雑諸②蝉の声が絶え間なく響く庵のまわり。
夏の山は命の気配に満ちていて、遠くの空まで揺れるようだった。
「こんなもんさま、今日は…お散歩しましょう」
坊の言葉に、雑渡昆奈門はゆっくりと顔を向けた。
もう何度目になるだろう――坊の手を借りて、庭を歩く練習を始めてから。
「歩けるかな…今日は少し、膝が重くてね」
「大丈夫です。私が支えますから。ほら」
坊が小さな掌を差し出す。その手は、雑渡の大きな手にはまるで子鳥のように頼りなく思えるのに、不思議と安心できた。
「ふふ…坊は、随分と逞しくなったな」
「えへへ、最近、ごはんもたくさん食べられるようになりましたから」
二人はゆっくりと、縁側から庭に降りる。
夏草が伸びて、あちこちに朝顔や野いちごが揺れていた。
「こんなもんさま、見てください、朝顔。今年は青いのがたくさん咲いてますよ」
「本当だな…坊が植えたのか?」
「はい。今年も咲いたら、見せたかったんです」
雑渡はしばし足を止め、しゃがみこむ坊の頭をそっと撫でた。
火傷を負った右手はまだ満足に動かせないけれど、左手だけでもその温もりを伝えたくて。
「…ありがとう、坊。私は…本当に幸せ者だ」
「そんなの、私の方です」
その言葉に、雑渡はふっと笑う。
暑さで汗が滲む額をぬぐってやると、坊は嬉しそうに目を細めた。
「そういえば…こんなもんさま、氷のお菓子、食べませんか?」
「氷菓子?」
「はい。村の人から氷を分けてもらって、蜜をかけました。冷たくて、甘いです」
坊が家の中に走っていき、戻ってきた頃には、小さな器に白く削られた氷と、自家製の梅蜜が添えられていた。
「坊は本当に、何でもできるんだね」
「こんなもんさまのためですから」
冷たい甘さが舌の上にひろがる。
それを口に含みながら、坊が嬉しそうにこちらを見ている。まるで、「美味しい?」と尋ねるような眼差しだった。
「…美味い。生きていて良かったと思える味だ」
「よかった…」
蝉の声は鳴りやまない。
けれどふたりの世界は、その音の隙間にやさしく包まれていた。
「坊…今日は、もう少しだけ歩こうか。あの木陰まで」
「はいっ」
そう言って差し出された手は、以前よりも少しあたたかく、力強く感じられた。
ゆっくりと歩を進めるたびに、未来へと近づいている気がする。
――坊の手があれば、きっとどこまでも行ける。
そう思った。