散々な一日 バタバタと誰かが走る音がする。緊急事態だろうか。寝そべりながら書を眺めていた魏無羨は、あまりの慌ただしさに身を起こしながら気を引き締めた。「廊下は走るべからず」の家規に則って、藍氏の者はよほどのことでも走らない。それがこんなにも音を立てて走っているのだから、きっととんでもないことが起こっているのだろう。こちらに向かってきているであろう弟子の姿を想像しながら、魏無羨は険しい顔つきで扉を引いた。
そこには確かに姑蘇藍氏の校服を纏った人物がいたけれど、今はいるはずのない人物が立っていた。
「藍湛」
仙門百家で行われる夜狩に監督役として参加するため、藍忘機は明日まで不在のはずだ。どうしてと思い、それほどの緊急事態なのかと息を飲む。普段、夫夫で睦み合う時以外は髪一つ乱すことがないのに、今は息が乱れているし抹額も心なしか曲がっている。どれだけの邪祟が現れたらこんなにも取り乱した様相になるのだろう。何を言われても驚かないという覚悟をもって藍忘機からの言葉を待つ。
「魏嬰……」
「ああ。何があったんだ?」
「魏嬰、魏嬰」
「……藍湛?」
藍忘機はひたすらに魏嬰、と己の名を呼んでくる。魏無羨は首を傾げた。藍忘機はどこからどう見ても切羽詰まっているが変事ならこうはならないだろう。逃げろなり協力してほしいなり、次の言葉があるはずだ。
見たことのない道侶の様子に困惑していると、突然きつく抱きしめられた。
「どうしたんだよ藍湛、随分と情熱的じゃないか」
「魏嬰、君がいてくれてよかった」
「なんだって?」
突拍子もない言葉にギョッとする。何かの拍子に心寂しくなった時や互いの熱を感じている時は心の内を言葉にすることもあるけれど、今は全くそんな雰囲気ではなかった。素っ頓狂な声を上げる魏無羨に反して、藍忘機は抱擁を強くする。
「私の幸せは君と共にある。君がいないと始まらない、君がいないなら意味はない。どんな時も君と一緒がいい」
「今年も来年もその先も、君の傍に在りたい。君に好きなものを食べさせたい。いくらでも天子笑を飲ませたい。うさぎを追いかける君をずっと眺めていたい」
魏無羨のお喋りがうつったのではないかと思うくらい藍忘機は愛の言葉を紡ぎ続ける。一年分は喋っているんじゃないだろうか。普段が無口なだけに感動よりもそんなことを先に思ってしまった。
藍忘機は飽きることなく言葉を綴っていく。まるで何を言葉にしても満足できないかのようだ。溢れてくる気持ちを止められない、ような。
(ああ、そうか)
不意に悟る。ようなも何も、藍忘機は溢れてくる気持ちを止められないのだ。
脳裏に浮かぶのは少し前、唐突に姿を現した江晩吟の姿だ。今度の夜狩では彼も監督役として参加する予定だったはず。それで知ったのだろう。
「江澄に聞いたのか?」
「……当日に祝いたくないのかと尋ねられた」
それはまごう事なき嫌味だ。
「ったく、江澄のやつ」
抱きしめられたまま魏無羨は唇を尖らせる。確かに口止めはしなかったけれど喋るとも思っていなかった。今さら江晩吟が、自分から魏無羨のことを話題に上げはしないだろうと油断したのがいけなかった。近いうちに知られることではあるが、今日はまだ隠しておくつもりだったのに。
あと数時間もすると魏無羨の生まれた日がやってくる。魏無羨はその日をいつもと同じように、誰に祝われるでもなく過ごすつもりだった。合同夜狩がその日に決まり、藍忘機が前日から夜まで帰ってこられないのだと知ってもいつも通り振る舞った。おめでとうと、言ってもらっていいのかわからなかったからだ。
金丹を持たない魏無羨にとって、誕生日を迎えることは老いることと同義だ。歳を一つ重ねるたびに道侶を再び置いていく日が一歩近付く。いくら魏無羨が無神経で面の皮が厚くても、それを実感しながら祝いの言葉を受け取れるほどじゃない。だから誰かに尋ねられるまで黙秘すると決めた。
江澄が前触れもなく現れた日、魏無羨は迂闊にもその心境を吐露してしまった。最も言ってはいけない相手に聞かせてしまった自覚は在る。珍しく引いた風邪をきっかけに将来のことに思いを馳せて、弱気になっていたのだ。その結果がこれなのだとしたら自業自得なのかもしれない。
「あーその、悪かったよ。お前も忙しそうだし、わざわざ言うことでもないかと思って」
「それだけではないだろう」
「まぁそうなんだけど」
なぜ誕生日を黙っていたのか。聡い道侶は相変わらず魏無羨の心の奥までお見通しらしい。
「もっと前から知っていたら君にあげる物も、料理も、いくらでも考えられたのに」
時間が足りない、と悔しそうに藍忘機が呟く。魏無羨は身を離して、子どものように拗ねる道侶の顔を見上げながら苦笑した。
「いくらなんでも張り切りすぎじゃないか? 子どもならともかく、俺はいい大人だぞ」
「君は三歳なのだろう?」
「それはものの例えじゃないか。俺はもう張り切ってお祝いされるような歳じゃないよ」
頭を撫でながら諭してやったが、藍忘機は首を横に振った。
「いくつであっても関係ない。君がいなかったら今の私はいなかった。この幸せはどこにもなかった。だから、君が生まれてきたことにお礼を言いたい」
『誕生日はね、ありがとうを伝える日なの。生まれてきてくれてありがとう、私達と出会ってくれてありがとう。そういう気持ちをいっぱい伝える日。だから、隠してちゃダメなのよ。私達が阿羨にお礼を言えなくなっちゃうでしょう?』
――懐かしい言葉を思い出した。二十年以上前、今と同じように誕生日を黙っていた魏無羨は、当日になってそれがバレて江家の全員に叱られたのだ。あの日、魏無羨は江厭離の怒りを初めて目にした。そうして誕生日がいかに大切なものかを教えられたのだ。
「そっか……そうだったな」
「魏嬰?」
「忘れてた。誕生日って『おめでとう』だけじゃないんだよな」
頬を一筋の涙が伝う。悲しいわけじゃない。ただ嬉しいと思った。誕生日を迎えられたことがとても嬉しい。先ほどまであんなに乗り気じゃなかったのに、現金だけれど藍忘機の言葉で全部ひっくり返されてしまった。
魏無羨の様子に僅かに目を見張った藍忘機は、次の瞬間には嬉しそうに微笑んだ。その表情を見られただけでもとびきりの贈り物である。まだその日を迎えるまで数刻あるのに、さっそく貴重なものを送られてしまった。
「なぁ藍湛、俺の誕生日を祝いたいならぴったりのものがあるよ」
「それは何?」
「わかってるだろう? 藍二哥哥」
抹額に手を伸ばす。藍氏の戒めであるそれを解こうと指を絡めて――藍忘機の手によって阻まれた。
「……へ?」
「今は駄目だ」
思いもよらない拒否に魏無羨は目を瞬かせる。
「なんで? 天天なのに? もしかしてめちゃめちゃ疲れてる?」
質問の全てに藍忘機は首を横に振る。
「今抱いたら明日、君が動けなくなってしまう」
「そんなの今更じゃないか」
「君に礼を言いたいのは私だけじゃない。思追も景儀も、君の生まれた日を祝いたいだろう」
魏無羨は耳を疑う。他の師弟達のことを思って魏無羨の体を労る。それは公明正大な含光君らしい言葉だが、魏無羨の道侶である藍忘機らしくない心の広さだ。
「どうしたんだよ藍湛、俺が色んな奴に囲まれていいのか?」
「……良くはない。けど、目を瞑る」
皆に囲まれている方が君の誕生日らしいから。
そう告げられて、魏無羨はとてつもなく泣きたくなった。本当にこの道侶は、魏無羨の幸せばかり優先してくれる。
「それに」
「うん?」
「とっておきは最後まで取っておく方がいいと聞いたことがある。だから私は最後でいい」
魏嬰、と名を呼ばれる。自分を見下ろす玻璃の瞳は,、魏無羨の幸せを願う優しい言葉とは正反対にギラギラと光っていた。
「明日の夜は覚悟して」
……もしかしたら明日の晩、自分は二倍抱かれるのかもしれない。そんなことを思って頬が引き攣る。二倍抱かれるなんて意味がわからないけれど、それくらいの熱量を垣間見た気がしたのだ。藍忘機はどんな贈り物を用意してくれて、自分は一体どうなってしまうのだろう。想像すると今から気が遠くなるものの、それはそれとして興奮も覚える。
明日は、特別な日になるかもしれない。
珍しく何もせずに眠りについた魏無羨は、翌日藍氏の若者達からしこたま怒られることになる。そんな心温まる光景に嫉妬した藍忘機の贈り物は、とびきり中のとびきりになった。
若者達に怒られ、道侶に予想外のものを送られて。魏無羨の誕生日はある意味散々なものになるのだけれど。
それもきっと特別な一日だ。