スランプと怪物(中) 酒場から帰った次の日、トルペは日の出前にはもうピアノの前に座っていた。
今は、とにかく恋について探りたかった。問題の箇所を繰り返しつつ、合間に小さな曲を色々と弾いてみたりする。と思えば、時々立ち上がって棚の奥から恋愛小説を引っ張り出して捲ったり、番の鳥が囀り合うのをぼんやり聞いていたりするので、部屋の中はピアノの音が途切れ途切れにぽろぽろと遊んでいるような、そんな様子であった。
やがて、太陽が山の端から覗く頃になった。鍵盤の上に差す幼い光に気付いたトルペは、窓を開けると緩く長く息をついた。風の穏やかな、よく晴れた日だった。
トルペの濃い金色の髪が、ようよう登ってきた朝日に照らされ、麦の穂のようにさらさらと光る。青年はしばらく、絵画のようにじっと黙って空を見ていたが、ふと思い出してまばたきをした。
「今日は休日だし、朝の内からリスの姉妹がやってくるだろうな。やれやれ、午前中はおしゃべりで時間が潰れてしまうかもしれないぞ」
いかにも面倒そうに溜息をつくが、その口元は微笑んでいた。そして彼女らがやってくる前に軽く食事でも済ませておこうと、ようやくピアノから離れたのだった。
◆
「まあ! 恋だなんて、恐ろしいわ!」
そう叫んだのは、子リス姉妹の姉だった。姉妹は先程、いつものように仲良くやって来て、いつものように仲良く窓枠に座って、トルペにここ最近の出来事を根掘り葉掘りと聞いてきた。それで、いつものように今取り組んでいる曲について教えてやると、その途端、こういう事になった。
姉の勢いに、隣でクルミを頬張っていた妹リスは目をくりくりと丸め、こてんと首を傾げた。ちなみにこのクルミは、トルペが酒場で貰ったものを熱烈なおねだりの末に〝お裾分け〟してもらった物である。
「お姉様、恋ってなんですの? 恋を知っていますの?」
「ええ、ええ。狐のおばさまが言うには、とっても恐ろしいものですのよ! ねえピアニストさん、その曲もさぞおっかなくて、おどろおどろしいのでしょうね。それを弾かなくちゃなんて、きっと大変だわ。ええ。そうでしょうとも」
姉妹は初めて会った時よりも、ちょっぴりずつ大きくなっていた。妹はまだ遊び盛りのようだが、姉の方はこんな風に、何かにつけてませたがる年頃らしかった。
だが様子を見るに、何か早とちりや勘違いをしている節がある。トルペは苦笑しつつ説明を加えようとして、はた、と口をつぐんだ。昨日の酒場でのやり取りが脳裏をよぎったのだった。
「ねえ君、恋は恐ろしいと聞いたのかい」
トルペは身を乗り出して尋ねた。ここはなんでもいいから話を聞いておいて、自分の恋愛観へのヒントを探ろうという目論見だった。
「その話、詳しく教えてくれるかな。是非聞いておきたいんだ」
「お姉様。私もその話、気になりますわ」
「まあ、2人とも熱心ですのね。もちろんお教えしますわ」
姉リスは耳と背筋を伸ばしておすまし顔を作ると、真面目くさった様子でこほんと咳払いをした。そしていやに低い声で、話し始めるのだった。
「──恋というのは、怪物の名前ですわ」
妹リスの方から、こきゅ、と唾を飲み込む音がした。
「怪物は、いつの間にやら心に住み着いて、その人を狂わせますの。恋に憑かれた人は何故だかのぼせてしまって、急に暴れたり、今度はぼんやりしたり、変な事を言うようになったり、とにかくおかしくなってしまうのよ」
「まあ、怖いですわ!」
「そうですの。それで、この怪物の目当ては、実は心臓よ。鼓動をおかしくして、血を頭に押し上げて、ついにはほどよく狂った心臓を……ぱっくりと、食べてしまうの!」
「きゃあ!」
姉妹のやり取りを聞きながら、トルペはこめかみに指を押し当てて考え込んだ。多分に偏見の混じっているのを聞くに、狐のおばさまとやらは恋愛に散々な思い出があるのだろう。姉リスの語り口は無邪気だが、聞いているだけで苦く込み上げる何かがある。とはいえ、恋という現象を単純化して怪物にしてしまうのは、なかなかユーモラスな発想かもしれない。
「どうかしらピアニストさん。怖いでしょう? 少しはお役に立ちまして?」
「うん、まぁ、団長さんが聞いたら、面白がると思うよ」
「団長さんって誰かしら?」
「……菫の砂糖漬けみたいな人だよ」
トルペはそっぽを向いて頭を掻いた。動物達に団長のことを説明するのは、何故だか未だにやりにくい仕事だった。
「ね、ねえピアニストさん。その恋の曲、弾いてくださらない?」
妹リスが、ふるふると小刻みに震えながら言った。その手にあったクルミはいつの間にか消えて、今度はピスタチオを三つも抱きしめていたが、トルペは見なかったことにした。
「まだ朝だし、お姉様も居るし、怖くなんてないわ! 是非聞いてみたいわ!」
隣で姉リスが、やはり同じ様子で頷いた。多少大きくなっても、この姉妹の好奇心は相変わらずだった。トルペは笑いだしそうになるのを堪えて、わざと厳しい風を装った。
「まあ、そこまで言うならいいとも。僕も曲を完成させる使命があるからね。怖くても逃げないと誓えるなら、そこで神妙に聞いていてくれ」
そう言ってピアノに向き合うと、一度目を閉じて心を落ち着かせる。実際、彼女らに聞いてもらうのは大変にいい練習だ。トルペはぴったりと身を寄せ合う姉妹をちらりと見て、曲の最初からとびきり優しく弾き始めてやった。鍵盤の上を指が滑り、部屋に音があふれていく。
「……まあ素敵。まるで昼下がりの潮騒のようだわ」
姉リスがうっとりと言った。先ほどまでの緊張はどこへやら、尻尾をふわふわさせて、心地よさそうにしている。
序盤が過ぎて、少し運指が細かくなると、妹リスがぴんと耳を立てた。
「あら、森に風が吹きつけたみたいになったわ」
「温かくて寂しくて、不思議な曲ね」
「怪物はどこかしら?」
「まだまだ、きっとこれからですわ」
ピアニストの顔がとうとう緩み、笑みがこぼれた。トルペは姉妹の素直なおしゃべりが好きだった。それを遠く聞きながら、しかし次第に意識を集中させ始める。そろそろ、問題の場面に差し掛かる頃だった。
(恋の怪物、か……)
弾きながら、トルペは心のどこかで、さっきの話を反芻していた。作り話と分かっていても、なんとなく、心に引っかかるのだった。
(実際にそういう形で現れたとして、そいつを捕まえられたなら、僕にも恋が分かるだろうか。目に見えるとしたら、どんな姿なのだろう。心臓を食べられてしまったら、どうなるのだろう……)
そうしている内に、指の動きがさらに細かくなる。トルペは一生懸命になって、次第にテンポを上げていく。もうじきにあの部分だから、タンバリンに合わせなくてはいけない。合奏時の周りの音を思い出し、タンバリンの音を探した。
(──あれ、)
その場面に入った、はずだった。不意に何も聞こえなくなった。指は動き続けている──体に染み込むまでやった曲だから、そこは不思議ではない。ただ、急に耳だけどこか別の場所に行ってしまったようだった。弾き続けているのに、自分の心臓の音しか聞こえないのだ。
トルペは不安に駆られた。聞こえないならせめて、自分の指を見なければいけない。飴色の目を凝らすと、見慣れた白黒の向こうに、それよりももっと黒い何かが、重たげに揺れるのが見えた。
(あれは、なんだろう)
思わず動きを追って、手を思い切り動かす。鍵盤が波のような音を上げると、その流れに乗って、黒い影が舞った。
(あれは、そうか、コートだ)
気付いた途端に、影が、少しずつ誰かの姿になって、こちらへゆるりと手を伸ばした。トルペは恐ろしくなって身を竦ませた。すると、今度は白い物が鍵盤の上に現れた。
(これは、指だ)
誰かの指は、トルペの指と絡み合うように盤面を踊った。するとそこから音が湧き上がり、風になって目前をかき乱した。トルペはたまらず鍵盤に縋った。音がうねり、その合間に幽かな薄紫が揺蕩った。
(髪、だ)
トルペが混乱のまま頭を振ると、乱れた金髪から小さな星が降り、鍵盤に落ちては指先で爆ぜた。さらに音が重なり、強くなった。
恋だ、と思った。トルペは、自分が今〝恋〟を弾いていることをありありと自覚した。恋は、正しく奔流だった。彼は自身の奏でる音に呑まれていた。ああ、これを捕らえるなど無謀だ。知ろうとするなど愚かだ。トルペの胸の内が、寂しさに潰れ、掻き乱れて、滅茶苦茶になった。
この嵐のような感覚は、後奏に入るとようやく落ち着いた。いつの間にか、トルペの目は陽に照らされたピアノを映し、耳は穏やかな音色を拾っていた。鼓動だけが、先程の名残に強く早鐘を打っていた。
「……ええと」
弾き終わったトルペは、腕で汗を拭いながら、ポカンとした様子のリスの姉妹に向けて苦笑した。
「こんな感じだけど、どうだろう。練習中なもので、途中、よく分からなくなったのだけれど……」
はっとした妹リスがぴょこんと立ち上がり、手をぱちぱちと叩いた。
「とってもすごかったですわ! あの盛り上がりは、きっと怪物が心臓を食べてしまうところね。ドキドキしてしまいましたわ!」
「ええ、ええ。あんなに鬼気迫ったピアニストさん、初めて見ましたわ! 普段はぼんやりしているのに、やりますわねぇ」
「む、ぼんやりとは失礼な」
トルペが口を尖らせるが、姉妹はどこ吹く風で、尻尾をぽんぽんと振りながら窓枠の上で跳ねていた。彼は不服そうな顔をしているが、彼女らにちっとも悪気のない事は分かっているので、それ以上の追求もしないのだった。
「……でも、やっぱり不思議ね」
ふと姉リスが首を傾げると、トルペも不安を覚えて一緒に首を傾げた。
「ううん、やっぱりどこかおかしかったかな」
「まさか。とっても素敵な演奏でしたわ! でもそうね。雰囲気はあったけれど、なんだか、あんまり怖くなかったんですの」
「そうですわ。怪物さん、音だけだとあんまり怖くなかったわ。ねえお姉様、その怪物はどんな姿をしているの?」
「分かりませんわ。恋の形は、決まっていませんもの」
「……それは、どういう事だい」
どこかで聞いた話に、トルペは、背に汗が伝うのを感じた。だが演奏の嵐の向こうには、激しくもゆかしい、何者かの影が確かにあった。あれはなんだったのだろう。考える暇も与えぬまま、無邪気な声は続けた。
「恋は、その人が一番愛おしいと思う人の姿で現れるのよ」
トルペの息が止まった。彼の内側に巣食う懐かしさが、愛おしさが、急速に実体を持って、青年の内側で瞼を開いた。疑いようもなかった。檸檬色の目が、そこにあった。
彼が恋の姿として幻視したのは、他でもない、団長その人だった。
◆
恋を自覚した青年に訪れたのは、例えるなら酩酊だった。リスの姉妹と別れた後、彼はほとんど上の空で過ごしていた。椅子の上にうずくまり、愛しい人のことばかりを考えていた。それはかつての記憶であったり、まだ見ぬ想像であったり、五感に上る確かな質感であったりした。
目の前にピアノがあったが、触れる気にならなかった。窓の外は穏やかだったが、目を向けることはなかった。ただ身勝手に、一途に、彼のことを思っていた。
──『君、恋をしていないかい』
トルペの大好きな声が、意識の暗がりに反響して溶けていった。酒場での彼の言葉は正しかったのだ。ランプに照らされた、記憶の中の団長が、愚鈍な青年を嘲笑うように目を細めていた。思い返せばあの時、彼は器から干し葡萄を摘んで、口に入れて、真っ赤なそれを──噛み潰していやしなかったか。
(そうか、葡萄だとばかり思っていたのは小さく臆病な僕の心臓で、本当はもうあの人にぱっくりと喰われてしまっていたんだ)
夢とも現実ともつかぬ想い人の牙の感触に、体が指先まで電気の通ったように痙攣した。これでは指が縺れるのも道理だ。トルペの喉が自嘲に引き攣った。笑い声とも、泣き声ともつかぬ音が出た。
胸が、頭が、焼けるように熱い。渇きを覚えたトルペは、のろのろと立ち上がり机の上の水差しから水をごくごくと飲んだ。あの時の水よりもぬるく甘ったるいそれは、彼に何の感動も与えぬまま喉を落ちていった。
「……もう、寝てしまおうか」
窓の外は、いつの間にやら夕暮れに赤く染まっていた。あの人に会いたい。寝てしまえば、何の思いにも焦がされることなく、いずれは彼に会えるだろう。トルペは部屋の隅の寝台に重たい体を沈めた。
仰向けになっても、星はそこに見えない。後はもう何も考えられずに、青年は目を閉ざした。