【再掲】「おい水戸、俺は蛙化現象の対策を始めるぞ」
「アンタって本当に懲りないよね」
木曜日の晩、部活終わりにそのまま俺の家へ泊りにやって来た三井さんは布団の上で胡坐をかき、決意したかのように重々しくそう宣言した。
対する俺は背中を向け、コントローラーを握ったままゲームを進めている真っ最中。
振り返りもせず、テーブルに立てている鏡越しに目を合わせると俺の返答に拗ねて下唇を突き出していた。
それ、可愛いからやめろって何度言えば学ぶんだ。
「懲りないも何も明日から始めるんだぞ」
「だからそうやってすぐ話題に乗っかってはすぐに投げ出しちゃうとこ、悪い癖だよ」
そもそも今俺がプレイ中のゲームだって自分が投げ出したものだともう忘れたのか。
この人は話題になっていたり、新しいものが好きだったりするわけではない。
俺と付き合うようになって以来、わずかな年の差を気にして若者の関心に夢中なだけだ。
人気と知ればシリーズもののゲームでも最新作だけ買い、好評と聞けば苦手な酸味のジュースでも挑戦する。
そして必ずすぐに投げ出してしまうのが本当に悪い癖だ。
部活終わりの疲労しきった体で並んでまで購入したタピオカは半分も飲まない内に俺へ寄越し、カワウソは散々可愛いと絶賛したのちに虎が見たいと言い出した。
幼少期からずっとバスケに夢中だったのでゲームの基礎となるレベル上げやストーリーを進める為に必要なミニイベントなどの地味な作業に耐性が無く、序盤も序盤でやってらんねえと俺へコントローラーを押し付けた。
つい最近発売されたばかりの酸味が通常の十倍という罰ゲームで使用されるであろうジュースはコンビニを出てすぐに一口だけ飲んだあと、眉を顰めて不幸にも偶然その場に居合わせた堀田さんへプレゼントだと笑顔で渡していた。
毎回毎回そんな調子だからいい加減に懲りなよと言っても聞かず、一昨日も部活終わりのコンビニでマリトッツォなる非常に発音しづらいスイーツを購入しては一口だけで胃がもたれると俺にパスした。
あまり強く叱れないのはあくまでも俺との話題作りの為で、スイーツやゲームはともかく水族館やドローンの見学などは普通にデートとして楽しめているからだ。
俺を若者として見ているがアンタだって十分そうだと言っても納得しないので結局は本人が飽きるまで自由にさせてはいるものの、これに関しては今夜の内に忘れさせてしまいたい。
嫌われるかも知れないと不安に思うくらいなら日頃から人の忠告をきちんと聞いておけ、くらいは言ってやろうか。
今日だって部屋に入るなり自分が放置していったセットされたままのゲームを見つけてまだやっていたのかと笑い、どうせなら派手な戦闘アクションを見せてくれと言ったのは自分なのにまるで興味が無いようだ。
「…お前は俺に蛙化現象が無いって言えるのかよ」
「無縁だって分からない」
すっかり不貞腐れて布団に潜ってしまったからコントローラーを置き、寝かしつけるよう隣へ寝転べばほんの少しだけ表情が緩んだ。
触れるだけの軽いキスをすると益々緩み、可愛いさに負けて勢い任せに襲いたくもなる。
でも我慢だ、明日の朝練に支障が出ようものなら二度と来ないと言われてしまう。
お約束条項第一、バスケの邪魔になるようなことはしない、を守らなくては。
両親が居ないからおいで、という急な誘いに喜んで泊まりに来てくれただけでも有難いと忘れてはならない。
つまりこの可愛い生き物を前にして一晩生殺し状態が続くという残酷な現実をこの人は分かっているのだろうか。
いや、そもそも自分が捕食対象だという自覚も無いに違いない。
「なんであんなものが流行るんだ」
「理解出来なくて追及しようとするから余計話題になるんじゃない」
知らないけど、と続けて頬を撫ぜるだけで瞼が重くなり、大きな欠伸が一つ。
なんとまあ無防備なことだろうと思うのは毎度のことで、自分の辛抱強さに感心する。
ついに枕の位置を整えると完全に眠る姿勢に入り、うとうとしながらも水戸、と嬉しそうに名前を口にされて唸り声を上げそうになってしまった。
可愛いが過ぎるといっそ叱りたくなるこの気持ちは何なのだろうか。
蛙化現象なんぞよりも俺としてはこの湧き上がる謎の感情の方がよっぽど問題だ。
「俺は一番みっともない姿を見られているからなあ」
「だからこそ今のアンタが輝いて見えるんだよ。ほら、無理しないでさっさと寝な」
あくまでも優しく声をかけ、丁寧に頬を撫ぜ、最後にもう一度だけ軽いキスをすればおねむモードの三井寿の出来上がりだ。
あんな言った者勝ちで理不尽なもの、俺達二人には到底無縁で不安に思う必要も無い。
だからネガティブな発想も全部手放してさっさと夢の中に落ちてしまえば良い。
眠気が失せないよう慎重に触れ、仕上げに腹をぽんぽんと優しく叩けばようやく瞼が閉じ、自ら赤ん坊みてえだ、と言ってふにゃふにゃに笑った。
ああ畜生、いっそ今すぐにでも休校レベルの台風が来てしまえば良いのに。
「これから俺の巻き返しが始まるからな…覚悟してろよハニー」
「はいはいおやすみダーリン」
完全に寝落ちする寸前で放たれた言葉は無防備な寝顔には似つかわしくないほど男前なものだから俺は込み上げる笑いを飲み込み、暫く寝顔を楽しませてもらった。
「なに…なんか、え…」
「悪い、起こしたか。朝飯準備しておいたからきちんと食ってこいよ」
翌朝、物音と人の動く気配に目を覚ますと三井さんがバッグを手に取り朝練へ行こうとしているところだった。
こんな早朝からよく頑張るなあとまだ半分寝ている頭で考えながら普段とは違う様子に気付き、思わず戸惑いの声を出しながら上半身を起こした。
何だ何かがおかしいぞ。
そう思って何度も瞬きをしている内に三井さんがこちらへ歩み寄り、うんと顔を近付けて優しい言葉をかけてくれた。
「いやいや、ええー…なに」
「…寝ぼけてるのか」
「そうじゃなくて…三井さんさ、何て言うか…すげえ男前じゃない」
「どうだ、惚れ直しただろ」
我ながらなんて間抜けなセリフだろう。
しかしこれは事実だ、今日の三井さんは抜群の男前に仕上がっている。
勿論元々の素材が良いし、元々が男前ではあるのだがしっかり眠って疲労もとれたのか、表情も生き生きとしている上にばっちりとワックスで整えられたヘアスタイルも相まって恐ろしく男前だ。
それを指摘すると本人は得意気に白い歯を見せて笑い、まだ寝てろと頭を撫ぜてくれた。
何だ何だ、突然何もかも男前になってしまってどうしたんだ。
急な出来事に何も言い返せないでいると三井さんは時間が無いからと素早くキスをして足早に家を後にしてしまった。
状況を飲み込めないがこのまま外へ出してはならないと本能的に抱き締めてまで止めようとした俺の両腕は空虚を抱き、暫く布団の上で茫然とするしかなかった。
もしかして、昨晩言っていた巻き返しとやらが始まっているのだろうか。
たった一晩であんなにふにゃふにゃだった人間がああもキリッとした男前に豹変するものなのか。
目的が目的なだけに少々笑えるが笑い事では済まされない問題もある。
「…あんなの絶対モテるだろ」
一人で情けなく吐き出した言葉に誰も共感も否定も返してはくれなかった。
きっといつも通り長続きはしないと分かっていてもあんな男前を野に放っては危険だ。
何なんだあの人は、あれで蛙化現象の対策のつもりだなんて冗談じゃあない。
どうしていつもいつも俺の忠告は右から左へと流してはいお終いなんだ。
ああいう特別な恰好や表情、仕草は俺限定にするよう俺は何度も注意忠告指導と口を酸っぱくして言い聞かせてきたつもりだ。
それがどうだ、あんな男前が一人で外へ出てしまったぞ。
俺に幻滅されないよう男前になろうという安直な考えをおバカで可愛い、と思わないでもないし、目の保養には十分過ぎる。
しかしこれに関しては絶対に駄目だ。
ただでさえ不良から更生して爽やかなバスケットマンになったと評価が高いのにあれでは評価も爆上がりだろう。
俺とのお約束条項第三十八条、俺以外の前でイケメンにならないに抵触している。
流石に今すぐ体育館へ叱りに乗り込みはしないが学校へ着いたら真っ先に説教だ。
「ちょっと三井さん、アンタさあ…」
「おう水戸、寝坊せずに起きれたか」
あのまま二度寝など出来ずに目が覚めた俺は用意してもらった朝食をしっかりと食べ、栄養を蓄え元気に部室のある校舎へと乗り込んだ。
部室へ向かう途中の廊下で堀田さん達と合流している三井さんをすぐに見つけ、開口一番に叱ってやろうと思って歩みよれば爽やかな笑顔が眩しくて目を閉じてしまった。
何だ、ただ片手を上げて挨拶をしてきただけなのに凄まじい男前じゃないか。
昨晩のあのふにゃふにゃで可愛い俺だけの三井さんはどこへ消えてしまったんだ。
ええいやめろやめろ、俺だけに向けられた笑顔に周りまで勝手に赤面するな。
この人の可愛いも男前も全部俺のものなんだ、タダ乗りするなんて恥を知れ。
「どうした、豪く不機嫌だな」
「そりゃどっかの誰かさんがあちこちで男前振りかざしてるからね」
「そうか、じゃあサービスしてやるよ」
「は」
俺の嫌味に悪びれることもなく、チュッとリップ音を立てての投げキッスに唖然とした。
野太い声で良いなあ、と羨む声も聞こえたがそれどころではない。
サービスって何だ、ファンサのつもりか
と言うかアンタ、何でそんなに投げキッスが上手いんだ。
アイドルごっこがしたいなら今すぐ早退だ、俺の家の中でならいくらだってさせてやる。
などと考えながら、ほぼゼロ距離で受けた投げキッスをせめてもの抵抗でパクリと口に放り、豪快に咀嚼して飲み込む真似をしてやった。
それを三井さんはまたしても爽やかに笑い、朝から元気だなと余裕たっぷりだ。
可愛くって憎たらしい、俺の辛抱強さに感謝しろ。
「じゃあこれは俺からのサービスだよ」
「う」
「三っちゃーん」
「担架だ担架持って来い」
「保健室まで全速力だ」
投げキッスが何だ、そのくらい俺にだって朝飯前だ。
馬鹿馬鹿しいと自覚しながらもお返しをするなり三井さんは胸を押さえてその場に倒れ、野太い悲鳴が校内に響き渡った。
しかも全員で廊下に備えられていた担架をテキパキと組み立て、そのまま三井さんを保健室まで運んで行ってしまった。
何が起きたのか状況が理解出来ないまま俺一人が廊下にポツンと取り残され、苦労するであろう一日の始まりに大きくため息をついた。
説教がしたかったのに、とんでもなくお粗末なコントの道具にされてしまった気がする。
結局俺まで保健室へ向かうのは億劫に感じ、またいつもの水戸可愛い病だろうと放置していると午前の内には俺があの三井寿を投げキッスの一撃で倒したという何とも言えない噂が校内中に広まっていた。
わけがわからん。
でもまあこれで男前ぶったところで俺には通じないと諦め、また次の流行りものに意識を向けるだろう。
どうせ流行りものに手を出すなら若者カップルは必ず手を繋いでいるだとか、週に十日は仲良くお泊りデートをするだとかが流行れば良いのに。
「その蛙化現象対策ってやつ、いい加減にやめない俺達には無縁なんだって」
昼休み、花道達と屋上へ向かう途中で未だに男前ぶった三井さんに遭遇した。
そして俺だけ呼び止められ、あろうことか廊下のど真ん中で壁ドンを受けた。
自信満々な面をした三井さんは酷く満足気で、キュンとするかとまで聞いてくる。
壁を背にして腕を組み、至近距離に寄せられた面を楽しんでいる俺がどう見たらキュンとしていると思えるのか謎の自信だ。
強いて言うなら表現し難い気持ちがギュンッと湧き上がり、この状況を一人で楽しんでいる似非男前の顔面を鷲掴みにしたくなった。
それを我慢して優しく説き伏せようと試みる俺の心の広さをどうしたら理解するだろう。
「男前にしといて損は無いだろ」
「男前は自分で自分を男前なんて言わないよ」
「………」
「こら、また下唇」
「ん」
はい可愛い。可愛いが可愛いをしている。
どれだけ男前ぶろうが壁ドンしようがちょっと気を抜けばすぐに可愛いが出る。
あと少し押せばその男前も崩れ、いつもの不貞腐れた可愛い表情になるだろう。
その可愛いが出る度に暴れたくなる俺の気持ちを理解しろ、とまでは言わないが心臓がもたないので手加減してほしいところだ。
俺からしたらバスケ以外じゃ何をしたって可愛いわけだし、他の人間からしたらこういうことばかりしているから面白芸人枠だなんて密かに呼ばれているんだ。
積極的な距離の詰め方も顔を近付けるのだって大歓迎。
ただしそれはあくまでも二人きりの状況のみで、こんな大勢の目に触れるような場では望ましくない。
「こら三井喧嘩が弱いくせに水戸に絡むな自分の弱さを自覚しろ」
「「えっ」」
本格的に説得しようとしたところで通りかかった教師が三井さんを怒鳴り、制服の襟を掴んで俺から引きはがした。
しかもそのまま指導室へ連行しようとするものだから俺は先生違うんだ遊んでいただけだ、じゃれていたんだと必死に弁解し、あまりな物言いにショックを受けて放心している三井さんを取り返した。
それでもまだ納得していない教師に大丈夫だと繰り返せば溜息交じりにその場を去り、頭上からすん、と鼻をすする音が聞こえた。
危ない危ない、あのまま連行されて説教を受けようものならこの人のメンタルが死ぬ。
見てみろ、既にあれだけの言葉で男前も何もあったもんじゃない。
喧嘩が弱いってのはNGワードなんだから、素人が迂闊に口を出すな。
「…ほら、らしくないことをしたって損するだけだろ」
「あんまりだっ」
刺激しないよう優しく声をかけると背中を丸めて俺の胸に泣きつく哀れで可愛い可愛い生き物が爆誕した。
その震える背中を両手で撫ぜながらも、いっそ息が出来ないほど強く抱きしめてやろうかとその場に不釣り合いで凶暴な感情の処理に俺は頭を悩ませるのだった。