『友情か愛情か』薄暗い路地裏に、タバコの煙と血の匂いが漂う。神奈川の闇を牛耳る東堂組の若頭、東堂尽八は、豪奢なスーツに身を包み、鋭い目で夜の街を見下ろしていた。その隣には、緑髪を無造作に束ねた巻島裕介が、冷ややかな表情で立っている。二人を囲むのは、東堂組と巻島組の重鎮たち。今日、二つのマフィア組織は「和平」のため、政略結婚の契約を結ぶ。
「巻ちゃん!俺の花婿姿、絶対似合うよな?」東堂が軽やかな笑みを浮かべ、巻島の肩に手を置く。その声はいつも通り自信に満ち、どこか少年のような無邪気さを帯びていた。
巻島は内心で舌打ちしながら、作り物の微笑みを浮かべた。「…あぁ、派手なのが好きだもんな、東堂。」声は低く、抑揚を抑えたものだった。内心では、こんな茶番に巻き込まれた自分を呪っていた。
巻島裕介は、東堂尽八を嫌いではなかった。いや、正確には嫌いになれなかった。東堂のまっすぐな情熱、ライバルとしての存在感は、巻島の心を揺さぶるものだった。だが、それはあくまで「ライバル」としてだ。この世界で生きる巻島にとって、感情は弱点でしかなかった。ましてや、こんな政略結婚など、ただの足枷にすぎない。
東堂は違う。巻島の冷めた視線にも気づかず、目を輝かせていた。「巻ちゃん、俺と巻ちゃんならこの街を全部手に入れられる。最高のコンビだろ?」彼の声には、純粋な喜びが滲む。東堂は昔から巻島に特別な感情を抱いていた。ライバルとして、仲間として、そして――それ以上の何かとして。
結婚の儀式は、東堂組の本拠地である古い洋館で行われた。シャンデリアの光が、巻島の鋭い顔立ちを照らす。彼は黒のタキシードに身を包み、まるで闇に溶けるような雰囲気を漂わせていた。一方、東堂は白いスーツに赤い薔薇を胸に挿し、まるで舞台の主役のような華やかさだ。
「巻ちゃん、…綺麗だな。」東堂が囁く。巻島は一瞬だけ目を細め、すぐに微笑みを貼り付けた。「お前こそ、いつも通り派手すぎるショ。」
儀式の後、二人は新居として用意された豪奢なマンションに移動した。扉が閉まると、巻島の隠していた感情が少しずつ剥がれる。「…東堂、俺は嫌だ。」言葉は鋭く、しかしどこか脆い。
東堂は驚いたように目を丸くする。「嫌? なんでだよ、巻ちゃん。俺と巻ちゃんなら――」
「ライバルでいいだろ!」巻島が声を荒げる。「お前と競い合って、ぶつかって、そんで勝つか負けるか。それでよかったじゃねえかショ! なんでこんな…茶番に巻き込むッショ!」
東堂は一瞬言葉を失い、ただ巻島を見つめた。その瞳には、傷と、しかし消えない情熱があった。「…巻ちゃん、俺は巻ちゃんが好きだ。ライバルとしても、でもそれだけじゃない。俺はこの結婚を、ずっと望んでたんだ。」
巻島は息を呑む。東堂のまっすぐな言葉は、彼の心を切り裂く刃のようだった。「…ふざけんなショ、東堂。俺はお前の道具じゃねえ。」
それから数週間、巻島は東堂のそばで「妻」として振る舞った。東堂組の重鎮たちを欺くため、巻島は完璧な演技を続けた。東堂の前では笑顔を見せ、時には彼の手を握り、肩を並べて街を歩いた。だが、心の奥では、自由を失った自分への苛立ちが募るばかりだった。
東堂は、巻島の冷たさに気づきながらも、彼を縛ることはしなかった。「巻ちゃん、俺は巻ちゃんを縛りたくない。…いつか、巻ちゃんが心から笑ってくれるのを待ってるから。」そう言って、東堂は巻島に自由な時間を与えた。
ある夜、巻島は屋上のテラスで一人、タバコをくゆらせていた。東堂がそっと近づき、彼の隣に立つ。「…巻ちゃん、俺の気持ち、迷惑か?」
巻島は煙を吐き出し、夜空を見上げた。「…迷惑じゃねえショ。ただ、俺は…お前をライバルとして見ていたいだけショ。」
東堂は静かに笑う。「それでもいい。ライバルでも、相棒でも、なんでもいい。俺は巻ちゃんと一緒にいたいんだ、巻ちゃん。」
その言葉に、巻島の心は初めて揺れた。東堂の純粋さは、彼の冷めた心を少しずつ溶かしていく。だが、巻島はまだその気持ちを認めることができなかった。
ある日、東堂組と敵対する組織が動き出し、巻島は危険な取引の場に同行することになる。銃撃戦の中、東堂は巻島を守るため、自ら盾となった。血を流しながら、東堂は笑う。「巻ちゃん、俺の花嫁は無事でなきゃな。」
巻島の胸に、初めて熱いものがこみ上げた。「…バカ野郎、死ぬなショ。」彼は東堂を抱きしめ、初めて本心を吐露した。「俺は…お前を失いたくねえショ。」
東堂は弱々しく笑い、巻島の手を握り返す。「なら、俺と一緒にこの街を掴もう…巻ちゃん。」
東堂の傷は深くなかったが、銃撃戦の後、彼はしばらく動けない状態だった。巻島は東堂組の医務室で、彼のベッド脇に座り、苛立ちと不安が入り混じった表情で東堂を見つめていた。包帯に巻かれた東堂の肩と、血の滲んだガーゼが、巻島の胸を締め付ける。
「…バカ野郎。なんであんな無茶したショ。」巻島の声は低く、怒気を孕んでいるが、その奥には心配が滲んでいた。
東堂は弱々しく笑い、ベッドの上で身を起こそうとした。「巻ちゃん、心配してくれてるの? へへ、嬉しいな。」その軽い口調に、巻島は思わず舌打ちする。
「ふざけんなショ。死にかけてんのに、なんでそんな呑気なんだショ。」
「だって、巻ちゃんが無事ならそれでいいじゃないか。」東堂の目は、いつものようにまっすぐで、巻島の心を揺さぶる。「巻ちゃんを守るためなら、俺は何度でも盾になるさ。」
巻島は言葉を失い、ただ東堂を見つめた。その瞬間、彼の心に浮かんだのは、かつてのライバルとしての日々だった。街の裏路地で、互いに拳を交え、火花を散らしながら競い合った時間。あの頃の東堂は、いつも眩しく、巻島を突き動かす存在だった。今、その同じ男が、命をかけて自分を守ろうとしている。
「…東堂、ほんとバカなやつショ。」巻島は呟き、目を逸らした。だが、その声には、ほんの少しの柔らかさが混じっていた。
東堂の回復を待つ間、巻島は東堂組の運営に深く関わることになった。政略結婚の「妻」として、表向きは東堂の右腕として振る舞い、裏では巻島組との調整役を務める。だが、内心では依然として自由を求める気持ちが燻っていた。
ある夜、東堂組の幹部会で、敵対組織との次の取引について議論が白熱した。巻島は冷静に戦略を提案するが、内心では苛立ちが募る。「こんな茶番、いつまで続くショ…」彼は東堂の隣に立ちながら、内心でそう呟いた。
会議後、東堂は巻島を屋上へと誘った。夜風が吹き抜ける中、東堂は巻島に一つの提案をする。「巻ちゃん、俺と巻ちゃんで新しいルールを作ろうぜ。この街を、俺たちのやり方で支配するんだ。」
巻島は眉をひそめる。「…支配? 東堂、まだそんな夢見てるショ?」
「夢じゃないさ。」東堂は真剣な目で巻島を見つめる。「俺と巻ちゃんなら、どんな敵も蹴散らせる。この結婚だって、ただの政略じゃなく、俺たちの絆の証明にできるだろ?」
巻島は一瞬、息を止めた。東堂の言葉は、彼の心の奥底に刺さる。「絆、か…。」彼は小さく呟き、夜空を見上げた。「お前はいつも、そうやって俺を振り回すショ。」
「巻ちゃんが振り回されるの、嫌いじゃないだろ?」東堂がニヤリと笑う。巻島は思わず吹き出し、初めて自然な笑みを浮かべた。「…最悪だ、東堂。」
それから数週間、巻島は東堂との距離を少しずつ縮めていく。東堂の無鉄砲な行動や、時に子供じみた情熱に苛立ちながらも、その純粋さに心を動かされる瞬間が増えていた。東堂が巻島を「相棒」と呼び、肩を叩くたびに、巻島の隠した感情は少しずつ剥がれ落ちていく。
ある晩、二人は敵対組織の倉庫への潜入作戦を計画していた。作戦会議の後、東堂は巻島に一本のナイフを手渡す。「これ、俺のお守りだ。巻ちゃんに持っててほしい。」
巻島はナイフを受け取り、柄に刻まれた東堂のイニシャルを眺めた。「…お守り、子供っぽいショ。」
「ハハッ、巻ちゃんが持ってれば、俺は無敵だ。」東堂の笑顔は、まるで少年のようだった。
その夜、作戦は成功したが、巻島は敵の罠に嵌まり、銃口を向けられる瞬間を迎えた。咄嗟に身を翻し、東堂から渡されたナイフで敵を制した巻島は、息を切らしながら東堂を見た。東堂は血まみれの笑顔で親指を立てる。「さすが、俺の巻ちゃん!」
巻島は息を吐き、初めて心から笑った。「…お前、ほんとバカッショ。」だが、その言葉には、隠しきれない温かさが込められていた。
作戦の成功後、二人は再び屋上で向き合った。巻島は東堂の隣に立ち、夜の街を見下ろす。「東堂、俺はまだ…この結婚を心から受け入れる気にはなれないショ。」
東堂は静かに頷く。「いいぜ、巻ちゃん。俺は待つ。巻ちゃんが俺をライバルでも、相棒でも、なんでもいいって思えるまで。」
巻島は東堂の横顔を見つめ、初めて自分の心に素直になる。「…でも、お前とこうやってるのは、嫌いじゃねえよ。」
東堂の顔がパッと明るくなる。「巻ちゃん、それって…!」
「調子に乗るなショ、バカ東堂。」巻島は笑いながら東堂の肩を軽く叩く。だが、その手は、ほんの少しだけ長く東堂の肩に留まった。