後朝の粥の没版「コラさん。朝メシ、食えそうか」
声を掛けると、布団の下の体がもそ……と動いた。船長室のベッドはこの船で1番良い造りだ。広いし物も良い。190を超える大男が被っても余裕のある大きな掛け布団はおれも当然気に入っている。が、3m近い大男にはまるで丈が足りず、頭まで布団を被れば腿の半ばまでしか隠れていない。膝の裏辺りに薄く手の跡が残っているのを見付けて、そっと目を逸らした。目の毒だ。今は不埒な回想に溺れている場合では無い、やるべきことがある。
「コラさん。……起きられるか?」
もう一度声を掛けると、大きな体がもそもそと起き上がった。何故か頭から布団を被ったままだったので、手を塞いでいるトレイを一旦机の上に置く。布団を剥が───そうとして抵抗に遭った。中で布団の端が押さえつけられている。無言のまま格闘すること数十秒、"ROOM"を展開した瞬間に呻き声が聞こえて布団が放り捨てられた。
「……お前、すぐ能力使うのやめろって」
すっかり赤く腫れた目がおれを力なく睨み付けた。一瞬目が合って、すぐに逸らされる。枯れて波打つ声、所々に散ったままの赤い跡、気怠そうに持ち上げられて口元を隠した手のひらには爪の形に薄く内出血があった。目の毒だ。布団を被せ直そうか悩んだが、今はとにかく飯を食わせなければいけない。緊張のせいか乾く唇を無意識に舐めた。
「朝メシ持ってきた。食えそうか」
「朝メシ?いや、今は……え?持ってきたのか?」
「ああ。その、出来れば食ってくれ。朝食は摂るべきだ。胃には優しいもんを入れた、はずだ……」
しぼみそうになる声を気合いで保つ。こんなところで気弱になってどうする。船は既に港を出てしまったのだ、進むしか無い。匙の刺さったボウルを差し出すと、コラさんは無言で受け取った。ボウルに目線を落としたままの顔が、みるみるうちに真っ赤になっていく。
「……お前が作ったのか」
「そうだ。悪いか」
「……いや……あー、ありがとよ」
モゴモゴと口ごもる様子が珍しい。喜怒哀楽をはっきり出すところばかり見ているので、骨を赤くすると決めてから折に触れて見せるようになったこういう反応は、関係の変化が思わぬところにも影響を与えたことを意識させて、なんというか、むず痒い。あの騒動の間はそんな素振り見せなかったから余計にだ。あっさり承諾しておいて、夜に呼び出されたら”おれは動揺しています!”と全面に書かれた真っ赤な顔で、しかし断るでもなく部屋には来たので───
「……ん?」
敢え無く不埒な回想に溺れ始めていた思考が、コラさんの上げた声に引き戻される。ボウルの中身をひと匙すくい、すくったものをじっと見ている。しばらく眺めてからおれの顔を見た。また手元に視線を戻す。交互に確かめる。自分の背中を冷や汗が伝っていった。
「……か、」
「いただきます」
粥だ。の言葉が口の中から出て行く前に、コラさんは匙を自分の口に突っ込んだ。顎が動く。動きが止まる。しばらくしてまた動く。喉仏が動くのがよく見える。コラさんは何も言わず、真顔のままボウルの中身を食べ進めていった。安堵と不安が体の中を巡っていき、背中から止まらぬ冷や汗の形を取って流れていく。無言が気まずくて、何か言おうとして、しかし今言うべきでは無いと思い直す。開きかけた口を何度も閉じる。無い眉を下げたまま、時折顎を止めながら、コラさんはボウルの中身を減らしていく。とうとう最後の一口が、少し腫れぼったい唇の中に放り込まれた。カランと匙が鳴る。空のボウルが差し出される。
「……どうだった」
ボウルを受け取るのも忘れて、なんとかそれだけを問いかける。コラさんは口を開き、すぐに閉じた。もご、と口が動く。出かけた言葉が飲み込まれるのが見えるようだった。
「……嬉しかったぜ」
ピースと共にぎこちない笑顔が返される。精一杯の優しさで包まれた感想に、膝の力が抜けた。へたり込みそうになるのをごまかしてベッド横のスツールへ腰を下ろす。きょとんとしたコラさんを横目にボウルを受け取って机に戻した。独り相撲の時間は終わりだ、例えコラさんが知っていようと、知らなかろうと、説明はしなければいけない。この粥を食わせた意味を。
「悪いな、付き合わせて。不味かっただろ」
「まあ、美味くはねェな。何入ってんだ?これ」
「牛乳と砂糖と米……あとスパイス。なんか……色々」
「ああ、あの糊みたいなの米かァ……」
「……悪かった」
「そんな顔すんなって。つーかお前、味見したのか?」
「してない。……出来ねェんだ、これは」
赤い目がまばたきを1つ。2つ。無言で先を促されたのに甘えて、喉に重く張り付いた言葉をなんとか引っ張り出す。
「クルーに病人がいる時は、粥を作るんだ。いや、これじゃなくて……もっとちゃんとした物を出してるけど」
「そうなのか?おれ見たこと無いけど」
「あんたがやたら頑丈だからだよ。ただの慣習だから新入りにいちいち説明もしてない。自分が風邪引くか、病人いる時にたまたまギャレーに入ってたか、そういうのが無けりゃと知る機会も無いだろうな」
「それでか。毎回ローが作ってんの?」
「砂糖を塊から砕くのだけはおれがやってるが、あとはギャレーのやつに任せてる。……おれの故郷じゃ、珀砂糖───食用に加工した珀鉛の塊を砕くのは家の主と決まってた」
フムフムと聞いていたコラさんの相槌が止まった。緩んでいた口元がぐっと引き締められる。開かれようとした口を目で制した。
「そんな顔すんなよ。今となっちゃ珀鉛は憎むべきものだが、だからってそこに繋がる何もかもを憎むべきじゃねェ。そう教えてくれたのはあんただろ」
「……そうだな」
「人を治す父様が誇らしかったのと同じように、珀鉛を砕く父様は誇らしかった。専用のミルがあって、ハンドルがすげェ硬いんだよ。おれやラミじゃびくともしないのに父様だけが楽々回せたんだ。それを見てたからか、この船で最初に塊の砂糖を買った時、砂糖を砕く役を他のやつにやらせるのが癪な気がしてな。以来ずっとおれがやってる」
「なるほどな。だからこの船、塊の砂糖ばっか買ってんのか」
「別におれが砕きたいからって訳じゃねェよ。1番は保存性の問題だ、潜水艦は湿度高いからな」
「はいはい」
にんまりと笑うコラさんに少し照れくささを感じたが、咳払いをして気を取り直す。おれが今話さなければいけないのは、思い出話ではなくこの粥についてだ。
「フレバンスじゃ、病人に作るのはパン入りのミルクスープだった。珀鉛が入ってて甘いんだ。特に家族が寝込んだ時に作るスープは特別なルールがあって、誰にも見られずに珀鉛を入れなくちゃならねェ」
「誰にも?なんで?」
「さあな。異物混入の防止か呪いみたいなもんか、何か理由があったはずだが……もう思い出せねェ。とにかくそういうもんだった。普通は独り立ちする前に親から作り方を習うんだが、おれは……習えなかったから」
「……なるほどな。で、普段料理もしねェのに1人で粥作る羽目になったのか」
「そうだ。朝ギャレーに行くまですっかり忘れてて、練習する暇も無かった。次までに練習しておく」
嘘だ。本当は覚えてて、だけどクルーも家族だからギャレーで頼めば良いと思っていた。想定外だったのは当番のウニにあっさり断られたことだ。「おれの故郷じゃ、起きてこない恋人の朝飯は起きられなくしたやつが責任持って作るもんでしたよ」───とかとんでもないことを言って、一人でギャレーに放り込まれてしまった。反論の隙も余地も無かった。無慈悲に扉が閉められて、あとはもうこの体たらくだ。
「練習ったって、味見出来ねェんだろ?どうやって練習すんだよ」
「こんな状況じゃなきゃ他のやつに味見させてたし、そもそもレシピがありゃ問題ねェ。次までにペンギンにでも聞いておく」
「待て待て、それにしたって味見は必要だろ。つーかロー、どうして味見出来ないんだ?それもルールの内か?」
「いや、あれは……違う。飲めないんだ、おれが。ミルクスープ」
「そうなのか?あれ、ローって牛乳は飲めるよな?」
「好き嫌いじゃねェ。あれはもう、再現出来ない味だから……もう一度飲んだら、」
舌が強張る。そこから先はいつも言葉にならなかった。
故郷を出たあと、色々な物を食べた。美味い物も不味い物もあった。クルーに今日のメシの味付けについて聞かれることもあった。珀鉛なんて味付けの1つだ、それだけで完結する物じゃない。無くても困らないし、砂糖と数種のスパイスで近い味が出る。食い物が選べる時ばかりでも無し、大抵の食べ物は違和感なく、いくつかの食べ物は多少の違和感を持って、それでも舌は外の味に馴染んでいった。
だが、いつか風邪を引いた時に用意されたミルクスープ、あれだけは体が受け付けなかったのだ。良かれと思って似せられた味の、白くなりきらないスープを一口飲んで、おれはその場で胃の中身をベッドにひっくり返した。珀鉛だけで味付けされた優しい風味は気付かぬところで家族の思い出と強固に結び付いていた。故郷の思い出を上書きしたくない、珀鉛の記憶を受け入れたくない、大さじ山盛り一杯の珀鉛が溶かし込まれた液体を飲み込みたくない───ぐちゃぐちゃになった精神に"ファミリー"の誰かの悲鳴が刺さったのを覚えている。それからだ、ミルクスープを避けるようになったのは。
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ここまで書いて「うわ……この話暗すぎ……?」って自分でなったので方向転換しました