『声』放課後の部室棟、夕陽が窓から差し込んで、埃がキラキラと舞っている。僕は自転車のメンテナンスを終え、汗とオイルで少し汚れた手をタオルで拭いていた。いつもなら、鳴子くんたちの笑い声やロードバイクの話で賑やかなこの場所も、今は静かだ。鳴子くんたちは先に帰り、僕は一人、片付けに追われていた。
「坂道くん」
その声が、ふいに耳に届いた瞬間、僕の手がピタリと止まった。タオルを握ったまま、まるで時間が凍ったように動けなくなる。心臓がドクンと大きく跳ねた。
「…○○、さん?」
振り返ると、そこには君が立っていた。○○さん。僕にとっては特別な存在。君の声は、いつも僕を不思議な世界に引き込む。透明で、柔らかく、それでいてどこか心を掴んで離さない響き。僕にとって、君の声は僕のことを力強く、胸を熱くするのに、どこか優しくて、懐かしい。
「遅くまで残ってるんだね。真面目だなぁ、坂道くんって」
君が笑いながら近づいてくる。僕は慌ててタオルを置いて、眼鏡の位置を直した。ドキドキが止まらない。君が「坂道くん」と呼ぶたびに、僕の頭の中は少しずつぼんやりしていく。どうしてだろう。君の声は、いつも僕をこんな気持ちにさせる。一人でいるときも、ふとした瞬間にその響きを思い出しては、頬が熱くなる。まるで魔法だ。
「う、うん、ちょっと…メンテナンスしてて…あ、○○さんは、どうしてここに?」
僕の声は少し上ずっていた。君は小さく笑って、僕の隣に腰を下ろした。距離が近い。鼻先に、君のシャンプーの香りがふわりと漂う。
「んー、なんとなく? 坂道くんがまだいるかなって思って、覗きに来ちゃった」
その声が、すぐそばで響く。僕の耳が、勝手に熱を帯びていく。君の声は、いつもより少し低くて、柔らかくて…まるで僕の心の奥に直接触れるみたいだ。僕は無意識に眼鏡を押し上げ、視線を逸らした。だけど、君の声は逃げられない。頭の中で反響して、離れてくれない。
「坂道くん?」
「は、はいっ!?」
君が首をかしげて、僕の顔を覗き込む。距離がさらに縮まる。僕の心臓は、もう限界だ。君の声が、名前を呼ぶたびに、僕の思考は少しずつ霧に包まれる。動けない。動きたくない。君の声に、ただただ飲み込まれたい。
「…ねえ、坂道くん」
君が、そっと身を寄せる。その瞬間、君の唇が僕の耳元に近づいた。温かい息が耳に触れる。全身がビクッと震えた。
「…いつも、こんな風にドキドキしてるの?」囁くような声。君の声は、まるで僕の心を溶かすように、柔らかく滑り込む。頭が真っ白になった。膝がガクガク震えて、眼鏡がずり落ちそうになる。もう、逆らえない。この声には、絶対に逆らえない。
「○、○○さん…」
僕の声は、掠れていた。自分でも驚くほど弱々しい声。君の声に比べたら、なんて頼りないんだろう。でも、君はそんな僕の様子を見て、くすっと笑うだけだ。
「坂道くん、ほんと可愛いね」
またその声。僕の心は、もうぐちゃぐちゃだ。君の声が、頭の中で何度もリピートされる。名前を呼ばれるたびに、胸が締め付けられる。もっと聞きたい。もっと、君の声で自分の名前を呼ばれたい。そんな衝動が、僕の胸を突き動かす。
「…○○さん」
僕は、勇気を振り絞って君を見た。眼鏡の奥の瞳は、いつもより少し潤んでいる。頬は真っ赤で、唇は小さく震えていた。
「…もっと、呼んで…欲しいです…」
その言葉が、ぽろっと零れた瞬間、僕はハッと我に返った。自分で何を言ったのか、信じられない。顔が一気に熱くなる。恥ずかしさで逃げ出したくなるのに、君の視線に捕まって、動けない。
「ふふ、いいよ。いくらでも呼んであげる。坂道くん」
君がまた囁く。僕の耳に、君の声が優しく響く。そのたびに、僕の心はふわふわと浮かんで、どこか遠くへ連れていかれる。もう、君の声に逆らうことなんて、考えられない。「坂道くん」「坂道くん」…君が何度も呼ぶたびに、僕の心は君に近づいていく。夕陽が沈む部室で、君の声だけが、僕の世界を満たしていた。