桜丁カラ(伝奇三男×闇青行燈次男) 丁呂介が「良い子」でなくなったのは、彼が十を超えるか超えないかの春のことであった。
その頃の丁呂介といえば村一番のお坊ちゃんとして有名で、村の大人たちはみな丁呂介の素行の良さを褒めそやし、彼を見る度に「お利口」「賢いこと」「しっかりしていて」という代わり映えのしない決まり文句を並べて、毎回初めて見聞きしたかのように感心してみせるのだ。
良い子であった丁呂介はそんな大人たちに辟易することもなく、逐一礼儀良く振舞ってやった。それが自身に科せられた役割だと彼は幼くして理解していたし、何より浴びるように降り注ぐ賛辞の言葉が心地よくてたまらなかったのだ。
自分より更に幼い妹はまた特別で、賞賛のためではなく純粋に、いっそ過保護なほどに愛情をもって面倒を見ていた。
それが村人や父の目には「良い子」に映るので、誰も丁呂介の過保護ぶりを止める者はいなかったである。
そうして丁呂介は事あるごとに華道家の父に連れ出され、皺一つないシャツと膝小僧の見える学校指定の半ズボンを穿いて、時に妹の手を引きながら「良い子」として父の後ろをついて回る日々を送っていた。
そんな彼が桜の枝を折ろうとしたのは、他でもない妹のためである。
妹は毎年桜の開花を楽しみにしていたのだが、その年の春はたちの悪い風邪に捕まり、寝室から一歩も出られない日が続いた。
妹を溺愛する丁呂介は、病で苦しむ彼女の姿はもちろん、桜を見ることができず毎日ぐずってばかりの妹にひどく心を痛めていた。
小さな体いっぱいに湛えた熱は一向に下がる気配がなく、桜の花は日に日に枝から地面へと場所を移している。おまけに天気予報は明日から大雨が続くと謳う始末。風邪が治る前に桜が散ってしまうかもしれないと妹はことさら枕を重く濡らした。
(どうしよう。このままじゃダヨ子が)
せっせと額の手ぬぐいを取り替えながら丁呂介は妹を慮った。時折咳き込む彼女の額は燃えるように熱い。
(桜を見せたら元気が出るかもしれない)
ふと丁呂介はそんなことを考えた。病は気からと医者が言っていたのだ。彼女が望む桜の花を見せてやれば気持ちも上向き、快方に向かうかもしれない。
しかし緑土の庭に桜はない。見せるといっても一体どうやって。疑問とともに脳裏に浮かんだのは、桜の枝を手折る己の姿であった。
誰もが認める「良い子」の緑土家の坊ちゃん。由緒ある緑土家の長男としてゆくゆくは家督を継ぎ、現当主のように華道家となるであろうその子は清く正しい性質であるに決まっている。
村の者も緑土の一族も、果ては幼い本人もそう思い込んで疑わなかった。
そんな彼が桜の枝を折るだなんて、皆に知られたらどう思われるだろう。子供らしい悪戯の一つもしたことがないその子、丁呂介はそっと唾を飲み込んで、皺ひとつない半ズボンの裾を握りしめた。
『ダヨ子、まっていてね』
『桜、兄ちゃまがなんとかしてあげるから』
けほけほと咳き込む妹とともに小指を絡めあう。妹のために交わした小さな約束が、丁呂介のいとけない良心にじくじくと浸みた。
赤鹿に流れる河川には、片側にだけ土手と桜並木を有している。季節になれば一斉に桜の花が咲き誇り、村人はぼんぼりを並べ立てて桜を彩る準備をするのだ。
しかし不思議なことに、夜桜を愛でる者は誰もいない。昼は弁当包みを持って花見に興じる村人もいるのだが、夜になればぱったりと人がいなくなってしまう。これでは一体何のためにぼんぼりを灯しているのかわからない。
けれども村人はぼんぼりを掲げることをやめようとしないし、それに疑問を呈する者もいない。賑やかに騒ぐ大人がいるのは昼間だけで、夜になれば桜並木はひっそりと静まり返ってしまう。
聊か不思議ではあるが、何も知らぬ子供の丁呂介にとってはただただ好都合であった。
初めて一人で、しかも夜に見る桜はなんとも言い難い神々しさがあった。
遠くから見れば外灯の無い山を背景に、闇夜の中で赤いぼんぼりと白い桜並木だけがぼんやりと浮かび上がっている。近くに来れば頭上にのびた花弁に闇夜が遮られて、夜空は花びらのあいだから細切れに瞬いた。
光源はぼんぼりのはずだがあまりにも明るいので、まるで桜自身が発光しているかのような感覚に陥ってしまう。こっそりと屋敷を抜け出してきた丁呂介は、その明るさにむしろ圧倒されてしまった。
(早く枝を摘んでかえろう)
妹のためとは言え、自身がこれから悪いことをするのだという自覚が丁呂介にはある。その心の内を桜たちに見透かされている気がして、丁呂介はどきどきと胸を鳴らした。
桜でしつらえられたトンネルを潜るように奥へ奥へと進んで行く。枝を取るだけならすぐ手前の桜を摘めばいいのに、なぜか最奥へ行かなければならないような気がしたのだ。
そうして桜並木を抜けた先で、丁呂介は一際大きな桜の老樹と出会った。
彼の前に佇む老桜は微動だにせず、花弁に包まれた枝先を悠然と掲げている。丁呂介は鼻から大きく、ゆっくりと息を吸った。
「一本だけ、枝をください」
断りを入れた理由は丁呂介にもわからない。けれどもなんとなく、そうしなければいけない気がしたのだ。
老桜は来た時と同じく沈黙を貫いている。なぜだか丁呂介はまだ両手にも満たない短い生の中で、今が一番「わるい時」であるような気がした。
しかし丁呂介には時間が無い。ダヨ子のためにも家人に見つかるという事情のためにも、何より自分が前にしている老樹の雰囲気もあって、早く帰らねばならないと心が逸って仕方ないのだ。
震える指先のままに、丁呂介は意を決して一際低い枝に手を伸ばした。
「何をしている」
背後から声をかけられたのはその時だった。
驚きと悪事が露見した恐れから肩を震わせて、恐る恐る後ろを見遣る。
そこには青い着物と羽衣を纏い、何故か目元まですっぽりと頭巾を被った人影があった。
「坊や。そこで何をしているんだ」
声からして人影は男性のようであった。
「あ、あの」
生まれて初めて知らぬ人から投げられた詰問の声に心臓の音が早まっていく。
「あの、妹。妹が」
「妹?」
「妹が、風邪で。外に出られなくて」
「ほう」
「でも桜を見せたくて、それで」
「枝を折ろうとしたのか?」
「……」
「君の都合で、桜を手折ろうとしたのか」
「…………」
「ふうん。悪い子だな」
頭巾の下で緩やかに口元が歪む。悪い子。たった四文字の言の葉は、丁呂介の心を簡単に抉り取った。
悪い子だなんて、他人にはおろか家族にだって言われたことがない。
いつだって品行方正な振る舞いを躾けられ求められそれを体現してきた丁呂介には、幼いながらも矜持がある。その矜持を切り裂く真似をしたのは他でもない自分自身で、丁呂介もそれをよく知っていた。知っていたが、知るのは自分だけで良かったのだ。
なのに丁呂介の行いは、この男の元に露見してしまった。男の放った言葉で、ひびの入った丁呂介の矜持にとどめがさされたような気さえした。
そこはかとない恐ろしさに思わず唇を噛みしめる。俯いた丁呂介の視界に握りすぎて皺くちゃになった半ズボンの裾と、ちらりと青が映りこんだ。
「だが、兄弟思いなのは悪くない」
ふいに香を焚いたような匂いが鼻孔をくすぐる。頭にそっと温もりが触れて、顔を上げれば件の青い男と目が合った。
頭巾の下から見えた仄青い瞳は、丁呂介が想像していたよりずっと優しい。
「坊やはお兄さんなんだな?」
「はい」
「そうか。下の兄弟を大事にするのはいいことだ」
わしゃわしゃと頭を撫でられて、香の匂いが辺りにより強く広がっていく。
花とはまた異なる香りのそれは、丁呂介にとって不快なものではなかった。
「枝のことは見なかったことにしてやろう」
「ほんとうに?」
「その代わり条件がある」
流れるような動作で老桜の根元に腰掛けた男は、手に持っていた行燈から長い爪に火を灯す。
「怪談をひとつ、聞かせてくれないか」
もう片方の手で招かれて、丁呂介はふらふらと男の膝の上に乗った。
男の額から上は頭巾でよく見えないが、下から見上げると青い何かが覗いている。
「また今日も寸止めを喰らったんだ。直接の流れではないが、一話足りないよりはマシだ。何か怪談をオレに聞かせておくれ」
「でも、ぼくは、怖い話なんて、よくしりません」
「なんでもいいんだ」
「むじなとか?」
「ンン……」
「飴買い幽霊とか?」
「それよりも坊や自身の話が聞きたいんだ」
男が丁呂介へぐいと顔を近づける。
「坊やは今までで、何が一番怖かった?」
柔らかそうな頬は白くきめ細かく、長い睫毛に縁どられた眼は青く輝いていた。
「廊下の先に果てなく広がる夜の闇。襖の隙間から感じる視線。夜中にふと聞こえた誰かの足音。家鳴りが奏でる話し声に、夕暮れにふと振り返った先の影法師」
形の良い唇からすらすらと例え話が流れ出てくる。
間近でその様子を見ていた丁呂介は、いつの間にか並びの良い歯の間から覗く紅い舌に見惚れていることなど、つゆほども気づいていなかった。
「いつもは大人の怪談話ばかりなんだ。たまには幼子の恐怖が欲しい」
さあ坊や。どうか話して聞かせておくれ。
(未完)