君と散歩日和 初夏にふさわしい、突き抜けるような青い空が広がっている。
「きれーな空!」
珈琲喫茶楽園海神島店。その表に置かれた看板を書き換え終えた操は、空を見上げて嬉しそうに声をあげた。どんな空も好きだけれど、やはり晴れ渡る青空は格別だ。
「来主、終わった?」
「うんっ! 昨日より上手に書けたよ!」
ちょうど良いタイミングで扉から顔を出した甲洋を手招きで呼ぶ。操の傍らに来た甲洋は看板を見ると僅かに目を見開いた。それが本気で感心しているときの反応だと知っている操は甲洋がなんて言うのかわくわくしながら待つ。
「……すごいね。文字に君の個性が出てきてる」
「個性?」
「文字は同じ記号だろ? だけど、書く人によって少しずつ形が変わるんだ」
「それ知ってる! 筆跡って言うんでしょ?」
先日、楽園に来た咲良とそんな話をしたのだ。文字には性格が出る、だからひとりひとり特徴があるのだと教えてもらった。
そういえばあのとき、操が書いた看板を見た彼女は「あんたは真面目ねぇ」と笑っていたがどういうことだろう?
「それは来主の文字が咲良のとほぼ同じだったからかな。模倣してただろ?」
「うん! 咲良の文字、綺麗で好きなんだ」
「同感。でも今日のは少し形が変わってきてる。もしかして家で練習してる?」
「そうだよ。少しでもすごい看板にして、みんなに喜んでもらいたいから!」
えへん、と胸を張ると、くすりと笑った甲洋が頭を撫でくれた。操に出来ることが増えたときや、操が頑張ったときに甲洋がくれるご褒美だ。
甲洋の大きな手で優しく頭を撫でられるのが、操は空と同じくらい大好きだった。
「そろそろ戻ろうか。一騎の手伝いをしないと」
「はーい!」
元気に返事をして、操はもう一度空を見上げた。
どこまでも広がる蒼穹が、二人を見守っていた。
―――というのが、今から数時間前の話なのだが。
「おかしいじゃん! あんなに晴れてたのにさぁ!」
あんなに晴れていた空はすっかり灰色に染まっていた。屋根を打つ雨音はそれなりに激しくて、小さい声では掻き消されてしまいそうだった。びしっと窓の外を指差して雨に負けないよう抗議の声をあげれば、カウンター内で食器を拭いている一騎が困ったように笑った。
「夕方から雨が降るって朝には連絡が回ってきてたからなぁ」
「調整ってこと?」
「かもな」
「じゃあ……しょうがないけどさあ……」
海神島の気候管理がどういうシステムで行われているか、操はよく知らない。一騎もその手のことには関わっていないし、唯一知っていそうな甲洋はアルヴィスへ出前に行って留守にしている。
「あ」
そこまで考えてあることに思い至った操は、おもむろに立ち上がると傘立てを覗き込んだ。
「まただー」
「また?」
「これ!」
背中に飛んできた不思議そうな声に答えるべく『それ』を持ち上げて見せる。すぐに察したらしい一騎が「ああ、またか」と苦笑した。
操の手にあるのは甲洋の傘だ。深緑色のちょっと大きめなそれは操のものと色違いである。
「甲洋っていっつも傘持ってないときに雨に降られるよね」
「……そうだな」
「もー、しょうがないなぁ」
エプロンを外し、畳んでからカウンター席に置いた操は、傘立てから水色の傘を取った。
「俺、迎えに行ってくるね」
***
「夕方から雨だぞ」
今まさに出掛けようとしている背中に慌てて声をかけると、振り返った親友はにこやかに笑った。
「知ってる」
「なら傘持ってけよ」
「要らないんだよ。迎えが来るから」
親友が水色の傘の持ち手を愛おしそうに撫でる。確かに最近は雨の日に彼が外出していると、決まって彼が撫でている傘の持ち主が迎えに行っているが。
まさか。
「お前、わざと傘置いてってるのか?」
驚きと少しの呆れを込めて問い掛ければ、普段大人っぽい親友はいたずらっ子のような顔をして口元に人差し指を当てた。
「秘密にしてくれよ、一騎」
***
はじまりはただの偶然だった。
それがいつの間にか二人の習慣になった。
明確な言葉になんてしたことのない約束だけど、今のところは破られる気配がないから。
だったら、そのときが来るまで甘えてみるのも悪くはないと思ったのだ。
「───甲洋!!」
鼓膜を叩く雨音の間隙を縫って、愛しい彼の声が聞こえる。
空を映していた瞳を走ってくる人影に向けた甲洋の顔には、幸せそうな笑みが浮かんでいた。
「待ってたよ、来主」