No.4 朝食を食べるカイ三/ブロッコリーの花言葉 セミダブルのベッドの隅っこでゆるゆると瞼を持ち上げた時、かの人のために空けていたはずの空間はすっかり空になっていた。
もう何も心配することなどないはずなのに、習慣づいた思考の癖はなかなか消えないものらしい。ベッドに自分しかいないことを脳がはっきりと認識した瞬間、カイザーは勢いよく飛び起きた。
「センパイ!」
「わっ、どうしたの、カイザー君。そんなにあわてて」
寝室の扉を荒々しく開け放つと、隣室のキッチンで三春が目を丸くしているのが見えた。驚いてはいるものの呑気そのものの顔だ。その表情を見とめるとカイザーもようやっと肩の力が抜けた。当然ではあるが、無事らしい。自分の取り越し苦労が心底馬鹿らしく思えて、はあ、とため息を一つついて壁に寄りかかる。なんだか頭が少しくらくらする。寝起きに勢いよく動くものではない。
「ねえ、どうしたの。体調悪いの?」
安堵したカイザーと交代に顔を曇らせた三春が心配そうに尋ねる。
「いや、元気っスよ。そんなことよりセンパイ、ご飯作ってくれてたんスか」
冷静になってあたりを見渡すと、三春の前ではフライパンが火にかけられていて、その上では目玉焼きとベーコンがいい具合に焼けていた。パチパチと脂の跳ねる音もするし、食欲をそそるいい匂いだってする。
「うん、カイザー君もそろそろ起きると思ってさ。勝手に冷蔵庫の食材使わせてもらいました」
「いや、それは全然……ありがとうございます」
もごもごと礼を口にしている間にも、ほぼ使われることがなく置物と化していたトースターが小気味良い音を立てて加熱の終了を知らせた。「あ、焼けた」と三春がトースターの中を覗き込む。
「カイザー君、座って座って。もうあとはお皿にもりつけるだけだから」
「俺、手伝いますよ」
「いいから座って」
本当に手伝いが不要そうな様子だったので、「じゃあ遠慮なく」と断って席につかせてもらう。ダイニングチェアの背もたれに体を預け、朝日というにはじゅうぶんに昇りきってしまった太陽の光を浴びながら、不慣れなようすで料理を皿によそっている三春を眺める。自分の家のキッチンで誰かが料理してくれている——非日常な風景だな、といまだ覚醒しきらない頭で思った。
そうしてぼうっとしているうちにも、三春は数往復しててきぱきとコップや皿をテーブルに並べていった。トーストと目玉焼きとベーコン、付け合わせのブロッコリーにインスタントのホットコーヒー。コーヒーにはお好みに応じて牛乳も。簡素ではあろうが、料理の心得のない独身男性にとっては十分に手の込んだ朝食だ。
テーブルを挟んで向かいに腰掛けた三春と一緒に手を合わせて食べ始める。きつね色にこんがり焼けたトーストを頬張ると、さくりと耳障りのいい音に続いて口の中でバターがじゅわりと解けた。
「うま……」
口をついて出た言葉に、「ならよかった」と三春が嬉しそうに破顔した。
「それにしても、どうしてカイザー君の家にブロッコリーなんてあるの? 俺、ブロッコリーはじめて調理したんだけど」
付け合わせとして皿を彩る緑の野菜を見て三春が言った。たしかに、男の家にブロッコリーがあるのはかなり珍しいだろう。三春と同じく、一人暮らしを始めてこの方ブロッコリーを調理したことなぞないカイザーは、こうして食卓に並ぶまで、家にそれがあったことさえ忘れていた。
「この前大学の同期の結婚式があったって言ったじゃないっスか。その時にもらったんスよ」
「え、ブロッコリーを? 結婚式で?」
マグカップを片手に三春が胡乱な目をする。
「ブロッコリートスって知ってます?」
「いや、全然」
「新郎がブーケの代わりにブロッコリーを投げる余興らしくて」
「えっ、ブロッコリー投げんの?」
「ブロッコリーって、子宝繁栄とか健康祈願みたいな意味があるらしいっスよ」
「へえ、知らなかった。じゃ、カイザー君はめでたく縁起物をキャッチしたわけだ」
ラッキーだね、と三春が笑う。ラッキーと言えばそうなのかもしれないが、引き出物のバームクーヘン以上に処理に困ったので、もらって嬉しいかと問われると正直微妙だ。しかし。
「まあ、こうして三春さんが朝ごはんにしてくれて、それを食べる幸運に恵まれたわけだから、たしかにラッキーっスね」
そう言って一口サイズに切り取られたブロッコリーの房を口に放り込む。初めて調理したというのもあるのか、SCHで食べる完璧に火入れされたそれよりも少しやわらかい口当たりだ。でも、食材が硬かろうが柔らかかろうが、そんなことはカイザーにとって些細な問題だった。好きな人が自分のために朝ごはんをつくってくれた、それだけで十二分に嬉しい。
「カイザー君って、たまにそういうとこ……あるよね」
「え?」
声がくぐもっていてよく聞こえない。顔を上げると、三春は片手で顔の下半分を覆って、あらぬ方を見ていた。よく見ると、顔を抑える手のむこうに少し見える頬が、いつもの白い肌からは考えられないほど赤く染まっている。
「え、照れてるんスか」
思わずそう漏らすと、たちまち三春の視線がカイザーを捉えた。かたちの良い瞳が怒りを示そうと細められる。
「うっさいな! いいだろ別に!」
「そんな怒らなくても……。可愛いなって思っただけっスよ」
「ああもう黙って! はい、ブロッコリー食べる!!」
「うぐっ」
電光石火の早業でブロッコリーを無理やり口に突っ込まれ、大人しく咀嚼するしかできない。非難の意をこめて三春を見つめると、未だ赤い顔をしたままの彼が言った。
「……でも、まあ、たまにはこうしてブロッコリーを食べるのもいいかもね」
「?」
「ブロッコリーの花言葉、”小さな幸せ”って言うんだって」
目の前で愛しい人がはにかんで微笑む。窓からの光を一身に浴びる三春の輪郭がくっきりと映し出され、その姿は淡く発光するようだった。まぶしいな、とカイザーは目をすがめた。そして頷く。
「そういうの、ずっと噛み締めていきたいっスね」