屋烏の愛 大学の講義が休講の日、いつものように幼馴染みの彼女と出掛けていた日のことだ。私の隣を歩いていた彼女が突然立ち止まり、ある一点を見つめるかのように、じっとそこから視線を外さなかった。目をほんの少しだけ見開いている姿は普段見られるようなものではなく、珍しく彼女が戸惑っていることがわかる。何事かと思った私は彼女と同じように立ち止まり、彼女の視線の先を追う。そして、私は彼女と同じように目を見開いたのだ。
街の雑踏の中、周囲と比べるまでもない飛び抜けた身長と幅広い肩幅をもった男が二人。それぞれの髪の色は白と黒で、見事なコントラストだ。ワハハ、と笑い合う声が人混みの喧騒音に紛れてもこちらまで聞こえてくる。今世では初めて聞くのに、知っている声。あの時と変わらない声。けれど、あんな大口を開けて少年のように笑う姿を見るのは〝初めて〟だった。
ーー中略ーー
物心がついた頃には、すでに彼女は私の隣にいた。……いや、〝いた〟という表現は少し違うか。どちらかというと、私が彼女の後を「しょうこちゃん、しょうこちゃん」としつこく着いていたものだ。
彼女が生を受けた約二年後に私は生まれた。そして、彼女が齢七歳の時に、六歳となったばかりの私は家族と共に彼女が住む家の隣に越してきた。潔高と歳が近い女の子がお隣にいるのよ。一緒にご挨拶へ行く? と母に誘われて彼女の家に伺ったのが、彼女との出会いだ。当時から前に出ることが得意ではなかった私は、母について行ったのにも関わらず、碌に挨拶もしないで母の足元に抱きつきながら後ろに隠れていた。成人を過ぎた今では大変失礼な態度だったと思うが、彼女のご両親も、そして彼女も、そんな私を温かく見つめては優しく声をかけてくれたのである。
「いえいりしょうこ。よろしくね」
歳の割には落ち着いた声だったことを記憶している。けれど、不思議とその声に安心感をおぼえた私は、先ほどまでの態度はどこへやら、パッと母の足元から離れると、手を差し出してくれていた彼女の手を取ったのだ。
「いじちきよたかですっ。よろしくおねがいしますっ」
力加減がわからずにぎゅっと強く握り返す。そんな私に彼女は緩りと口元を綻ばせて、きよたかね、と笑ってくれて、私はひどく心が満たされる心地になったものだ――――――今思えば、それは安堵感に近いものだったと思う。
そんな彼女との出会いが、実は〝二度目〟だったと気付いたのは彼女の名前を文字で見た日のことだ。小学生となって習い始めた漢字の宿題を自室でしている時、私の部屋に遊びにきていた彼女に「しょうこちゃんの名前ってどう書くの?」と訊ねたのがきっかけだった。
私から鉛筆を借りて、漢字ドリルの隅っこに彼女は自分の名前を漢字で書いてくれた。
〝家入硝子〟
――――その四文字の漢字が名前となって現れた時、私はそこから目を離すことができなかった。初めて見るはずの名前なのにとても見覚えがあるように感じてしまったからだ。
「しょうこちゃんの名前って、よくいるの?」
「さぁ? 調べたことがないから知らない。……どうして?」
「なんか、見たことがあるような気がして……」
彼女の名前を指先でなぞりながら、私はまだ短い人生の記憶を呼び起こそうとする。彼女の名前が、こんなにも慣れ親しんだように感じるのはきっとどこかで見たことがあるのかもしれない、と記憶の中を探すがやはり思い当たる箇所がなく………結局は自分の思い違いかとこの時は結論づけた。
その日の夜に見た夢で、その結論こそが思い違いであったとは知らずに。
――――――これは夢だ。そうはじめに思ったのは、見える視界が高く、また私自身の手が大人のように大きかったからだ。
私は、小学校の保健室と似た造りの部屋にいた。丸い椅子に座り誰かと話している。名前の知らない長い髪の大人の女性と。なんとなくだが〝彼女〟が大人になったら、こんな女性になるんだろうな、と夢の中で女性を見ながら私はそう思った。
会話の内容は聞こえない。周りの音もしない。まるで、無音のテレビを観ているかのような夢だ。けれど、目の前にいる女性の口が動いているのが見えるのと、私自身が口を動かしている感覚はするから、私と女性は二人で会話をしているのだとわかるのだ。
目の前の女性は、私と会話をしながらデスクの上にある用紙に何か書き連ねていた。伏せがちの目の下は青く、あまり顔色は良くなさそうである。ふと、夢の中の私は女性から視線を外して、室内にある窓を見た。外は夕闇に染まりかけていて窓が鏡代わりに私の顔をうっすらと写してくれている。頬が少し痩けていてやつれ気味な顔は健康的とは言えないものだった。目の下のクマがひどい。少し赤みもみられるから、もしかして泣いていたのだろうか。
「アイツの言葉を借りるなら、私達もついに二人になってしまったな」
突然、耳に届いた大人の女性の声をきっかけに周囲の雑音も聞こえ始める。女性が紙にペンを走らせる音、風が窓を叩く音、軽く身動きするだけで椅子が軋む音。様々な音が、夢の中とは思えないほど鮮明に私の脳内にまで入ってくる。
「……あの人が言った時にも思いましたが、私も〝含まれて〟いるんですね」
そして、馴染みある大人の男性の声が私の内側から発せられた。
「何言ってんの、当たり前だろ。君は私達にとって、とても大切な後輩なんだよ」
「大切だなんて……そんな……、」
女性から送られた曇りがない言葉を素直に受け取ることができなかったのか、私は否定の言葉を吐こうとしていた。しかし、それよりも先に女性がペンを乱雑に放り投げて立ち上がったことで、言葉の続きは遮られてしまう。
「一服したくなった。ちょっと付き合ってくれる?」
「……はい」
女性の後を追って外に出る。白衣の下に忍ばせていたのか、煙草を取り出した女性は慣れた手つきで火をつけ燻らせ始めた。そして、深く吸い込んで長く煙を吐き出すことを数回繰り返した後、まったく、と女性が吐き捨てるかのように呟いた。
「あんなものを私に作らせるな、クズどもが」
小さく吐かれた悪態は、音となって消えていった。女性の言う〝クズども〟とは一体誰を指しているのか。また、私に背中を向けている女性がどんな表情を浮かべているかなどわかりもしない。けれど、夢の中の私にはきっと安易に理解し、想像できたのだろう。女性から数歩下がったところにいた私は、ゆっくりと近づく。しかし、かけるべき言葉を見つけることはできなかったのか、私はただ静かに、どこか寂しげな背中を見守ることしかできなかった。
「……悪いな」
何に対しての謝罪だろう、と疑問に思った。けれど、私に対して女性がそう口にしたのはこの場の雰囲気で察することができた。いいえ、と囁きながら、夢の中の私は首を小さく横に振る。
「日が落ちると冷え込んできて寒いですよ。……そろそろ戻りませんか」
「……冷たいものには慣れてるから、平気だよ」
どこか引っかかりをおぼえるような言い方に漠然とした不安が私の中で広がった。このまま女性を一人にしてはいけないような気がする。だから、咄嗟に女性の手を握ったのは夢を見ている私の意志か、それとも夢の中の私が起こした行動か……定かではなかった。
「私が寒いんです。コーヒーを淹れますから……暖まりましょう」
私に手を握られた女性はしばらくしてから、わかったよ、と私の誘いを呑み込んだ。燻りかけた煙草をしまって建物の中へ戻る女性の後ろに、私は女性から手を離して、もう一度ついて行く。女性が着る白衣の裾が歩く度にヒラヒラと揺れていて、覗くヒールがカツカツと音を鳴らしている。ふと、〝よく見る光景だ〟と思った。私はこの女性の後ろ姿をよく見ていたような気がする。けれど、何かが足りない。
何か…………――――そうだ。私はこの人だけの後ろ姿を見ていたわけではない。もう一人、この人の隣に並んで歩く人の後ろ姿もよく見ていたはずだ。
女性の歩幅に合わせて歩くショートブーツ。黒ずくめの服。背が高く、頭には黒いバンドのようなものをつけていた。そして、視線を惹きつける輝く白い髪。
〝彼女〟を一人にした〝あの人〟の姿を、私はよく後ろから眺めていたはずだ。
「あたたかいな」
給湯室で、私が淹れたコーヒーを口にした彼女は、そうほろりと言った。
「暖まりたい時は、やはりホットコーヒーですね」
「……いや、ハハ、そうだね。でも、そうじゃなくてな」
カップを両手で包むように持った彼女は目元を綻ばせて笑い、私を見つめた。
「君のことだよ―――――――伊地知」
目を開けた時、自室の中はまだ暗闇だった。ベッド脇にある窓はカーテンが締め切られていて、隙間から差し込む月の光も控えめで心許ない。
夜はまだ冷え込む時期のはずだが、身体中の水分が抜けたのかと思うほど私の身体は汗で濡れていた。なのに、目から溢れ出る涙は枯れることを知らないかのようにとまらなかった。
―――――焦燥感。その感情に駆られるがままに起き上がり私はベッド脇にあるカーテンと窓を勢いよく開けた。私の家と彼女の家の間はフェンスで仕切られているわけではないから、すぐ手が届く距離に彼女の部屋の窓がある。夜中だが躊躇いなく私は腕を伸ばして何度も何度も窓をノックした。
彼女の名前を呼びたかったが、嗚咽ばかりが口をついていて上手くいかない。涙は止まらず視界が霞んでいて、冷たい夜風で目がしみる。目を開けているのが正直辛かったが、彼女の顔を確認できるまでは私の身体中を巡らす焦燥感は収まりそうになかった。
「……どうしたぁ? こんな夜中に……」
時間にしては数分か。やがて開かれた窓から現れた彼女は、眠気まなこな目を擦りながら私に聞いてくる。けれど、一向に答えようとしない私を不審に思ったのか、彼女は伏せぎみにしていた顔を上げた。
「…………本当にどうした? 潔高?」
こちらに向けられた黒い瞳が驚きを隠すことなく大きく開かれた後、気遣わしげなものに変わる。きっと彼女から見える私の顔は涙と汗でぐしゃぐしゃに汚れていて見れたものではないだろうに、目の前にいる彼女はそんな私に不快を表すことなく、寄り添うように優しく訊いてくれるのだ。…………いつも。
「えいざん……っ」
泣き過ぎて嗄れた、ひどい声だった。それでも私はどうしても彼女の名前を呼びたかったのだ――――――〝あの頃〟のように。
「ざっ、ざむぐなかどッ……おっで! ヒッ……っおそぐにッ、ゔぅっ……ごめんなざ……ッ!」
本当はもっと彼女に伝えたいことがあったのに、今の状態ではこれが精一杯だった。
パジャマの袖口でゴシゴシと涙を拭き取る。子供のように泣いてしまって情けないと思いつつ、今の私は子供だったと気付く。夢だと思って見た〝前世の記憶〟を思い出してもなお私の感情は大人の時のようには上手くコントロールすることができず、感情の赴くままに身体が反応してしまって涙は流れ続けた。
「…………思い出した?」
彼女の問いかけに顔を俯けたまま、こくりと頷く。
「そうかぁ……なら、仕方がないか……」