【かえるの福音】 大泉の屋敷には古い池があって、そこに蛙がたくさん棲んでいた。あの小さな池に一体、どれだけの蛙が繁殖しているのか。見当もつかないが、いや、考えたくもないけれど。雨降りの日には、生け垣の近くを通るだけで、こころ、かららと蛙の鳴く声が聞こえた。
せっかく会津の田舎から帝都に越してきたのに、街灯もない田畑ばかりの田舎と等しく、夕暮れともなれば蛙の声はいっそう激しくなる。あれを大泉の家でお世話になっている間、全く憂鬱に思わなかったと言うのだから、玉森くんは相変わらず図太い神経をしている。
『──やっぱり、蛙、お嫌いなんですねぇ』と、また耳の近くで蛙が鳴いた。
蛙が口をきくのは、何もイソップの時代ばかりに限っている訳ではない。これは、玉森くんの書いたくだらない小説から抜け出してきたやつだから、存在そのものが出鱈目で理不尽なんだろう。そいつは蛙のくせに、まるで人間の子供のような口をきいた。
「うるさいな、用もないのに出てこないでくれる?」
万年筆の先でこつんと蛙の額を押してやれば、筆の先から染み出した青いインクが眉間に丸く滲んでいく。蛙は玉森くんの幻想だから手で触れないこともないが、明らかに奇っ怪な存在と分かって手を出す必要もない。
『ご用なら、ありますよう、言い訳じゃないんですけどぉ……』
テーブルの上に出て来た蛙は、じたばたと不器用に手足を動かして、『川瀬さん、おひとりでは寂しいと思ったんですぅ』などと言いつのる。ああ、やっぱり蛙は嫌いだ。特に人語を話すやつなんて碌なもんじゃない。
「さびしい? ちょっと、それは玉森くんを買いかぶりすぎじゃない?」
『だって、いつもは川瀬さんが大学で、玉森さんがお留守番じゃないですかぁ』
「それが? いつもとは逆だからとでも言いたいの?」
『わわわ、変なところに変なものを書かないでくださぁい』
「ああ、手が滑った」
つい、蛙の腹に卑猥な落書きをしてしまった。
恨めしそうな顔で見咎められても、相手はタダの幻想に違いない。
「玉森くんが帰ってきたら、見せてやればいいよ」
どうせ、二人にしか見えないのだから、と言ってやった。
帰ってきた玉森くんが、なんて言うか。どんな顔をするのか。帰ってくるまで想像するのも悪くない。いっそ、何を書いたか。言い当てさせてみようか──。
『相変わらず、露悪な趣味ですねぇ』
妄想のなかに棲む蛙は、こっちの頭のなかを覗いたらしい。ふるると震えて涙声になる。怯える姿が玉森くんに似ていなくもないから、暇つぶしに怖がらせてやるのも良いかもしれない。
だいたい、玉森くんの出かけた先が気にくわなかった。置いてきた物があるから、梅鉢堂まで取りに戻るなんて。どうせ、ほとんどがらくただ。片目のダルマに古いだけの将棋盤、紙くずとしか思えないカルスピの包装紙とか、本当に必要なのは着替えくらいだろう。後は、どうでもいいものばかりじゃないか。
『……やっぱり、寂しいんじゃないですかぁ』
ぐふふと蛙が笑うので、窓の外へつまみ出してやろうかと思ったが、それだけではささくれ立った気が収まらない。あんまりヒャア、ヒャアとうるさいから、蛙にはとっておきの話をしてやることにした。
──君は、食物連鎖って言葉を知ってるかい? と聞けば、蛙は『さあ、なんでしょう』と呑気に首を傾げる。
──では、水は何のためにあるか? と、質問を変えた。すると、テーブルは空と草木を映した池の水面となり、蛙も上機嫌で腹を浮かせる。
『それは、我々、蛙の泳ぐ為にあるのです』
「そうか、なら虫は何のためにいる?」
『我々、蛙が食べる為にいるのです』
ぐふふとまた、蛙が笑った。
やっぱり、蛙は蛙である。ただし、人間は人間であるが、白楊の根元に眠っていた蛇にもなれるのだった。蛙の声があんまり、やかましいから、せっかく眠っていたところを起こされてしまう。そして、鎌首をもたげながら池のほうへ眼をやって、舌なめづりをする。
では土は?
草木を生やすためです。
では草木は?
我々、蛙に影を与えるためにあるのです。従って、全大地は我々、蛙のためにあるのではないか。と、未だぷかぷかと泰平に浮かびながら、得意げに蛙が答えた。
「じゃあ、空も太陽も全て蛙なんかのためにあるのかい? 森羅万象、が、悉く蛙のためにあるとでも?」
『それは人間も同じじゃないですかぁ、川瀬さんなんか、特にそうだ。でも、ボクは神様に感謝しているんですよぅ、神の御名は讃むべきかな』
「俺は別に神様なんか、感謝していないけどね」
『不遜ですねぇ』
「さぁね、だけど、ここで話は終わりじゃないんだ」
『えー』
ぽこんと大きな水泡が、テーブルの水面へひとつ浮かぶ。またひとつ、もうひとつ、ぶくぶくと泡を立てて蛙が水の底へ沈んでいった。
「水も草木も、虫も土も、空も太陽も、ぜんぶ蛙の為にあるなら、蛇は何のためにいるのか?」
さぶさぶと幻覚の中に右腕を突っ込めば、透明な鱗が出来て蛇の膚のようになる。白楊の根元に眠っていた蛇は、池のなかへ入っていった蛙の首を捕まえた。
『な、なにするんですかぁ』
「ああ、大変だ」
『川瀬さぁん』
大変なんて、思ってないくせにぃ。
──などと、蛙が驚いてわめいてるうちに、右腕の蛇は蛙を咥えたまま、袖の中へと隠してしまった。あのままテーブルの上で叩き潰してしまっても構わなかったのだけど、手が汚れるかもしれないから辞めにした。潰してしまわなかっただけ、ありがたいと思ってほしい。
「話の続きを教えてあげるよ。最初に言っておいたよね。これは食物連鎖のことだって──」
水も草木も、虫も土も、空も太陽も、みんな蛙のためにあるけれど。蛙の天敵である蛇もまた、蛙のためにある。蛇が蛙を食わなかったら、蛙は増えるに違いない。増えすぎれば、……いくら、会津のど田舎でも田畑を蛙が埋め尽くすだろう。世界はいずれ狭くなる。だから、蛇は蛙を食べに来る。食われた蛙は、多数の幸福の為に捧げられた犠牲だと思うがいい。世界にありとあらゆる物は、悉く蛙の為にあるのだ。神の御名は讃むべきかな。
『あのう、……ぼ、ぼくは、川瀬さんに食われちゃったんでしょうか?』
「さあね、そういう話を年寄りの蛙から聞いた人がいたそうだよ」
『川瀬さんは、蛇ではないです、……よね?』
「まさか。蛙なんか、食べないよ」
『そうですか!』
よかったぁと間抜けな声が、袖の口から顔を出した。蛙はまだ、話の真意に気付いていないらしい。
からら、ころろと玄関の戸を開ける音がする。蛙は『玉森さん、帰ってきましたねぇ』と言ったきり、テーブルの水面といっしょに消えてしまった。
──神の御名は讃むべきかな。
梅鉢堂なんかへ行ってきた玉森くんを出迎えるのも癪にさわるので、このまま部屋に這入ってくるのを待つとしよう。へらへらと薄笑いを浮かべて、くだらないものを運んでくるなら、いっそ玉森くんを頭から丸飲みにしてやろうか。
彼は何も知らないまま、ささやかな人生の幸福のために捧げられた最初の犠牲になるといい。
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エンディング後、瀬川の家に居候しはじめる玉森くんのお話です。芥川龍之介の「蛙」のオマージュです。蛙男が好きです