希う未来の果て それは、いつものように三人で世界について話していたときのこと。おもむろに手を挙げた来主が、目を輝かせてこう言った。
「僕、他の空も見てみたい!」
唐突に告げられた要望に虚をつかれて言葉が出なかった。来主の隣に座っていた一騎が一拍遅れて口を開く。
「他の空って、たとえば?」
「ずっとお昼のままの空とか、きらきら光ってる空とか!」
白夜にオーロラか。再び身体を得てから知識を増やすためにアーカイブを漁っていたときに見た覚えがある。最近よくアーカイブで資料を見ているとは思っていたが、まさか外の世界のことを調べていたなんて。
どちらも限られた条件下でしか見られないものだ。見るためには島を出る必要がある。
そこまでぼんやりと考えて、それもいいな、なんて漠然と思った。勿論竜宮島には帰りたいし、今過ごしている海神島にだって愛着はあるけど、それと外の世界に興味を持つことはまた別の話だ。
「なら、平和になったらみんなで世界を回ろうか」
「やったー! 楽しみだなあ」
思いついたまま、何気なく口にした提案だったが、来主はすっかりその気になったようだ。本来島を守る義務なんてないのに、美羽ちゃんとの約束ひとつで彼はここまで頑張ってくれている。労いになるかは分からないけど、楽しみを少しでも増やしてやりたい。
ふと、来主の隣に目をやると一騎が喜ぶ来主を微笑ましそうに見ていた。……これはわかってないな。
「他人事みたいな顔してるけど、お前も行くんだぞ、一騎」
「えっ?」
案の定わかってなかった一騎が驚いたように小さく声を漏らす。『みんな』の中に自分が入ってることを忘れがちで困る。
「そう、なのか……?」
「当たり前じゃん!」
どん、と来主が勢いよく一騎に飛びついた。それを受け止めながらも一騎は少し迷っているみたいだ。無理もない。一騎にとっての竜宮島は俺にとってのそれより遥かに大きいし、置いて行きたくない子だっている。簡単には頷けないだろう。でも、戦いに全てを捧げてしまいそうなこの親友に、少しでも平和に想いを馳せて欲しい。たとえ俺のエゴに過ぎないとしても。
「一騎には色んな料理を覚えてもらわないといけないからね」
「……そう、か。そうだな」
頷いた一騎に来主がまた喜びの声を上げる。
「楽しみだなあ。そのためにも頑張らないとね!」
無邪気に笑う来主に釣られて、俺も一騎も笑った。
実際どうなるかは未来に辿り着かなければわからない。もしかしたら叶わない約束になってしまうかもしれない。
それでも、願って約束を交わしたこの瞬間、確かにその未来は存在していた。
* * *
二機分の重量を受け止めた白い砂が舞い上がる。極力負荷をかけないように着地したつもりだが大丈夫だっただろうか。
ひと息吐いてからぐるりと周囲を見渡す。五年ぶりに見た故郷は随分と様変わりしてしまっていたが、かつての面影は残っていた。島のコアが懸命に守ってくれていたのだろう。いつか俺たちが帰ってくると信じて。
「おかえり、一騎、甲洋」
空間跳躍で砂浜に降り立った俺と一騎を、新たなコアたちが出迎えてくれた。聞きたいことも伝えたいこともあるけど、何より先に確認したいことがある。それは彼女たちも承知らしく、ゆっくりと俺たちが行きたい場所を指差してくれた。
「『彼』はあっちだよ」
少し前までアルタイルが眠っていた湖の中心に、結晶の蕾があった。造形の美しさに目を奪われていると、白髪の少年が口を開く。
「もう少ししたら、完全に根付くと思う」
ミールが、根付く。
少年の言葉を口の中で繰り返す。この島にはもうミールがあるのに、別のミールが根付くことなんて出来るのだろうか。浮かんだ疑問を軽く頭を振って打ち消す。これまでだったら考えられなかった現象を目の当たりにしたばかりだ、可能性は決してゼロではない。
改めて蕾を見つめる。キラキラと輝く結晶の中で眠っているのは俺たちが知る来主なのだろうか。そうだったらいいと、願わずにはいられない。
「またな」
そっと微笑んだ一騎の穏やかな声が、静かな湖畔に木霊した。
竜宮島に降り立ったパイロットとLボートに乗っていた人たちには、ひとまずアルヴィス内で待機してもらうことにした。島のコアの力を疑ってるわけではないけど、人間が出歩くのに支障が無いかどうか、この目で確かめておきたかった。
ファフナーに乗り込み、一騎と島をひと回りする。お互い無言のまま、取り戻した故郷を目に焼き付けていく。記憶と違うところばかりのはずなのに不思議な安心感があった。
《……帰ってきたんだな、俺たち》
「……うん」
自分が此処までたどり着けたことに、まだ現実感がない。きっと一騎も同じなんだろう。俺よりもずっと覚悟を決めていたみたいだったから。
それでも、俺たちは帰ってきた。それだけが、確かな現実だった。
ファフナーでブルクに帰投したあと、俺と一騎が向かったのは〈楽園〉だった。アルタイルを分け与えてもらった影響か、激しい戦闘後にも関わらず一騎も俺も身体に掛かる負荷が然程感じられない。これなら眠らずに済むし、その時間を作って少しでも皆のためになることをしようと二人で話し合った結果だ。遠見や剣司には、少しは休めと言われてしまったけど。
ただいま。心の中で呟いて扉を開ける。空気が流れ込んだことで埃が舞い上がり、咄嗟に口を腕で押さえた。
「とりあえず埃をどうにかしないとな」
扉の内側を指でなぞってしみじみと見つめている一騎に頷きを返す。わかってはいたが、これは大仕事になりそうだ。
「手分けしてやれば、明日までにある程度綺麗に出来るかな」
中を見渡しながら作業に掛かりそうな時間をざっと計算してみる。掃除だけなら、休憩を挟んだとしても朝には終わるだろう。
きっと、何か話し合うときに此処は必要になる。そんな場所に一騎やみんながしてくれたから。みんなが必要としてくれるなら、その気持ちに応えたい。作業工程を想像すると、少し心が折れそうになるけど。
「やれるとこまでやろう」
そう言った一騎は俺の肩を叩いて先に店内へ入っていく。いくら負荷が軽減されたとはいえ、俺より疲労は残ってるはずなのに。無理をしないようにきちんと見ておこうと心に決め、かつての我が家に足を踏み入れた。
溜まっていた埃や砂を全て掃き出し、人間が活動できる最低限の条件を満たした空間となった頃には、日付が変わっていた。身体的には食事も睡眠も必要ないけど、幾ら何でも働き過ぎた。
「一騎、少し休憩しよう」
「まだ大丈夫だぞ」
「だめだ」
作業を続けようとする手を引いてカウンター席に座らせると、一騎もそれ以上は何も言わなかった。いつもなら飲み物のひとつでも出すんだけど、あいにく此処には何もない。
ぼんやりと厨房を眺めている一騎の背中は少しだけ小さく見える。コートを纏っていて尚、そんな風に感じるなんて。
竜宮島に向かったあと何があったのか、詳しくは聞いてない。ただ、総士と戦って負けたということだけは、さっきちらっと聞いた。
一騎から流れてくるこの感情はなんなんだろう。寂しさとも安堵とも違う、形容し難い感情は。
「……座らないのか?」
振り向いた顔にほんの少し不安の色が見えた気がして、すぐさま右隣に座る。一騎が小さく息を吐く音が聞こえた。そんな些細な音さえも聞こえる程の沈黙が店内に満ちる。虫の声も、水のせせらぎも、家電の動力音も、今はない。耳をすませば、互いの心音が聞こえそうだ。
「甲洋」
「うん?」
顔を覗き込んで応じると、一騎も俺の方を見た。冬の空みたいに澄んだ瞳に俺を映した親友は、迷子のような顔をしている。一瞬言葉に詰まってからどうした、と問い掛けようとしたけど、一騎の方が先に口を開いた。
「明日は、何からしたらいいんだ?」
「そうだな……帰って来る人たちの手伝いが最優先じゃないか?」
発着場は問題なく使えそうだった。本当は一刻も早く帰りたいはずの皆を待たせたのは、俺たちのわがままだ。出来る限り手助けはするべきだろう。
「分かった」
頷きはしたものの、一騎の表情は変わらない。一体どうしたっていうんだ。
「……何か気になることでもあるのか?」
「そう、見えるか?」
「まあ……」
遠見みたいに表情や仕草から情報を読み取っている訳じゃないけど、何となく、放っておいたらいけない気がした。戦いは終わったのに、目を離した隙に何処かへ行ってしまいそうで胸がざわつく。
「いかないよ」
静かな声がやんわりと俺の思考を止める。声の主は、目を細めて優しく笑った。
「俺は、どこにもいかない。だから安心しろ、甲洋」
―――漠然とした不安が、一気に膨れ上がる。
なんでだ。確かに胸の内は正体の掴めない騒めきに引っ掻き回されているけど、それを顔には出していない。読心能力を使った様子もなかった。なのになんで、俺の思考を読んだかのような言葉が出て来るんだ。
思い返せば、ここに来たときの会話も少しおかしかった。
『手分けしてやれば、明日までにある程度綺麗に出来るかな』
『やれるとこまでやろう』
返答としてあまり違和感は無かったが、改めて考えてみると微妙に噛み合っていない。でも、仮に俺の思考を読んだ上での返答だったとすると、その些細な齟齬は消える。
……有り得ない。組み立てた仮定を即座に否定する。だってそうだろう。読心能力を使わずに思考を読んで反応を返すなんて、精神を擦り減らす行為だ。出来る出来ない以前に、そんなことをする利点が一騎には―――
そこまで考えて、ひとつの可能性に思い至る。読心能力を使わずとも相手の心に触れられる、一騎だけの能力―――無限のクロッシング。もしもそれを、無意識の内に使っているのだとしたら? ……考えただけで背筋が凍る。
「……甲洋? どうしたんだよ」
今度は一騎が俺の顔を覗き込んだ。不安そうな声。黙り込んだ俺を心配しているのだろう。一騎は、優しいから。
「悪い、ちょっと考え事してた」
「何か、心配なことでもあるのか?」
「違うよ。ちょっと働き過ぎただけだ」
意識して心の壁を厚くする。クロッシング自体を止めることは出来なくても、少しはマシになるはずだ。
これが無限のクロッシングだとして、一体何故こんな暴走状態になっているのか。あれは本来、ファフナーに乗ったときしか発現しないはずだけど。
《来主、これって……》
意見を求めようと音にならない声で彼に呼び掛け、瞬間我に返る。ダメだ、自覚しているよりもずっと動揺しているらしい。冷静にならないと。出来ることなら、皆に相談することなく解決したい。やっと島に帰って来た人々に心配をかけたくないから。
「一騎はさ、島が落ち着いたらどうするんだ?」
とにかく空気を変えようと、何の気なしに振った話題だった。特に深く考えずに発した言葉。
けれど、それを聞いた一騎の表情が固まった。
「……一騎?」
心臓がきりきりと締め付けられる感覚を覚える。嫌な予感がした。だけど同時に、今まさに探している答えがそこにある気も、した。
急かしてしまいそうになる口を必死に引き結んで一騎からの言葉を待つ。どれほどそうしていただろう。消え入りそうな声が、恐る恐るといった様子で形を作った。
「わからないんだ」
「わからない……?」
こくりと頷いた一騎の視線がカウンターへと落ちる。ぱさりと音を立てて落ちた髪のせいで表情が見えなくなった。
「ずっと、約束を果たすために命を使ってきた。だから、どうしたらいいのか、わからないんだ」
白く染まる吐息と共に霧散してしまいそうな声だった。あまりにも儚くて、本当に一騎がそこにいるのかわからなくなりそうだ。
約束。地平線を越える間際に、総士が一騎に託した願い。それを叶えるために、一騎はずっと生きてきた。こいつのことだ、きっと導く未来をこそゴールと定め、必死に走ってたんだろう。だからゴールテープを切った途端、どうしたらいいのかわからなくなった。たどり着いた先のことなんて一切考えてなかったから。……俺も、人のことは言えないけど。
竜宮島へ帰る。それは確かに大きな目標だった。でも決して終着点ではない。戦いは終わり、エレメントとしての責務を果たして、それでも俺たちはここにいる。存在が続く限り、未来もまたそこにある。そんな当たり前のことに、ずっと気付けなかった。
「したいことはないのか?」
「……考えてみたけど、思いつかない。みんなのために出来ることがあるなら、やりたいけど」
ああ、これか。無限のクロッシングのトリガーになってるのはきっとその思考だ。今の一騎は無意識の内に相手の望みを汲み取り、それに応えようとしている。まるで、かつての俺のように。
お前はそんなことしなくていいんだと言ってやりたい。けど、その先に続く言葉を俺は持ってない。一騎自身を未来に導く言葉なんて―――
『僕、他の空も見てみたい!』
不意に、耳の奥で元気な声が木霊した。いつかに交わした他愛のない約束。ただ真っ直ぐ未来を見ていたあいつの、ささやかな願い。
それは、暗闇に差し込む一筋の光のようだった。
「だったらさ、二人で旅に出ないか?」
カウンターに落としていた視線を持ち上げた一騎がゆっくりと俺の方を向く。不思議そうな顔をしてるのは真意が掴めないからだろう。無理もない。俺だって、突然一騎にこんなこと言われたら同じ反応をする。
「平和になったらみんなで世界を回ろう、って約束、覚えてないか?」
俺を映す瞳がゆらりと揺れた。音を紡ごうと開きかけた口が、何かを堪えるように噛み締められる。きっと一騎の脳裏にも、あの明るい笑顔が浮かんでいるんだろう。
敵対した過去を持ちながら助けを求める声に応じて島の危機に駆けつけ、俺たちと一緒に歩む道を選んだフェストゥム。空が好きで、新しい服が好きで、猫が好きで、犬は苦手な少年。俺や一騎が人間らしさを忘れそうになる度、零れ落ちたそれを拾ってそっと差し出してくれたかけがえのない存在。
もしかしたら、誰よりも平和な未来を希っていたのは来主だったのかもしれない。そんな彼の願いが、たどり着いた平和な世界で未来を見失っていた俺たちの道標になろうとしている。
あまりにも皮肉で、でも同じくらいあたたかくて。気を抜いたら涙が溢れそうだった。
「来主との約束、果たしにいこう」
「……ああ」
込み上げて来た感情を処理し終えたらしい一騎が頷く。その顔に迷いはもうなかった。
それから約ひと月後、俺たちはまだ見ぬ世界へと飛び立った。
来主が好きそうな、雲ひとつない蒼穹が広がる日の話。