No.2 節分の夜更けの話 クネヒトと三春 遠くで何かが細く長く哭いているような音がして目が覚めた。電気を消してある部屋は暗く、カーテンの向こうも同様に明かりがない。三春は覚醒しきらない意識のまま、枕元の時計を手繰り寄せた。バックライトをつけると、デジタルの文字盤は深夜2時を回った頃を示している。
まだ朝は遠いことを理解して、もう一度眠りに身を委ねようと目を閉じる。しかし不運にも、寝ようとした途端にかえって瞼の裏の意識が冴えわたってきたのを感じた。嫌な予感がしたが、睡魔が勝つのを信じて十分ほどそのままの姿勢で目を閉じたままでいる。だが、やはり眠れなかった。とうとう変な時間に起きてしまったことを受け入れざるを得なくなった三春はため息をついた。こうなったらとりあえず水でも飲もうかと、潔く目を開いて布団から這い出る。
その時、扉の外からかすかに高い音が聞こえた。悲鳴のような音。三春を覚醒へと導いたそれとよく似ていた。
その音を無視するのは簡単だったはずだ。だからこれはまったく魔がさしたとしか言いようがないのだが、三春は少しの間だけ躊躇った後、部屋の扉をそっと開けて外に出た。消灯後の寮の廊下は、ところどころに非常灯がぼんやりと照らす以外はひどく真っ暗だ。
体温を容赦なく奪っていく冷気に腕をさすりながら、三春は音の方へとゆっくりと近づく。足元に敷かれた重厚な絨毯が靴音を完全に吸収するので、廊下には三春の微かな息遣いと不気味な音だけが聞こえていた。
音に惹き付けられるようにして暫く歩みを進めた三春は、部屋からだいぶ離れたところで、はたとあることに気づいた。音に近づこうとしていたはずなのに、いま、その音は背中の方から聞こえている。足を止めた三春の背中のほうで、音は途切れることなく聞こえている。それは徐々に大きくなっているようだった。
何かが近づいてきているのだ。得体の知れない何かが。
それに思い至った三春の背筋が凍った。どうしてふらふらと外に出てきてしまったのかと、いまさらながらに己の短慮を呪う。そうしているうちにも、音は背後からどんどん近づいてくる。いや、背後からというのも厳密には違う。前から、後ろから、あるいは頭上のほうから。はじめは途切れ途切れだったはずの音が、今やはっきりと、ありとあらゆる方向から耳を打っていた。
逃げなければと頭は警鐘を鳴らすが、ここにきて身体は金縛りにあったように動かなかった。音が近い。細く、しかし途切れることなく続く耳障りのする音。ふと、ある予感がした。そしてそれはすぐに確信に変わった。
なにか、いる。
そう思った瞬間、目の前の闇が僅かにうごめいた。咄嗟に目を閉じる。心臓が早鐘を打っていた。音はいつの間にかすぐ目の前で聞こえている。逃げなければ。目を開かなければ。心臓の音が体内でひどく反響するのを他人事のように聴きながら、三春は瞼を持ち上げようとした。
「見てはだめだ」
その瞬間、開きかけた目を何かに塞がれる。驚いてこわばる身体は背後から抱きすくめられた。ほのかに甘い——乳香の香り。この香りを纏う男を知っている。
「クネヒト」
その名が口をついて出た。うん、と耳元で肯く声がする。
「じっとしていて。僕がいいというまで、けっして目と口を開いてはいけないよ」
穏やかだが有無を言わせぬ口ぶりに、三春は声なく頷いた。すると、目を覆っていたもの——おそらくクネヒトの手——が外され、少しおいて、三春の頬の脇を風がそよいだ。クネヒトが腕を振ったようだった。次いで、頭上で鈴の音のようなものがきこえる。
「Manes exite paterni」
クネヒトが発した言葉の意味は、三春にはとんと見当がつかなかった。ただひとつ、はっきりと理解できたのは、クネヒトがその言葉を紡いだら、ずっと聞こえていたあの恐ろしい音が消えたということだけだった。
「もう大丈夫。三春君、目を開けていいよ」
そう言ってクネヒトの体が離れていく。三春はそっと目を開いた。目の前には変わらず、暗い夜の闇があるのみだ。
「いったいなんだったんだよ、あれ……」
三春は振り返ってクネヒトを見た。深夜だと言うのに黒のサンタ服を乱れなく着込んでいる男は、憎らしいほどに美しい顔を困ったように歪めた。
「三春くんが豆をまいたから、引き寄せられてきたみたいだね」
「は?」
「終業後、志乃やカイザー君たちと僕に豆をぶつけにきただろう」
「ああ。それは、節分だったから」
ちょうど日本では節分にあたる日だったので、「珍しく余ったから」と鉄平君が持ってきた大豆をみんなで撒きあったのだった。鬼役をどうするかという話になって、いちばん鬼のたぐいに見えるクネヒトの執務室に押しかけ、ゲリラ的に豆を投げつけたのだった。
「でも、それがなんで今の話に繋がるんだよ」
「実はね、他の国にも節分と同じような風習があるんだ。レムリア祭っていうんだけど」
「レムリア祭?」
「そう。現世を彷徨う死霊を祓う祭事でね。レムリア祭でも豆をまいて悪しきものを追い払うんだ。でも、手順が踏まれてないから、祓いきれずに留まってしまっていたようだね」
「全然わからないんだけど……」
どうも悪霊がこの場にいたような口ぶりだが、そんなファンタジーなことがあっていいのだろうか。三春は疑問に思った。だが、目の前にいる胡散臭いサンタが実在するくらいなんだから、悪霊の一つや二つ、ほんとうにいるのかもしれない。
とはいえ釈然としない三春に対し、クネヒトは薄く微笑みかけた。手袋に包まれた手が、三春の剥き出しの手を取って優しく包む。
「まあ、そんなことはどうでもいいさ。三春君の手がこんなに冷えてしまってることの方が大問題だ。寮の部屋に戻る前に、僕のところであたたかいものを飲もう。ラム酒とシナモン入りのココアを淹れるよ」
返事も待たずクネヒトの片方の手が三春の腰に触れ、歩を促すようにそっと押すので、うやむやにするつもりだなこいつ、と直感した。平素こういうところが三春の神経を逆撫でするのだが、今ここにおいてはクネヒトの指摘もまた事実。恐怖による一種の興奮状態がおさまってくると、身体が底冷えしているのがはっきりとわかった。あたたかいココア、飲みたいかもしれない。
「仕方ないな。成り行きとは言え助けてもらった義理もあるし、一杯付き合ってやるよ」
あえて不遜な態度で言えば、闇の中でも発光するように美しい瞳が笑みのかたちに細まった。
「豆を投げられた甲斐があったね。福は内、だ」