変化、継続、新たなる扉 獅子神敬一の爪や指先は整っている。日頃から保湿をし、やすりをかけ、欠けないよう努めている。トップコートの類は塗っていないようなので尋ねたことがあるが、タンパク質は足りてるからなと返ってきた。単純な話だ。彼による彼のための食事管理は筋肉を作るためだけではなく、細部まで行き届いている。
今日も本業の合間に気になる部分があったのか、やすりをかけていた。爪の削れる小さな音が、私と獅子神の間に流れる。私は獅子神のデスクから少し離れたソファーに座って新しい術式についての論文を読んでいた。紙束で読んだ方が捲る時の音で雰囲気が出ただろうか。
こういった時間は嫌いではない。だが浮き上がってきた疑問に思考が引っ張られ、すぐに集中が霧散した。
「あなた、私と出会った頃はそんなに指先を整えていたか?」
「あ? あー、その頃はまだかな。てか村雨なら覚えてるんじゃねえの」
サイコロ渡してやった時でもいつでもその目は初対面の人間の体や精神面の調子すら見抜いて覚えているはずだと。獅子神はそう言う。確かに私は観察力に長けている自負も、記憶力に長けている自負もあるが、それを取り出して見せる相手は選んでいるつもりだ。
律儀に手を止め、こちらを見ての応答をする獅子神には、私からも説明すべきなのだろうか。
「確認作業だ。タッグマッチの後からで間違いないか?」
「…………んん、ぉう。てかやっぱ、わかってんじゃん」
疑問形ながらも断定であると理解した彼は少しだけ口をつぐみ、バレていることが恥ずかしい、とでも言うように口を引き結んだ。
「確認だと言っただろうマヌケ。そして理由を聞かせろ」
「それも確認か? 俺の動機と、村雨の考える理由に相違ないかっていう?」
「それ以外に何か?」
「……ないんだろうな。まーなんつうか、天堂かな」
「は?」
「は 怖い顔すんなよ!」
やすりを落とした獅子神がそれを拾い、机に置くのを待ってから、改めて、努めて真顔で「は?」と繰り返す。
「なあ、お前そのボケ好きなの? 天然?」
天然はあなたの方だな、と言っても漫才にもならないのでやめた。それにボケでもない。至極真面目だ、このマヌケ。
「いいから答えろ」
「いやだから………………あっ、それ嫉妬か?」
ソワソワと落ち着かない態度を隠しもしない男に対し、流石の私も多少苛立つ。
「マヌケが。次の集まりに業務用生クリームを持ってきてやろうか」
「糖質と脂質で脅すのやめろ、独特すぎるわ」
キロ単位で持ち込んでやろうかと思ったが、以前に彼が作ったケーキを思い出してしまった。製菓学校に通ったわけでもないのに器用な表面処理をしていたな。そして味は言わずもがな。あれを思い出すと、獅子神か、それこそプロの作ったものでないと満足できないだろう。
昔は安いケーキバイキングで皿を空にしていったものだが、私ももう三十手前だ。量は食べられても質への妥協はできない。
一応定められてはいるもののその実不規則な勤務時間、ストレスの多い仕事、自覚のある偏食。そんな生活に呆れてサラダやポトフを作る恋人。獅子神に出会ってからの私はつくづく恵まれている。買った人間の中身を見る事以外で満足を覚えたのは久しぶりだった。
「……あなた、またケーキを作らないか?」
「あ? ……テメーで食う苺は別で用意できるんだろうな?」
「できる」
力強く言い放つ。春になったら農家が経営するハウスに直接買いに行くか。何箱買うかが問題だな。一緒に買いに行くのもいい。
「それで爪の話だが」
「おい、流れねぇのか前の話。よく蒸し返すなって言われね?」
「言われるが些末な問題だろう。今はあなたとの会話なので多少甘えているところはあるがな」
「は そっか へー」
肌の色が特別白いというわけでもないくせに、照れている時がわかりやすい。片伯部班の行員のようになっているぞ。しかも照れたことが気まずいのか一度置いたはずのやすりをまた手にとって上下左右に回し、落ち着かない様子だ。
「あー……。じゃー話すけどよ。面白くはまあ、ないと思う。その、コイビト的には。……いや! 天堂の爪って綺麗だろ? 本人は神性を高めるのと趣味を兼ねてるっつってたけど、要するに仕事のモチベに繋がってんだよな? 俺も本業じゃだいたい座って画面か手元見てるしよ、綺麗にしておいた方が気持ちがいいんじゃないかと思って。聞いてみたら色々やるんだな。甘皮ふやかすのも初めてだし、あとネイルオイルとか初めて買ったわ」
おすすめとか教えてもらったけどなかなかいいぜ。……女学生のような言葉のあと、会ったのはタッグマッチの後だしな、と付け加えて獅子神の供述は終わった。
そうか、嗅ぎ慣れないと思っていたにおいはネイルオイルだったか。今までとくに気にしたこともなかったので思考から除外していたな。今日はついでにそれも見せてもらうとしよう。
「つまり私とのタッグマッチで見る力が上がり、あなたからするとバケモノじみた天堂のルーティンも自分に取り入れようとしたということか?」
「んー……ルーティンっつうか……。まあ、ギャンブルするにしても手先が荒れてたら気になりそうだと思ったっていうのもある。そんなの気にならねぇに越したことはないんだけどよ、やれることはやっときたいだろ。オメーのおかげで、弱いのも臆病なのも自覚したし、認めたんだからよ」
「つまり?」
「村雨由来天堂経由、俺?」
「マヌケを百乗したような表現をするな。だが……ふむ、天堂は手段で、スタートとゴールには私がいる事がわかった。概ね合っていたのでよしとしよう」
「ほんっと自信家だな。まあ否定はしねーよ。村雨の爪も綺麗だからいいなって思ってたし」
「私は仕事のうちだからな。検査、検診、手術どれもに手袋を使う。消耗品だが安いわけでもないので気軽に破けない。素手だとしても雑菌が溜まる部分なので短いに越したことはない。指先は消毒液でかさつく事が多いが、大体ワセリンでなんとかなる」
端末を置き、爪を上向きにし、手の甲を見せる形で獅子神の方へ向ける。本を開いているような形でもあるな。
獅子神の青い瞳に私の手が映り込む。真面目な顔をしていると美術品のようだ。その美術品の頬がまたじんわり赤くなってきた。発汗もしている。呼吸ついでに鼻が動いてしまった。
「ん……まあ、今までちょっと乾燥してんなとは思った事もあるけど好きだぜ、村雨の手。それにそういうとこ好きなんだよな。村雨の、自分の仕事に妥協しねーとこ」
「誘い文句か?」
じわじわとプライベートの空気を醸し出しているのに気づいていないにしても、仕事中の自覚があるのなら恋人に好きだなんて言わないだろう。そんなことができる人間ではない。彼の小学校の担任曰く鬱屈とした少年だったとしたら尚更。
ちげーけど というデカい声と、やすりを机に叩きつけるデカい音とが重なってうるさかった。度々思うが、この男は初対面時に私の鼓膜が機能していなかったことを忘れていないだろうか。今は治っているが、それでも他人に気取られない程度に意識はする。危うく職を失うところだったのだから。
そういえば獅子神と出会ったのは、私の鼓膜をおじゃんにした張本人である真経津の杜撰な情報管理のせいだったことを思い出す。そのせいでと言うべきかおかげでと言うべきか私と獅子神は出会い、交際するに至ったわけだが、たまに「最近どう?」と無害そうな笑顔で聞かれるのはやや腹立たしい。事実を述べればいいだけだが、それすら面白い事とやらのタネにされるのは獅子神風に言うと「ムカつく」のだ。
終わり良ければ全て良しという言葉は好まない。私と獅子神の関係はまだ終わってもいないので正しくもない。よってこの場合、それはそれこれはこれ。に当てはまる。よって真経津には何も言ってやらない。かわいい男だという、わかりきったこと以外は何も。
「私もあなたに会ってからとくに爪の整備には気をつけるようになった。理由はわかるな」
「おいテメーまだ昼間だぞ」
「粘膜に触れるからだ」
「昼間だっつってんだろ……」
体勢を意識的に低くし凄んでいるが、私にとってはかわいい恋人である。
「やすりをかけながら今日はもう終わりにするかと思ってスリープにしたのは見えていたが?」
「防犯カメラよりおっかない目だな」
「賭場の外では無力なので」
「そりゃ俺もだ」
「それで?」
「……やっぱ流さないのかよ」
「私の目があなたを逃がさないことは、あなた自身がよくわかっているだろう」
「あーもうしょうがねーな! 準備すっから待ってろ!」
「いやほとんど準備は終わっているだろ」
本当に不思議なので言っただけなのだが、獅子神は勢いよく立ち上がったあとすぐにバランスを崩し、転びそうになっていた。この男、一人でコントをしているのか?
「おま、え? 何?」
そもそも家に入った時の空気が異なるのだ、賭場や真経津繋がりで知り合った人間達が集まる時とは。午前中にここへ来たというのに雑用係のことはもう外にやっているし、料理の下準備もとうに済ませていた。昼がそうだったのだから夜もそうだろう。獅子神自身もいつも以上に軽い、しかし栄養は考えた食事で済ませている。私とどういうタイミングで「どう」なっても困らないようにだということは明白だった。それを伝えると獅子神は一瞬顔を両手で覆ったが、すぐに指の隙間からじっとりとした視線でもってねめつけてきた。
「あのよ……情緒とか」
「あなたはこういう時ほど天邪鬼になるが、相手にばかり性欲があって自分は渋々付き合っているという態度はやめた方がいい」
「っえ、いや……それは、ごめん」
「そういうプレイならば事前に告知を」
「謝罪返せ!」
「そうか、そういうプレイか」
「ちげーよスケベ! オメーこそ直せよそういうとこ!」
「認識の擦り合わせは必要だと、関係を始める前に話し合ったはずだが?」
「そうだな、長々とな。でもせっ……いこうについては、こう……俺もまだ恥ずかしいんだよ、村雨だけに全部晒してんだからよ……クソ、言わせんなこんな事」
「いや、言わせる。私はあなたの事なら大体わかるが、それでも別個体なので思い込みのリスクは高い。あなたを誤解したまま関係が続くのは良くないことくらい、人間として未熟な私でもわかる」
七割は嘘である。獅子神の反応がいいことに、彼曰くスケベな事を馬鹿正直に言わせたいと思っている。人間として未熟かどうかは測る定規によるので、社会において逸脱していないのであれば問題ない。よって私はただのお茶目な高収入彼氏ということだ。高収入なのは獅子神も同じだが、手に職があり食いっぱぐれの可能性が低い私には——互いに賭博歴が明るみにならなければ——アドバンテージがある。死水もとるつもりでいることには気づかれていないようで少し寂寞を覚えるのだが。
そんな私の寂しさなど今は見えていない獅子神は小さくため息をつき、うなだれた。
「……村雨は、未熟じゃねーし、俺もまあまあスケベだよ……」
「そうだ」
「うん……じゃーマジで準備してくるから、上がったら先生もシャワー浴びてな」
「ああ。あなたの寝室で待っている」
立ち上がり、頬に唇を当てた。そういえば眼鏡が邪魔になることに、いつも触れてから気づく。こればかりは長年の付き合いによりもはや身体の一部なので仕方ないなと思いながら、獅子神を浴室まで送っていった。
しばらくして、「俺もまあまあスケベって何言ってんだ」というそこそこデカい声が響いた。私がネイルオイルについて聞くのを忘れないようにしようと頭の中を整理している真っ最中だった。
了