攫われる前に「いい香りがするな!」
満開に咲き誇る桜を前にした千秋は、空っぽになった肺を春の香りで満たした。そんな千秋を横目に、薫は傍にあった木製のベンチへ腰を下ろす。
薫は今朝、予定していた仕事がスケジュール変更となり、急遽オフとなった。一日どう時間を潰したものかと宛もなく寮内を彷徨っていたところにどこからともなく現れて駆け寄った千秋は「羽風!今から桜を見に行こう!」と声を掛けた。眩しいほどに瞳を煌めかせた千秋に、薫は「そんな顔されちゃったら断れないね」と二つ返事で了承したのだった。思いがけず出来たオフに、思いがけず想い人からのお誘い。薫は首を縦に振る他無かった。
そうして訪れた桜公園は平日の昼間だからか、折角の見頃だと言うのに閑散としていた。静かな公園に、鳥のさえずりだけが響き渡る。心地の良い春の日差しは、数日前まで手放せずにいたコートもクリーニングを考える程に暖かい。
「ついこの間まで雪が降るほど寒かったのに、いつの間にかすっかり春だね」
「ふふ、そうだな。もう上着も必要なくなるかもしれないな」
そう言って千秋は上着ごと軽く袖を捲った。活動的な彼らしい健康的な肌色がまだまだ先の夏を連想させる。
「桜、綺麗だね」
「あぁ、見事に咲き誇っているなぁ!今日来て正解だったぞ!」
「唐突に『桜を見に行こう!』なんて言うからビックリしたけど、タイミングバッチリだったね」
薫は、木の傍で満足そうに桜を見上げる千秋をベンチから眺めた。コートのポケットに仕舞っていたスマホを取り出すと、慣れた手つきでカメラを起動し、千秋に向けてシャッターを切った。
「写真か!カッコよく撮ってくれ……☆」
カシャ、という音に気づいた千秋が振り向くと、笑みを深めてレンズに向かってピースを向ける。薫はそれじゃあ可愛い写真になっちゃうよ、と思いつつも口には出さずに再びシャッターを切る。
「良い写真撮れたよ。後で送っておくね」
「あぁ、ありがとう、羽風!そうだ、折角なら羽風も撮ろう!」
「ありがとう。でも俺は別に見てるだけでじゅうぶ――」
突如、強い風が二人を襲った。ザァっと吹き荒れる風で、桜の花が舞い散る。視界を埋め尽くすほどの花弁に、薫は思わず目を閉じかけた。しかし、木から少し離れたベンチに座っている薫すら下を向いているのが精一杯な程だ。木の傍に立っている千秋は大丈夫だろうか。そう思い至った薫が顔を上げ千秋を見遣った時だった。
「もり、っち……」
はらはらと、まるでモザイクでもかけるかの様に千秋を包み込む花弁たち。それをうっとりと、それでいて何処か切なさを浮かべた表情で見上げる千秋。いや、実際には切なさなんて孕んでいなかったのかもしれない。それでも、いつも溌剌とした笑みを浮かべる彼の憂いを帯びた様な表情に薫はいても立っても居られず駆け出した。
「は、かぜ…?」
突然己の腕を掴んだ薫に、千秋は戸惑いを隠せず目を丸くする。だが千秋が見遣った薫もまた、千秋同様に目を丸くしていた。
「え、あ、ごめん。いや、えっと……」
数秒間の自身の行動を顧みた薫は、思わず口ごもる。桜に包まれた千秋の危うさに、考えるよりも、言葉にするよりも先に体が動いてしまったのだ。普段眩しいほどに笑顔を浮かべ、大きく口を開けて笑うことの多い千秋だが、時折、ふとした瞬間にどこか遠くを見つめる様な、物思いに耽る様な、そんな表情をする時がある。そんな彼に声を掛ければ、いつもと変わらぬ笑みで「どうしたんだ?」と返ってくるのだった。今だって、そうあって欲しかった。少なくとも薫にとっては。いつものように笑い飛ばして、背中を叩いて欲しかった。しかし、どうだろうか。先程まで呆然と薫を見つめていた千秋の視線は、未だ薫に掴まれたままの腕に移動していた。触れた部分が焼けるほどに熱い。じわじわと、千秋の体温が薫の手に伝染していく。たった少しの熱が、脳が溶けていくような感覚に陥らせる。
いっそ、ここで伝えてしまおうか。
俯いて腕を見つめたままの千秋の髪から覗く耳が、ほんのり赤く色付いている。薫の心臓が、とくんとくんと血液を送り出す速度を速めた。
「もりっち、」
「どうした、羽風」
未だ顔を上げることのない千秋。これは、期待しても良いのだろうか。そう思った薫は、腕を掴んでいた手をするりと下ろし、無防備に開かれた掌をそっと握る。千秋の指先が、ほんの少しだけ震えている。
「は、かぜ」
小さく薫を呼んだ千秋の声は、酷く掠れていた。
「もりっちが、」
「俺が」
「桜に、攫われちゃうかと思った」
そう伝えた薫の声もまた、甘く掠れている。漸く顔を上げた千秋の瞳はゆらりと揺れていた。優しく頬を撫でるような風に乗って、桜の甘く瑞々しい香りが二人の鼻を擽る。
ねぇ、いつもみたいに笑ってよ。そんなことないぞって、何を言ってるんだって。笑い飛ばしてよ。
長いようで短い沈黙が流れる。再び俯いて何も言わない千秋に薫は、失敗したかも、と血液が下がっていくのを感じる。薫がとった行動と雰囲気に呑まれて口にした言葉は、友人の域を優に超える要旨に他ならなかった。二人の静寂に風が木々を揺らす音だけが響く。
「じゃあ、」
そんな沈黙を破ったのは、千秋だった。
「もりっち、……?」
薫が握っていただけだった手を、千秋がぎゅっと握り返す。熱いほどの掌は最早どちらのものかも分からない汗がじわりと滲む。意を決したように小さく頷き、顔を上げた千秋に薫は息を飲んだ。
熱を帯びて潤んだ瞳が少しだけ上にある薫の瞳を捉えた。普段からは考えられないほど小さく開かれた唇から、桜の香りよりも甘い声で言葉が紡がれる。
「攫われる前に、おまえが、攫ってくれるか?」
再び風が吹き荒れる。花弁が舞い落ちる。
今度は、二人を包み込むように。