を傾げたジェイドの頬は、珊瑚みたくほんのりと色付いていて。決して真っ赤ではないけれど、それでも違和感を覚えるには十分なほどの薄桃色。
問い掛けたオレに、ジェイドは笑う。
「気のせいでは?ふふ、それにあなたも鼻が赤くなっていますよ。もし、本当に僕の顔が赤いのなら、気温のせいかもしれませんね」
「……あ~、そういや人間って寒いと皮膚が赤くなるとか言ってたっけ」
ジェイドの言葉が詭弁だと分かっていながら、肯定を返した。面倒だったワケじゃない。ただ、ジェイドが嫌がっているように見えたから。ほんの一瞬、怯えが滲んだような気がしたから。まあいっか、って自分を納得させただけだった。
このところ、急に冷え込んだから軽い風邪でも引いただけに違いない。人間の身体は人魚と比べるととても弱いのだ。
ケホリ。ジェイドが咳ひとつ。けれどそれ以上オレは何も言わず、共に鏡舎へと歩いたのだった。
「ジェイド、大丈夫?」
「……何がでしょう?」
「いや、何がってさっきから咳してんじゃん」
「……大丈夫、です」
言って、またゴホンと重くなった咳の音。寮に帰り、ジェイドの体調はじわりじわりと悪くなっているようだった。
消灯時間を過ぎベッドに入り、目を瞑る。……空気が吐き出される間隔が、段々短くなっていく。知らんぷりなんか出来なくて、パチンと机の上のランプを点けた。
少しでも音を殺そうとしているのか、唇には毛布が押し当てられているからくぐもってはいるけれど、それでも苦しそうなのは十分すぎるくらいに伝わった。
ジェイドが何も言ってこないんだから平気でしょ。そんな風に思うには、灰かな明かりで照らされた瞳がやけに怠そうで。
「やっぱ風邪引いちゃったんじゃねえの?多分、熱もあるでしょ」
「ありません」
「いや、無理あるって。何でそんな意地張ってんの」
「意地なんて張っていません。とにかく、放っておいて」
ふい、と背中を向けられて、ムカついたっていうより傷付いた。なんでそんなこと言うの、オレは心配してるだけなのに。
ゲホゴホとまた漏れたそれに伴って、横たわったままの背が跳ねる。放っとけなんて突っぱねられてしまったけれど、流石に黙って見ているのも嫌で摩ってやろうと触れたとき、びくりと熱い身体が強ばった。
それから、部屋に緊張が満ちて空気がピンと張り詰める。手のひらの下、微かな震えが伝わって、そのときオレは嗚呼、と理解した。いいや、ずっと分かってはいたことなのだけれど、初めてストンと胸に落ちたのだ。
こわいのだ、この子は。弱ったところを晒すことが。
ずっと一緒に育ってきた兄弟であれ、同じ個体な訳ではない。他人は他人。他の生き物。弱さを見せればどうなるか、その末路を故郷では嫌というほど思い知らされて生きてきた。ジェイドはオレよりもずっとずっと洞察力や観察力に長けていて、見て、気づいて、そうやって生き残った。代わりに、鈍臭い他の稚魚はみんな死んだけど。
おそらくあの頃、誰よりも死というものを身近に感じていたのは危機を逃れ続けたジェイドで、その記憶はオレが思っているよりもずっと深く、彼の奥に根付いている。
だから、これは必然。仕方のないこと。弱っている姿を見せたくない、いいや、見せられないのは至極当然のことだった。生存本能が騒ぐのだ。
「でもそれはさぁ、さみしいよ」
ぽつり、独り言。布団を被ったまま、呼吸を整えようと藻掻くジェイドには、当然聞こえちゃいない。
「オレ、ちょっと出てくんね」
どうせ届いていないだろうけれど、念のため声を掛けてから部屋を出る。誰もいない廊下はひんやりとしていて、静かでとても落ち着いた。
ペタンペタンと足を鳴らして、レシピをフワフワ思い浮かべながら、夜の海中をひとり歩く。いつもよりちょっぴり、早足で。
カタン。マグカップを机に置けば、ひょこりとオレと揃いの淡い緑が布団から覗いた。きっとオレがまた、今のジェイドにとってのいやなことを言うと思ったのだろう。その表情は胡乱げだった。
違うよ、って安心させてやるみたいに、笑みを象り問い掛ける。
「あ。良かったぁ、ジェイド起きてた」
「……フロイド、それは?」
それ、と指を差したジェイドの傍へ、オレは薄紫のカップをふたつ持っていく。
「ホットミルク!急に飲みたくなっちゃってさあ、キッチンで作ってきた」
オレだけ飲むのもな~ってジェイドのも淹れてきちゃったから、飲んでくれると嬉しいんだけど。きょとんとした後、ホットミルク、とおうむ返しに口を動かしたジェイドにそう続ければ、彼はこくんと頷いた。よし。
「ちょっと熱いから気を付けろよ」
左のカップをジェイドに渡すとき、触れた手指がじんわりとした熱を伝えた。まるで、普通の人間みたいな体温だった。
それに気づかなかったフリをして、ジェイドの椅子に勝手に座り自分のカップをく、と呷る。ふうふうと息を吹いてミルクを冷ましていたジェイドも、倣うように唇をフチにつけ、一口こくりと飲み込んだ。
「ジンジャーと、ハチミツ……でしょうか」
「正解。こないだマジカメでバズってて気になってたやつ~」
「……なるほど。話題になるだけあって、美味しいですね。ありがとうございます」
「どーいたしましてぇ」
冷蔵庫に余ってたジンジャーをすりおろして適当にぱっぱと入れたら、ミルクを注いでレンジでチン。最後にハチミツをスプーンで一掬いして、そのままくるくるかき混ぜる。
いつかマジカメで見た、喉に良い!だとか咳に効く!だとか、そんな謳い文句のレシピを参考にしたのは嘘じゃないけれど、たまたま目についたどっかの誰かの投稿なんて、細かく覚えているはずもなく。ほとんどオレ特製ドリンクになっちゃった。でも、不味くなくて密かにホッとする。調子が良い日で良かった。
今日の小テストはいつもより難しかったとか、アズールが中庭でネコと口ゲンカしてたとか、そんな他愛もない話を、時折喉を小さく鳴らしながらぽつぽつ語り合う。そうして、カップの底が見えた頃、ジェイドは開かない眼を擦りながら船を漕いでいた。それを見て、トンと肩を押してやる。横になってしまえばもう、強い眠気に逆らえない。
眠たげにとろりと溶けた眼のまま、ケホ、とまた咳を溢していたけれど、さっきよりは幾分か楽そうに思えて胸を撫で下ろす。まあ、思い込みかもしれねーけど。
「アハ、ジェイドすげぇ眠そ~。もう寝ちゃいな」
軽くお腹の辺りを布団の上から一定のリズムで叩いていれば、元より重たい瞼が落ちていく。……けれど。
「……ん……。あ、待って、歯……」
「あ~、甘いの飲んだもんねぇ……」
変なとこしっかりしてるっていうか何ていうか。確かに、訓練学校で先生たちに"陸は海よりうんと虫歯になりやすいから、忘れず歯を磨くように"って言われてた。……言われてたけど、良くないことだって分かってるけど、今歯磨きさせたら絶対に目が冴えちゃう。ジェイドには早く寝てほしいのに、それはダメ。だからオレは、悪い子を選んだ。
「コレ飲む前に一回磨いてるし、朝にしよ~よ。オレもう限界~」
ランプを消して、ジェイドの布団へと潜り込み足を絡める。そのまま後ろからぎゅーって抱き締めてやれば、もうジェイドは動けない。
いつもよりぽかぽかしてるジェイドとくっついていると、温かい海に浸かっている気分になってオレまでホントに眠くなってくる。
ああ、ヤバいこれ、マジで寝ちゃう。思ったときには既に手遅れ。オレの意識は、白んだ世界に飲まれていった。
そうして、明くる朝。
「おはようございます、フロイド」
「んぇ?……あぁ。おはよぉ、ジェイド」
ジェイドの咳は治まって、熱だって下がったようだった。元気ないつものジェイドがそこにいた。強がっている様子もない。結局、ドリンクが効いたのかは謎のまま。アレは薬ではないし、そもそも元来人魚は丈夫な生き物なのだ。ちょっとの怪我や病気くらいなら、何もせずとも身体が勝手に治癒してくれる。楽になってほしいと思ったオレが、自己満足であげただけ。
それでも、少しでもジェイドのためになったなら、それはとても嬉しかった。
「体調はもうヘーキ?」
「……おや、不思議なことを仰る。僕は元から元気ですよ」
ぱちくりと瞬き。まるで、本当に心当たりなんかないみたい。けれどほんの一瞬、目が泳いだ。
「そっか、オレの勘違いだったならそれでもいーや。変なこと聞いてごめぇん」
追及しなかったのは、オレの優しさだ。ジェイドが隠したがるのなら、無理に暴く意味はない。
人も人魚も獣人も妖精にだって、苦手なことや出来ないことのひとつやふたつやみっつ、当然ある。オレはムリなときは何にも出来なくなっちゃうから、よぉく知っていた。そして、その対象から逃げることが、必ずしも悪い訳じゃないってことも。それを教えてくれたのは、ジェイドだった。そもそも、彼のこれは本能にずっと近いところの問題なのだから、尚更。
だから、良いよ。ジェイドに難しいってんならさ、オレがやったげるから。不得手な分野は積極的に他人を使いなさい、とは幼馴染みの言葉だった。
……思い出した記憶は、思いの外鮮明で。
「でも、アズールが言ったんじゃんねぇ~」
「何の話です?」
「ジェイドのことぉ~」
「は?」
コーラ風味のストローをガジガジと噛んで告げれば、アズールが思い切り眉を寄せた。ひっでー顔。
「アズールがぁ、前に"出来ないことは出来る奴を見つけて、そいつにやらせた方が効率的ですからね"って言ってたからぁ、オレはジェイドが苦手なコト手伝ったげてるだけなのにさぁ~」
「おい待て今のは僕の物真似か?」
「ウン、自信作」
似てる。呟いてから、アズールがそうじゃないと頭を振って話し出す。
「確かに僕はお前たちに以前、そんな話をした覚えはありますが、そういうことじゃないんですよ」
「え~じゃあどういうイミ?」
アズールの言うことは、時々オレには難しい。首をこてんと傾けた。しゅわしゅわの炭酸が喉で弾けてきゅ、と目を瞑る。
「僕が言ったのは、適材適所を考えろという話です。ジェイドの件については、適材も適所もない。周りが助けてやったところで本人を変えない限りは、どうにもなりませんよ。……分かりましたか?」
「んー……」
肯定のような、曖昧な返事。アズールはさらに続ける。
「適当な理由をつけて強引にシフトを代わったり、自分がサボりたいからと偽って早退させたり、そういうお前の気遣いが全く無駄だとは言いません。けれど、却ってあいつのアレを増長させているのに気づいていますか?」
「……どういうこと?」
「お前の慈悲に甘えてるってことですよ。……僕は今朝、少しずつ慣らせばいいと言いましたが、今のままではそれも期待できない」
何も返せずにいるうちに、アズールが視線を上げてオレから逸らした。話は全然終わってないのに切り上げるなんてアズールらしくないけれど、その先を追えば納得。トレーを持ったジェイドの姿があった。盆に乗っているのは、シチューと水だけ。普段の半分以下の昼食。
「おかえり。今日少なくね?」
「お恥ずかしながら、間食を摘まみすぎてしまいまして」
「ふ~ん」
そんな青い顔をしてよくもいけしゃあしゃあと。席についたジェイドが、いただきます、と手を合わせる。どうせ、数口掬ったらスプーンが動かなくなるくせにさあ。
残りは全部、しんどそうにモグモグするジェイドのことを見ていられなくなったオレのお腹に入るのだ。
「……う、」
ああ、ほら、やっぱり。小さな呻き声。テーブルの下、隣に座る兄弟の手が腹部にそっと当てられる。
横目で、ジェイドがちらりとオレを見た。浮かんでいるのは、微かな期待。仕方ねえなって助け船を出そうとして、正面のアズールと目が合った。酷く気難しい顔を、彼はしていた。瞬間、さっきのやり取りが蘇る。
却ってあいつのアレを増長させているのに気づいていますか?
お前の慈悲に甘えてるってことですよ。
──それから。
少しずつ慣らせばいいと言いましたが、今のままではそれも期待できない。
「……あ~あ、午後も授業とか超メンドぉ」
誤魔化すように口にして、ハンバーガーの最後のひと欠片を喉奥に放り込んだ。これで良いんでしょ、アズール。
「お前、間違っても留年なんてことはしてくれるなよ。寮長の僕の管理が問われることになる」
「はぁ?オレがんなダッセーことするわけねーじゃん」
「気分が乗らなかった~、とか何とか言って試験をバックれ進級不可、なんてことになりそうで怖いんですよ」
軽口の応酬。飛び交う声は二つだけ。楽しげなテノールが混ざることはなく、ジェイドはただ黙って中身の減らない皿を見つめていた。
それからオレは、言われてもいないお節介を勝手に焼くのをやめた。まあ、なるべくって程度だけれど、きっとそれでも今までと比べたら大きな進歩。
ジェイドが頼ってきたら、いつでも何でも支えてやる準備は出来ている。ジェイドも、……オレも、いきなり一気には難しいから、あんまりにも見ていられないときはオーケーっていうマイルールつき。
少しずつ、慣らしていく。他でもないジェイドがこれから先の未来で、困らないように。
ジェイドは変わらずオレに弱さを見せてはくれないし、彼の体調は変わらず芳しくないまま。それでもこれで良いんだと言い聞かせ、三日が過ぎた日の夜だった。
「んん……?」
ジェイドも他の寮生たちも、とっくに寝静まった真夜中だ。だというのに、物音がして目を覚ました。身体を起こしても、辺りが真っ暗だから何も見えない。こういうとき、人間は不便だと思う。
ジェイドがトイレにでも行ったのかなと思ったけれど、レストルームの照明も落ちているから違うらしい。
気のせいだったのかも。そう寝直そうとしたとき、段々と暗闇に慣れてきた目がジェイドのベッドに人影を捉えた。オレと大体同じくらいの、大きな影だった。
シルエットが停止したまま動かないのが気になって、冷たい床に足をつける。
「ジェイド?……どうかしたの?」
問い掛けながら、のんびりと彼の方へと尾ビレを進めた。……進めて、眉間に皺が寄る。一気に眠気が飛んでいく。何だろ、変なニオイがする。錬金術のときとは違う、ナマモノ腐らせたみたいな、そういう臭さ。
何のニオイだっけって首を捻ったけれど、すぐにその答えは示された。……だって。
「エ、うっわ、大丈夫!?吐いちゃった?」
辿り着いた兄弟のベッド。いつもは汚れなんてどこにもない清潔なそれが、ニオイの原因でグチャグチャになっていた。
びっくりして机のランプを点ければ、途端惨状が露わになる。掛け布団の上には、クリーム色のもったりとした水溜まり。咄嗟に押さえようとしたのか、未だ唇を覆うジェイドの手のひらはベタベタで、重たいペーストが雫を作ってはひっきりなしに垂れている。
「!、フロ……、」
駆け寄ったオレにジェイドは目を見開き、何かを言い掛けたけれど、それが音になることはなく。代わりにぐぷりと喉が鳴り、指の隙間から液体が飛散した。苦しいだろうと汚れきった手を外してやれば、堪えていた吐物が一気に溢れ出す。
オレはシフトでいなかったしアズールもVIPルームで書類の整理をしてたから、夕食時に一人の時間を得たジェイドは多分、晩ごはんを食べていない。だから、今戻しちゃってるすりつぶされたオレンジの欠片と薄黄の欠片は、お昼にゆっくりゆっくり食べていたポトフの残骸だろう。随分と胃に入れてから時間の経ったお昼ごはんでさえ、ジェイドのお腹はまだ上手に消化できていないのだ。
「楽んなるまでぜぇんぶ吐いちゃおーね。大丈夫、大丈夫……」
ジェイドがなるべく安心できるように。声を作りながら摩った跳ねる背中は、酷く熱かった。……こんなに熱があったなんて、知らなかった。
……それから、どのくらいが経ったんだろう。
ナマコみたいに内臓まで出ちゃうんじゃないかって本気で心配になるくらい吐いて吐いて、ジェイドは漸く落ち着いた。
涙と鼻水まみれでグシャグシャの顔をティッシュで拭ってやってから、丸めたそれをゴミ箱に投げ、新しい紙を2枚重ねてべっとりとゲロの付着した手を綺麗にしてやる。
ジェイドのベッドはあんまりにもあんまりだから後で何とかするとして、いっぱい吐いて疲れちゃっただろう病人を早く休ませてやりたくて、オレのベッドに座らせた。
口濯ごうね、って水を汲んできたコップを渡し、ビニール袋がセットされているゴミ箱へとうがいをさせても、ジェイドは何も言わないまま。
俯いているその表情を知りたくて、オレはしゃがんで覗き込む。
「……へーき?」
返事はない。いくら具合が悪くても、オレを無視するなんて、ジェイドらしくない。どうしたのって肩に触れたときだった。
「……っ、!」
「ジェイド?」
大袈裟なくらいに身体が跳ねて、怯えた視線がオレを捉えた。ああ、やっぱり、怖いよねえ。怖がんなくて大丈夫だよの気持ちを込めて、できる限りやさしく背中を撫でたけれど、意味はなさそうで。
どこか焦点の合わない瞳が、不安げに揺れている。
「フロイド……」
「んー?」
おずおずと開かれた唇が紡いだのはオレの名前。力の入っていない腕が、遠ざけるようにオレの胸を押す。
「?……どうしたの、ジェイド」
「あなたは、僕を置いていって」
掠れた声で、ジェイドは絞り出すように告げた。普通、こういうときって「行かないで」じゃねえの?……なんて、分かってる。共にあの海を生きた兄弟が、そんなことを言うはずもないことは。
「ここにいたら、あなたまで」
オレを押し退けようとする手のひらが、カタカタと微かに震えていた。両方のそれを掴んでオレの手のひらで包み込めば、ジェイドがひ、と小さく喉を鳴らす。
「ジェイド、ジェイド。大丈夫、ここは陸だよ。こわいヤツらはいねーよ。食べられたりしねぇから、落ち着いて」
ふたつのビイドロの同じ方の色たちを重ね合わせるように、悪い夢の中の稚魚を見る。
目の前で千切れて散った兄弟たちはここにはいないし、オレとジェイドはあんな風にはならないよ。
大丈夫、大丈夫。もう何度めかも分からない言葉を、繰り返す。
「大丈夫……」
「そ、大丈夫なの」
呟いたジェイドに返してやれば、目尻が緩み一筋の雫が落ちた。そうしてぷつんと糸が切れたように身体の力が抜けるから、そっとその身を横たえてやる。
幼い子どものような寝顔に残る涙の跡が、何だかちょっと悲しかった。
訪れた翌朝。
ジェイドは顔色も良くなり、昨夜が嘘のように元気に……なんてことはなく。寧ろ、その逆。
いつもより少しだけ早い時間に目を覚まし、もう出すものもないだろうにまた気持ち悪くなっちゃったのかゲーゲー嘔吐いて、結局少量の胃液と唾液だけをトイレで戻した。
「う……ッ、えぇ……っ」
何も出ないクセして、吐き気が治まらないからベッドに戻ることもできず、便器を抱えて踞る姿は可哀想を超えて、いっそ痛々しい。見ていられなくて、どうすれば良いのか分からなくて、オレはただ只管に幼馴染みの名前をタップした。響くコール音は2回で止んで。
アズール助けて、ジェイドがやべーの。オレ、どうしたらいい?ねえ、アズール、どうしよう。
そんなことを兎に角、口走った気がする。電話越しにアズールが何を言ったのかは覚えていないけれど、何も言わなかったのかもしれない。
気付けば、息を切らしたアズールがそこにいた。
「今すぐ保健室へ行きましょう」
「え?でも、今ジェイド連れてくの無理じゃ……」
「魔法で転移させます」
魔法で転移。その台詞に、途端胸がざわついた。転移魔法は座標の設定とか物質情報の受け渡しとかが細かくて面倒でかつ難しいから、魔力の消費量も多い。だから便利なくせして、先生たちでさえあんまり使わないのは周知の事実だった。
緊急退避や事故・病気。有り体に言えば、非常事態。それだけのことなんだと、オレよりもずっとずっと、魔法にもヒトの身体にも詳しいこの幼馴染みが判断した。
すう、と心臓が氷に浸けられたように冷えていく。……こわい、と強く思う。
「フロイド。お前は先に保健室へ行って、先生にジェイドのことを伝えてください」
「…………アズールはどうすんの」
「僕はジェイドを転送してから、保健室へ向かいます。流石に僕とジェイドの二人を転移させるのは厳しいので」
いきなり病人だけが現れてもびっくりするでしょう?
告げて、もうアズールはオレの方を振り向くことはなく。ジェイドの背中を摩ってやりながら、落ち着いた声で何か言葉を掛け続けてやっていた。
──結局、ジェイドは校医から風邪の診断を貰ったけれど、ただの風邪で良かったぁって喜ぶことはできなくて。
具合が悪いのに無理を続けた結果、ジェイドは拗らせに拗らせちゃっていた。元より、人魚は陸の病気に殆ど免疫がないから、当たり前といえばそれはそう。酷い発熱と上手く働かない消化器官。失われる水分と摂取できているそれの量が明らかに釣り合っていない、とは、どうしてこんなになるまで我慢したんだ、と眉を寄せたセンセェの台詞だった。
海にいた頃は常に水に包まれていたし、そもそもの身体の作りが違うから、脱水とか言われても、正直イマイチピンと来ない。水が足りないって感覚が分からないのだ。だからこそ、こんなにジェイドが弱っていることが理解できなくておそろしい。ジェイド自身も恐らく、同じだったはずだ。自分の限界が察せなかったのだ。
白いベッドにだらんと投げ出した腕に針を刺されても、ジェイドは軽く呻いただけで反抗らしい反抗を見せず。
それがまた、異常さを際立たせていてイヤだった。
風邪でも道を誤り続ければ、時に取り返しのつかないことになる。ヒトは人魚よりも大分脆いことをよく覚えておけ。
オレも、……それからアズールも、彼の口にした重たい錨のような言葉を噛み締めて、それから頷くことしか出来なかった。赤い顔して息を吐く、ジェイドの瞳は開かない。
「アズール。あのさあ、オレ、間違ってた?」
ぽつり、呟いたそれに返事はなかった。代わりに、キシリと丸椅子が鳴く。足りていなかった水を入れてもらったおかげで、いくらかマシになったと言っても、ベッドで眠るジェイドの顔色は未だ悪い。
発熱のせいで赤らんでいるのに頬や目の下の辺りの色が抜けていて、底知れぬ不気味さがあった。点滴が終わったら寮に戻って構わない、と聞いているけれど、吊り下げられた袋の中ではまだちゃぷんと揺れるだけの液体がある。
もう暫く掛かるだろうことは、この人間用の治療機器についてよく知らないオレでも分かった。
「オレ、ジェイドのためだからって言い訳して、ジェイドが頼れないの知ってたのに、放ったらかしにしてた。オレのせいでしょ、こんな針まで刺されてさあ」
元はといえば、アズールが言うからじゃん。そう口にしないのは、遠慮や気遣いなんかじゃない。彼が強く強く後悔をしているのは伝わっていたし、そもそも責めたって意味はないし、実行したのはオレ自身。強制されたわけでもない。
「……フロイドは、間違っていたと思いますか?僕やお前の考えが」
「まあ、結果として正しくはなかったんじゃねぇの」
「僕も正しかったとは言えないと思っています。絶対に。……ですが、」
アズールがそこで一度言葉を切って、床に落としていた視線を上げた。瞳は波のように揺れているけれど、確かに光が宿っていた。
「完璧に間違っていたとも思えません」
「……えっとぉ?」
問えば、アズールがかちゃりと眼鏡のズレを直す。それから一度目蓋を下ろし、ゆっくりと再び開きオレを見た。
「以前お話した通り、頼り方を知らないままではいけません。それでは遅かれ早かれ、今回のようになっていた」
「……それは否定しねぇけど、わざわざ見殺しみたいに苦しめる必要はなかったでしょ」
「ええ、そこが誤算でした。まさか、ここまでジェイドが他人に頼らないとは思わず」
「…………」
ジェイドがマジで周りに弱さを晒せないことは知っていた。それでもアズールの提案を受け入れたのは、淡い期待があったからだ。オレには言ってくれるかもって。
現実はこのザマだったけど。
「お前は、ジェイドがこれほどまでに意地を張る理由を知っているんですか?」
「……直接聞いた訳じゃねえけど、何となくは」
「伺っても?」
「別にいいよぉ」
ジェイドがスースーと寝息を立てていることを確認してから、オレは話し出す。アズールと出会うよりも、もっと前の稚魚の頃のこと。弱い姿を見せることが、命の終わりに繋がっていた頃のこと。
不調を悟られるなんてあってはいけない。そう思うに十分な、兄弟の生き延びてきた道を。
「……防衛本能、ということですか」
「そう、ソレ」
すべてを聞き終えたあと、アズールが言った。頷けば、顎に手を添えてぶつぶつと小さく声を漏らし始める。これは、幼いときから変わらない考え事をする際の彼の癖だった。
そうして、きっかり2分後。アズールはオレを呼ぶ。さらに、3分後。なるほどねえと声が出た。
「……僕の考えは、たった今お話した通りです。後はお前に任せます。きっと、この先はお前が適任でしょうから」
「オッケー、任せてよ」
するりと落ちた快諾の台詞。それは、虚勢や強がりなんかじゃない。上手く行く確信があった。
アズールとオレが手を組んだんだから、失敗なんてあり得ない。オレたちの何倍も大きかったサメを欺いた日を思い出す。
明日の灯火ははっきりと見えていた。
カサリ。微かに衣が擦れる音と、ん、と漏れた小さな声。テラリウムが見下ろす清潔に整えられたベッドの上、不揃いの色をした瞳がゆっくりと姿を見せる。
まだ半分夢心地、ぱちりぱちりと瞬きを繰り返す彼に、椅子から降りて近付いた。
「おはよぉ、ジェイド。よく寝てたねぇ」
「……おはよう、ございます。フロイド」
掠れてはいるけれど、しっかりとした発声にホッとする。保健室で処置を受け、今の今までグッスリ眠っていたおかげか、朝と比べれば顔色も随分良い。
ちょっとゴメンね、と断りを入れて前髪をかき分け手のひらを額に乗せた。……うん、熱も大分下がってんな。クリオネちゃんみたいな機能はオレにはついてないから正確には分かんないけど、少なくともびっくりするほどの熱さじゃなくなった。
「ええと……」
所在なさげに視線をさ迷わせながら、ジェイドが身を起こす。困惑しているようだった。
「ジェイド、どこまで覚えてる?」
「……朝、お手洗いに行ったことは何となく」
「昨日の夜のことは?」
「……あなたに沢山、ご迷惑をお掛けしてしまいましたね」
「保健室に行ったのは覚えてねぇ?」
「ええ……。いえ、まるで記憶にないわけではないのですが……、何と言いますか、とてもふわふわとしていて、あまり良く……」
「腕にブスッ!って針刺されたのは?」
「えっ。僕、針刺されたんですか?」
「ウン」
確か、この辺。そうジェイドの左腕を指差せば、ひっ、と彼が息を呑んだ。止血の絆創膏はもう剥がしちゃったから、傍目じゃよく分からない。
「気分悪かったりはしねぇ?あと、頭痛いとか」
「特には……」
「そ。じゃあ、とりあえずコレ飲んで。飲めるだけでいーよ」
「はい……」
キャップを外して渡したスポーツドリンクのボトルを、ジェイドは素直に傾けた。ずっと寝ていて喉が乾いていたのか、コクリコクリと中身の三分の一ほどが消えていく。いきなりそんなに飲んで大丈夫かなって心配になったけれど、問題はなさそうだった。
ぷは、と唇を離したそれを受け取って蓋を閉め、手近な机へと置き、ジェイドに向き直る。流石に本調子ではないにしろ、無理をして起きている様子ではなかった。元々、人魚は人間よりもずっと治癒力が高い。そしてその性質は、薬で姿を変えたとしても失われるようなものじゃない。免疫がない分、体内に侵入されたら酷いことになるけれど、追い出す力は高いのだ。大方、今のジェイドは治りかけ。嵐は過ぎ去り、病み上がりの二、三歩手前みたいなものだろう。
──さあ、ここからが本番だ。
「ジェイド」
「何でしょう?フロイド」
ぎしり、二人分の重さにベッドが悲鳴を上げる
「ちょっとだけさぁ、お喋りに付き合ってよ」
枕に腰を預けて座るジェイドの両脇に手をつけば、もう彼に逃げ場はなかった。
まだ本調子じゃないだろうし、手短に済ませるからジェイドも協力してね。
オレの前置き……入れ知恵したアズール曰く、保険のそれに、ジェイドがええ、と答えたのを確認してから、本題へと入る。
遠回りをせず、真っ直ぐに。煙に巻かれぬように、避けようもないど真ん中を射抜くのだ。
「ジェイドは何で無理すんの?」
「……無理、ですか?」
「ウン。分かんねーとは言わせねえから。今回もだけど、具合悪いときとか怪我したときとか、いつも、絶対に、無理すんじゃん。休んで甘えたって誰も怒んないよ」
「…………」
この子にも、自覚はあるのだ。いいや、自覚があるというよりも、作為的。故意にやっている。だからバツが悪そうに目を逸らすし、黙り込む。分が悪いとき、口数が減るのは昔から変わらない。
糾弾したい訳じゃない。そうすることに意味はない。オレは分かってほしいのだ。言葉が届くのであれば、問いへの返事はなくても構わない。
「あのね、ジェイド。弱いトコを晒すのがイヤって気持ち、オレにも分かるよ。だって、一緒に育ってきたんだから当たり前じゃんね?おんなじとこで、生きてきたんだから」
ジェイドは何も言わない。その頬に触れれば、普段よりも随分と高い体温が手のひらに伝わった。びく、と顔が強張り恐れるように唇を引き結んだまま、オレを見る。
怒ったりしないから、大丈夫。彼を形作ってきた本質を、否定できるわけがない。
「そりゃあさぁ、怖いよねぇ。弱った姿なんて見せたら死んじゃうかもしんないし。格好のエサだもんな。ウン、すげー分かんの。だって、それで何匹死んだんだろ、って感じだしさ……」
そこで一度声が途切れたのは、オレが限界だったからだ。ごめん、アズール。任せて、なんて啖呵を切ったのに、何にもジェイドに伝えられてない。鼻の奥がツン、として痛かった。
「フロイド?」
ジェイドが驚いたように、大きく眼を見開いた。そのすぐ下、ぱたぱたと透明の雫がいくつも円を描きだす。
「あー、サイッアク……。ごめん、ジェイド、ちょっとだけ待って。まだいっぱい話さなきゃいけねーことあるから、待って……」
そのままヒク、としゃくり上げ始めたオレにジェイドは困ったように眉を下げ、……そうして、手を伸ばしてオレのほっぺたに触れた。さっきと逆。熱いそれに生を感じて、オレはまた泣きじゃくった。ああ、もうダメだ、止まらない。
落ち着いてから仕切り直そうと思ったけれど、もうダメだ。溢れる感情が止まらない。
「ジェイド、ココは陸なんだよ。オレたちの育った海とは違うの」
「?存じておりますが」
「ううん、ジェイドは分かってねえよ」
違う、責めたいわけじゃない。けれど、陸に上がったばかりのような、引き攣れたヘッタクソな呼吸の中じゃ、剣呑になる声音まで制御できなかった。
「海じゃあ確かに、弱ってるなんて知られたら危なかったけど、ココだと逆なんだよ、ジェイド。知らせない方が、不味いの」
「……誰彼構わず、弱っている自分を晒せと?陸では、それが正しいのだとフロイドは仰るので?」
意味が分からない、とジェイドの表情が如実に語る。オレはブンブンと首を振る。
「ううん、そんなこと言ってない。ただオレは、オレやアズールにまで隠さないでって言ってんの。知らせるべきヤツには教えろって、それだけ」
「……どうして、」
心底不思議そうにジェイドは溢す。海ではずっとずっと彼の生き様が正しかったのだ。間違っていると言われても、ハイそうですか、だなんて腑に落ちるはずがない。
オレは、アズールが話した根拠を空に思い出す。
「ジェイドはオレたちの育った海のことなら大体知ってるよね?"これは危ない"とか"こうしたら良い"とか分かってる。だから、え~っと……何だっけなぁ、あ~、そうだ……、"ケーケンソクに基づく対処法"ってヤツがあるし、それが間違ってるってことはもう少ない」
「……はあ」
「でも、陸のことは勉強したっつってもまだまだよく分かんねーじゃん。だから、自己判断が一番危険なの。ヒコーリツ的だし。知識なんてないバカな稚魚が、一匹で、丸腰でサメに向かってったらどうなる?」
「それは……死にますね」
「そぉ。陸の病気はサメだし、オレたちは稚魚同然。ね、どれだけジェイドが危ないことしてたか、分かった?」
はい、と小さくジェイドは素直に口にしたけれど、それでも納得していないのは伝わって。大方、病気とサメを同列に語られても困る、とか、アズールとフロイドも稚魚同然なら話しても無駄では?とか可愛げのないことを考えているのだろう。兄弟はそういうヤツだった。
……ジェイドを説得するための何だか小難しい理屈をオレに叩き込んだ後、アズールは言った。この先はオレが適任だ、と。それはつまり、理屈じゃないところで攻めろ、という指示に他ならない。そういうのオレ得意。ジェイドは不得手だから、負ける気がしなかった。
「……今までのはアズールから聞いた話ね」
「それ、僕に言ってしまって良かったんですか?」
ジェイドがくすくす笑う。どうせバレてたくせに、よく言うよ。
「こっからはオレの気持ちだから、よぉく聞いて」
空気が音を立てるくらいに大きく息を吸い込んで、ーーそうして、それを一気にジェイドへと撃ち込むのだ。
「スッゲー怖かった!!」
「……っ!」
ぶわり。髪が舞って、ジェイドがきゅうと目を瞑る。自分でもちょっと耳が痛いし、ジェイドはもっとキーンとしてるのかなと思ったら少し愉快だった。
「……っ、うぅ……ッ」
「フロ、」
「ホントのホントに、怖かったんだかんな……っ、マジで反省しろよバカ……!」
……おもしれって思うのに、折角収まりかけていた涙がまた、ボロボロと溢れ出す。あーあ、めちゃくちゃカッコ悪い。でもきっと、今はこれが正解だった。頭がぐちゃぐちゃでちっとも思考がまとまらない。脳ミソを介さずに、そのままの想いが胸から外へと出ていった。
「ジェイドがいなくなっちゃうんじゃないかって、スゲー怖かった!」