苦くて、甘くて。「あ。」
オレンジが前を歩く老婦人の持つ紙袋から、ころりと逃げ出して地面を跳ねるのを目にしてキースは思わず声をあげた。
「…っとと…おい、落ちたぞ。」
転がるオレンジを拾い上げて、キースは追うように声をかける。けれど、辿々しく杖をつきながら歩くその老婦人は立ち止まる事も、振り返る事もなく歩き続けている。
…聞こえなかったのか。追いかける足を少し早めて小さな肩を軽く叩く。するとその老婦人は驚いたようになぜか周囲を見回した。
「…あら、ごめんなさい。誰かしら?」
不思議そうにキースのいる方向の辺りを向く。が、その目は何も捉えてはいない。
キースはもう一度丁寧に声をかけ、今度はそっと肩に手を置いて自分の位置を知らせる。
「…ああ、悪かった。オレンジ、落としたぞ。」
そう言うと、老婦人は小さく「あら。」と声に出して驚きようやく体ごとキースの方へと向き直った。
「ごめんなさい、落としてしまったのね。」
そう言って穏やかに微笑む老婦人の手に拾ったオレンジを乗せると、婦人はオレンジの形を指で確かめたあと、「ありがとう。」と恭しく頭を下げた。その上品な仕草に、何と無く居心地の悪いような気持ちがして、老婦人から目を背けて
「いや、いいよ。」
とぶっきらぼうに返事をした。
そのキースの声のした方を老婦人は少しの間見つめてから穏やかな微笑みのままで話しかけた。
「…あなた、とってもやさしい声ね。」
「…へ。」
「やさしい声ね。それに、大きい手。」
まるでヒーローみたい。みたことはないのだけれど、きっとあなたみたいな人なのね。そう言うと、老婦人は抱えた紙袋から新しいオレンジをひとつ取り出して、御礼に。とキースの方へと差し出した。
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くつくつと、小さな音が鍋の中から爽やかな甘い香りを伴って、家中に広がって行く。キースの家のキッチンから漂う香りにしては珍しい甘さに、リビングのソファで書類仕事をしていたブラッドも目を上げた。
「…マーマレードか。お前が、珍しいな。」
「ん。…まぁ、ちょっと貰いもんでな。」
「貰い物?」
「あ〜…まぁ、後で話すよ。」
こんなもんか。とキースが艶やかな琥珀を纏ったオレンジの皮を、スプーンで少し掬ってブラッドの口元へと近づけると、それに応えてブラッドは形の良い唇を開けてまだ暖かいマーマレードを口に含む。
「……悪くはない。」
「言い方がかわいくねぇなぁ…。」
苦笑いをして、小鍋の火を止める。別のスプーンでまた少しマーマレードを掬って、今度は自分の口に含む。甘くて、少し苦くて。爽やかな香りが広がっていく。
「…まぁ、確かに悪くはねぇか。」
うん。とマーマレードの出来に納得をしてコンロから鍋を降ろしておく。すっかり形を変えたオレンジを見つめながら、昼間の老婦人の言葉を思い出す。
「……なぁ、ブラッド。」
お前には、オレの声がどんなふうに聴こえてる?
呼びかけに振り向いたブラッドに聞こうとした言葉を、オレはなんとなく呑み込んでしまった。
「あ〜…いや、なんでもない。」
例えお前がどんなに盲目でも、どうしても。