華胥の箱庭 2 ***
もうひとりの皆城総士と出会ったのは、今から一週間前のことだ。
その頃の総士は情報収集に明け暮れる日々を送っていた。そもそも、海神島での生活は幕開けからおかしかったのだ。目を覚ましたのは誰のものかも分からないベッドの上、すぐ傍には見知らぬ少女。全てにおいて理解が追い付かない状況だった。
自分は幼い頃に拐われた———真矢から丁寧かつ簡潔にそう説明されたが、実感なんて湧くはずも無い。拐ったのはお前たちの方だろうと反論したところで、美羽から記憶——情報の奔流と言った方が的確かもしれない——を渡され、何も言えなくなった。
このままでは埒があかないと判断した総士は、全てを自分の目で確かめることにした。図書館に行き、島を見て回り、島の中枢組織であるアルヴィスのパイロットたちと話をした。そうして過ごすこと一週間、ファフナーのことやフェストゥムとの戦いの歴史、彼らの目的である竜宮島への帰還など、多くの情報が手に入った。
少しずつ、見えてきたものがある。全てを信じることは到底出来ないが、でたらめだと切り捨てることもまた出来なくなった。自分はどうすればいいか、どうしたいのか。すぐに答えを出すことが出来ず、思考が空回りしはじめた総士の手を引いたのは美羽だった。
「たまには息抜きもしないと疲れちゃうでしょ? それに、総士にお話して欲しい人がいるの」
そうして連れて来られた喫茶〈楽園〉に、その男はいた。
「この島での生活には慣れたか」
一騎に促され仕方なくカウンター席に座ると、低いトーンの落ち着いた声が耳に入ってきた。声の主は右隣に座っている青年だ。背中の半ばまである長い髪は入店時に駆け寄ってきた少年と同じベージュ色で、兄弟だろうかとぼんやり思う。
「おい」
再びの声。カップを置く音がして、青年の顔が視界の端に入る。そこで初めて、声を掛けられているのが自分であると気づいた。背後からしか見ていないが、恐らく会ったことはないはずだ。そんな相手にいきなり声を掛けられたことに驚きながらも応じるために横を向き、そして。
「なん……」
ですか、と続けようとして言葉に詰まった。見開いた総士の瞳に、自分とそっくりの顔が映る。同時に、端正な顔に刻まれた深い傷に目を引かれる。情報量の多さに思考の処理が追いつかない。
「……人の顔をそうじろじろと見るな」
「あ……ごめん、なさい……?」
「何故疑問系なんだ……」
はあ、と深く溜め息を吐く青年は見れば見るほど総士にそっくりだった。何も知らない人間に兄弟と紹介しても疑われることはないだろう。当の総士ですら、生き別れの兄弟なのではとあり得ないことを考えてしまっている。
「……あなたは、誰ですか」
これ以上おかしなことを考え出す前に答えを得ようと問えば、青年は何かを思案するように目を細めた。そんなに難しいことは聞いてないと思うのだけれど。とりあえず名前だけでも教えて欲しい。そう口にしようとしたところで、目の前にグラスが置かれた。オレンジ色の液体に揺られた氷が軽やかな音を立てている。
「お待たせ、総士」
穏やかな声で名を呼ばれ、自然とそちらを向いてしまった。声と同じく穏やかな笑みを浮かべている一騎と目が合う。この表情には覚えがある。初めて会ったとき―――夜闇に溶け込みそうな黒いコートを纏い「大きくなったな」と微笑んだあのときと同じ、優しさを感じるあたたかい表情。
「……っ」
胸の内に暗い感情が湧き上がってくる。色んなことがあったせいで随分と昔のことのように感じてしまうが、たった一週間しか経っていないのだ。
こいつが、総士の大切な妹を殺してから。
「なんで、そんな顔が出来るんだ……っ」
今すぐ掴みかかりたい衝動を押し殺してなんとか言葉を絞り出すと、一騎が小さく息を飲んだ。琥珀色の瞳が僅かに見開かれ、眉が下がる。かろうじて笑みの形は保っているがそこから感情を読み取ることは出来ない。なんだその顔は。
「―――お前にも責任はある。一騎ばかりを責めるな」
質問に答えろと言おうとした総士を、低い声が制す。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。少し遅れて思考が追いつき、総士は弾かれたように隣を睨む。かち合った紫灰の瞳は、先程まではなかった冷たさと鋭さを湛えていた。
「どういう意味だ」
「言葉の通りだが」
「僕が何をしたって言うんだ……!」
「何もしなかったのだろう」
徐々に語気が荒くなる総士とは対照的なまでに涼しげに言い放たれ、内容に関係なく腹が立つ。大体、なんで総士と一騎の問題に名乗りもしない人間が割って入ってくるんだ。
言いたいことが一気に溢れて来て上手く言葉にならない。こんな感覚は生まれて初めてだ。
「総士」
どうにか言語化しようと回しはじめた思考が、やんわりとした声に止められる。邪魔をするなと一騎を睨み付けーーー彼が自分を見ていないことに違和感を覚えた。確かに総士の名を呼んだと思ったのだが、一騎の目は総士の隣に座る青年に向けられている。
何故だか分からないが胸騒ぎがした。心臓を鷲掴みされたかのような焦燥感。
「なんだ、一騎」
当然のように応じる青年に言葉を失う。どういうことだ? 顔が似ているだけではなく名前まで同じだとでも言うのか?
「まだ一週間なんだ。それくらいにしてやってくれ」
「時間が経てば解決する問題ではないだろう。それに、説明を受けた上でお前を責めるというのなら黙っているわけにはいかない」
「言われたからってすぐに理解出来るようなことじゃないだろ」
問い質そうにも口を挟む余地がない。というか、恐らく総士について話しているだろうに、二人揃ってこちらを気にも留めていないのはどういうことなのだろう。
だめだ、言いたいことと聞きたいことが脳内で渋滞して何から言えばいいのか分からなくなってしまった。まるで電池が切れたように思考がぷつりと止まり、波立っていた心も凪いでいく。一騎に対して湧き起こっていた激情も、理由の分からない焦燥感も、いつの間にか消えていた。ただ、なんだかどっと疲れた気がする。
「ふたりとも、総士くんが困ってるよ」
呆れ混じりの声が後ろから聞こえてきた。振り向くと、美羽と一緒にテーブル席に座っている真矢が声音と違わぬ表情で一騎と青年を見ている。途端、それまで周りなんてそっちのけで話していた二人がはっとした様子で口を噤んだ。すごいな、なんだ今の。
「僕知ってる。つるのひとこえ、って言うんだよ」
「ぅわ!?」
至近距離で聞こえた声にびっくりして椅子から落ちそうになったところを、横から伸びてきた腕に支えられた。相手が誰かなんて見るまでもない。
「あ……あり、がとう……」
気まずいながらも感謝を述べると、青年が微かに笑った気配がした。予想外の反応に戸惑う総士の背中をぽん、と叩き、青年は総士が転げ落ちそうになった原因へと目を向ける。
「来主、突然その距離で話し掛けられたら誰だって驚く。今後は気を付けてくれ」
「はぁい!」
来主と呼ばれた少年は元気良く返事をしてから「ごめんね」と言って総士の頭を撫で、カウンターの中へと入っていった。なんだ、なんで撫でられたんだ。困惑しながら頭を押さえる総士を一瞥した青年が真矢の方を見る。その横顔は心なしか強張っているように見えた。気のせいだろうか。
「どこまで話してあるんだ?」
「自分で話したいかなって思ったから」
「……そうか。分かった」
首を緩く横に振った真矢の言葉に頷いた青年が総士に向き直る。顔を逸らしそうになるのを堪え、総士もまた正面から向き合った。改めて見ると綺麗で凛々しい顔立ちをしている。自分に似ているせいで、そう評するのは気が進まないが。
まじまじと見つめられたからだろうか、青年はほんの少しだけばつが悪そうな顔になり、それを誤魔化すようにこほんと咳払いをした。
「自己紹介が遅れたな。僕の名は皆城総士。お前の遠縁、といったところだ」
***
「はあ………」
うっかり思い出してしまった記憶のせいで重たくなった気持ちを肺の中の空気と一緒に吐き出す。美羽が不思議そうに顔を覗き込んできたので、何でもない風を装い、頼んでもないのに出されたアップルジュースをストローで吸い上げた。
あれから一週間。彼とは何度か顔を合わせたが、その度にどこまで島のことを理解しているか、ファフナーやフェストゥムの知識はどの程度得たかなどと質問攻めにあっている。まるで抜き打ちテストを受けている気分だ。鬱陶しく思うこともあるが、分からないことや間違っていることがあるときは総士が理解出来るまで説明してくれるのでその点は助かっている。
ただ、彼自身についての質問には一切答えてくれない。何を聞いてもうまくはぐらかされる。外見が似ているだけではなく名前まで一緒なのだ、ただの遠縁だなんて信じられるわけがないのに。
本人が教えてくれないのならと、真矢をはじめこの半月で親しくなった人たちに聞いてもみたが、みんな揃って困まったように笑うばかりだった。まだ聞いていないのは〈楽園〉で働く三人だが、総士がここを訪れるときは毎回彼がいるし、かと言って話を聞くためにわざわざ場所を変えて会おう、なんて言える間柄でもない。正直、手詰まりである。
「総士」
不意に伸びてきた手が両頬に添えられたかと思うと、ぐいっと無理矢理美羽の方を向かされた。抗議の声を上げようとしたが、視界に映った顔に心配する色を見つけて口を噤んだ。美羽は人の感情を感じ取ることが出来るらしいから、総士の胸の内に渦巻くもやもやも伝わってしまっているのだろう。彼女の近くで物思いに耽るのは止めよう。
「すまない、少し考え事をしてた」
「……大丈夫?」
「ぼうっとしてただけだ。で、何の話だ?」
じっとこちらを見る大きな瞳は未だに心配そうな眼差しを寄越してくるが、半ば強引に話題をそらすと美羽は諦めたように小さく息を吐いた。心配をかけてしまったのは悪かったと思うが、この件に関しては可能な限り自力でどうにかしたい。
総士の顔を解放した美羽は気を取り直すようにジュースを一口飲み、表情と纏う空気を明るくしてから口を開く。
「来週のお祭り、総士も行くでしょ?」
「祭り……」
脳裏にフラッシュバックする故郷の景色を、首を振ることで頭の片隅に追いやる。美羽の近くで負の感情を伴うようなことは考えないと今し方決めたばかりだ。
「……この島でも、祭りをするんだな」
「うんっ! お店が出来たり、花火が上がったりするの!」
楽しげに話す美羽の顔に、一瞬、妹の顔が重なった。
いつの間にか太ももの上で握りしめていた拳にぐっと力を込める。息を深く吸い込んで、それを吐くと同時に意識して拳を解いていく。
「……いいだろう。君ひとりじゃ危なっかしいしな」
「あっ、美羽のこと子ども扱いした! 美羽の方がお姉さんなんだからね!」
「大して変わらないだろ」
むしろ言動的に美羽の方が幼く感じることの方が多い。外見年齢と精神年齢が一致していないようにさえ思える。それに関しては、カウンターからこちらを微笑ましそうに見守っている男にも言えることではあるが。
「一騎くんたちはどうするの?」
まるで総士の思考を読んだかのようなタイミングで一騎の名が挙がった。思わず発言者である真矢を見てしまったが、本人に言葉以上の意図はないらしく、静かに一騎の返答を待っている。問われた方はというと、何故か困ったように眉を下げ、隣にいる甲洋やカウンターを挟んで正面に座るもうひとりの総士に意見を求めている。なんだその反応。別に難しいことは聞いてないだろう。祭りに行くか行かないかの二択だぞ。
「……出店はしないんだったな」
「来主が花火を見たいって言うからね」
「なら、一騎の予定は空いているな」
「そうだね」
呆れる総士の耳にそんな会話が聞こえてきた。だからどうして本人に決めさせないんだ。甘やかすな。
「だ、そうだが」
「でも……」
もうひとりの総士の言葉を受けた一騎がこちらを向く。その顔に気遣うような色を見つけ―――ようやく謎が解けた。
どうやら一騎は、総士が行く祭りに自分が行っていいのか迷っているらしい。これまで散々総士の気持ちなんてお構い無しに接してきたくせに、なんでよく分からないところで突然気を遣うのか。
「……別に、好きにすればいいだろ」
子どもじゃあるまいし、嫌いだから来るな、などと言うつもりはない。そもそも、こうして数日に一回は顔を合わせているのだ。祭りだからと避ける意味がない。そう結論付けて応えると、一騎の表情がふわりと和らいだ。安堵と喜びが入り混じったような微笑みにますます頭が混乱する。
あの男にとって、総士はどういう存在なのだろう。
「みんなで行けるんだね! 楽しみっ!」
「せっかくだから浴衣を着ようか、美羽ちゃん」
「うん!」
「甲洋、僕も新しい服が着たいな!」
「はいはい」
途端に騒がしくなった店内にため息を吐いてストローを咥える。氷のとけたアップルジュースは、すっかりぬるくなってしまっていた。