エンドロールはまだ遠い 悠真がビデオ屋を訪れて、その店長――二人居る内の兄の方――と共に何かしらの映画を観るのは今となっては特に珍しい事でもない。はじめのうちはアキラも悠真に気を遣ってか、おそらくは外れのなさそうなタイトルを選んで共に観てくれていたようだった。しかし数をこなしてそれも尽きてくると、そのうちアキラ自身の趣味で選んでいたり、あるいはその逆だったり、はたまた無造作に選ぶ時も増え、当然ながら当たりも外れも入り乱れるようになる。
その日アキラが選んだ映画はドキュメンタリー形式で、勿論アキラがこういったジャンルを好んでいるのを悠真は知っているのでそのチョイスに否やはない。ただ、悠真にとっては物足りないような、有り体に言えば少々退屈な子守唄になるのも事実だった。
映画が始まって三十分ほどは画面を見る努力をしたものの、変わり映えのない景色が連続した辺りで悠真は早々に意識を切り替えた。映画が詰まらなければ、詰まらなくないものを見ればいい。単純明快で悠真好みのシンプルな答えだ。
――つまり、映画を観ている恋人をひたすら眺めて楽しむという事である。
アキラの自室にソファはいくつかあるけれど、共に映画を観るとなると定位置は自然とテレビの向かいになる。奥側に陣取った悠真が背もたれに肘を突いて隣に顔を向けると、そこに座るアキラの横顔がよく見えた。伸びた鼻筋に、色素の薄い睫毛が緑の瞳を縁取っている。ドキュメンタリーでも恋愛ものでもはたまた苦手なホラーでも、いつだって真剣に映画を観るその瞳が悠真は好きだった――ああ、いや、と思い直す。
ただし、ホラー映画を観ている時だけはたまに目を閉じている場合もあった。そんなに怖いなら抱き締めてあげようか、と悠真が冗談半分に腕を広げてみせたのは未だ記憶に新しいが、それもすぐに断らず暫し悩んでからいらないと首を横に振るものだから恋人の可愛らしさは止まるところを知らない。結局その時は、どうしたのだったか。あんまり可愛くて抱き締めたのだったか、いや、これはまた別の話か。
悠真が冗長な子守唄をBGMにアキラの横顔を眺めながらああでもないこうでもないと思考を巡らせていると、不意にアキラがふうと息を吐いてから悠真を見た。一瞬咎めるような色を持っていたそれが、仕方ないなとでも言うように緩んで苦笑する。
「……悠真、見過ぎだ」
「おっと。バレちゃったか」
「隠すつもりもなかっただろう。やっぱり、これは悠真には退屈すぎたかな……」
ビデオを止めようとしたのかリモコンに伸ばされたアキラの手を片手で制止して、そのまま軽く何度か遊ぶように握り込んだ。やわい手のひらの温度が心地よくて握り締めると、照れた風に悠真から目を逸らすのが愛おしい。僕らもう散々やる事やってるのにこういう触れ合いはいつまで経っても慣れないんだなぁ、と思っても口に出さないのは優しさだ。
「そうでもないよ、あんたと観るならどんな映画だって楽しいし。あんたを見てると飽きないからさ」
「それを退屈と言うんじゃないのかい? 僕ばかり見てたって面白くないと思うけれど」
「そんな事ないって。それはもうたぁくさん、考える事があるからね」
「どんな事を?」
「当ててみて」
映画が再生されたままの画面を少し気にした素振りを見せてから、アキラが改めて悠真に体を向ける。どうやら今回は映画ではなく悠真を構う事に決めてくれたらしい。嬉しさで口角が上がるのを堪えながら大人しく答えを待った。
「……ラーメンが食べたいな、とか」
「ん、はは。それはアキラくんでしょ。いいよ、後でリンちゃんも誘って三人で食べに行こう……他には?」
「続けるのか……」
「もっとイチャイチャしよう、って事」
「……」
明け透けな悠真の物言いに、アキラの頬がほんのりと赤く染まる。まるでその可能性にたった今気付きましたとでも言いたげな無防備さが可愛くて、悠真は笑い出しそうになった。
「他、は……」
考え込むアキラの目をじっと見詰めながら悠真がぺろ、と舌先で唇を湿らせると、上気した頬のまま逃げたそうに視線がうろつく。当然ここで逃がしてやるつもりもないので握り込んだままの手を軽く上下させれば、観念したのかゆるく握り返された。
「分、からない」
「ほんとに? 今思った事、あるんじゃないの」
「どうして分かるんだ……」
唇を尖らせるアキラの手の甲を親指で撫でると、擽ったさに時折指先がぴくんと跳ねる。
「ね、言ってみてよ」
悠真に内緒話をするような声色で促されて、ようやくアキラがおずおずと口を開いた。赤い舌がやけにちらついて、悠真の手にぎゅうと力が入る。今悠真がどんな目をしているのか、知っているのはアキラだけだ。
「……キスが……したい、とか」
言い終わる前に身を乗り出した悠真の唇がアキラの唇と触れ合って、ん、と艶めかしい声が僅かに漏れた。閉じた唇のあわいを舌でなぞり、小さく隙間ができてから待ってましたと舌をアキラの口内に捩じ込む。唾液が絡む舌先で上顎を舐りながら、じりじりとアキラの体をソファの端に追い詰めた。合間に息を吸い込むアキラの口をまた塞いで、その眦から生理的な涙が伝うのがひどく扇情的だった。
「ん、……ふ、っぁ、……っ」
「……、は……っ」
悠真が舌を動かす度に灰色の睫毛がびくびくと震えて、背もたれを掴んだ悠真の指がレザーに擦れて引き攣った音を立てる。
アキラの体に半ば覆い被さるように握り込んだ手をソファに押し付けて、離れがたい気持ちを抑えながら悠真が唇を離せばつうと二人の間に銀糸がかかった。間を置いてぷつんと途切れたそれを見て恥ずかしそうに戦慄くアキラの唇に、もう一度食らいつきたい衝動を耐えるのが何よりも難しい。
ソファの肘置きにくったりと頭を預けて荒い呼吸を整えるアキラを見下ろすと、潤んだ瞳と目が合う。
「はるまさ、」
「大丈夫、これ以上はしないよ……ここではね」
「ん……」
ぐ、と薄っぺらい体に押し付けた昂りに気付いたアキラが縋るような目で見上げてくるのに、悠真はふーっと細く息を吐き出した。乱暴に全てを暴いてやりたい衝動を無理やり抑えつけて一度目を閉じる。
暗黙の了解で、ビデオ屋にリンが居る時は一線を越えないことにしているもののやはり燻る物は燻る。目を開けて、これでおしまいとばかりにちゅっとわざとらしい音を立ててアキラの唇に吸い付くと、今度はそれを追い掛けるようにアキラが小さく舌を伸ばした。ちろ、と様子を伺うような舌遣いと共に悠真の唇をゆるく喰んで、もうしないの、と目だけで訴えてくる。
「……こーら、煽らない。本当に犯すよ、ここで」
「イチャイチャしよう、って言ったのに」
「言ったけども」
「あんなキスしたのに……」
「それも、した……けど! 限度っていうか、僕にも耐えられる限界は存在してるっていうか」
「僕は悠真の理性を信じている」
こんな所で信じるな! 悠真は切に願った。
「悠真……」
もう少しだけ、とねだるアキラが悠真の唇にやわく噛み付いたのをダメ押しに、かっとなる情動のままに唇を押し付ける。アキラの潤んだ瞳に悠真が大きく映って、ギリギリの自制心で僅かに唇を離した。今すぐこのまま、と逸る体を戒めながら恨めしい目を向けると、ふ、と笑った吐息が悠真の唇にかかる。悪魔だ。
「うう……、僕の恋人は本当に酷い男だよ。人の純情を弄んでそんなに楽しいわけ?」
「そもそも仕掛けてきたのは悠真の方だと思うけれど……夜になったら、悠真の家に行くから」
だから、それまではね。蕩けた顔で照れ臭そうに笑うアキラが、この時ばかりは凶悪な小悪魔に思えた。
「その言葉、後で忘れたなんて言わせないからね……」
人の気も知らないでくすくす肩を揺らすアキラに、悠真はこの男絶対に今夜抱き潰す、と胸に誓う。
「はぁ……もうさ、やっぱりラーメン食べに行くのはまた今度にして今すぐ僕ん家来ない?」
「……」
「ちょっと、本気で惜しそうな顔するのやめて」
「……」
「ああもう、分かったって、ラーメンね、はいはい」
恋人の優先順位はラーメンより下なのか、と小一時間問い詰めたかったが、嬉しそうに笑って「悠真、ありがとう」と幼気なキスをされてしまえば悠真はもう従うほかない。ふと悠真が付けっぱなしのテレビに目をやると、未だ変わり映えのないドキュメンタリーが淡々と流れていた。長閑な風景がなんとなく憎らしくなって、意味もなく睨み付けそうになる。
「……あと、やっぱり映画は他のやつにしよう」
それも観ている間にすぐ夜が来るような、とびきり面白いやつがいい。
了