囚人のジレンマ。畜生…っ!畜生畜生畜生畜生…!!!
息が上手く吸えない。肌が粟立つ。
足元がぐらついて、もつれて上手く踏み出せない。
なんでだ、どうしてお前が。
神に背いて堕天した、なんて。
「嘘だ。」と思った。
わざわざ神の命令に意見し、神の掟に背き、逃げた天使がいるって大騒ぎになっているのを横目でみながら、そんな事どこかの誰かさんみたいな優秀な天使様は絶対にしないよな。次にお前に会ったら、そう揶揄って酒の肴にでもしてやろう、とそう思ってた。
心のどこかでナメていたんだろう。ブラッドのことを。優等生で。真面目で、天使の見本みたいな綺麗な、お綺麗な天使様だとたかを括っていた。
だから見落とした。度々お前は零していたよな、神が振り翳す正義について盲目的に正しいと判断して良い事なのか、と。
オレは、真面目に聞きゃしなかった。オレ達天使にとって、創造主たる神の命令は絶対だ。従ってりゃ、それで良い。
それでよかったんだ。従ってさえいれば、疑問なんか持たなければ。
「っ……!!!!ブラッド!!!」
今も隣にいられたのに。
お前の名前を呼ぶ声が、渇いた空に霧散して消えていった。もう間に合わないと、嘲笑うかのように
そこら中から、天使達の羽音が聞こえていた。たった一度、神に背いた堕天使を討ち滅ぼすために、血眼になって捜してるんだろう。
「……お前らなんかに渡すかよ。」
アイツを捕えろ、と最高に胸糞の悪い仕事を神から命じられたのはオレだ。
「オレの、仕事だ。」
ふらついた足に力を込め、地面を蹴った。ご大層な大きさの羽根を広げ、空気を弾くように羽ばたかせる。邪魔くさくて仕方がなかった物が、今は感謝しそうになる程都合が良かった。ひしめく様に飛び交う下級の天使どもを弾き飛ばすように掻き分けながら飛んだ。
間に合え。
間に合え。
なぁ。お前は今、どんな顔をしてる?
いつもと変わらずに眉間に皺を寄せてるだろうか。それとも満足そうに、笑っているだろうか。
顔が見たい。今すぐお前に会いたい。
たとえ、その胸を裁きの剣で刺し貫かなければならないとしても。最後にお前の目に映るのはオレがいい。傲慢な願い事はこれっきりにするから。
お前が神に背いたんだ。オレの顔見て小言は言うなよ。
なぁ、クソ真面目な天使様。
オレの願いを聞いてくれないか。
眼下に広がる、いつもならば美しく穏やかな森が今はただザワザワと神に背いた天使のことをウワサしては下品に揺れている。
ああ。何もかもがくだらねぇ、いっそお前とここから逃げられたなら。
地上はもっと美しいだろうか。
そんなあり得ないことを思いながら、騒ぐ木々の遙か前方に目を遣ると、居た。森のはずれで蹲っている見慣れない黒い塊。神に背いて、美しい翼を失って地に堕ちた天使の姿があった。他の天使に気づかれないよう、オレは少しだけ離れた場所に降りて、ブラッドの居た場所まで走った。
「……ブラッド。」
「キース、か……お前を寄越すとはな。」
オレはその憐れなる姿を目にしてもまだ、ウソだと言って欲しいと、マヌケな願いにしがみついている。
黒い翼を震わせて、ブラッドは苦しげに顔を歪めて笑った。あんなに、強く正しい天使様だったのに。覚悟ならとうにできている。と言うお前の目だけが、変わらない。真っ直ぐに、これはウソでもなんでもないとオレを刺し貫いた。
なんで、どうして。
喉の奥で絡まった言葉が出てこない。そんな事は十分に分かっていたからだ。お前が、誰よりもご立派な天使様だったから。
そんなお前が、好きだった。
誰よりも綺麗なお前が。
「…神に背いた天使に、裁きを与える命を受けたのはオレだ。」
無理やり引き摺るように起こしたブラッドの身体を自分の方へ向かせて、剣を鞘から抜いた。その手が震えているのを見留めてブラッドは穏やかな声をオレに向ける。
「……キース、もういい。お前の手にかかるのなら。それで俺は…悔いはない。」
「……っ……!!」
握り込んだ剣の鋒は罪人の胸を貫く事なくガシャン、と重々しい音で投げ出された。それをブラッドは困惑とも、悲しみとも、安堵とも判らない顔で見つめていた。
「……帰るぞ。」
「何を…言っている?俺は、戻ることなど…!」
「神の審判が下るまで…オレは、お前から聞くことが山程あるんだよ。」
そうだよ。教えろよ。
お前が何を考えて、どうして、オレを巻き込まなかったのか。巻き込んで手を取り合うには適任だっただろ?このクソみたいな場所から逃げられたかも知れない。二人なら。
二人、だったなら。きっと何処かへ行けたのに。
「……俺は、何も話さない。お前には、尚更何も。」
「……五月蝿えよ。」
苛立ちをぶつける様に力でブラッドの意識を奪う。
逃げられないように繋いだ鎖が、地面にぶつかり耳障りな音を立てた。
腕の中の変わり果てた天使様を一度強く抱きしめた後、オレは再び地面を蹴って来た方角とは逆へと向かって両翼を羽ばたかせる。
…大丈夫だ。誰にも見つからない場所なら山程ある。どれだけオレがサボりに心血注いでたと思う?
だから大丈夫だから。2人だけで、話をしよう。
お前が何言ったって、散々文句言ってやるからさ。
「……聞かせてくれよ。頼むから。」
誰にも届かない願いは、冷たい空に消えていく。
少しでいい、ほんの少しの時間だけ。慈悲なんてもんがあるのなら、神様どうか見つけられないフリをしてもらえませんか。