Heaven's falling down(二章)Heaven's falling down(二章)
二.二人だけの騒ぎ
あれからまた数日が経ち、オビトはついに瞼を開くようになった。
オビトが眠っている間に、わかったことがある。それは、いくつかの傷はこの一年間に付けられたものだということだ。無論、カカシがその身体を見たのは、オビトが溺死しかけていたときのみで、全体的に広がる残酷な傷と見分けることはできていなかった。だが、ずっとオビトを担当していた医者の弁を信じないほどカカシは疑り深くなかった。
ミナトや上司たちは、オビトがあの洞穴で生き延びて、他里で取引をされていたのではないか、と議論していた。
オビトはうちは一族の忍で、辛うじて残っている様子の右目には写輪眼という血継限界がある。加えて、右半身に取り憑いている細胞も謎に包まれている。それも含めてあらゆる里で研究されており、その内容の中には非人道的な実験もあったのだろうと結論づけられた。
オビトが目覚めたと言っても、単に眼瞼を開閉させているだけなのか意識を浮上させているのかは医者にもわからないらしい。けれど、たまに見えるようになったオビトの黒石のような瞳に自身の姿が映るたび、縋りたいほど泣きそうな気持ちになっていた。
──きっとこのままいけば、オビトも目を覚ます……!
オビトが一年間何をされていたのかや飛び降りた理由、そしてオビトを狙う他の人間など──悩みの種は尽きないが、オビトの体温や動きから生命を感じるたびに、カカシ自身も生かされていた。
カカシにとってこの任務はもう日常になってしまった。カカシは暗部の隊服に身を包み、狐の面を顔につけて病院へと入った。
病室の戸を開き、夜勤の忍と交代する。いつものようにレースカーテンを閉じて、オビトの左側に座った。ベッドはほんの少し迫り上がっていて、オビトの身体を起こしている。朝方の栄養注入の時間だからだろう。カカシの横には点滴筒が立っており、栄養剤がオビトの口に入るチューブに流し込まれていた。
カカシは入院着を着て眠り続けているオビトの顔を見つめた。
意識が朦朧としている人間は何をするかわからない。こんな状態のオビトが、万全のカカシに危害を与えられるはずがないが、カカシはオビトに何があってもいいように常に気を張って警戒を続けた。
「……っ」
突然オビトが呻きを上げた。狐の面越しにも、オビトが苦しそうに顔を歪めているのが見えた。カカシは勢いよく立ち上がり、オビトに身を寄せた。
「オビト……ッ!」
オビトが痛くないくらいの強さで、左手をぎゅっと握る。すると、それに気づいたオビトがゆっくりと瞼を開けた。
「……う、……」
左目を閉じたまま、オビトは右目を開いた。僅かに首を傾けて、辺りの様子を確認している。
「ここ、は……」
一年ぶりに聞いたその声は間違いなくオビトのものだった。あのときと寸分も違わない、懐かしい声だった。かつては何度この声で言い合ったかもわからないくらいだったのに、今は軽度に掠れたオビトの声が愛しくて仕方がなかった。
「オビト、わかる? 病院だよ」
彷徨うように泳いでいたオビトの右目が、カカシの姿を捉えた。顰められてなおくりくりと丸いオビトの瞳に、暗部の隊服を着た狐の面の男が映る。カカシは面の下で柔らかに微笑み、オビトが意識を取り戻すのを見ていたのだが、オビトがカカシの姿を捉えた瞬間、その様子は一変した。
「う、うわぁぁぁッ!」
恐慌状態で飛び上がったオビトは、すぐそこにある窓に飛び込もうとした。急な激しい動きのせいで、本来抜けるはずのない栄養チューブが口から抜ける。
窓自体は開かないように細工をさせてもらっているが、今のオビトの様子は異常だ。窓ガラスを割ってでも、ここから逃げそうな予感さえある。
カカシは息をするのも忘れてオビトに飛びかかった。ベッドから下りたオビトを後ろから抱きしめて、力尽くで引き留める。
「オビト大丈夫だ! ここは木の葉だ!」
羽交い締めにされてもオビトは暴れるのをやめない。正気を失ってしまっている。まだ身体を起こすこともしていないのに、どこからこんな力がでるのだろうと思いながら、カカシはオビトに振り回されていた。
「オビト……ッ!」
「あぁッ! うぅぅあぁッ!」
こんなに怯えるなんて普通じゃない。やはりミナトたちが言うように他里で変な実験や闘争に巻き込まれ、そこで悲惨な目にあったに違いない。カカシは半ば確信しながら、オビトを押さえ続けた。
そのとき、オビトの拳がカカシの顎に当たった。それなりに痛かったが、オビトの方が痛いはずなのだ。カカシはオビトの手足が腹や肩に当たるのを気にせずに呼びかけ続けた。
再度顔に当たったオビトの腕が、カカシの面を弾き飛ばした。狐の面が、カランカランと音を立てて病室の端に落ちる。
オビトが狐の面に気を取られた隙を狙い、カカシは窓の前に立った。オビトの背後から正面に移動し、口布を下げてから両手をオビトの両肩に添える。痩せたオビトの肩は骨張っていて、カカシが少しでも力を入れたのなら折れてしまいそうなほど華奢になっていた。
「オビト、オレだよッ……!」
悲痛な声を上げて、カカシはオビトと目を合わせた。すると、オビトは拳を空中で止めて、まじまじとカカシの顔を見た。オビトの目に少しずつ光が入っていく。
「……カカシ? なんで……オレは……」
オビトはゆっくりと拳を下げて後退った。大腿の裏がマットレスに当たったところで、ベッドにストンと座ってしまった。
オビトはカカシから視線を外し、呆然としたまま唇を震わせている。
「大丈夫……?」
カカシがオビトの足下に座り、顔を覗き込む。オビトはその声に肩を跳ねさせ、ゆっくりと喋り始めた。
「悪い……誰かわかんなくて……知らない人間かと……」
オビトが苦しそうに目線を落とす。カカシは「いいんだ……」と小声で言いながらオビトを抱きしめた。
「帰ってきてくれただけで嬉しいよ」
「……あぁ」
カカシの耳元で聞こえたオビトの声は深く沈んでいた。死んだはずのオビトと会話ができるなんて奇跡が嬉しくて、目が潤んだ。自然と喉が震え、呻いてしまう。
「うぅ……」
オビトは自身の背中にまわされたカカシの腕に、そっと腕を添えた。
数分間の間、カカシとオビトは離れなかった。あんなに喧嘩ばかりしていたのにな、と思考の隅で一瞬思ったが、今の状況で素直になれないほど愚かでもない。
カカシはゆっくりと立ち上がり、オビトをベッドに寝かせた。
「オビトが目覚めたって伝えてくるよ。すぐ戻る」
「……忍も来るのか」
「……まだ入らせないさ。大丈夫だ、オレも着いてる。諸々含めて伝えるから」
こくん、とオビトは頷いた。
病室を出る直前、カカシはもう一度オビトを見た。オビトは青ざめた顔を手で覆っていた。カカシがいたからといって不安が消えるわけではないようで、ずっと何かに怯えている様子だ。
かなり無理はしていただろうが、あんなに動けるようになったことは吉報でもある。しかし、他里で相当酷い目にあったのでは、という推測が正しかったことも証明されてしまった。幼馴染み、或いは親友とも言えるカカシもあんなに怯えるオビトは見たことがなかった。
カカシは医療スタッフの詰所に寄り、オビトの状況を伝えた。オビトの精神的ショックの予想はかねてから上がっていたものだったので、部屋に入るのは医者一人にして欲しいというカカシの要望はすんなり通った。
担当医と共にオビトの病室に向かう。途中、オビトの“先”を思い、拳をぐっと握った。
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恐慌状態の少年の演技など未経験だったが、案外うまくいった。
オビトはベッドに横になったまま、窓の外を眺めていた。腕で顔を隠しながら、わずかに口角を上げる。
きっとこれから来る医者も、既に幻術を仕掛けた男の一人だ。別に何を言わずとも求める診断を下してくれることだろう。
ガララ、と病室の扉が開かれる。オビトは直前に表情を戻して、恐々した様子でバッと扉の方を見た。横になったまま、手で頭を隠して防御の格好をする。
「オビト。オレだよ」
カカシが声のトーンを落としてオビトに語りかける。安心させるような声色だった。ゆっくりと腕を下げて扉の方を見れば、カカシと一緒に、男の医者が室内に入ってくるところだった。
「……ッ!」
喉を震えさせ、肺の空気を全部吐き出す。そうすれば自然と手や肩が震え出した。
オビトが計画の過程で殺してきた人間の一部が、死ぬ間際このように怯えていた。それなりに恐怖の教養が自分にあったことに驚きながら、オビトはぐっと目を瞑った。
「この人はここの医者……先生だから大丈夫。オレも側に居るから」
オビトがゆっくりと目を開ければ、カカシがこちらを覗き込むように立っていた。その優しい表情から、オビトを安心させたい一心なのが伝わってくる。
「わかってるッ……」
オビトの言葉を聞いて、医者はオビトの診察を始めた。
この医者に施している幻術はある程度強弱が付けられる。オビトの近くに居るときは言動を全て操れるが、離れたときはほんの少ししか縛れず元の人格に沿った行動をする。一種の催眠なのだ。
現在医者はオビトのすぐ近くにいるので、医者が出す全ての言葉はオビトが出させているものだ。実際、この問答に意味はないのだが、そうとは知らないカカシは心配そうな様子でずっとオビトを見つめていた。
医者には、身体面ではリハビリを開始してもいいと評価させた。さらに精神面を挙げ、トラウマ的言動が見られるため誰とも面会を許さない、と指示させた。
誰が来てもぼろを出さない自信はあるが、一番面倒なのは正規の手順で実験を行われることだ。うちはオビトは親切な少年だから、その半身の細胞について研究させて欲しいと頼まれたら頷くことしかできない。そこで思いついたのが、対人恐怖の症状だった。これを利用すれば表立って研究をしようとしてくる者はいなくなる。
“裏”のルートからオビトを狙う存在がいるのは別に構わなかった。最悪、“首謀者”を殺してゼツに置き換えれば後々楽になるだろうし、何より傀儡にできる。それに今の火影はミナトだ。誰かしら護衛を付けてくれるだろうとは思っていたから、其奴に守らせれば良い。
診察は終わった。医者はオビトの服を整え、カカシに向き直った。報告について数言カカシと話し合い、部屋を去って行く。
カカシはふぅっと息を着いて、オビトの左側の椅子に座った。
「疲れた?」
「……少し……」
「オレはここにいるから少し眠っていいよ。詳しい話は後でしよう」
カカシは立ち上がって、いつの間にか足下でぐちゃぐちゃになっていた布団を整え、オビトにやんわりと掛けた。オビトは一瞬だけカカシを見てすぐに目を瞑った。
すると、カカシが、「あ」と呆けた声を出した。
「主治医が近くにいる内に聞いておくけど……そこから飛び降りたのって覚えてる?」
「……は?」
「ちょっと前にここから落ちたんだよ。自分で窓を開けて」
「……オレが?」
思わず出た自分の声はカカシの声にも負けず劣らない間抜けな音だった。
──このオレが、飛び降りただと? 計画の道半ばで。有り得ない。
オビトはカカシに疑いの目を向けながら、唖然とした。
信じ難い話だった。カカシは直接見たような口をきいているし、嘘ではないのだろう。しかし、随分前から覚醒していたオビトにとって、ちゃんと身体を起こしたのは今日が初めてだった。
度々瞼を開け、意識が回復しつつあることをアピールしてはいたが、立つことも、上体を起こすこともしたことはなかった。だから自分で五階から飛び降りたと言う、カカシの話には心から驚愕してしまった。これまでマダラとして過ごしてきた分、常に冷静な自覚はあったのだが、それが一瞬揺らいでしまった。
眉を顰めて、驚きで口を噤むオビトを見て、カカシは言葉を続けた。
「いや。覚えてないならいいんだ。変な話したな」
「……全然何も覚えて……それホントにオレが……?」
「いいんだよ。そういうこともままあるらしいから」
もう寝なよ、と言うとカカシは黙ってしまった。
入院してのせん妄なんて、病院で目覚めることがわかっていたオビトには当てはまらない。カカシが勝手に結論づけてくれたはいいが、急に発生した予想外の出来事にオビトは内心困惑していた。
それでも外面は偽らなくてはいけない。オビトはカカシの言葉に甘えて、ゆっくりと眠りに落ちた。
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オビトが意識を取り戻してから、夜の監視は姿を見せなくなった。オビトが他人を見て恐慌状態に陥らないようにするため、隠れての監視に変更となったのである。カカシもオビトの前では不安にさせないように面を付けるのをやめていた。
それにしても、自動で身を守ってくれるのは随分と楽だった。たまに根の一部が観察に来ているようだが、カカシをはじめとした火影命令で動いている暗部が牽制してくれていた。おかげで、今のところ誰も殺さずにうちはオビトを演じることができている。
オビトはゆっくりと顔を傾け、窓の外に移る星々を見た。
木の葉に潜入するまではずっと動きまわっていたから、こんなにゆっくりとした時間が流れることは珍しかった。星を見ようなんて考えも湧いたことがない。うちはオビトだった頃も全く興味のない分野だった。
皆の月読世界でも、輝く星彩を作ってやろう。ほんのりと癒やされながら、オビトは思考を整理し始めた。
ある程度身体が動かせるようになった姿を暗部共に見せて、退院してからが始まりだ。クシナの死期か妊娠が判明し次第、里の外にも出なければいけない。生活動作の訓練はそれなりのペースで進める必要がある。
オビトが自らの意志で飛び降りた、という意味不明な出来事も解明するべき事象ではあるが、それよりも考えたいことがあった。
はたけカカシについてだ。
少し前のオビト──マダラにとっては最早どうでもいい、その辺の砂と変わりない存在だったが、うちはオビトとして木の葉で生きる以上関わらざるを得ない人間になってしまった。
リンを殺しておいて元気に生きてくれとは微塵も思っていない。違和感を抱いたのは、カカシが、オビトの予想よりもかなりやつれてしまっていた所だった。
それだけのことをしたのだから当然だと思うと同時に、リンの死以外に、まだ自分とした約束にまで苛まれているのかと考えずにはいられなかった。
オビトは、神無毘橋の戦い後のカカシについて、ほとんど何も知らない。調査しようと思えばできはしたけれど、マダラにとってカカシは関係のない存在であるから触れていなかった。きっとどこかで罪の意識に溺れているだろうと密かに思う程度だった。
オビトは、カカシの中で自分の存在がどれだけ大きいのかこれまで考えたことがなかったのだ。故にカカシが、約束を守れなかったことや、仲間を守るという選択をしなかったことを、大きく後悔していたと対面してやっと察知したのであった。
『オレが、オレが初めからお前の言う通りに一緒にリンを助けに来てたら、こんな事にはならなかったんだ……!』
『……何が隊長だ! 何が上忍だ……!』
岩に押しつぶされたオビトの前で、カカシは、そう言って拳を握りしめていた。地面を強く叩きつけながら、自身を責めていた。
なるほど。カカシの中ではうちはオビトというのはそこそこ大きい存在らしい。
“うちはオビト”も、それなりにカカシのことは友達だとは思っていたが、晩年は──結局、十三歳のオビトは生き延びたのだが──喧嘩ばかりだった。波長も考えも実力も合わなかったのに、あちらは親しみを持ち続けていたようだ。
そんなカカシでも月読世界では幸せにしてやれる。だが──
──今のうちに一匹、忠犬を飼っても悪くはないか……。
オビトはカカシに対する振る舞いについてしばらく考えたあと、目を瞑った。
じっと星々を眺めていたせいで、瞼の裏にはまばらな光の粒が映っている。そこに月の光は見当たらない。何の価値もない夜空だった。
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「お前さぁ。本当に元気になる気ある? 全部食べきるまで寝かせないから」
「うっせぇな、じゃあお前が食え。マジで限界なんだよこっちは!」
オビトはベッド上で身体を起こして食事を摂っていた。食事といっても内容は未だペースト状の液体で、見た目も美味しさからかけ離れたものだ。栄養面ではきちんと管理されたものであったが、オビトにとってそれを食べるのは苦痛でしかなかった。
オビトの身体は内臓まで柱間細胞で補われており、食物が通り抜ける部分もまた柱間細胞で作られたものだ。この身体になってから飲食は必要なくなった。寝たきりのときに口から入れられた栄養は勝手に時空間へ飛ばしていたりしたものの、こうして食事時間にまでくっつかれると咀嚼しなければならなくなる。一瞬でも目を離してくれたらそれが一番助かるというのに。
味覚もほとんど消え失せているせいか、口内が終始気持ち悪かった。ぴかぴかの体内に汚物を入れているような感覚だ。身の毛もよだつような強い吐き気に襲われ、オビトはまた口を尖らせた。
「ほらまたゴミを見る目した! こう見えてもご飯なんだから。これ食べたらおかゆとか食べれるようになるんだぞ」
「うぅ……勘弁してくれ……」
「やっと車椅子に乗れるようになったのに、退院したくないの」
「……それとこれとは話が別っつーか……だぁもう! さすがに限界! これ以上食ったら吐く!」
オビトは数枚の皿を乗せたお盆をカカシの方向へ押しやった。カカシは皿の中が半分程度しか減っていないことを確認するやいなや、不機嫌そうな顔をしてオビトに突っかかった。
「そんな亀スピードの体重増加のくせに何言ってんの! 心配してんのがわかんない!?」
「……はいはい」
「はいはいじゃなくて!」
「もうマジで限界だから……お願いカカシ」
頼む、とオビトがカカシを見上げれば、カカシは悔しそうな顔をして唇を噛んだ。
「……今日だけだからッ!」
観念したカカシはお盆を雑に掴んで、下膳に向かった。昨日もカカシは「そんなおねだり一回しか通用しないんだからね」と言っていたのだが、それは省くこととする。
カカシはすぐにオビトの側に戻ってきた。少年の不機嫌そうな顔に多少懐かしさを感じなくもなかったが、すぐに切り替える。オビトはゆっくりと真剣な眼差しをカカシに向けた。
「聞きたいことがある。少し窓を開けてくれ」
「……いいよ」
カカシは十センチほどしか窓を開けなかったものの、それでも右頬にはやんわりと風が当たった。冬を予感させる冷風がカーテンを揺らす。
「オビトちょっと寒いんじゃない? 毛布もらって来ようか」
「……オレは上裸で南極にも行けんだぞ」
「冗談いいから」
本当に必要ないというのに、カカシはそそくさと個室から出て行ってしまった。オビトには緊張しつつあるカカシの心境が手に取るようにわかった。
戻って来たカカシがオビトに毛布をかける。カカシは気まずそうな表情で窓側に立った。オビトは左目を閉じ、右目で真っ直ぐにカカシを見た。
「カカシさ。隠してることあるだろ。もう言うけど……どうしてオレにリンの話をしないんだ」
「……」
「ずっと付いてもらってるオレが言うことじゃないけど、顔色悪いのも見てらんねぇし。前のお前だったらオレに食わせるためなら『リンなら怒るよ』くらい言ってただろ」
カカシは話題を予想していたようで、それほど動揺はしていなかった。目線を下げて、オビトの言葉を受け止めている。
「リンに何かあった……わけじゃないよな? オレ、カカシのこと信じていいんだよな?」
「……ッ!」
カカシがぎゅっと目を瞑り、苦しそうに眉を顰める。平然と嘘でも言えばいいものを、馬鹿正直に告げようとしているらしい。オビトは、愚かな少年が口を開けるまで何も言わなかった。
「すまない……オレは、オビトとの約束を守れなかった……リンは、リンは……」
カカシの肩が小刻みに震えている。過去を許せず、両の手にぎゅっと力を入れていた。傷だらけの拳の骨が、昔よりも主張を強めている。
「リンは戦場で……オレに胸を貫かれて、死んだ」
突風が室内に舞い入る。カカシの背後から吹き込んだ風がオビトの髪まで揺らした。普段何かと騒がしい病院内の一瞬の静寂が、カカシにとっては永遠のように感じることだろう。
オビトは内心、冷たい視線をカカシに向けていた。外面には驚愕した表情を貼り付けながら。
「……は」
喉から零れ出たような音だった。オビトはゆっくりとカカシから視線を外した。正面を向きつつも、何とも焦点を合わせない。
しばらくどちらも喋り出さず、静かな時間が続いた。カカシも後悔を隠さないまま顔を背けている。ついにオビトは、優しく、諦めた目をカカシに向けた。するとカカシは堰を切ったように怒り、声を荒げた。
「何だその顔は……ッ! もっと怒って責めろよ! オレが何をしたかわかってるのか!?」
「何か訳があったんだろ、いいよ。わかってる……」
「いいわけあるかッ! オレはリンを殺した! この右手で貫いたんだ……! お前に信じてもらう価値すら無かった男なんだ!」
口布で顔の半分を覆っていても、カカシが歯を食いしばっているのがわかる。カカシは、目の前の少年が安らかな態度をとっていることが気に食わないようだった。
「でも、オレとの約束を覚えててくれたんだろ。リンを守ろうとしてくれてたってことだ」
「あぁそうだ。でもできなかった。そもそもオビトだってオレが不甲斐ないせいで……!」
「……カカシ」
カカシの心情は大凡オビトの予想通りだった。当初の想像よりもオビトの存在はカカシにとって大きかった。それにリンを直接殺めてしまった心的負担も相まって、カカシの心は複雑に縛られていた。
オビトがカカシを腹立たしく思うのは、気に病む必要がないからだった。早くこんな世界を諦めたらいいのに、その選択肢がないから、彼はこの世界で生き続けるしかない。カカシは木の葉での生活に役に立つ。月読が無くても、今後のためにカカシ一人を掬い上げるのは、オビトにとっては造作もないことだ。
──お前を縛るもの全て、オレが絡め取ってやろう。
オビトは両手をベッドについて、ゆっくりと身体をまわして窓際にいるカカシに向き合った。真っ直ぐにカカシを見つめる。
「お前が殴って欲しいなら殴るし、怒鳴って欲しいならいつまででも怒る。けどな、オレはお前がそんな自傷みてぇなことを頼んで、毎日苦しむのを見たいわけじゃない」
「……」
カカシはオビトから顔を背けたまま言葉を聞いている。
「お前は悪くない。戦争の……この世界のせいだろ。お前は殺したくなかったんだから」
「でもオレが……!」
オビトの優しい言葉が辛いのか、カカシはそれでも否定しようとした。カカシはオビトが死んでから一年間、そしてリンを殺してからもずっとこの内省を続けてきた。だからカカシを責められる唯一の、生き残りの言葉すら受け入れ難いのだ。
オビトの思考はマダラをトレースしたときのように、過去の自分の思考をなぞっていた。カカシにとっての“うちはオビト”を起こして、ほんの少しだけ歪みを混ぜる。きっと、あの無垢な少年はこう言うはずだ。
「大丈夫だ。オレが全部変えてやる」
──無限月読に全てのヒトを堕として、そこでリンも、お前も救ってやる。
「火影よりすげぇ奴になって、お前みたいな奴が苦しまない世界を作るよ」
「……!」
驚愕したカカシが、バッとオビトの顔を見た。カカシの目には、あのときと同じ輝きで忍を語る少年が映っている。今でさえ生活のままならない少年が、真っ直ぐに未来を見ていた。
目の前に垂らされた夢は、心臓が張り裂けそうなほど望んだものだろう。これがカカシにとっての夢なのだ。
「オビト……どうしてそんなに、……」
「お前が苦しむ必要はない。それだけだ」
カカシは、一瞬、オビトの目に闇が宿ったのを見た。だが、一度瞬きをしたらすぐに元の“オビトの”瞳に戻ってしまった。カカシは驚きながら、やっぱりオビトには適わないな、と思った。
その光はカカシには眩しすぎた。しかし、だからこそ、うちはオビトはカカシにとっての英雄なのだ。
「明日はちゃんと眠ってから来いよ。最悪なことにオレはお前以外といられないんだから」
オビトは足下の布団を整えながら呟いた。
「……あぁ」
震えた声の返事が聞こえた。どこか救われたような、嬉しそうな音が風に乗せられて消えていく。
きっとこのときにはもう、カカシはオビトに落ちていた。
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入院して二ヶ月が経ったころ、オビトはやっと退院の日を迎えた。
ただ、オビトの対人恐怖はいまいち改善しておらず、街中に晴れやかな気持ちで出たわけではなかった。退院日はできるだけ人通りの少ない暗い道を選んでの帰宅となったが、それでも自宅の前に立ったオビトは嬉しそうだった。
「取り壊されてなくて良かったぁ。汚ぇけど」
オビトは車椅子に乗って、室内をうろついていた。棚や窓枠に溜まった埃を指先で拭って、フッと吹き飛ばしている。
リハビリの末、オビトは車椅子を用いれば問題なく生活できるまでになった。継続した通院も必要ではあるものの、医者からは運動も推奨されている。
カカシが、久しぶりの自宅で浮き立つオビトを眺めていると、オビトがふいっとこちらを振り向いた。
「お前がオレの家に転がり込むのはいいけど、マジ寝る場所ないぞ」
「オレは別に床でもいいから」
「良くねぇ~。早く布団持って来いよな」
「考えとく」
オビトは窓枠を掴みながら、ガタガタと動かして窓を開けた。カカシはその様子を横目で見ながら、目を細めた。
オビトの退院は上層部で論争を巻き起こしていた。正体不明のオビトの右半身を医療的観点から研究にまわすべきという意見や、正体がしれないのだから外に出さず監禁するべきだという意見があらゆる場所から湧いていた。そんな状況でもこうしてオビトが自宅に帰れたのは、その中でミナトが尽力してくれたからだった。
カカシが、
『オレがずっとオビトに付きます。根は何度もオビトを狙ってるんですよ、一人になんかさせられない……』
と直接訴えたのを受け入れたのだ。
ミナト自身もオビトの対人恐怖を悪化させないために、まだ会わないという選択肢をとってくれている。まだオビトに会えていないのにも関わらず、真っ直ぐな気遣いをオビトに向けていた。
きぃと音がなったと思えば、オビトがタイヤをまわしてカカシの側にやって来ていた。
「オレのこと、ミナト先生には何っつってんの」
「……バカすぎるから頭の検査が要るって言っといた」
「はぁ? ぶっ飛ばすぞ!」
オビトがカカシの腕をガンと小突く。勢いの無いそれがなんとなく嬉しくて、カカシは僅かに微笑んだ。
「痛くないんですけど。オビトはオレのために火影よりすごい忍になってくれるんじゃなかったの?」
「……まだ準備中なんだよ!」
オビトは青筋を立ててカカシを睨んだ。カカシは呆れながら、はいはいといなす。
「ま、今日はオレが飯を作ってやるさ。オビトは机の準備でもしてて」
「え、飯? 今日はもういいって、疲れたし」
「オレはミナト先生から指示されてんの! それに、食事抜いて筋トレばっかやっても意味ないから! 生活習慣もオレが見るからね!」
カカシがオビトに指を差して声を荒げる。
オビトは木の葉に帰ってきてから、食事を敬遠するようになった。カカシ自身、オビトが吐く姿を何度か見ている。とは言っても、食べなければ力は生まれない。カカシは心を鬼にしつつも、オビトの食生活を改善しようと躍起になっていた。
結局、カカシは魚を焼いてオビトに食べさせた。結論を言えば、オビトは半分以下の量でギブアップしてしまい、残りはカカシが食べることとなった。
入浴も終え、一日の締めとして皿を洗う。最中、カカシの脳裏には幼い頃の映像が流れていた。
アカデミー時代に、オビトとリンを家に入れて、食事を共にした日のことだ。二人は、カカシの釣りに、すごいすごいと目を輝かせていた。その言葉を背に、気恥ずかしい気持ちで魚を捌き、ムニエルを作った。美味しそうに食べる二人と食卓を囲んだあの時間。父親を亡くし色を失っていた日々の中、特別に安らかな時間だった。
仲間ができたと、サクモの墓に報告に行けたのは、ガイと、なによりオビトとリンのおかげだった。折れそうだったあの頃、話しかけ続けてくれた皆のおかげで、今の自分がある。
──どうせオビトは忘れてるだろうから、言わなかったけど。
皿洗いを終え、カカシはオビトの自室へ向かった。既にオビトはベッドに脱力して寝転んでいた。その体勢のまま、カカシを一瞥する。
何かと思えば、カカシの足下には布団が敷いてあった。敷き布団の上には枕と掛け布団が雑に置かれていた
「なんか布団あったから出しといた」
「え……あぁ」
「眠らなくてもいいから、横なれば?」
「……」
オビトに促されるまま、カカシは布団に座った。顔を上げれば、丁度正面にオビトの机がある。机の上にある長方形の出窓は、いつもオビトを迎えに来たときに覗いていた場所だ。
ガラス戸を雨粒がぽつぽつと濡らしている。どうやら雨が降り始めたようだ。
「お前はずっとオレと居なきゃいけないの? お前がいると何でも頼っちゃうんだけど……」
「んー……オビトは気にしないでいいよ。大人が怖いのも、ゆっくり治していけばいいさ」
オビトの部屋を眺め終わり、カカシは隊服のベストを脱いだ。身体を休ませるように布団に寝そべる。これまでは眠ることに嫌悪感さえ抱いていたのに、オビトの隣にいるというだけでなぜか安心感があった。それに、最近は優しい夢を見ることも増えている。きっと今日も身体を休めることができるだろう。
「実はオレも、最近ちょっとずつ眠れるようになってきてるし。オビトも時間かけようよ」
「マジで! 良かったじゃん!」
オビトは器用に身体を回転させてカカシを向いた。ニシシと笑う顔は、あの時のままだ。
「お前が苦しくなりそうで言わなかったんだけど。実はさっき、昔のことを思い出したんだよな。リンと……カカシの家で飯食ったときの」
オビトが語ったのは、カカシが先ほど思い出していたアカデミー時代の淡い思い出だ。
オビトは、忘れていなかった。カカシがどんな物より大切にしている思い出が、オビトの中にも残っていた。カカシにとっては命と同じくらいに大切な思い出だ。オビトにとって、ただ一緒に遊んだ日だったとしても、それを覚えていてくれたことが何より幸福だった。
カカシは思わず笑みを零していた。
「……フフッ」
「……んだよ」
「何でも無いよ」
カカシは立ち上がり、部屋の明かりを消した。そのまま誤魔化すように布団に入る。
疲れていたオビトはすぐに寝息を立て始めた。それを確認して、カカシも身体を休めた。
雨の音は次第に強まり、ザーザーと砂嵐のような音が聞こえていた。
夜とは言っても警戒中だ。カカシは浅い眠りで時折起き、オビトに異常がないか確認していた。これも任務の一部だ。オビトの安全のためなら苦痛ではない。
時刻は深夜三時。カカシが目を覚ますと、オビトが上体を起こしているのが見えた。背を向けられているせいで顔が見えず、目を覚ましているのかはわからない。オビトは俯いて、ぼそぼそと何かを言っていた。
耳を澄ませて、オビトの声を聞く。
「……なぜ。オレが間に合えば、? ……リン……」
「……!」
心臓がひとつ、強く震えた。
あの任務のときもひどく雨が降っていた。リンの血液と雨が混ざり、カカシの足下には赤い血だまりができていた。雨音の中、力無く倒れるリンがあのときと同じままに眼前に映る。
己の罪だ。あまりの息苦しさに、寝そべったまま自身の胸を掴んでしまう。
──でも。
この気持ちも捨てずにオビトと生きていく。
ぎゅっと目を瞑り、再び瞼を開く。苦しくてもオビトという希望がある。彼の横に立ってさえいれば、生きる力が無限に湧いて出てくるのだ。
いつの間にか下がっていた視界を上げ、オビトの方を見やる。オビトはベッドから膝を下ろしていた。
そのままオビトはすくっと立ち上がった。まだ自立歩行は厳しかったはずなのに。
「……え」
オビトはそのままスタスタと歩いて部屋の扉に向かっていた。カカシを無視して通り過ぎたオビトの顔はどこか虚ろで、本当に覚醒しているのかさえ怪しい。
なぜか気づかれてはいけないような気がして、カカシはすぐには追いかけず、そっと扉の先を覗き込んだ。オビトの影が廊下からリビングへ向いている。外に出る気か、と思ったが玄関の扉の音は聞こえない。聞こえてくるのは、激しい雨音と僅かに聞こえるオビトのうわ言だけだ。
オビトのいる方向から、キッと戸棚を開ける音が聞こえた。耳を澄ましているだけでは何が起きているかわからない。カカシはできるだけ気配を消して、オビトの部屋を出た。
足音に気をつけて廊下を進む。頭だけを出して、リビングの様子を覗き見た、その瞬間。
突然、辺りに閃光が走った。同時にオビトの家に轟音が響く。雷が近くに落ちたのだろう。爆撃にも聞こえた音は未だに低音を残しオビトの家を揺らしている。
その一瞬の明かりで、見えてしまった。
オビトが、自身の胸に包丁を突き立てているのを。
オビトはキッチンの前で座り込んでいた。その瞼は半分閉じられていたが、その両手はしっかりと包丁の柄を握っていた。振りかぶりもせず、心臓部分に当てた刃を押し進めようとしている。その腕に戸惑いは見えない。
カカシは廊下の影から飛び出した。
「……オビトッ!」
「……こんな地獄……間違、オレは……」
オビトが囁く。それを聞きながら、カカシは包丁の側面を狙って蹴り飛ばそうとした。しかし、オビトの片手によってカカシの足首は止められてしまう。
「……!?」
オビトはまだはっきりと目覚めていないはずなのに、飛んできたカカシの足をしっかりと掴んでいる。思わず目を見開いてしまうが、カカシはすぐに足をもう一度振り抜いて、オビトの腕から抜け出した。
柄を握るオビトの腕に手を重ね、これ以上包丁が進まないように抗う。
「やめろ! お前が死ぬ必要なんて無いッ! 殺すならオレを……ッ!」
必死だった。オビトが死ぬ必要なんて何処にも無い。全身全霊で力を込めてオビトの腕から包丁を抜き取った。部屋の隅に放り投げれば、カランと刃先が壁に当たった。
オビトは胸の前に両手を浮かせたまま、静止していた。虚ろな目のまま、自身の手をぼうっっと眺めている。
カカシは切れた息を整えながら、オビトの胸を覗き込んだ。寝間着のシャツには数センチほどの穴が開いていて、僅かに血が滲んでいた。
胸の傷にカカシが息を呑むと、オビトの口から言葉が漏れた。
「オレは、クズだ……」
雷雨に紛れた、儚い声だった。行き場の無い絶望を見た気がした。
断罪を求めるカカシに、オビトは安らかな顔を向けていたけれど、その奥に隠された正体がこの絶望なのだと思った。いつも明るく振舞っているのに、自分を殺そうとするまで病んでいるなんて。
自身の鈍さに無性に腹が立つ。
──今度こそは死なせたくない。オレがオビトを、二人を守る……。
そう決めたはずだった。もしやり直せたら、絶対に二人を守ると誓ったのにどうしてこんなことになったのか。どこまでも甘い覚悟に虫酸が走る。
カカシは怒りを押し込めて、オビトを抱きしめた。
「ごめん! 本当にごめん。オレのせいだッ! オビトは悪くない……! 死ぬべきはオレなんだッ!」
オビトはカカシの腕の中、されるがままに抱かれていた。その空虚な姿に、背中へまわす腕にさらに力が入る。
「うぅ……オビト、こんなことしないでよ……」
「……は?」
すると、耳元でいつものオビトの声が聞こえた。もう、暗い響きの声ではなくなっている。
「起きた!?」
カカシがオビトの肩を掴み、ぐいっと引き離す。いつの間にか泣いてしまっていたようで視界が歪んでいた。揺れる世界の中、オビトの目が自分を捉えているのが見えた。とりあえず窮地を脱すことができたようだ。安堵で一粒涙が落ちる。
「なんでお前泣いてんだ……え? なんでオレはキッチンに……?」
カカシに両肩を掴まれたまま、オビトは辺りを見回して困惑していた。
とりあえず、この件はミナトに報告しなければいけない。“報告していない引っかかること”もある。それを含めてオビトの対応を考える必要があった。
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カカシはオビトの肩から腕を外し、立ち上がった。壁際に落ちている包丁を拾い、シンクに置く。
それを目で追いながら、オビトは必死に思考を続けていた。
どうしてここにいる? 車椅子は見当たらない。カカシが運んできた可能性。じゃああの包丁の理由は? まるで投げられたような。まさかオレは歩いて来たのか? まだ歩けないように偽っていたのに。
──この身体は、勝手に動くときがある?
「……今オレは何をした!? 正直に言えカカシ!」
オビトはカカシに怒鳴った。
オビトの中で、入院中に飛び降りたことは意識外のことだった。原因も不明の、謎の事件だ。たしかにこの精神は健康とは言えない。けれど夢を目前に、この身体を殺そうとするほど馬鹿ではない。
救急箱を携えたカカシはオビトにそっと近づき、側に座った。
「……ほら。シャツ脱いで」
カカシが、少年の胸に指を差す。それに従って胸元を見れば、寝間着のシャツが少しだけ破れていた。じんわりと響くような痛みもある。信じられずに心臓部分に手を当てれば、指先が赤く濡れた。
急いでシャツを脱いで、直接傷を確認する。大した傷ではなかったが、暗い視界でもそこに赤が滲んでいるのが見えた。傷口からはゆっくりと血が出続け、今にも線を引いて垂れようとしている。
「……は? なんだこれ。オレが……?」
「……」
カカシは呆然とするオビトをそのままに、胸の血を拭って止血していた。ガーゼを傷口に貼り、テープで固定する。その上から手の平をぐっと当て、傷を圧迫した。
「痛いよね。もうちょっと待って」
オビトは抵抗せずにカカシの治療を受けていた。
傷自体は問題ではない。どうせ数分も経たずに綺麗に治るはずだ。それよりも問題なのは、愚かにも、命を絶とうとしたその行為だった。
世界を救わなければいけないというのに、楽な方に逃げるなんて許されない。既に死んだリンに誓ったのだ。もう一度リンのいる世界を創ると。そこにはリンを救えなかったカカシはいない。リンが笑って生きられて、カカシを責める過去も無い──そんな世界にすると決めたのだ。
オビトの目前には、辛そうに顔を歪めるカカシがいた。オビトは思わず止血するカカシの手を払いのけた。
「オレ、は」
「いいんだよ、オビトは悪くないから」
「違う。よくない。何もよくなどない。お前はこんなことをする必要は微塵もない。全く無いはずなのだ」
「……オビト?」
うちはオビトらしからぬ口調に、カカシが違和感の声を上げる。オビトはハッとして、自身の口を片手で覆い隠した。
「いや、……忘れてくれ。できれば今日のことは誰にも言わないで欲しい。少し、考えたいんだ……」
「……オレにも一緒に考えさせてくれるなら、いいよ」
カカシは救急箱と一緒に持ってきていた清潔なオビトのシャツを差し出した。カカシの表情はどこか寂しそうで、その姿は行き場を無くした子犬のように見えた。
しばらく考えて、オビトは了承した。カカシの手の中にあるシャツを奪い取り、緩慢な動きで着直す。
身体は冷え切っていて、普段なら何とも思わないはずなのに変に汗が滲んで気分が悪かった。了承してしまったのは早く会話を終わらせたかったからでもあるが、何より奴を不憫に思ってしまったからだった。
──そんな思考、“オレ”らしくもない……。
オレなんてものは存在しないのに、どうしてかそう思った。依然、脳は動き続け答えを探そうともがいている。けれど、答えが見つかるのが恐ろしくて、思わず目をぎゅっと瞑ってしまう。
こんな偽物だらけの世界に価値などない。もう世界を変える決心はついている。しかし、リンの死は何度思い出しても息が詰まるほどに苦しく耐えがたいものだった。
それがこの身体を死に導こうとしているのだ。逃げるなんて選択肢をとるつもりがなくても、感情に耐えかねて夢遊するように刃を握っていた。
オビトは、その場で蹲った。一向に立ち上がらないオビトに、カカシが上着をかける。オビトの震える手にカカシの手が重なる。冬だというのに、カカシの手は暖かく、オビトの肌を温めてくれていた。
普段ならこんな弱みを見せるなんてありえない。オビトでさえ知らない弱点をカカシは知ってしまった。病院内の飛び降りはせん妄ということで結論付いていたが、この出来事はどうにも誤魔化せない。
カカシが報告するようであれば、その前に殺さなくてはいけない。カカシか、ミナトか。報告をする方かされる方、どちらかを殺す必要がある。
オビトは蹲ったまま、カカシの手の中で拳を握りしめた。どんな感情になっても、この指針は揺らすつもりはなかった。