『MAVでなくても手は取れる』 第2話『エグザべ・オリベ死亡説』水をたっぷり吸った布は重たくまとわりついて動きを妨げる。布の中身、つまり意識を失った人間の体はさらに重い。つまるところ、入院着を着て気絶している成人男性というのは水中で抱えるには最悪の荷物の一つであった。それでもエグザべは一度掴んだ体を手放しはしなかった。川岸へとどうにか辿り着いた時には随分と流されてしまっていたし、体力も殆ど使い果たしていたが、どうにか橋の下の暗がりへと身を隠すことに成功した。きっと、最後のほうは溺死体が流されているようにしか見えなかっただろう。
夜の闇に紛れて身を潜めて、引きずるようにして川から引き揚げてきた金髪の男の身体を横たえる。長く水中にいた体は冷え切っていて、かろうじて生きているという有様で浅い呼吸を繰り返していた。その入院着は今や見落としようがないほど赤く染まっている。そっと脱がせてみれば、そこにあったのはやはり複数の銃創であった。運がいいのか勘がいいのか掠める程度のものが多かったようだが、いかんせん出血量が馬鹿にならない。加えてほとんど溺れかけの状態だったのだ。放っておけばこのニュータイプの同胞は今夜ここで死ぬだろう。それは勘を使うまでもなく明らかな事実だった。
彼を死なせるべきではないと直感が告げた。
エグザべは一つため息をついて、止血のために自分のシャツに手をかけた。エグザべ・オリベは己の勘を行動の理由にすることはない。自分が優れたニュータイプであるという自負もそんなに持っている訳ではない。だからその行動は、この脱走してきた被検体は何かを知っているかもしれないという打算と、そして一度は自分の腕の中にあった命が消えていくのを見たくはないという至って普通の人間らしい古典的な情であったのだろう。
***
止血のためには布が必要である。清潔であることが望ましいが今この場にそんなものはない。もう自分のシャツの袖でも使うしかないと覚悟を決めたところでエグザベは顔を上げて振り返った。周囲に人の気配を感じたのだ。
振り返れば、複数の男たちがこちらを取り囲むようにして立っていた。軍警でも、そしておそらくは施設の追手でもない。おそらくは、元々このあたりに身を潜めていた難民達だ。内心で自分の迂闊さを呪う。余所者の自分が思いつく隠れ場所にここで生きている難民達が気づかない筈がないという事に、実際に囲まれるまで気づかなかった。
「待ってくれ! 僕は軍警とかじゃない!」
エグザベは咄嗟に手のひらを相手に見せて何も持っていない事を示した。彼らは動かず、黙ってこちらの様子を伺っている。エグザベは必死に言葉を探した。
「急に割り込んですまない。ただ、怪我人がいるんだ。せめて……止血するだけの時間を貰えないか? 少ししかないけど、礼は出すから」
彼らはひそひそと険しい顔で言葉を交わしている。こちらへの警戒は依然解かれない。それもそうかという諦念をエグザべは抱く。明らかに普通じゃない服装の瀕死の男を担いで川から上がってきた人間など、どう考えても厄介ごとの塊だ。関わり合いになりたくないのが当然だろう。しかしこうしている間にも刻一刻と血は流れ出て死は近づいてくる。いっそ彼らの結論が出る前に手当してしまうべきか。いやでも妙な動きをしたら囲んで川に投げ込まれそうだ。
「エグザべ兄ちゃん!」
「ほんとだ、ルウムの兄ちゃんだ!」
躊躇って動けないうちに、彼らの後ろから幼さを残した子供の声があがった。聞き覚えのある声だ。少し前に窃盗の疑いをかけられていたところを見かけて助け舟を出した子供たちだった。
「馬鹿、すっこんでろって言っただろ!」
「でも!」
大人たちは慌てて子供たちをエグザべから隠す。子供が何事かを言い返して、彼らの間に動揺を帯びたざわめきが走る。エグザべは黙ってその様子を見ていた。少しして、結論が出たらしく彼らの一人がこちらに歩いてくる。
「お前のことはわかった。それで、そいつは何者なんだ?」
「わからない。どこかから脱走したみたいだけれど、目覚めたら聞くつもりだよ」
呆れたため息を一つ溢して、彼は子供たちとエグザべを見上げる。
「そういう奴だからうちの子供も助けたって訳か。いいだろう、橋の下よりはマシな場所に案内してやる。ただし、妙なことをしたら即座に川に叩き戻してやるからな。お前も、そいつもだ」
「ありがとう」
深々と頭を下げ、彼らの後を歩く。子供らが説得してくれたのだろう、彼らは狭くとも比較的暖かな寝床を貸してくれたばかりか古くとも清潔そうな包帯まで貸し与えてくれた。最低限の手当てを終えて、古い電熱ストーブのそばにその男の身を横たえる。照らされた顔は少しだけ血色を取り戻したように見えた。それを見届けて少しばかり安心した瞬間、エグザべは自分の疲労と緊張が限界に達していたことを自覚した。自覚したらもう指一本も動かすことはできなくて、彼はほぼ気絶するみたいにその横に倒れ込んで眠りに落ちた。
***
意識が闇から戻ってくる。覚醒した被検体アルファが最初に認識したのは左脚の焼け付くような痛みと、全身にまとわりつくような暑苦しさだった。重たい瞼を持ち上げて、暗闇の中で他人の気配のすぐそばに横たわっている事に気が付いた。反射的に飛び起きようとして、全身に痛みが走った。思わず呻き声を漏らしていると、隣で寝ていた男を起こしてしまったらしい。低く唸りながら目をこすってこちらを見る。自分と同年代の男だった。
「誰だ!?」
問いかけた声はひどく掠れていた。それでも、ちゃんと意味は伝わったらしい。隣で寝ていた男は不機嫌そうに眼を細めて「手当の礼はなしか」と呟いた。その声はひどく眠そうで、自分は夜中に目を覚ましたらしいと理解する。そして暗闇に慣れはじめた目で自分の身体を見てみれば、確かに傷には包帯がきっちりと巻かれていた。少しずつここまでの記憶が戻ってくる。そうだ、自分はあの施設から逃げ出そうとして撃たれたのだった。それでどうにか飛び出して、下にいた男の──。
「君、あの時のバイクの男か」
「ああそうだよ、思い出してくれてどうも」
一方的にバイクを奪おうとしてきた男の手当てをして横で寝ていた男の行動はあまり理解できなかったが、とにかく助けてもらったのだという事だけは理解できた。少なくとも今のところは自分に害意がないという事も、そもそも危害を加えられない程度には疲弊して、それは自分に原因があるのだろうという事も。
「そうか。礼を言う……そして巻き込んですまない」
唐突に殊勝になった被検体アルファに、男は意外そうに瞬いた。謝罪を重ねたほうがいいのかと思ったアルファの声を遮るように彼は「寒くはないか」と尋ねる。
「水の中にいてだいぶ冷えてたろ」
「いや……むしろ熱いくらいだ」
「そうか」
腕が伸びて、反対側で赤く弱い光を放っていた電熱ストーブの出力が落とされる。暗闇が色を濃くして、彼の表情はほぼ見えない。闇の中でその目だけが光っていた。
「まあ、詳しい事は明日聞く。なぜ追われてたのか、とか。だから今はもう寝なよ。死にかけてたんだから疲れてるだろ」
「……それは否定しないが」
「ああ、あと妙な真似したら僕もお前も川に叩き落されるから、そのつもりで。それじゃ、また明日」
彼は返事も聞かずにこちらに背を向けて横たわる。その背に向けて、どういう訳か自分は「キャスバルだ」と名乗っていた。記憶の限りでは誰にも明かさなかった名前を、どういう訳か自分から告げていたのだ。
「……キャスバル?」
こちらに背を向けたまま、彼は怪訝そうに問い返す。その声を聞いて、「記憶に残っている『あの声』ではないな」と思う。懐かしい気配を彼の向こうに感じたような気がしたのだが、流石に疲弊しすぎて勘が鈍ったのかもしれない。
「ああいや……スバルと呼んでくれ。君は?」
「エグザべ・オリベ。それじゃおやすみ、スバル」
彼は今度こそ寝息を立てはじめていた。仕方ないので自分も目を閉じる。少し前まで死の淵を彷徨っていたいた体が再び眠りに落ちるのはあっという間だった。
***
イズマコロニー中空。ソドンの艦橋はざわついていた。
単独で潜入捜査をしていたエグザベ少尉の端末の信号が途切れて数時間が経過していた。これまで遅れることなく上がっていた定期連絡も同時にずっと途切れている。遭難か造反か、何かの異常事態が起きているという事は誰の目にも明らかであった。
「あの、これ」
SNS等にそれらしき目撃情報や手掛かりがないか探していた探していたセファが声を上げて、モニターに動画を映し出した。慌ててカメラを向けたのだろう、決してよく撮れているとは言い難い映像の中で、猛スピードのバイクが画面を横切り、軍警のザクにぶつかって爆発を起こしていた。派手な大事故に周辺からざわめきが上がり、画面は暗転する。わずか数秒の短い出来事。
画質が悪く、バイクに乗っている二人の人物の顔はほとんど判別できない。だが、そのバイクの色合いは、イズマコロニーのレンタルバイク特有のものであった。重たい沈黙が艦橋を満たし、皆が示し合わせたようにシャリア中佐に眼を向ける。視線と思惑が交差するその中心で、しばらく目を見開いて動画に見入っていた中佐は静かに言った。平素通りの落ち着いた声だ。
「場所の特定と、川の下流で何か目撃されていないかを探してください。私は諸連絡を取ってきます」
「……では」
「ええ。間違いない、彼です」
足早に彼は艦橋を出ていって、残されたクルー達は顔を見合わせる。優れた軍人であるとはいえ、ザクにぶつうかってあの爆発だ。生きている筈だなんて無邪気に信じ込むことは、木星帰りの勘とやらなど持たない彼らには到底出来なかった。
***
翌朝エグザべが目を覚ますと、周囲の難民たちは何やら不安そうにざわめいていた。横になって目を閉じたまま聞こえてくる会話の断片を繋ぎ合わせると、何やらソドンとイズマコロニーの関係がさらに緊迫するような事態があったらしい。自分たちはどうなるのだろうと皆不安そうだ。さらに聞くと、潜伏していたジオンの軍人が軍警に轢き殺されただとかザクに爆破されただとかそんな話まで聞こえてきた。
(……うん? 潜伏したジオンの軍人?)
あまりにも心当たりがありすぎる。何故そんな話に、と考えて、エグザべは自分が定期連絡をすっぽかしていた事に気づいた。あまりにも色々ありすぎてすっかり忘れていたのだ。飛び起きて端末を探り──彼は自分がスマートフォンをナビのためにバイクに取り付けていたこと、そしてそのバイクは今や木っ端微塵に爆発していた事を思い出した。間違いなく端末は壊れている。奇跡的に壊れていなかったとしても、回収することは不可能だろう。終わりだ。
「お、起きたのか! あんたスーツの連中に探されてたぞ、いったい何やらかしたんだ?」
頭を抱えるエグザべの横を通りすがった難民の一人が声をかけてきた。
「おはよう……えっと、僕、探されてたんですか?」
「ああ、このあたりを男が二人流れてこなかったかってな」
スーツの連中。ソドンの彼らは僕を探しているのか?
「それで、君は何と答えたのだ」
考え込むエグザべをよそに、いつの間にか隣で身を起こしていた金髪の男──キャスバルとかスバルとか言っていたか──が勝手に問いかけていた。何というか、昨夜見せていた寄る辺のなさのようなものは霧のように消えうせていて、ふてぶてしいほどに堂々としている。
難民はにっこりと笑ってどこか得意げに答えた。
「ああ、死体がもっと下流のほうに流れていったを見たって答えておいたぞ! だからここにいる限りは安全だぜ、あんたら!」
エグザべは何も答えられなかった。たぶんソドンの皆は自分が死んだと思っている。この男のこともそうだが、とにかく自分が生きている事を報せなくてはならない。自分が逮捕された時にソドンを乗り込ませたあの上官が今回どう動くのか、エグザべには想像もつかない。ジークアクスの捜索などしている場合ではなくなった。表向きの目的である赤いガンダムがどうとか赤い彗星がどうとか、あるいはシャリア中佐の監視だとか、それらすべてが遠い話になっている。どうしてこんな事になってしまったのだ。
エグザべは重いため息を吐き出す。その様子を横で何やら面白そうに眺めている男こそが『赤い彗星』であるという事を、彼はまだ知らない。