牙を隠した獣ども「お日様の香りだあ」
「癒される〜」
「おい、お前らあんまり引っ付くな。迷惑だろうが」
「ンなこと言ってる伏黒が一番近いじゃん」
「ちゃっかり隣陣取って、イヤラシイわよアンタ」
「あ?」
「ちょっと皆さん、落ち着いて……」
珍しい光景を見かけたのは、高専敷地内にある大木下のベンチだった。近くを通りかかった時やたら騒がしい様子だった為に見てみれば、俺と同時期に高専にやって来た一年生の三人が伊地知さんを揉みくちゃにしていたのだ。二人は首元に抱きついて、もう一人は伊地知さんに並んで座っている。
「お日様の香りだなんて初めて言われました。そんなに臭いますか?」
「するする。でもほんのり香ってくるって感じだよ」
「特に首元ら辺よね」
そう言った二人――――虎杖くんと釘崎さんは伊地知さんの首元に顔を近づけた。
「ちょうど太陽が高く昇っていて浴びているからではないでしょうか?」
「それはないですね。俺達アルファは鼻がいいんで、わかります」
「え、じゃあこの臭いは一体……?」
「もともと伊地知さんが持つ香りですよ。フェロモンとは違って、ベータの人達にも生まれ持ったにおいがあります。体臭に近いようなもんです」
「た、体臭…………あの、臭くないんですか?」
「ぜ〜んぜん! すげぇ安心するにおい」
「抱き枕にしたいくらいよ」
「ぽかぽかした気分になりますね」
学生達にされるがままの伊地知さんは三方向から引っ付かれて嗅がれては尚も揉みくちゃにされている。それでも嫌な顔ひとつせずに受け入れている姿を見ると、案外こういうことはよくあることなのかもしれない。
それにしても、伊地知さんに絡む学生の子達はまるで――――、
「犬みたいだな……」
世の中には男と女といった性別の他に、バース性というものが存在している。バース性は、アルファとオメガ、そしてベータの三つの性で分かれていて、アルファとオメガに限っては、特性もあり性差もある。
身体能力と知性や容姿に優れた者はアルファ性に多く、誰もが目を惹かれる見目麗しい者はオメガ性に多い。そして、その二つの性にしか持ち得ないフェロモンが、互いを惹き寄せ合わせて、アルファとオメガを〝番〟にさせる。これは、世間一般では常識なことで、その常識範囲に外れた者は嗤われるのだ。そう、例えば、身体能力も知性も凡人レベルなのに、バース性はアルファである俺のような奴は。
俺のバース性がアルファと知った時、ベータの両親は大層喜び俺に期待した。けれど、ベータ性をもつ親の元に生まれた俺は、どんなに努力をしても強靭な身体能力や優秀な頭脳など持ち得ることができない、限りなくベータに近いアルファだった。アルファなのに、なんでできないの、と何度も親に罵られては、ベータに産まなかったお前らが悪いんだろ! と何度も言い返していた。
アルファであれば手に入れることができるはずなのに、何をしても俺にはできない。そんな運命が分かっていたのなら、元から俺はベータに生まれたかった。産んでほしかった。何もできないアルファの自分なんて、嫌いだ。自分のバース性を知ってからずっとそう思っていた。
けど、アルファとしての特性は何も持っていない俺でも、ひとつだけ人とは違った能力があった。〝呪い〟という人や動物とは違う存在を視ることができることだ。そのおかげで、俺は今呪術高専にいることができている。
しかし、そこでも俺はアルファの特性を発揮することができないが為に、アルファ性が多い呪術師ではなく、ベータ性が多い補助監督として勤めている。勤め始めたばかりの時は呪術師に憧れを抱いていた。けど、今はそうでもない。なぜなら、補助監督の中にいるからだ。
伊地知潔高――――俺が憧れている人の名前だ。
初めての外仕事は術師の任務に同行する補助監督の付き添いだった。任務を請け負う術師は、この界隈にいれば誰もが知る特級呪術師の五条さんで、同行補助監督は伊地知さんだった。
「同行任務は初仕事となりますが今回は私の付き添いですので、お手柔らかにお願いしますね、五条さん」
「ハイハイ」
「よ、よろしくお願いしますっ」
「ハイよろしく」
すげぇ、この人があの五条悟! 目隠しがちょっと変だけど、かっこいい! と内心に留めようと思っていた興奮は抑えきれずに、少し上擦った声で俺は挨拶をした。けど仕方がないではないか。目の前には、呪術師を目指していたことがある者なら必ず一度は憧れを抱く最強の呪術師だ。……そして、アルファとしても五条悟という存在は妬みを持つことなど許されない程、別格の人である。強靭な身体能力、優れた知性に美しい容姿、家柄も良くて…………五条さんはなんでも持ち得ているのだろう。
「あまり緊張し過ぎずに。今日は私の動きをよく見て流れを理解してください。少しでも分からないことがあれば、遠慮なくいつでも聞いてくださいね」
温かい手のひらを背中に添えられながら、穏やかな声でそう言われる。不思議とやる気が漲るような感覚になった俺は、はいッ! と思っていた以上に大きく張った声で返事をしてしまっていた。
「(は、恥ずかしい……)」
羞恥心で若干顔を伏せると、元気だねぇ、と軽い調子な声が落とされた。
「まぁ伊地知のことよく見て学びな。一緒に働けるのそうないだろうし、為になると思うよ。頑張って」
トンとでかい手のひらで肩を叩かれて、気持ちが高揚する。憧れの術師である五条さんから声援を送られた俺は、感激のあまり何度も頷いて返すことしかできなかった。
「じゃあ伊地知、いってくるから」
「はい。お気を付けて、五条さん。……帳を下ろしますね」
次に伊地知さんの方へ顔を向けた五条さんは、軽い口調ではなく柔らかく言葉をかけていた。そして、伊地知さんもいつもより凪いだような面持ちで言葉を返す。
二人は言葉を交わした後、数秒間見つめ合っているようだったが、すぐに降ろされた帳に遮られた。若干しんみりとしたような雰囲気を纏っていたように見えたが……気のせいか。そう思い直した俺は、伊地知さんの一言一行も見落とさない為に、用意していたメモ帳とペンを手に構えたのだった。
「すっっっっごいスね伊地知さん! 俺、感動しちゃいましたよ!」
山道を下る車体は不安定だ。時折道に転がる小石を踏んでは縦に揺れて、身体に振動を与えてくる。けど、そんな些細なことを気にしない俺は、助手席から身を乗り出す勢いで運転する伊地知さんへ話しかけていた。
五条さんを見送った後、伊地知さんの元に訪れたのは連絡の嵐だった。山中に鳴り響く電話の着信音とメッセージアプリの通知音は途切れることを知らずに、伊地知さんがひとつ解決したら待っていましたとばかりに次の連絡が来る。何度捌いても終わらない。その恐ろしい光景に俺は頭が真っ白になりかけたが、そんな俺を他所に伊地知さんは慣れた動きでタブレットを操作しながら、電話対応とメッセージの返信に打ち込んでいた。
話す内容も無駄がない。相手先がどういった人達なのかはわからないが、伊地知さんの返答でどういった内容の連絡なのかは推察できる。その上で、伊地知さんの迅速な判断力に的確な采配力と洞察力は目を見張るものがあって、気付いたら手元にあるメモ帳は俺の汚い文字で埋め尽くされていた。
この人、ベータなのにすごい。きっと俺以上に努力を積み重ねてきた人なんだ――――そう思い始めた時には、俺の意識はすっかり五条さんから伊地知さんへ移ってしまっていた。
「そんな大したことはしていないですよ。君にもできることです」
「いや、できないッスよ! 短時間であんなに捌けないです……なのに伊地知さんは……あ〜すげぇなぁ」
かっこいい――――興奮冷めやらずといった具合でそうぽろりと溢す。いやだって仕方がない。マジであの時の伊地知さんはかっこよかった。
「かっ、かっこいい?」
すると、それまで平然とした表情でいた伊地知さんが、どこか困惑したような顔を見せた。
「マジでかっこよかったです。シゴデキな大人の男! て感じで」
「いやいやいや、そんな、あの……私には当て嵌まらない褒め言葉ですよ……」
はは、と気まずげに伊地知さんが笑う。やべ、こういうの苦手なタイプだったか? と一瞬焦りを覚えたが、助手席から見る伊地知さんの耳が赤く染まっているのが目に入り、これはもしや照れているのかもしれないと気付いてからは、俺の口は伊地知さんを賛辞し続けることをやめなかった。
「ねぇ」
――そして数分後くらいか。後ろからかけられた低い声に、俺は咄嗟に口を閉じたのだ。
そういえば後ろに五条さんがいたのを忘れていた。……うるさかったよな? 任務後の術師を気にせずに、伊地知さんばかり気がいっていたことに自省した俺は、できる限り身体ごと後ろへ向いて五条さんへ謝罪する。
「すいませんでした五条術師。任務でお疲れなのに、うるさくしてしまって……」
「別に疲れてないからいいよ。それよりもさぁ、もう少し下ればコンビニあるでしょ? そこ寄ってくんない?」
頭を下げる俺にそう返した五条さんは、前の座席の背もたれに腕をかけて顔を出す。普段ならあり得ない距離の近さに俺は慌てて前を向いた。目元は隠れているけど、通った鼻筋と形のいい唇、それとはっきりとした輪郭で、美形であることは容易く想像できる。目隠しを外したら世界中のオメガを番にできるんじゃないか、この人。
「あの駐車場が広いコンビニですか?」
「そう、そこ。ちょうど帰り道の真ん中にあるし、休憩してこーよ。伊地知もずっと運転してんの疲れるだろ?」
「甘いものがほしいだけでしょう、五条さん」
伊地知さんに話しかけるタイミングを見失ってしまった俺は、小気味いいテンポで繰り返される二人の会話を小耳に挟みながら、窓から流れる風景を眺めることにした。山間を下る道は緑に囲まれていて、見える景色は変わり映えがない。
「(暇だ……)」
そして、呆けたように山を眺めること数分。気付いたら見晴らしのいい道路に出ていて、しばらく走行した後、道沿いのコンビニに車は入っていった。
「では買ってきますので。五条さん、どんなものがご希望ですか?」
シートベルトを外しながら伺う伊地知さんに、五条さんは、伊地知が選んで、とひと言返す。
「伊地知さん、俺も行きますっ」
伊地知さんに倣ってシートベルトに手をかけた俺は、車から降りようとする伊地知さんへ声をかける。もう一度話せるチャンスだ! 少しでも仕事のノウハウを聞き出せたら、とシュルッとベルトが巻き戻される音を聞きながら俺はドアノブに触れた――――と同時に、俺の肩を掴んでくる手に、車から降りることを遮られたのだ。
「休憩だからさ、ゆっくりしてなよ」
「あ、…………ハイ」
肩を掴んでくる力はさほど強くはない。けど、軽い口調の中から感じる重圧に俺は逆らうことができなかった。
「よければ君の分も買ってきますよ。何がいいですか?」
「が、がぶ飲みメロンソーダがいいです……」
「ふふ、わかりました。すぐ戻りますので、待っててくださいね」
ほんのりと笑った後、伊地知さんはドアを閉めてコンビニへ向かって行った。普段纏っている雰囲気がガラリと変わるようなその笑顔に何故かソワソワとする――――が、肩を掴む手に力が込められていくのをまざまざと感じた俺は、すぐに竦み上がるような気分になったのだ。
「がぶ飲みメロンソーダ好きなんだ? 僕も好き」
「あ、ハイ。美味いですよね。俺、昔から大好きなんデス」
「へぇ〜〜そうなんだ。僕も昔から大好き」
「え、そっ、そうなんですね」
「うん。一緒だね」
「そうッスね、一緒ですね、ハハハ……――――ッ!?」
ギュッと肉を剥ぎ取られそうなほど肩を鷲掴まれた俺は、口から飛び出してきそうな悲鳴をなんとか呑み込んだ。後部座席から放たれる威圧と怒気の原因がわからず頭が混乱する。けど、このまま無視を決め込むのは良くないと本能で理解した俺は、ゆっくりと、それはもうスローモーションのように、恐る恐る後ろを振り向いた。
――――俺に尻尾が生えていたのなら、ケツを覆うほど巻いていただろう。
「好み、一緒だね?」
獰猛な獣が牙を剥き出す姿に、俺の中にいる獣になり損ねたモノが、クゥンと鳴いた。
コンビニから高専までの道がデスロードと化した帰り道、助手席に座る俺はひたすら背後の殺気から逃れるために外の景色を眺めては、綺麗ダナ、なんて思ってもいないことを口にしてやり過ごしていた。
ーー中略ーー
「そりゃお前、自分の恋人が他の男からデレデレ口説かれてたらキレるだろうが」